第6話 5月10日

 学校の授業というのは不思議なもので、今やらないといけない事が目の前にあるのにも拘わらず、何故か暇だと感じてしまう時間がある。


 それはきっと今の私のように集中が切れてしまったか、抑集中していなかったかのどちらかだろう。


 先生が前で教科書に書かれている歴史を補足しながら黒板にまとめてくれている。時折生徒を指名して教科書を音読させたり、独自の穴埋め問題を作ってそれを生徒に解かせたりしているが、基本的にはずっと一人で話し続けている。


 そこで改めて先生に尊敬の念を抱いた事で、私の意識は授業から逸れてしまい、この先生はどうして教師になったのかが気になり始め、思考は脱線に脱線を重ねて自分の将来について考え始めていた。


 今も一人で話し続けている先生はどういう過程があったのかは分からないが、こうして教師として働いて、きっとそれなりに幸福な人生を歩んでいるのだろう。


 私の目の前で先生の話に耳を傾けて、いつも通り真面目に授業を受けている蒼依は将来音楽家になりたいのだと言って、毎日部活で技術を磨いている。


 そんな二人に比べて私は何をしているのだろうか。何がしたいのだろうか。


 幼稚園や小学校では度々将来の夢について訊かれる事があった。


 その時周りには野球選手になりたいと言って毎日練習している人もいたし、小学校の先生になりたいからと毎日のようにピアノの教室に通っている人もいた。


 しかし私にはそんな憧れの職業なんてないし、やりたい事なんて何も思い付かなかったため、母がやっていたという保育士になりたいと、その場凌ぎでそれらしい理由を付けて答えていた。


 蒼依はどうして音楽家になりたいのだろうか。


 以前音楽が好きと言っていたが、それが理由の一つなのだろうか。


 私も音楽は嫌いではない。自ら歌ったり演奏したりするのも楽しいと思えるし、誰かの演奏を聴くのも嫌いではない。


 しかしそれも嫌いではないという程度。蒼依のように音楽家になりたいと思う程ではない。歌も楽器の演奏も下手ではないと思うが、当然プロ並みの技術はないし、そこまで上手くなりたいとも思わない。音楽に対してそこまでの熱量はないのだ。


 ならば他にやるとしたら何になるのだろう。


 どうせ何年も何十年も働くのなら、好きな事をしてお金を稼ぎたい。


 しかしそうすると今度は、私の好きな事について考えなければならなくなる。


 一番に思い付くのはやはり音楽だが、それを職にしたいとは思えない。


 歌や演奏でお金を稼ごうとするなら、半端な実力では路頭に迷うだけだろう。だからと言って毎日学校に通うのと同じくらいの時間を練習に費やしても上手くいくかは分からない。


 私と同じ年代で既にテレビでも見かけるくらい売れている歌手の人もいるが、その人はこの歳でそれほどの実力があるから注目されているのであって、私が今から頑張って同じくらいの実力を得られたとしても、その人ほど注目はされないだろう。


 演奏にしても、楽団に入団するために相当な実力が必要だ。そのための練習だって人一倍頑張らなければならない。


 そんなことを毎日続けられる程、私は音楽が好きではない。


 ならば他に何が好きかと聞かれると、何も思い浮かばない。


 普段から電車の中で本を読んでいるが、それはただの暇潰しをしているだけで、他にその時間できる事があるなら、別に読書はしなくてもいい。


 料理は母の手伝いをしているうちに段々と上達してはいるが、だからと言って店を開こうとは思わないし、延々と同じ料理を作り続けるのは苦行を強いられているようでつまらない。


 運動も勉強も楽しいとは思うが得意ではないし、職業にできるかと問われれば否定する事になる。


 最近ではゲームで稼いでいる人もいるらしいが、ゲームは殆ど妹としかやらない私に、そんな大会に出て優勝できる程の技量はないし、努力してその実力を身に付けるやる気も時間もない。


 そんな事を考えていると徐々に気持ちが沈んできてしまい、一度思考を止めようと、一つ深呼吸をするように溜め息を吐く。


 机の上に彷徨わせていた視線を黒板へ持っていくと、知らない文章がいくつも書かれており、これを今から全て書き写すのは大変だ、なんて思いながらもゆっくりと手を動かし始める。


 その瞬間、聞き慣れたチャイムが鳴り響き、私はまた一つ大きく溜め息を吐いた。


 先生は切りの良いところまで話し終わると、授業を締めて教室を出ていった。


 それを合図に教室は一気に騒がしくなる。


「あれ、ノート書いてないじゃん」

「え?」


 お昼ご飯を食べようと、こちらに身体を向けた蒼依が私の机の上に広げられた白紙のノートを見て言った。


「もしかして寝てた?」

「いや、寝てはないんやけど……」


 言いながら机の上の物を片付けて、鞄から弁当を取り出す。


 彩綾と夕夏も椅子と弁当を持って私の席を囲み、ぼうっとしている私を見て彩綾が心配の声を掛けてくれる。


「どうかしたん?」

「紅音が珍しくノート取ってなかったの」

「そういえば、後半ずぅっとぼーっとしてたな」

「そうなの?」

「あー……うん。何か集中切れちゃったんよね」

「何か悩み事でもあるん?」


 そう訊ねてきたのは夕夏だ。


 他人に相談するような事でもないような気もするが、別に隠すような事でもないだろうと、私は夕夏に先ほど考えていた事を訊いてみる。


「夕夏は将来やりたい事とかってある?」

「やりたい事?」

「うん。漫画家になりたいとか、教師になりたいとか」

「あぁ、そういうのやったらイラストレーターかな」

「やっぱりそっちに進むんや」

「うん。絵描くの好きやし」


 夕夏は美術部に所属しており、休み時間にもスケッチブックに何かを描いているのを何度か見かけた事がある。


 本人に許可無く盗み見るのも申し訳ないので、あまりしっかりとは見ていないが、趣味で描いているというにはあまりにも上手く、ちゃんと勉強をして何度も何度も描いてきたのだろうと分かるものだった。


 絵のプロを目指しているというのであれば充分に納得できる。


「彩綾は何か考えてる?」

「ん?」


 彩綾は口に何かを含んだ状態で自分を指差す。


 私がそれに頷いて返すと、彩綾はちょっと待ってと手で示して口の中の物を飲み込み、手で口を覆って話す。


「私は夕夏ほどしっかりとは考えてへんで?」

「そうなん?」

「うん。まだ高校一年やしね。でも養護教諭とかいいなぁとは思ってる」

「養護教諭?」


 聞き返しつつ、空腹を感じて弁当の存在を思い出し、漸く弁当の蓋を開けた。


「保健室の先生とかね」

「へぇ、あれって養護教諭って言うんや」

「そうそう。んで、子どもと接するのは好きやし、昔からちょっと憧れてたから、やるとしたらそれかなって感じ」

「やっぱり彩綾も結構考えてるんやな……」

「紅音はそういうのないの?」

「うん。ない」

「確かに紅音からそういうの聞いた事ないかも」


 黙々と弁当を食べていた蒼依が口を挟んでくる。


「紅音って普段家で何してるの?」


 そう訊かれて先週のゴールデンウィーク中に何をしていたかを思い返してみるが、いつもの休日とやっている事は何も変わらなかった。


「んー、掃除したり妹と遊んだり……あとは寝てる」

「掃除が好きとか?」

「いや、やる事ないからやってるだけ」

「ゲームとかやらんの?」

「妹が好きやからそれに付き合う事はあるけど、それ以外やとほとんどやらへんな」

「小説書いたりとかはどう?」


 蒼依と彩綾が交互に質問を投げ掛けてくる。


「読むのは好きやけど、書くのは無理やろ。作文とか感想文とか苦手過ぎて提出した事ないし」

「ちょっと、真面目なイメージ壊さないでよ」

「いや知らんし」


 眉を顰めて文句を言ってくる蒼依を冷たくあしらう。


 高校生になってからは頑張ろうと決めていたため、真面目に見えているなら全然構わない。これでそのイメージ通りテストでも点数が取れれば完璧なのだが、きっとそう上手くは行かないのだろうと思う。


「紅音って料理できたやんな?」


 今度は彩綾が訊いてくる。


「うん。それなりには」

「じゃあそれでもええんちゃうの? 和菓子職人とか」

「何で敢えて和菓子なん?」

「いや何となく」

「……料理も別に好きでやってるわけちゃうしなぁ」

「まぁまだいいんじゃない? 彩綾の言う通りまだ高校一年なんだから」

「でも早めに決めとかんと行く大学も困るやん」

「とりあえず良いところに行ったらいいんじゃない?」

「興味ないとこ行ってもしんどいだけやん」


 自分で答えながら、言い訳ばかりする面倒くさい人間になってしまっている事に気付いた。


 こんな話は昼食を食べながらするものではなかったと後悔し、何とか話題を変えようと彩綾に話を振る。


「そういえば彩綾は養護教諭目指すって言ったけど、それって医学部とか?」

「というよりは看護とか専門学校らしいで」

「あ、違うんや」

「どっちかと言うと普通の教師とかの方が近いかな」

「ふぅん」


 納得する振りをしながら、普通の教師はどうやってなるのだろうか、などと考えていると、彩綾の視線が私の手元に向かう。


「というか、早よ食べたら? 私らもう食べ終わるけど」

「えっ?」


 彩綾の前に置かれた弁当箱に目を向けると、もう二口くらいあればなくなりそうなくらいしか残っていない。


 正面の蒼依は今最後のパンを開けたところで、一番口数が少なかった夕夏に至っては既に食べ終わって弁当を片付けているところだった。


 私は一瞬慌てたが、よくよく考えれば休み時間はまだまだ残っているため、蒼依たちの話を黙って聞きながらゆっくり食べる事にした。


 その時、少しだけ胸の辺りが苦しくなったような気がしたが、食べる事に集中しているうちにそれは無くなっていた。




 休み時間が終わり、歴史よりは少しだけ好きな数学と英語の授業も終わって帰る支度をする。


 私以外の三人は今日も相変わらず部活があるようで、それぞれの活動場所に向かった。


 いつもなら私は一人でのんびり帰るのだが、今日は珍しく声が掛かった。


「紅音は一人で帰る感じ?」


 教室を出た私に声を掛けてきたのは、私と同じ帰宅部の浩二だった。


「うん」


 急に話しかけられて飛び跳ねた心臓を落ち着かせながら返事をする。


「じゃあ一緒に帰ろ」

「え、うん」


 あまりに自然に誘うものだから、思わず頷いてしまった。


 彼の事はよく分からない。


 朝教室に来て目が合うと挨拶をされるが、それ以外で話す事は殆どない。たまに私が一人でぼうっとしている時に話す事はあったが、他の大して仲良くもないクラスメイトと話すのと大差ない会話しかなかった。


 一緒に帰ろうと誘われたのはもちろんこれが初めてだ。


「どっか寄るとことかある?」


 立ち止まって立ち尽くす私を見て、浩二は何か用事があるのではないかと心配になったらしい。


「ううん。帰ろっか」


 私は首を振って先に歩き出す。


「あ、ちょお待って、鞄取ってくるわ」


 せっかく動かした足を仕方なく止めて振り返る。


 確かによく見ると浩二は鞄も何も持っておらず、浩二は慌ただしく自分の席に向かい、鞄を持って小走りで帰ってくる。


 それがどうもおかしくて、自然と笑いが漏れ出す。


「そんな急がんでもええのに」

「いや、誘っといて待たせんのは申し訳ないやん」


 如何にも照れ臭そうに右手で頭の後ろを掻き、笑って言い訳をする。


 浩二は顔を隠そうとしているのか、俯いてそっぽを向いているが、彼よりも頭一つ分くらい身長が低い私からは殆ど見えてしまっている。


 覗き込むように彼を見ると、ほんの一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされてしまう。その逸らした先に移動して目を合わせて、また彼が目を逸らす。


 もう何度かやってやろうかと思ったが、彼が上を向いて絶対に目が合わないようにするものだから、仕方なく諦めて、仕返しとばかりに彼の横腹を突いてやると、「うぐっ」と彼は私の突いた場所を両手で押さえながら身体をくの字に曲げて表情を歪ませた。


「いきなり何すんねん!」

「だって上向くのはずるいやん」

「脇腹突くのはなしやろ。普通に痛かってんけど」

「え、それはごめん」


 先ほどのは演技ではなかったらしい。


 相手が男性だという事もあり、私がちょっと突いたところで痛くも痒くもないだろうと勝手に思い込んでいたが、全くそんな事はなかったようだ。


「意外とぷにぷにやった」

「いらん事言わんでええねん」


 ふて腐れたような態度を取りながらも浩二の表情には笑みが浮かんでいた。


 それを見て彼と接するにはこの感じで間違っていないという事を確認しつつ、彼の斜め後ろについて階段を下りる。


 一階まで降りてきて、浩二と同じ高さの地面に立つと、改めて浩二の身長の高さを実感する。


「浩二って身長どのくらいあんの?」

「たしか182とかそのへん」

「えっ、そんなにあんねや」

「紅音は?」

「私は160くらい」

「充分高いやん」

「いや、別に気にしてるわけちゃうからな?」

「あ、そうなん?」

「うん。ただ蒼依もそうやけど、浩二と話す時も首が痛くなる」

「あー……その子も高いもんな」


 一瞬空いた間は蒼依の呼び方を悩んだのだろうか。


 そういえば浩二が私以外の三人と何か話しているところを見た事がない。


「浩二は蒼依とかと話さへんの?」

「えっ、まぁわざわざ話す用事ないしな」

「私には話しかけるやん」

「言うておはようって挨拶するくらいやん」

「いや、バーベキューの時とか、今日とか」

「それはお前が暇そうにしてたからやな」


 思い返してみると、確かに浩二に話しかけられたタイミングで私は一人で、暇をしていたと言えば間違いではない。


「確かに……」

「やろ? んで、俺も暇やから話しかけたってだけ」

「私と一緒に帰るって言ってもすぐそこまでやん」

「うん。そやから今日は駅まで行こうかと」


 どうやら浩二は相当暇を持て余しているらしい。


 私も別に浩二の事を嫌っているわけでもないので、彼の暇潰しに付き合う事にした。


 必要性を感じない簀の子をガタガタと鳴らし、上履きからローファーに履き替え、自転車を取りに行くから、と私を置いて行こうとする彼について行く。


 ずらりと並ぶ無数の似たような自転車の中から、浩二は自分の自転車を迷わず見つけ出し、鞄を前の鉄籠に入れて、自転車に巻き付いているワイヤーロックを外す。


「ヘルメットちゃんと着けてるんや」

「まぁ着けな怒られるからな」


 見た目がもうちょっと良ければなぁ、などと愚痴を言いながら自転車を引っ張り出した。


「乗る?」


 浩二が自転車の後輪部分の上、荷物を載せたりする場所と思われる部分を指差して問いかけてくる。


「そんな事で生徒指導されたくない」

「えぇー、ちょっと憧れてたのに……」

「それは分からんでもないけど、怖いし、やるとしてもせめて人がおらんとこでやって」

「じゃあ無理やん」

「じゃあ諦めて」


 浩二の言う通り自転車の二人乗りには多少なりとも憧れがある。それは青春と聞いて思い浮かべる物のランキングがあったとすれば、そこそこ上位に入ってくるだろう。


 運転する人の肩を持つか腰に手を回して横向きに乗っている姿を想像し、浩二の方を見る。


「やっぱちょっとだけやらして」

「え?」

「あそこまで行こ」


 私は今いる場所から真っ直ぐ行ける校舎の隅の方を指差した。


 浩二は私の指差した先を見て、それから一瞬私の方を見て自転車に乗った。


「どうぞ」


 浩二はこちらへ振り向き、私に後ろに乗るよう促す。


「あ、待って。鞄籠に入れとくわ」

「あぁ、お願い」


 私は持っていた鞄を浩二に預けると、浩二の肩に右手を置き、背中を向けて慎重に台座にお尻を乗せる。それから足を浮かせようとするが、そうするとそのまま転けてしまいそうな気がして、なかなか足を浮かせられない。


「待って。思ったより怖いかも」

「もっとこっちに体重掛けてくれてええで」


 自転車は浩二がしっかりと支えてくれている。


 私は左手も浩二の肩に乗せて、彼を支えにして足を浮かせる。


「よっしゃ行くで」


 浩二は私がちゃんと乗っている事を確認して、足に力を入れて漕ぎ始める。


 その瞬間、私の身体が大きく前後に揺られ、思わず浩二に身体を密着させるようにしてしがみつく。


 こんな時に可愛らしいリアクションが取れれば良いのだろうが、今の私にはそんな事をする余裕はなく、ただ息を止めて浩二の肩を握り締めていた。


 暫くすると速度が上がってバランスも安定し、私は身体を起こして顔を上げる。


 分かっていた事だが、見える景色は手入れされているのかいないのか分からない植物と校舎だけで情緒など欠片もない。それでも漫画で見た事を自分が体験しているという事に、少し興奮を覚えていた。


 そこにこの最高の気分を奈落に突き落とす存在が現れた。


「何しとんねんお前ら!」


 その男の怒鳴り声が聞こえた途端、心臓が握られたような感覚に陥り、息が詰まった。


 自分が今悪い事をしているという自覚のあった浩二は、直ぐさま声の言う「お前ら」というのが自分たちの事だと理解し、ブレーキを掛けて止まる。私はまた浩二にしがみつき、止まったのと同時に地面に足を付ける。


 浩二を見ると、校舎の二階に顔を向けて眉を顰めていた。その視線の先にいたのは声の主である教師だった。


 見覚えはあるが、何を担当している教師なのかは知らない。


「学校でいちゃついてんちゃうぞ!」


 どうしてそんな大声で怒鳴るのだろうか。


 胸が締め付けられ、目頭が熱くなるのを感じる。


 私は俯き、自転車から降りる。


 自分たちが悪いという事は分かっているが、それ以上にせっかく良い気分だったのところを台無しにされた事が許せなかった。


(死ねば良いのに)


実際は何も言い返せもしないくせに、心の中で精一杯の暴言を吐き捨てた。


 他にもあの教師は何か言っていたが、私は聞こえない振りをして歩き出す。そして少し無理をして笑みを浮かべ、隣に並んで歩く浩二を見る。


「ごめん。やっぱりやらんかったらよかった」

「いや、誘ったのは俺やしな」


 そうだとしても最終的にやると決めたのは私だ。


 二人して肩を落とし、重たい空気を纏ったまま学校を出る。


「あー、最悪! 何やねんアイツ!」


 突然、浩二が叫んだ。


「せっかく楽しかったのに……なぁ」

「うん。ほんまに」

「あんなに怒鳴らんでもええよな」

「うん……」


 怒鳴り声がまだ頭に残っていて、心臓が握られたように苦しくなる。


「なぁ、この後どっか寄らん?」


 妙に高いテンションの浩二に誘われ、少し考える。


 先ほどの事は一刻も早く忘れてしまいたい。気分転換のためにも散歩をするのは良い案かもしれない。


「どこ行くん?」

「どこ行こ……。公園とか行ってもしゃあないしなぁ」

「浩二はこの辺に住んでるんやろ?」

「うん。もうちょっと宇治寄りやけどな」

「そっちの方まで行く?」


 宇治にはまだ立ち寄った事がなく、興味だけは人並み以上にある。


「それは……なに? 家に来るって事?」

「いや、うん。別にそれでもええけど……。そういえば今日はバイトないん?」

「それが残念ながらあるんですよねぇ」

「じゃあアカンやん」


 私は携帯を取りだし、時間を確認する。


「何時からなん?」

「五時から」


 今はまだ四時前。随分と余裕を持っているようだ。


「バイト先はこっから近いん?」

「えっとな……家から歩いて十分くらいのとこにあるスーパー……って言っても分からんよな」

「うん。分からん」

「まぁ、いっつも一旦家に帰ってから行ってるし、寄り道する時間はいっぱいあるんよ。最近は直接行けるようにもう鞄に制服も入れてるから」

「そうなんや。じゃあそっち目指して行こう」

「紅音はこっちでええの?」

「うん。宇治やったら定期の範囲内やし」

「おっけー」


 気を取り直し、私は鞄を肩にかけ直そうとして手をやった瞬間、鞄を預けたままだった事を思い出す。


「鞄ありがとうな」

「ええよ別に。何か潰れて困るもんが入ってるわけでもないしこのままで」

「……ありがとう」

「たまには楽して帰りましょうや」

「これから荷物持ち頼むわ」

「任せろ」


 そう言って、時々浩二がペダルに臑を蹴られるのを笑いながら坂道を下り、普段なら右に行く道を、浩二の帰り道である左に曲がる。


「この辺ずっと坂やけど、自転車の方がしんどくない?」

「それはまぁトレーニングって事で」

「あ、しんどいのはしんどいんや」

「そらなぁ、こんな長い坂重たい鞄入れて上んのはしんどいやろ」

「歩いてったらええのに」

「それ以外がだるいやん。鞄重いし。因みに下りるのもなかなかしんどい」

「やっぱり鞄持とか?」

「いや、ええって。大丈夫。男に二言はない」

「じゃあ頑張って」


 持たなくていいのなら持ちたくはないので、頑張ってくれるらしい人に任せてのんびりと見慣れない景色を楽しみながら坂を下っていく。


 線路沿いの車通りの多い道路をまた左に曲がる。


「ここの下通ってる道路の横に細い歩道があんねんけど、そこ通って行ったら大きめのスーパーがあるわ」

「そこで働いてるわけでは……?」

「ない。募集はしてたけど、絶対知り合いに出会すから嫌や」

「あぁ、それはありそう」


 こんな住宅街の、しかも自分が通う学校の近くでアルバイトなんてしようものなら忙しいのは確定している上に、知り合いに遭遇する可能性があると考えると私にはできそうにない。


「まぁそんな高校生が寄るとこでもないねんけどな」

「ゲームセンターとかないの?」

「あるけど、何かこう……ファミリー向けみたいな感じやで」

「なるほどね」

「んで、ここ真っ直ぐ行ったら宇治橋があって、こっち行ったら源氏物語ミュージアムがあるわ」

「名前だけ知ってるけど読んだ事ないやつや」

「あれって現代語訳されてるやつとか売ってんの?」

「売ってるで。何なら漫画もあるし」

「漫画は持ってるん?」

「ううん。興味はあるけどまだ手は付けてないって感じ」

「まぁ長いもんなぁ」

「原文のやつが九巻セット一万円とかで売ってた気がする」

「たっか。しかも原文」

「そう。古文苦手やからあれは無理やわ」

「古文苦手なんや」

「うん。無理。ああいう暗記しなアカンやつは大体苦手」

「じゃあ数学とかの方が得意なんや」

「そうやな。得意かどうかはちょっと微妙やけど」


 自嘲気味に笑い、地面を見ていた目を前にやると、テレビで見た事のある宇治橋が見えた。


「こんな近くにあったんやな」

「すぐそこが駅やし、渡って左に行くと平等院があるわ」

「へぇ~」


 あまりそういったものに興味の無い私でも知っている名前が出てきて少し興味を惹かれる。


 都会によくある微妙に音痴な音の鳴る横断歩道を渡り、宇治橋の上から川を眺める。


「なんか京都に来たって感じするわ」

「あぁ。俺的には京都っていうよりは宇治って感じするけどな」

「そうなん?」

「うん。何か上手く言えへんねんけど、京都っていうよりは宇治やな」

「へぇ……」


 いまいち理解はできないが、ここ宇治は他とは何かが違うのだろう。


 京都市の方もあまり行った事のない私にはその違いが何なのかは分からない。行ってみたら分かるのだろうか。


 また今度蒼依たちと行ってみてもいいかもしれないが、彼女たちは部活の方で忙しくて観光なんてしている場合ではないだろう。


 私も部活がなくてもこんなにのんびりしている場合ではないのだろうが、川の流れる音と流されていく鴨を眺めていると、ずっとここに居座りたくなってしまう。


 私は携帯で時計を見る。


「浩二は時間大丈夫?」

「今何時?」

「四時半」

「あ、やばいわ」

「結構歩いたもんなぁ」


 慌てる浩二から鞄を受け取り、礼を言って肩に提げる。


 浩二は私の想像していたものとは全く違うデザインのヘルメットを被り、自転車に跨がり足で地面を蹴って方向転換する。


「じゃあまた……あ、待って。その前に連絡先交換しとかへん?」

「えっ、うん」


 彼は慌ただしくしないと気が済まないのだろうか。


 連絡先を交換するくらい明日でも良いと思うのだが、敢えてそれを口にはせず、携帯が見つからずに慌てふためく浩二を眺めて過ごす。


 結局携帯は制服のポケットに入っていたらしく、私は用意していた画面を浩二に見せる。


「よし、ありがとうな」

「うん」

「じゃあまた明日」

「うん。バイト頑張りや」

「おう」


 浩二は今度こそ振り返らずに走り去っていった。


 その背中が小さくなって、来た道とは違う道に入っていくのを見送っていると、ふと昼間に蒼依たちと話していた時の事を思い出し、浩二にも将来やりたい事を訊いておけばよかったと、今更ながら思う。


 しかしそれは今で無くても、どうせまた今日のように浩二の方から誘ってきた時の話題にすればいい。


 そう私は結論付けて、来た道を少し戻って駅に向かう。


 何故か音痴な横断歩道を渡り、浩二に教えられた駅に着いて気付く、それは全く知らない駅だった。


 学校に行くなら必ず通っている筈なのだが、こんな雰囲気ではない。路線図を見てみると、知らない名前の駅が幾つも書かれており、やはりここは私が普段通る駅ではない、ただ同じ名前が付けられた駅だと分かる。


 どうしようかと回転の遅い頭を動かして色々と掲げられている看板を眺めていると、もう一つの駅への案内を見つけた。


 どうやらそれは宇治橋を渡った先にあるらしく、私は更に十分程歩かされる羽目になった。


 せっかく連絡先も交換したのだから、文句でも送りつけてやろうかと思ったが、よくよく考えてみれば浩二に私の使っている路線は教えていないし、ただ私が勝手に勘違いをしただけとも考えられる。


 別に怒っているわけでもないので、いつか蒼依と来た時のための下見ができると思えばいい。


 駅を出ると、春とは思えない日差しが肌を焼く。


 日傘を持って来ようと前々から思っていた事を思い出したが、きっと家に帰ればまた忘れてしまっているだろう。


 駅に辿り着くまでの間にたくさんの古風な店が私の興味を惹く。


 蒼依はこういうところに興味があるだろうか。


 もしなくても変わった食べ物や和菓子には興味があるかもしれない。


 またいつの間にか蒼依の事を考えている事に気付き、考えを振り払おうとしてやめた。


 蒼依と一緒に居たいのは嘘でも何でもないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る