第7話 5月20日
「暑……」
電車を降りると、じめじめとした生温い空気に包まれる。
昨日雨が降っていた影響で吹き込んでくる風は心地良いのに、肌に纏わり付く空気はあまり気持ちいいものではない。
まだ分厚い雲が太陽を隠してくれているのが救いだろうか。
最近改築して今まで見た事のないくらい綺麗なエスカレーターを下り、改札に向かうと、蒼依がこちらを見て胸の前で小さく手を振っているのが見えた。
私もひらひらと手を振り返して、少し早歩きになって改札を出る。
「おはよー」
「おはよう、紅音」
「暑い中待たせてごめんな」
「ううん。それを言ったら紅音だって暑いのにわざわざこんな所まで来てくれたでしょ?」
「うん。暑かった」
真面目な顔を作って頷くと、ふふっ、と短く蒼依が笑う。
「じゃあ今度は私が紅音の家に行かないとね」
「片道600円くらい掛かるで」
「え、そんなに掛かるの?」
「多分やけどな」
正しいかどうかは分からないが冗談ではない。
電車に乗って一時間も掛かるのだから、料金もそれ相応に高くなる。
それなら学校から近い所に住んでいる蒼依の家に行く方が遥かに良いだろうと、今日も蒼依の家に行く事になった。
「でも紅音の家には行きたいから行く」
「じゃあ期末の時は私のとこでやるか」
「うん。そうしよう」
蒼依はそう言って満足気に頷いた。
今日は蒼依と二人で来週の中間試験に向けての勉強をする予定だ。
試験の一週間前からはどの部活も基本的に休みになり、全員試験勉強に集中するための期間となっているが、元々部活に所属していない私にとってはそれほど変わらない。
帰る時間も変わらなければ勉強する時間も特別変わったりはしない。試験が迫っているという事で少しは勉強時間を増やしているが、それも普段からやろうと思えばできる事だ。
そんな私とは違い、蒼依や他の部活に所属している人たちにとってはこの部活のない一週間はとても貴重な時間だ。
蒼依は部活を休みたくはないと言いつつもしっかりと勉強をする計画を立てていたようで、今日のこの勉強会を企画したのも蒼依だ。
私はどうせなら彩綾と夕夏も誘って四人でやればいいのではないかと提案したのだが、蒼依の家でやるとなると場所が足りないらしい。
なら他の人の家で、と提案してみたが、それも却下されてしまった。
どうも蒼依は私と二人で勉強がしたいらしいのだが、理由を尋ねてもはぐらかされるだけでちゃんとした理由は答えてくれなかった。
私も別にそれが嫌というわけでもなかったため、それ以上追求する事はせずに蒼依と二人で勉強会をする事に賛成した。
友達の家に行くというちょっとしたイベントが、私には学校行事で行ったバーベキューなんかよりもよっぽど楽しみな事だった。
蒼依の場合は引っ越してきたばかりで生まれ育った場所ではないが、それでも普段どんな場所で生活しているのかという事に少し興味がある。
蒼依は今日も可愛らしい服装をしているが、部屋はどんなものを置いているのだろうか。可愛いもの好きらしくぬいぐるみがあるのか、色合いが明るく可愛くなっているのか。意外と部屋はシンプルにモノクロになっていたりするのだろうか。
そんな勝手な期待を膨らませていると、蒼依がふと思い出したように言う。
「そういえば、ちょっと山登るけどいい?」
「……今それ言われても断る選択肢なくない?」
「今ならまだそっちにフードコートあるから、そこでできなくはない」
蒼依の指差した先には大きめのショッピングセンターがあった。流石に京都や大阪の中心にあったようなものに比べると小さく見えるが、それでも車も人も頻繁に出入りしており、なかなか人気の場所らしい。
ショッピングセンターの中という事は冷房が効いている可能性もあるが、残念ながら今私が行きたいのは蒼依の家しかない。
「家遠くはないんやろ?」
「うん。あと五分くらいあれば」
「五分は山登るのねぇ……。了解。行こう」
ただの気分ではあったが、スニーカーにしたのは正解だったらしい。それに加えて今日の私はショートパンツを穿いてきているため、歩きにくさなど欠片もない。
私は覚悟を決め、蒼依の手を取って横断歩道を渡り、予想以上に急な坂道を進む。
歩いていると、雲の切れ目から太陽が顔を出し、湿気を含んだ生温い空気と混ざって不快感が大きくなる。
上に羽織っているシャツの袖を捲り、また日傘を持ってきていない自分に呆れながら殆ど影のない住宅街を歩く事五分。私の手を引いていた蒼依が、マンションのある方へ身体を向けて立ち止まった。
「はい、到着」
「えっ、ここ?」
「うん」
私の目の前に見えるのは二階建ての建物。それはマンションというよりもアパートと言うのがしっくりくる小綺麗な建物だった。少なくとも私が持つイメージに当てはめるならこれはマンションではなくアパートだ。
勝手に膨らませていた期待を裏切られた事にがっかりしながらも、遂に蒼依の住んでいる家に来た事に達成感と感動を得る。
「暑いから早く入ろう」
「そうね」
アパートの外観を眺めながら蒼依に手を引かれるまま付いていく。
「お邪魔しまーす……」
妙に静かな空間に私の細い声が通る。
「誰もいないけどね」
「あ、そうなんや」
蒼依の両親への挨拶をどうしようかと昨日から緊張していた私の心労はどうやら無駄だったらしい。
「どうぞ入って」
「おぉ、和室やん」
「意外でしょ?」
「うん」
六畳という決して広くはない畳の部屋の真ん中にラグと小さな円形のローテーブルが置いてあり、壁際には恐らく普段学校で読んでいる本が入れられた木の本棚が二つ並べられている。
あとはその横に制服が掛けられたハンガーラックと私の背と同じ大きさの姿見が置いてあるくらいの、とてもシンプルな部屋だ。
「でも、良い。住みたい」
「じゃあ同棲する時は和室必須になるね」
「そういえば何で和室?」
「個室として使えるのが和室しかないから」
「あ、ここだけなんや」
「一応向こうにももう一つ部屋があるんだけど、そっちも和室なの」
「へぇ、二つあるんや」
部屋を観察するのは一旦やめにして、蒼依に手渡された座布団に座り、お茶を取りに行ってくれた蒼依を待つ。
これが男性の部屋だったならば押し入れや本棚の隙間などを漁ってエッチな本を見つける、なんて事が漫画やアニメの世界ならあり得るのだが、蒼依はもちろん女性で、まさかそんな本を持っているとは思えない。
ふと、蒼依が持っていそうなのにこの部屋に置いていない物がある事に気が付き、丁度お茶とお菓子を持って帰ってきた蒼依に訊ねる。
「蒼依ってぬいぐるみとか持ってへんの?」
「何でぬいぐるみ?」
「持ってそうやん。ないの?」
「……押し入れに入ってる」
「あっ、あるにはあるんや。なんで飾らへんの?」
ただ気になった事を訊ねただけなのだが、あまり触れられたくない事だったのか、蒼依はテーブルにトレイを置いた後少しの間考え込み、答える。
「……紅音が来るから片付けた」
「何で?」
しつこいと思われそうだが、反射的に返していた。
「似合わないってからかわれそうだから」
「そんな可愛い服着といて何を今更」
「服は普通でしょ」
怪訝そうな顔をして蒼依が腰を左右に回すと、薄手のロングスカートがふわりと広がった。
「可愛いもの好きなんちゃうの?」
「好きだけど……」
「ならええやん。置いとこうや」
私は立ち上がり、何処にあるのと訊ねると、渋々といった様子で蒼依は二つある内の大きい方の押し入れから猫のぬいぐるみを出してきて本棚の上に飾った。
「猫好きなん?」
「うん」
「ちなみに何てやつが一番とかある?」
「この子」
蒼依が見せてきたのは全身が灰色の細い猫のぬいぐるみだった。
「その子は……なに?」
「ロシアンブルー」
「あ、名前だけ知ってるわ」
見た事だけはあった灰色の猫と、聞いた事だけはあった謎の名前が合わさって、難解なクイズが偶然解けたような快感を覚える。
「そんな事より、早く始めよう」
「えっ、もうやるん?」
ロシアンブルーのぬいぐるみを一頻り撫でて満足したらしい蒼依はテーブルを挟んで私の正面に座り、ノートと教科書を後ろに置いてあった鞄から取り出した。
「そのために集まったんだから」
「私だけやけどな」
「いいから、やるよ」
「はぁい」
私もやる気がないわけでもないので、あまり抵抗はせずに自分のノートをテーブルの上に開く。
「蒼依って普段どうやって勉強してんの?」
「えっとね、数学なら一回一通り試験範囲の問題を解いて、答え合わせをして間違ったところを重点的にやる感じかな」
「他のは?」
「他の暗記するやつは読むだけかな」
当然と言えば当然だが、あまり変わった方法も画期的な方法も返ってこなかった。
「紅音はどうやってるの?」
「数学は同じような感じで、暗記はひたすらノートに書いて覚える」
「ノートに書く派ね」
「そう」
ペンケースからシャープペンシルを取り出してかっこよく構えてみせるが、蒼依は見てくれていなかった。
「じゃあとりあえず数学からやる?」
「おっけー」
軽く返事をして問題集を開き、問題番号をノートに書いた後、蒼依の方を見る。
中学生の頃はこうして勉強会を開いても始める前に遊び出して、勉強したのは結局昼食後の一時間だけ、なんて事が普通だったが、蒼依は普段の授業態度から考えてもこういう時にふざけるような事はしないだろうし、蒼依と勉強会をすればその心配はしなくてもよさそうだ。
「ほら、紅音も見てないでやって」
「はぁい」
じーっと蒼依を見ていた事がバレて笑い混じりに返事をする。
のんびりと一問目を解き終わり、再び蒼依を見る。
蒼依はもう私が見ている事など気付いてもいないくらいに集中して数学の問題に取り組んでいた。
それを見て、私は静かに気合いを入れ直し、次の問題に取り掛かる。
一度集中すると、自分でも驚く程の時間が経過している事があるが、今日は苦手な数学をやっているためか、ふと時計を見上げた時はまだ十二時の少し前くらいだった。
蒼依はまだ集中しているようで、時折悩んで手が止まるものの、集中を切らす事なく問題を解いていっていた。
蒼依の家は私の家の環境とよく似ている。
私の部屋は和室ではないが、ここと同じように近くに学校などはなく、聞こえてくるのは鳥の囀りくらいだ。たまに救急車や爆音で走り去るバイクなどの騒音はあるが、基本的には静かで集中するには打って付けの場所と言えるだろう。
蒼依の部屋と違うところは畳の匂いがしない事と、目の前に私以上に集中している人がいないという事、それとたまに妹という乱入者がいる事だろうか。
この場所は私にとって学校よりも、自分の部屋よりも集中しやすい場所と言ってもいいかもしれない。
こんな事を考えている時点で私の集中が切れてしまっているのは明白だった。
目の前で未だに黙々と手を動かしている蒼依を見ていると、邪魔をしたい気持ちが湧き出してくる。
もう完全に休憩するモードに入ってしまった私は徐に手を伸ばし、蒼依の額に向けてでこぴんをしようとして、僅かに残っていた理性がそれを止める。その代わりに頭を撫でてやる。
頭の頂上から耳の辺りまで優しく撫で下ろす。それを五回ほど繰り返すと、蒼依に腕を掴まれる。
「もう、なに?」
困惑の色が混じった笑みを浮かべてこちらを見る。
邪魔をされて怒っているわけではないらしい。
「いや、そろそろご飯食べたいなぁって」
そう言うと、蒼依は扉の上に掛けてある時計を見た。
「もうこんな時間なんだ」
「うん。お腹空いた」
蒼依が持ってきてくれていたお茶の存在を思い出し、コップの半分くらいまで注いで飲み干す。
「何か食べたいものある?」
「どっか食べに行く感じ?」
「ううん」
「えっ、ちゃうの?」
「暑いじゃん」
「いや、それはそうやけど」
さも当然の事のように言う蒼依に今度は私が困惑する。
今日の予定を話し合っている時、昼食は持って来なくてもいいと蒼依に言われたため、てっきり用意してあるか食べに行くかするものだとばかり思っていたのだ。
「何か食べたいものは?」
「何でもええの?」
「うん」
何も心配はいらないとでも言うように微笑みを浮かべる蒼依に、私は蒼依がしようとしている事を推測する。
もしそれが正解だとすればここで何を答えても問題はないだろう。
「じゃあ蒼依の手料理で」
「分かった」
そう言って蒼依は立ち上がって部屋を出て行った。
開けっ放しになった扉の向こうから水が流れる音と、カチャカチャと食器がぶつかり合う音が聞こえてくる。
私はその間にテーブルの上の物を床に下ろし、何かを焼いているらしい音を聞いて期待を高める。
そして蒼依は五分も経たないうちに戻ってきて、定位置に腰を下ろした。
「お待たせ」
「うん。どうもー」
新しく置かれたトレイには縦に切れ込みが入ったロールパンと、それに挟む野菜とウィンナー、そして先ほど焼いていたであろうスクランブルエッグがあった。
「まさかほんまに手料理が出てくるとは……」
「私もまさか模範解答が返ってくるとは思ってなかった」
「あぁ、あれ正解やったんや」
「あそこでハンバーグとか言おうものなら具材はなかった」
「良かったぁ。真面目に答えてたらパンだけになるとこやった」
「いらないならいつでも言って」
「いる。食べます」
一般的に想像できる手料理とは少し離れているような気がするものの、蒼依が用意してくれたものという事には変わりない。
それぞれのコップにお茶を注ぎ、手を合わせて食べ始める。
ロールパンの切れ込みにレタスを挟み、ウィンナーや卵を乗せて、ケチャップやマヨネーズなども用意してくれているので、気分に合わせてそれらを掛けて食べる。
簡単な物ではあるが、シンプルだからこそ美味しい。
軽く焼かれたウィンナーの皮を破る食感を楽しんでいると、珍しく蒼依が話しかけてくる。
「紅音って結構食べるの好きよね」
「ん?」
不意にそんな事を言われ、答えるために口の中の物を飲み込む。
「食べてる時は普段の五割増しくらいで笑顔だし」
「あぁ、まあ美味しいしな」
「紅音って告白されたりした?」
「は? 何で?」
突然全く関係の無い話に変わって眉を顰める。
「ちょっと前にクラスの男子が紅音の事を話してたから」
「誰?」
「ごめん、そこまでは分からないけど、鈴木ではなかった」
鈴木と聞いて一瞬誰の事か悩んだが、すぐに浩二の事だと理解する。
普段から名前で呼んでいる所為で名字がすぐに出てこない事が多い。
「それでなんで告白?」
「いや、紅音も結構モテるんだなぁって思って」
微妙に答えになっていないし、モテた覚えもない。
「私が?」
「うん」
「告白どころか全然喋った事もないねんけど」
「じゃあ告白はまだ誰にもされてないんだ?」
「うん。当たり前やん」
中学の頃からそんな話とは無縁の生活を送ってきた私が、高校デビューしたと言ってもそう簡単に変わるとは思えない。
告白に至る程仲の良い人はそれこそ浩二が僅かに可能性があるかないかという程度で、他の人はいつもの三人を除けば殆ど話した事すらもない。そんな生活をしているのにモテているとは到底思えない。
「というかそんな話どこで聞いたん?」
「部活が終わって帰ってる時。誰かは知らないけど、付き合い始めた人がいるみたいで、その話の流れでそれぞれクラスの中で好みの人を言い合ってたって感じかな」
「結構しっかり聞いてるやん」
「声が大きいから聞こえてくるの」
「蒼依はその話に出てこんかったん?」
「残念ながら私は出てないね」
「じゃあその人たちは見る目がないって事やな」
「ただ好みじゃないってだけでしょ」
「えぇ? でも蒼依は絶対人気あるやろ。中学の時とかどうやったん?」
「それは何? 告白されたかって事?」
「そうそう」
「それはまあ何回かはあるけど」
「付き合ってへんの?」
「一人だけ付き合ったけど、一週間くらいで別れた」
「えっ、何で? なんかたまにそういう一週間とか三日とかで別れたーっていう人聞くけど、何が気に食わんかったらそんな事なんの?」
「私の場合は一人目だったんだけど、端的に言えば身体目当てだったからかな」
「恋人ってそういうもんちゃうの?」
「相手はそうだったみたいだけど、私は本当に一緒に出掛けたりとか、ご飯食べたりとか、そういう軽いのを想像してたからびっくりしたんだよね」
「なるほどねぇ」
頷き、蒼依が経験した事を自分に当てはめて想像してみようとしたが、恋愛経験が皆無の私にはできなかった。
会話が途切れ、話を聞きながら盛り付けだけしていたパンを囓る。
「紅音は付き合ってた人とかいないの?」
「うん」
口を閉じたまま頷き、即答する。
「これから付き合ったりする予定は?」
「今のとこはないかなぁ。あんまり興味もないし」
「鈴木との関係はどうなってるの? 自転車の二人乗りして怒られたって聞いたけど」
「何でそんなん知ってんねん……」
「風の噂でね」
あの時自分たちの他に人がいた記憶はない。それなのに何をどうしたらそんな噂が流れる事になるのだろうか。
「何でそういうなんって本人の耳に入らへんねやろな」
もしかすると浩二が自分で言い触らしたのかもしれないが、確証はないので責める事はできない。
しかしもし噂を流したのが浩二なのだとしたら一回くらい殴ってやりたいところだ。
「さぁ? そんな事より、鈴木とはどうなの?」
「浩二とは最近一緒に帰ってるだけやで」
「向こうから誘ってくるんでしょ? 向こうは気があったりするんじゃない?」
「どうなんやろ。確かに誘ってくるのはいっつも向こうからやけど、そういうのは分からん」
「ちょっとは面白い展開にならないの?」
「例えば?」
「告白まではいかなくてもデートに誘われたりとか」
「ない」
「転けそうになったところを抱き留められたりとか」
「ない」
「曲がり角でぶつかって……とか」
「いつの時代のやつやねんそれ。そんな漫画みたいな事起こらへんって」
「あ、でも自転車で二人乗りしてたって」
「それもただ怒られただけでときめきも何もないし」
「夢がない……」
「そういうもんなの。蒼依だってそんな漫画みたいな事ないやろ?」
「紅音とならそういう事してるけどね」
「私と?」
「手を繋いだり勉強会したり」
一瞬、桃子から言われた事が思い出されて不快な気分になった。
「それは別に普通やん」
「紅音は女だからね。男だったら確実にそういうイベントなんだけど」
「男やったらそんな事絶対せぇへんやろ」
「うん。勉強会ならまだいいとしても、手を繋ぐとかは絶対しない」
「でしょうね」
皿に残った最後の一切れを口に放り込む。蒼依も最後の一切れを食べ、皿を重ねて机の上を片付ける。
トレイを持っていこうかとも思ったが、他人の家を無闇に彷徨くのは少々気が引けるので、それらは蒼依に任せて寝転がる。
背もたれがあれば少しは楽なのだが、この部屋には壁と本棚以外に凭れられる物がない。
だからこそ蒼依は姿勢がいいのかもしれないが、私がこういう部屋で過ごしていても蒼依のようにはならないだろう。抑蒼依の姿勢の良さが背もたれのないこの部屋と関係があるのかは分からない。
目を閉じてじっとしていると、蒼依が帰ってきて隣に座った気配を感じた。そして不意に太ももが撫でられる感触がして、変な声を出して跳ね起きる。
「あ、ごめん」
胡座をかいて座っている蒼依はそう謝った後、顔を背けて笑う。
「びっくりするやん」
「だからごめんって。何か触りたくなった」
そう言いながらも太ももを撫で続ける蒼依の手を叩く。
「くたばれ痴漢」
「口悪すぎない?」
「触ってくる方が悪いやん」
「それはそうなんだけど、紅音って綺麗な身体してるよね」
「何か変態っぽい」
「褒めてるだけでしょ」
「こしょばいからやめて」
しつこく障り続けてくる蒼依の手を捕まえて蒼依の方へ身体を向ける。
「こんな短いの穿いてくるのが悪い」
「完全に痴漢の言い分やんけ」
「だってこれはもう触ってって言ってるようなものでしょ」
「痴漢の言い分やめろ」
「触ってもいい?」
「無理」
「キスは?」
「アカンに決まってるやろ」
「嫌なの?」
「嫌……というか……。え、なに? したいの?」
「それは迷うんだ……。冗談だから。勉強再開しよう」
蒼依はそう言って立ち上がり、元の場所に戻って机にノートを広げる。
「……二回くらい殴っても許される気がする」
「ごめんって。今度何か奢ってあげるから許して?」
「じゃあ次私の家来る時、この前買ったショートパンツ穿いてきて」
「……分かった。アイスも奢ってあげる」
「お金が絡むのはいらん」
「そう」
私も机に身体を向けてノートを開く。
休憩は充分に取れたため、勉強する気力も回復している。
蒼依の所為で少し気が削がれたような気もするが、やり始めれば気にならなくなるだろう。
さっきはどこまでやっていただろうかと、ノートに書いた番号と問題集の番号を照らし合わせる。
「あ、そうや蒼依」
「なに?」
「後でええしここ教えて」
「いいよ。ちょっとさっき途中だったところやりきってからでいい?」
「うん」
何事もなかったかのように手を動かす蒼依を恨めしく思いながら、私も朝の続きに取り掛かる。
少しして蒼依から声が掛かり、分からなかった場所を教えてもらいながら解き直す。
蒼依は真面目に授業を受けているだけでなく、ちゃんと理解しているようで、何を訊いても分かりやすく教えてくれた。
代価として太ももを撫でてこなければ素晴らしい先生だと言えたかもしれない。
その後も暫く数学をやり、国語や社会などの科目はお互いに問題を即興で出し合った。
これは私が中学の時に友達とやっていたやり方で、蒼依にとってはどうなのかは分からないが、少なくとも私にとってはこの方法が一番記憶しやすい方法だった。
流石に蒼依も全てを覚えているわけではないようだったが、それでも私よりも遥かにたくさんの事を覚えていた。何か暗記するコツでもあるのかと訊ねてみたが、始めに言っていた通り何度も読んでいるだけのようで、頭の出来が違うんだと諦める事にした。
そうしているうちに時間はあっという間に過ぎて、気付けば五時を過ぎてしまっていた。
「いやー、頑張ったわ」
「ごめん。気付くの遅れた」
「いやいや、私も全然気ぃ付かんかったし」
眉を下げて俯きがちになる蒼依の手を優しく握る。
予定していた時間から一時間程過ぎてしまったが、その分得るものはたくさんあった。今日は休日という事もあって家には両親もいるため、妹も文句は言わないだろう。
「分からんかったとこいっぱい教えてもらったしな」
「遠いとこまで来てもらってるんだから、それくらいはね」
扉を開けて部屋を出ると、リビングの方からいつか見た蒼依の母親が現れる。
「お久しぶりね、紅音ちゃん」
「はい。お久しぶりです」
「相変わらず仲良くしてもらってありがとうね。変な事されなかった?」
「してない」
「太もも触られたんで、一発しばいときました」
不機嫌そうに否定する蒼依を無視してそう言うと、蒼依には睨まれ、蒼依の母親の目線は下に向かう。
「確かに綺麗な足してるもんねぇ」
咄嗟に出てしまいそうになった言葉を理性で押さえ込んで礼を言っておく。
「紅音ちゃんも可愛いんだから帰り道気を付けてね」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ紅音を駅まで送ってくるから」
溜め息が混じったような声で蒼依は言うと、スニーカーを履いて先に外に出る。
「えっと、じゃあお邪魔しました」
「はぁい。気を付けてね」
靴を履き、二度三度と頭を下げて笑顔で手を振る蒼依の母に見送られながら蒼依の後を追いかける。
階段を降りて朝通った道を戻る。
夕方とは思えないくらい明るい空を見ると夏が近づいているのを感じる。
「今日はありがとうな」
「ううん。私もいつもより捗ったから」
「蒼依やったら満点取れそう」
「流石に無理じゃないかな……。絶対どこかでケアレスミスはする」
「解ける自信はあるんやな」
ここで否定してこない辺りやはり自信はあるらしい。
運動もできて、勉強もできる。吹奏楽もプロを目指して上手い高校に入るくらいなのだから、きっと私が思っている以上にできるのだろう。
そんな蒼依が友人として誇らしく思うと同時に、羨ましいとも思う。
「ねぇ、夜電話してもいい?」
「別にええけど、なんで?」
「いや、問題出し合うの覚えやすくていいなぁって思って」
「気に入ってくれたようで何より」
再び会話が途切れ、お互い無言のまま坂を下る。車通りの多い道に出て横断歩道を渡り、ショッピングセンターの横を通って駅に向かう。
何か会話をすればいいのだが、特に話したい事も思い浮かばず、暇を感じて蒼依の横顔を見つめると、すぐに見ているのがバレた。
「なに?」
「今日も可愛いなぁって」
「はいはいどうも」
蒼依は含み笑いをして、私の頭を撫でる。
「撫でんの好きねぇ」
「紅音だってよく触ってくるじゃん」
「そんな事なくない?」
「手を繋いできたりとか抱き付いてきたりするのはスキンシップではないと?」
「あれはまぁ……スキンシップやな」
「じゃあ足触ってもいい?」
「何が『じゃあ』やねん。何でそんな触りたがんの?」
自然を装って足に向かって伸ばされた手を叩き落とし、蒼依を睨み付けて訊ねる。
「可愛いからに決まってるじゃん」
「決まってるんや」
「痴漢には気を付けなよ?」
「された事ないし大丈夫や」
「それフラグって言うらしいよ」
「やめろ」
そんな事をしている間に駅に到着し、蒼依は立ち止まり、私は鞄からカードを取り出して改札に向かう。
「じゃあまた夜に」
「うん。夜いつでも空いてるから、時間できたら電話して」
「了解」
改札を通り、エスカレーターに乗る前に振り返ると、まだこちらを見ていた蒼依と目が合い、お互い笑みを浮かべて手を振って別れる。
もう帰ってくれていても良かったのに、まだ見送ってくれていた。そんな些細な事で嬉しくなって、家に帰ってもまだ頬が緩んだままだった。
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