第4話 4月28日
学校が始まって三週間。
四月ももう終わりが近づき、五十分という長い授業の中で何度も強烈な眠気に襲われながらも、眉間の辺りを指の骨でぐりぐりと押してみたりシャーペンを手に刺してみたりして、何とか瞼を開いて先生の話を頭に入れる。
ノートの空白に刻まれた、意識が飛んでいたと分かる痕跡を消していると、大きなチャイムの音が鳴り響き、先生が切りの良いところまで話し終えたところで授業が終わる。
ぐぅっと伸びをして出かかった欠伸を飲み込んで頭を軽く振って目を覚ます。鞄にノートとペンケースをしまい、蒼依の肩を後ろからトントンと指で叩いて声をかける。
「蒼依、着替え行こう」
「うん」
丁度蒼依も準備ができたところだったようで、すぐに席を立って一緒に体育館にある更衣室に向かう。
日当たりの良い窓際の席から離れて廊下に出ると、春にしては随分と冷たい空気が流れ込んできて、身体の気怠さを洗い流してくれた。
「授業中めっちゃ眠かったのに授業終わったら一気に眠気飛んだわ」
「あー、私もさっきの時間すごく眠かった」
「ね。途中ちょっと意識なかったし」
「ほとんど話聞いてるだけだもんね」
「穴埋めのプリントとかにしてくれたらええのに」
「たしかにそれなら余裕で起きていられるかもね」
「私は多分それでも寝るけどな」
「駄目じゃん」
授業というものは不思議だ。普段ならこんな時間に眠たくなんてならないのに、況してやほとんどの時間先生は喋り続けていて静かな空間でもないのに、まるで睡眠薬でも飲まされたかのように強烈な眠気が襲ってくる。
しかしそれは紅音が特に苦手意識の強い歴史や国語の時間だけの話で、数学や化学などの時間にはあまり感じない。理系科目が好きとか得意とかそういうわけではないが、やはり手だけではなく頭を必死に使っているからだろうと思う。
だから歴史や生物など話を聞くばかりの科目でも頭を使うことが増えればそれなりに起きていられるのではないかと思うのだが、良い方法は何も浮かばない。
少し突きすぎて痒くなってしまった手の甲を擦りつつ上履きを脱いで体育館に入る。前の時間に使っていた人たちと入れ違いで更衣室に入り、割り当てられたロッカーを開けてフックに鞄を掛ける。
少し人目を気にしながら制服から体操服に着替える。
下を穿き替え、白い体操服の袖に腕を通して襟の部分から頭を出すと、左の方から強い視線を感じた。裾を両手で引っ張ってお腹を隠し、視線の主を睨む。
「あんまり見んといてよ」
蒼依は目が合って一瞬顔を背けたが、再びこちらに顔を向ける。
「ごめん。良い身体してるなぁって思って」
「ド直球のセクハラやめろや」
「紅音のスタイルなら見られても恥ずかしがるようなとこないでしょ。ね、二人とも?」
蒼依の目線の先を追うと、ちょうど彩綾と夕夏が来たらしく、二人の視線を浴びる。
「うんうん。モデルやってるって言われても驚かへんわ」
彩綾がロッカーに手を掛け、こちらを見て言った。
夕夏は何も言ってはないものの、うんうんと頷いていた。
「それやったら蒼依の方がモデルっぽくない?」
嫌というわけではないが、気恥ずかしさに耐えられなくなった私は羽織っていたジャージで身体を隠して矛先を蒼依に向けようとする。
「そうやけど、蒼依と紅音やとジャンルがちゃうやん?」
「身長はあるけどやっぱり紅音のそれは羨ましいとは思う」
「別に蒼依もないわけじゃないんやからええやん」
「こう……バランスを考えると紅音くらいはほしいのよね」
言われて蒼依の身体を一瞬眺めた後、これではさっき自分がやられていたことと同じだと気付くと、急に恥ずかしくなってしまい何も言わず顔を背ける。
誤魔化すように鏡をロッカーに立てて髪をゴムで一つに結ぶ。簡単な結び方だが、ちょっと中心からズレていたり髪が少し逃げてしまったりと、なかなか思うようにできず何度もやり直す。
そんな私をじっと見ていたらしい蒼依が声をかけてくる。
「前から思ってたけど、紅音って結構不器用だったりする?」
「いや、そんなことはないと思うんやけど……」
咄嗟に否定してもう一度やり直したが、やはり上手くできない。
前回の体育の日は一二時間目だったということもあって、家を出る前に十分な時間を取って丁寧に結んだ。しかし今はあまり時間がないという焦りからか、納得のいく出来にならない。
「やってあげようか?」
見かねたように蒼依が手を差し伸べてくる。
このまま意地を張って自分でやってもイライラするだけで綺麗にできないことは分かっていたため、私は諦めてゴムを蒼依の差し出した手に乗せた。
「妹のは上手くできんのになぁ……」
目線を右下に動かし、言い訳がましく呟く。それを聞いた蒼依はくすりと笑った。
「人にやるのと自分のをやるのはまた違うからね。私だって自分のやれって言われたら多分できないし」
「蒼依はそもそも結ぶほど伸ばしてへんやん」
「うん。だから多分できない」
慰めの言葉をかけられ、何だか自分が子どもになったように思えて恥ずかしくなった。
しばらくくすぐったさを耐えながら鏡も見ずに俯いていると、蒼依の手が肩に置かれた。
「はいできた。どう?」
言われて蒼依が結んでくれた髪を触って鏡を見る。先ほど自分でやったものよりも遥かに綺麗にまとまっており、違和感も何もない。
纏められた髪を右肩に乗せて左手で何度か梳いてやり、蒼依の方を見る。
「ごめん。ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って微笑む蒼依に手を引かれ、ペンケースを持って更衣室を出る。
体育館にはいくつか見覚えのある道具が用意されていた。
今日の体育は体力テストだ。自分がどのくらい運動できるのか、それは平均より上なのか下なのか。そんなことを計るための実技テスト。
昔から運動が苦手で、顔に金属のバットが飛んできたり跳び箱の上で手を滑らせて真っ逆さまに落ちたりと、体育にあまり良い思い出はないが、年に一度きりのこの体力テストはそれほど嫌いではない。
「運動が苦手って言ってた割には楽しそうね」
「まぁ、嫌いではないしな」
不思議そうに唇に指を当てる蒼依に、私は補足する。
「身体を動かすこと自体は好きなんよ。ただ得意ってわけではないし、ルールも全然覚えられへんからあんまりやりたくはないってだけで」
「あぁ、なるほどね」
「そうそう。体力テストって腹筋とか握力とかやろ? シャトルランはしんどいけど、走るのは好きやからいける。体力はないけど」
「なるほどねぇ。意外と筋肉はありそう」
「元吹奏楽部ですから」
そう言って平らな二の腕を見せびらかしていると、先生が来て整列を促される。
出席確認と同時に爪の長さや頭髪のチェックを受け、前にいる蒼依の長く綺麗な脚に気を取られながら準備運動をする。
準備運動を一通り終えて再度集合し、先生から手渡された体力テストの記入用紙を配り、説明を受ける。
体育館をひたすら往復するシャトルランは前回やり終えていて、百回は行かなかったものの、八点というそれなりに良い点数が取れたので満足している。それ以外はこの二時間でやりきるらしい。
先生の指示に従い、蒼依とペアになって握力測定を始める。
蒼依が右腕を伸ばしてぐっと力を入れ、少しして脱力させ、私に握力計の目盛りが見えるよう差し出してくる。
「二十七キロ……かな」
「あと一キロで七点だったのに……」
「残念でした。はい次、反対ね」
からかうように笑い、さっさとやるように促す。
左手でも同じく二回測定し、私は読み取ったままを記入する。
「はい。二十五キロ。女の子やねぇ」
「なに? 紅音は自信あるの?」
私の言い方が気に障ったのか、蒼依は眉を顰めて睨んでくる。
「うん。これやったら勝てるわ」
そう言って右腕をしっかり伸ばして握力計を握りしめると、針は目盛りの四十のところを越えていた。
「こわっ」
「傷付くわー、その反応」
「だって余裕で十点やん」
へらへらと笑いながら計測器を左手に持ち替えて同じように握る。
「利き腕と反対の方が強くなりがちよね」
「何したらこんなに強くなるの?」
「それは知らん」
再び計測器を蒼依に譲る。
小学校の時は周りと同程度の記録だったと思うが、中学生になって急に力が付いた。そのため心当たりがあるとすれば、吹奏楽での楽器運びが思い浮かぶのだが、それなら蒼依だって同じくらいの記録でないとおかしい。
何にしても四十キロ程度では女子にしては強いというくらいで、飛び抜けているわけでもない。
「どうせやったら六十キロとかほしくなるよな」
「なんで?」
「いや、蒼依だって身長高いけど、どうせ高くなるならもっとほしいなぁって思わん?」
「あぁ……分からなくはないけど、これ以上高いのは不便そう」
「電車で頭ぶつければええのに」
「私に何か恨みでもあるの?」
困惑する蒼依を無視して記入し、交代して私が計測する。
結果はほとんど変わらず、次のペアの人に握力計を渡して、長座体前屈をやっている場所に移動する。
順番が来て蒼依が壁際に座り、身体を折り曲げて箱を押す。
私はそれを見て普通だなんて思いながら目盛りを読み取って紙に記入する。
蒼依と入れ替わり、私も同じように息を吐きながらゆっくりと、胸が足に付くくらいまで曲げて、ふぅと息を吐いて体勢を戻す。
「紅音って体操か何かやってたの?」
「ううん」
「それでこんなに柔らかいのすごいね」
「まぁね」
私が体力テストを楽しみにしていた理由の一つとしてこれがあるかもしれない。
運動は好きだけど決して運動神経が良いとは言えない私でも、身体が柔らかいとか握力が強いとか、普段運動する上であまり関係のないことではあるが、いつも以上に褒められる。
ダイエットをする前よりずっと記録が伸びているのも、私の気分を上げる要因になっていた。
「これで年に一回の私の見せ場は終わりやな」
「もうちょっとあるでしょ」
暇になってしまった時間は他の子がやっているのを眺めつつ、蒼依や彩綾たちと話して過ごす。
他の人も楽しげにそれぞれの仲の良い人と話しながらやっていて、先生も巫山戯ていない限りはそれを注意することはなかった。
やがてみんなが二つの種目を終えて、次の準備をする。
準備をすると言ってもペアの人、私は蒼依と向かい合ってざらざらとしたマットの上に座り、蒼依の足を持つだけだ。
「すべすべや……」
「やめてくれる?」
これ以上撫でていると先生にも怒られそうなので控え、先生の合図で記録を開始する。
蒼依は一秒に一回のペースで身体を起こし、私は蒼依の脚が動かないようにしっかりと抱き抑える。
二十秒経った辺りで少しペースが落ちてしまい、記録は二十八回。惜しくも九点だ。
「一回くらい許してくれない?」
「駄目でーす」
「はぁ、もう最悪」
蒼依の少し乱れた髪を整えて場所を交代する。
「自信の程は?」
「ない」
こういうとき胸が大きいと邪魔だな、なんて何処かの誰かに喧嘩を売るようなことを考えながら両手で肩を掴んで待機する。
先生の合図があり、腕が脚に付くまで身体を起こして、頭を打たないように倒れる。
蒼依の時よりも明らかに遅いそのペースは二秒に一回かそれ以下。そこから制限時間が半分を切る前にどんどんペースが落ち、十を切った辺りでもう限界に近かったが、最後の力を振り絞って身体を震わせながら重たい上半身を起こし、ぷは、と息を吐き出して倒れる。
吹奏楽をやっていたとしても、ダイエットにも成功したと言っても、必ずしも腹筋ができるわけではない。いや、できないとおかしいのかもしれないが、少なくとも私にはできない。
蒼依の激甘判定込みで記録は十一回。点数で言えば三点だ。
隣から私の記録用紙を見る蒼依は呆れているように見えるが、個人的には大満足の結果だ。
「点数の振り幅えぐ」
「こんなもんやろ」
私にとってはとても見慣れた数字の並びだ。
「二桁に乗っただけで満足なの?」
「全力は出したしな」
「あ、そう」
これでも中学の頃の記録は更新できたのだから問題はない。
この体育館で行う最後の種目は反復横跳びだ。
これもあまり上手くできた試しがない。
蒼依や他の子が軽く練習で動いているのを見ていると、どうしてそんなに動けるのかが不思議で堪らなくなってくる。
「足長いのずるいよな」
「関係……あるのかな……?」
蒼依は否定しようとして途中で首を傾げた。
そうしている間に先生が合図をして一斉に動き出し、重い足音とシューズが床に擦れる小気味良い音で五月蠅くなる。
私は数え間違いをしないよう指を折って数字を口に出しながら数える。その際ラインを越えていたかどうかなんて、手前はともかく奥の方まで見ていられない。そんなことをしていたらきっと数え間違えてしまう。
終了を告げるアラームが鳴り、こっそりおまけでぎりぎり間に合っていなかった最後の一歩を足した数を教える。
「四十九回ね」
「は? また一回足りないんですけど」
「知らんがな」
私のおまけは無意味だったらしい。寧ろ足したことでより悔しさが増したようだ。
悔しがる蒼依を余所に私は足運びを確認する。線を越えるにはどれくらい足を伸ばさないといけないかを確かめて、始まるのを待つ。
「私に勝ったらジュース奢ってあげる」
「言うたな」
まるで私が勝てないことを前提にした蒼依の喧嘩を買うが、勝てる気は全くしていない。ただその場のノリで言い返しただけだった。
結果は当然蒼依の勝利。私は五点しか取れなかった。
「まぁもう一回あるし」
「十回の差をどうやって縮めろと?」
「いけるいける」
小馬鹿にするように笑って言う蒼依を睨みつけるが、蒼依は既に正面を向いていて反応を返してくれなかった。
次はおまけはなしにしようと決めて、また口に出しながら回数を数える。
「四十九回やな」
「おまけしてよ」
「ダメ」
ちぇ、と口に出して分かりやすく拗ねてみせる蒼依の頭を撫でてやる。ちらと蒼依を見ると、機嫌良さげに笑みを浮かべていた。
開始の合図から一瞬遅れて足を動かす。できる限りラインを踏むのを意識して、とにかく毎回ちゃんとカウントされるように足を伸ばす。
自分より早く動いている人たちは、動画を早送りしているみたいに動いていて、どう頑張っても自分がそんな風に動けるイメージが湧かない。湧いたところでそれはきっと妄想なのだろうけれど。
あっという間に二十秒が終わり、蒼依の下に戻る。
「四十一回。ちょっと伸びたけど点数は一緒だね」
「私も一足りない現象起きたわ」
「おまけしないからね」
良かった方の記録を書き込み、この日屋内で行う種目はこれで終わり。チャイムはまだ鳴っていないが、グラウンドに移動するついでに休憩時間となった。
一度更衣室に戻ってお茶を飲み、靴を履き替えてグラウンドに向かう。その途中で彩綾と夕夏が相変わらず仲良く歩いているのを見つけ、駆け寄って彩綾の肩を叩いて声を掛ける。
「二人ともお疲れ」
「紅音もお疲れ。蒼依は?」
「ん? 後ろから歩いてきてるで」
「あぁ、ほんまや」
三人で後ろを振り向くと、少し離れたところから蒼依が紙を持っている手を振り、のんびりと歩いて付いてきていた。
「紅音は運動得意なんやっけ?」
「ううん。身体が柔らかいだけで、それ以外は全然」
「そうなんや。シャトルランとか私と同じくらいまで行ってたからてっきり運動得意なんやと思ってたわ」
「走るのも体力があればできるしなぁ。夕夏もそこそこ行ってなかった?」
「うん。太らんようにたまに走ったりしてるから」
「へぇ~偉いな」
「紅音はそういうのしてへんの?」
「今は走ってないけど、ちょっと前までダイエットしてたから、今回あんなけ走れたんもそのおかげかもしれん」
校舎の間を抜けてグラウンドに出ると、先にグラウンドの種目をやっていた男子が丁度終わったところのようだった。
その中に見覚えのある顔を見つけ、一瞬見た間に彼が顔を上げて目が合った。
「あ、紅音やん」
「お疲れ。浩二」
一直線にこちらに来て爽やかな笑顔を浮かべる彼の名は鈴木浩二。以前靴箱で出会った時は名前を知らなかったが、よく聞く名字によく聞く名前の組み合わせですぐに覚えてしまった。
あの時以来、教室や登下校中など、見かければ話しかけてくるようになった。
彼の用事は私だと察した彩綾たちは先にグラウンドに降りていった。
「そうや見てこれ」
「なに?」
彼の記録用紙を受け取り、指を差された場所を見るとそこは五十メートル走のタイムが記録されていて、誰が見ても速いと思うタイムだった。
「これ今回自己ベスト更新してんけど、クラスで一番速かったらしいわ」
「えっ、すごい。これ十点やろ?」
「ギリギリやけどな。十点ライン丁度」
いつもより高く大きな声で話す彼の話を聞きながら他の記録を見てみると、ハンドボール投げも十点を取っているようだった。
「これでなんで帰宅部なん?」
「それはまぁ、バイトしたかったからやけど」
「ふぅん」
自分から訊ねておいて申し訳ないが、あまり興味がなくて思わず雑な返事をしてしまった。
私は紙を彼に返して意識を逸らそうと話を終わらせにかかる。
「友達に置いてかれてるけど大丈夫?」
「あ、時間やばいかな」
一度左腕を見て、そこに腕時計がないことに気付いた彼は校舎の上の方に付いている時計を覗き込む。
「それは知らんけど、急いだ方がええんちゃう?」
いつの間にか彼の友達どころか、あれだけたくさんいた男子はいなくなっていた。
チャイムはまだ鳴っていないが、二時間続きで取られているこの授業では、休憩時間はクラスによっても男女でも違うのであまり当てにはできない。
何となく自分は大丈夫だろうかと心配になってグラウンドの方を見ると、まだ疎らにしか集まっていないようだったが、先生はもう来ているのが見えた。
「私も多分もう始まるし」
「そっか。じゃあまたあとで。頑張ってな」
「うん。浩二も頑張ってな」
「おう」
軽い調子で一段飛ばしで階段を上りきり、そのまま彼は走り去って行った。
丁度こちらも休憩時間が終わりらしく、私も慌てて階段を下りて集合する。
点呼を取っている間に三時間が終わるチャイムが鳴り、校舎の方が少し騒がしくなる。生徒の誰かが冗談で授業終わりましょう、なんて言ったのに対して先生がノリツッコミをしてから説明に入る。あまり面白くはなかった。
初めは五十メートル走からやるようで、ゴールとなる場所に紙とペンケースを置いておき、スタート地点にぞろぞろと移動する。
四時間目開始のチャイムが鳴り響くのを聞きながらクラス別の名簿順に四人ずつの列を作り、陸上部に入っている人が手伝いとして先生から白い旗を受け取ってコースの横に立つ。どうやらスタートの合図役らしく、合図の説明を丁寧にしてくれた。
先生はストップウォッチを持ってゴール地点に待機している。
「なんか蒼依と走るん嫌やなぁ」
「別に勝敗は関係ないんだからいいでしょ」
「そうやけどそうじゃないやん」
あまり気乗りしないまま先生の声がかかり、地面に手を置いて合図を待つ。そしてかけ声と同時に旗が上げられたのを見て、四人一斉に走り出す。
足が滑ったわけでもないし、反応が大きく遅れたわけでもないが、右側で走る蒼依がどんどん前に行き、あっという間にゴールした。
それぞれのタイムを先生から聞き、忘れる前に紙に記入する。
「蒼依めっちゃ速かったな」
「そうは言っても八秒だけどね」
「充分速いわ」
たったの五十メートルでも一秒の差をつけられてしまった。
私にはハンデが二つあるから、なんて言い訳しようと思ったが、一瞬開いた口を閉じてその言葉を飲み込んだ。もし言っていたら怒りを買う羽目になっていただろう。
どうしたの、とこちらを見て首を傾げる蒼依に、何でもない、と首を振る。
そんなことをしている間に彩綾と夕夏も走り終わり、タイムを聞いてみると、彩綾は蒼依よりも速く、四人の中で一番遅いのは私ということが分かった。
「勝負しようとか言わんで良かったわ」
「今からでもする?」
「いや、やらんけどな」
「紅音だって二つ十点があるんだからそれなりに良い勝負になるんじゃない?」
「他が壊滅的やから無理」
もう残っている種目に私の得意なものはない。夕夏にならもしかしたら勝てるかもしれないという程度で、他二人には到底勝てそうもない。
バレー部の彩綾はともかく同類の蒼依に負けるのはなかなか悔しく思うが、そこは素の運動能力の差だと思い込んで無理矢理納得することにした。
ぼうっと他の人が走るのを眺めているとあっという間に全員が走り終えて、次の種目に移る。
私たち七組は先にハンドボール投げをすることになり、いつも通り順番は蒼依からだ。
何故か今私の中で蒼依はかっこいい人というイメージになっていて、ハンドボールも三十メートルくらい余裕で飛ばすのではないかと勝手に思っていたのだが、結果は十五メートルと、女子らしい記録だった。
「なに?」
「いや、可愛いなぁって」
「喧嘩なら買うけど」
「非売品でーす」
こんなことばかり言っていたらそのうち蒼依に変人扱いされそうだと思いつつ、白い円の中に立ってボールを受け取る。
四十五度が一番飛ぶ角度だというどこで聞いたか分からない、本当かどうかも分からない知識を思い出し、円から出ない程度に助走を取って、斜め上の空を見ながら腕を振ると、大凡イメージした通りの角度で黄色いボールが飛んでいく。
ボールは自分が思っていたよりも遠くに落下し、すぐに計測役を任された子が落下点の近くまで行って数字を教えてくれる。
計測は二回できるため、もう一度ボールを持って、投げる。今度も同じような角度で飛んでいった。
結果は蒼依と全く同じ十五メートルだった。
「もうちょっと飛んでた気がするんやけどなぁ」
「自信ありそうだったのに」
「ハンドボール投げってなんか三十メートルくらい軽く飛ばせそうな感じせぇへん?」
「全く」
「あれぇ?」
少しも共感してもらえず反対側に立つ夕夏の方を見る。
「分からん?」
「ごめん。分からん」
「私も分からんからな」
視線を向ける前に彩綾が答え、そのまま円の中に入っていった。
この暇な時間を潰すためにも話をどうにか繋げようとすると、蒼依が口を開く。
「ねぇ、全然関係ないんだけどさ」
彩綾が明らかに十メートルにも満たないくらいしか投げられていないのを見守りながら蒼依の声を耳に入れる。
「みんな『うち』って言わないのね」
「あぁ、一人称?」
「そう」
「……たしかに自分の家のこととか、こう……グループとかを指す時に言うことはあるけど、自分のことを『うち』とは言わへんなぁ」
言いながら過去に出会った人のことを思い浮かべるが、自分のことを『私』ではなく『うち』と言っている人には出会った覚えがない。
「京都の人はあんまり言わへんのかもしれんね」
夕夏の呟きを聞いて、なるほど、と思う。
「あれって関西の人がみんな使うわけじゃないんだ」
「多分ね? 少なくとも私の周りにはおらんかな」
「蒼依は『うち』って使わんの?」
「一人称としては使わないかな。普通に家族のこととか言うときは使う」
「『お家』とかの『うち』やしそら使うか」
「それは何か違う気はするけど……、まぁそうね」
「ほんまに何にも関係なかったな」
「ふと思っただけだからね」
そう言っている間に彩綾が帰ってきて、交代で夕夏がいなくなる。
「何の話してたん?」
「いや、みんな『うち』って言わへんなって」
「たしかにあんまり聞かへんな」
「やっぱり京都じゃ言わないのね」
「かもね」
蒼依が関西出身ではないため、こうして地方の話になることが多い。
最近はネットやテレビを見る機会が多く、そういった方言に関する話も耳にする事も多くなったが、それでも実際話していると知らない事の方が多い。
体力テストの話はどこかへ飛んでいき、方言の話が盛り上がってきた頃、八組の人たちと交代して砂場の方へ移動する。
立ち幅跳びに関してはどの種目よりもできないと言っていいくらいにはできない。
身体を振って勢いを付けるというのは、言っている意味は分かるが上手くできた試しがない。
小学生の頃にこうして水溜まりを飛び越えようとして、ど真ん中に着地してびしゃびしゃになっことを思い出した。
あの時もちゃんと腕を振って勢いを付けていた筈なのだが、普通に足を伸ばして跨いだ方が遠くに届いていたのではないかと思う。
流石に今はその何十倍も飛べるだろうと、腕を振りながら足を曲げて、タイミング良く前方にジャンプする。
幸い転けることなく着地は上手くいったが、二メートルには遠く及ばなかった。
因みにすぐ横では蒼依が私より足二つ分くらい遠くに跡ができていて、何とも微妙な気分にさせられた。
列に並び直してもう一度やったが、着地に失敗して一歩後ろに下がってしまった。
恐らく成功していても一回目と大差なかっただろうと諦めて、一回目の記録を紙に書く。
これでもう全ての種目が終わりで、あとは計測を手伝うだけなのだが、それも他の人がやってくれていたため暇になった。
授業が終わるにはまだ三十分ほど残っているが、ハンドボール投げの方はまだ終わっていないようで、私以外の人も暇になって歓談に移っている。
ふと来週がゴールデンウィークだということを思い出して隣でどこかを見つめている蒼依に声をかける。
「蒼依って来週は部活?」
「え、うん。月曜と遠足の日以外は全部部活」
「そっか」
予想していた通りの回答だったが、少しがっかりする。
「なに? 何か用事でもあった?」
「ううん。遊べるかなぁって思っただけ」
「あぁ。ごめんね」
「大丈夫大丈夫。気にせんと頑張っといで」
申し訳なさそうに眉をハの字にする蒼依を気遣ってへらへらと笑う。
友達と遊ぶのはたまにでいいのだ。毎週遊ばないといけないなんてことはないし、夏休みになれば休みもあるだろう。それまでにどうしても遊びたいなら部活のない月曜日にどこか一緒に寄り道すればいい。
また一緒に出掛けたい気持ちはあるが、蒼依の邪魔をする気はない。
「今は何の練習してんの?」
「五月の後半に本番があるからそれの練習と、あとは基礎ばっかりかな」
「そっか。まだ入ったばっかりやもんな」
「うん」
「因みにその五月のやつは聴きに行けたりするやつ?」
「あー……多分無理かも」
「そっかぁ……。また何か聴きに行けるやつあったら教えてな」
「うん。任せて」
蒼依は瞬きをするのと同時に頷き、可愛らしく微笑んでくれる。
少しして招集が掛かり、先生の下に駆け足で集合する。
記録用紙を提出した後、残り時間で何をするにも微妙だということで、授業が終わるには随分と早いが、他の授業の邪魔にならないよう静かにするという条件で更衣室に戻ることになった。
更衣室に戻って着替えている最中、既に着替え終わって暇を持て余していた蒼依が訊ねてくる。
「そういえば訊きたかったんだけどさ」
「なにー?」
ロッカーの方を向いたまま聞き返す。
「紅音ってあの……誰だっけ?」
「鈴木君?」
後ろから彩綾が加わる。
「そうそうその人」
鈴木と聞いて少し考えた後、高校での男子の知り合いは一人しかいなかったことを思い出し、これは面倒くさいことになりそうだと思った。
「付き合ってたりするの?」
「ね。やっぱり蒼依もそう思ったよな。私も気になってたんよ」
蒼依の思い浮かべた人をどうして一発で言い当てたのか不思議だったが、彩綾も同じことを訊こうとしていたらしい。
「いや、付き合ってはないで」
無駄にからかわれないよう平静を保って答える。
「でも急に教室でも挨拶交わすようになったし、帰りもたまに一緒に帰ってるらしいやん」
「それに名前で呼び合ってるみたいだしね」
「……一緒に帰ってるのはたまたま出会しただけやし、名前も蒼依がいるんやからしゃあないやん」
事実無根なので焦る必要は全くないのだが、こんな取り調べのように問い詰められると、無意識のうちに声のトーンが落ちて、まるで何かを必死に隠そうとしているように聞こえる言い方になってしまう。
「蒼依と紅音がややこしくても紅音はあいつのこと名字で呼んだらええやん」
「それは向こうが名前で呼べって言うから……」
嘘は吐いていない。けれども自分で言いながらどうにも言い訳がましく聞こえる。
「まだ付き合ってないんだ」
「『まだ』も何も付き合う気ないって」
「そうなの?」
「まだ出会ったばっかりやで? 向こうのことも全然知らんし」
「その言い方やと脈ありっぽい」
予想外に今まで黙って聞いていた夕夏も参戦してくる。
「あ、じゃあ告白されたらどうする?」
「知らん」
これ以上は面倒だとわざと素っ気なく答えるが、二人はそれを照れ隠しだと受け取ったらしく、愉しげな感情が声に乗って伝わってくる。
「やっぱりちょっと気になってるんちゃうん?」
「知らんって」
この手の話題は苦手だ。
自分の中で微かに怒りの感情が湧いてくるのを感じて、それを抑えるようにして言い捨てる。
それを素早く察したのは蒼依だった。
「二人ともストップ。からかいすぎ」
「えー。言い出したん蒼依やん」
「こんな追求する気はなかったの」
お茶を濁すように苦笑しながら言う。
私が少しイライラしてきていたことに、真っ先に気付いてくれたのが蒼依だということが無性に嬉しく思い、怒りは瞬時に消え失せていた。
「ごめんね。紅音」
「ううん」
蒼依に続いて二人からも謝罪の言葉をもらって、少し気まずい空気が流れる。
その空気に耐えられなくなった私が来週の遠足の話を切り出して、漸く空気が元に戻った。
どうして私はこうもイライラしやすいのか。どうしてそれを上手く抑えられないのか。以前から何も変わっていない。
高校生になって、高校デビューをしてもそういうところは何も変わっていない自分が嫌になる。
またすぐに気付いて心配そうな顔をする蒼依に、私はすっかり慣れた愛想笑いを返していた。
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