第2話 4月10日

 朝、父が車に乗る音で私は目を覚ますと、肌寒さを感じた。夜の間に被っていた毛布を蹴飛ばしてしまったらしく、足下でくしゃくしゃの塊になっている毛布を足や手を使って広げ、再びその温もりに浸る。


 私はそれほど朝に弱いというわけではないが、やはり朝起きてすぐはのんびりと過ごしたい。起きようと思えば起きられるし、二度寝しようと思えばそう時間をかけずとも寝られる。何の予定もない休日だったならば迷わず二度寝を選ぶが、残念ながら今日は月曜日。学校に行かなければならない。


 少しして枕元に置いてあるデジタル時計の明かりをつけて時間を確認すると、いつもより長めに眠ってしまっていたことに気付き、まだ重たい身体を足で軽く勢いをつけて起き上がらせる。


 恋しい毛布から抜けだして、腕を天井に向けて伸ばし、息を止めてぐぅっと伸びをする。ふぅ、と息を吐き出しながら上半身を脱力させると、溜まっていた疲れも吐き出されたかのように身体が軽くなった。


 薄暗がりの中、カラーボックスの上に置いてあるはずの眼鏡を手探りで探し、レンズを触ってしまったことを軽く後悔しながら眼鏡をかけて、カーテンを開けて部屋に光を入れる。


 その時、コンコン、と気持ちの良いノックの音が部屋に響いた。


「はーい」

「起きてるかー?」


 どうやら少しのんびり眠っていたせいで、母が心配してきてくれたらしい。


「うん。今起きたとこ」


 少し声を張って答えた後、そっと扉を手前に開く。


「おはよう」

「はい、おはよう。ココアでいいか?」

「うん。どうもー」


 いつものように挨拶を交わした後、母は階段を下りて行き、私は隣の部屋でまだ眠っているであろう妹を起こしに向かう。


 コンコン、と先ほど自分の部屋で鳴ったものと同じように扉をノックする。


 やはりまだ眠っているのか、返事はない。


 もう一度、今度は少しだけ強くノックをしてみるが、やはり返事はない。


「入るでー」


 念のため声をかけてから扉を開ける。


 私と違って寝相の良い妹は、お気に入りのぬいぐるみと一緒に毛布を被ってすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。


 時刻は六時をちょっと過ぎたあたり。


 正直なところ、寝たのが早かったとはいえ、妹が起きるにはまだ早い。小学校まではそれほど離れていないし、後一時間遅くても充分に余裕を持って支度ができるだろう。わざわざこの小さな女の子の幸せな時間を壊す必要はないのだが、それでも妹のお願いとあれば起こさないわけにはいかない。


 私は妹の頭を撫で、それからもちもちとした柔らかい頬を突いてみると、妹は呻くような声を漏らし、ゆっくりと瞼を開いた。


「おはよう。涼音」

「おあよぅ」


 そんないかにも寝惚けていますというような挨拶に思わず頬が上がるのを感じた。


 私とは五つ歳の離れた妹。生まれつき身体が弱く、寝込んでばかりいた妹。


 今ではその症状も大分改善されて、他の子と同じように元気に走ったりしているが、その頃ずっと付き添っていたせいか、今でも私に甘えているところがある。


 つい甘やかしてしまう私も悪いのかもしれないけれど、この先のことを考えると心配にもなってしまう。


 頭を撫でていた私の手を握って再び眠りに就こうとする妹を起こすために被さっていた毛布を足下に畳んで、妹の肩を優しくとんとんと叩く。


「ほら起きて。一緒に朝ごはん食べよう?」

「うんー……」


 まだ眠たそうにはしているが、妹はのそのそとベッドから足を下ろしてゆっくりと立ち上がる。


 行動や言動こそまだまだ幼い子供のようなものだが、身長はもう私に追いつきそうな勢いで伸びている。この調子でいくと私なんてあっという間に抜かされて、下手をすれば蒼依くらいまで伸びるのではないかと思う。


 このくらいで止まってくれないかな、なんて思いながら頭を撫でてもきっと止まってくれないだろう。寧ろ反発してとんでもなく伸びてしまいそうだ。


 妹がぺたぺたと可愛らしい足音を立てながらゆっくりとついてくる。私は後ろを見ながらゆっくりと階段を下りて、リビングを通って洗面所に向かう。


 妹の歯ブラシを手渡し、妹が歯を磨いている間に痛み知らずのさらさらとした髪を手櫛で梳いてあげる。


 いつの間にかまた勝手に世話を焼いていたことに気付いたが、嫌がられてもいないしこれくらいはいいかと、気にしないことにして歯磨きを済ませた。


 リビングに戻り、私が炬燵の幅が広いところに座ると、妹は元々座っていたところから移動して、隣に腰を下ろした。


「涼音はどれ食べるん?」

「これー」


 訊いたものの、妹が食べるパンは大体同じだ。そして妹は私が思っていた通りの菓子パンをさっきまでいたところから引き寄せて、勢いよく袋を開けた。


 妹は顔を洗ったことですっかり目は覚めたらしく、さっきまでのとろとろとした滑舌も何処かへ飛んで行き、動きも声も大きくなっている。


 私は残ったものの中から一番消費期限の短いものを選んで食べる。


「お姉ちゃんそれ美味しいの?」


 いつも私が持っているものを羨ましがる妹。今日はこのパンが気になったらしい。


 私はあまり食べ物にこだわりはないが、新商品や季節限定のものを見かけたら衝動買いすることが多い。このパンは新商品と書かれた赤いシールが貼ってあり、値段も安かったから買ったのだが、パン自体はちょっと生地が違うだけのクリームパンだ。


「食べる?」


 普通のクリームパンやけど、と心の中で付け加えつつ聞くと、妹はこくりと頷き、目を瞑って口を開けた。


 私はパンを半分に割り、クリームの入っているところから一口サイズに千切って妹の口に放り込む。


 妹は口を閉じて、うんうんと頷きながら笑顔で咀嚼する。私はその可愛らしい姿を黙って見守り、ごくりと飲み込んだのを確認して訊ねる。


「どう?」

「たい焼きみたい」


 たしかに、少し前に食べたたい焼きに食感も味も似ているような気がした。


「カスタードやしね」

「おいしい!」

「そう。よかった」


 空いている右手で頭を撫でてやると、ふふふ、と嬉しそうに笑って身体を寄せてくる。その姿はまるで大型犬のようで、ぶんぶんとものすごい勢いで埃を撒き散らす尻尾の幻覚が見えた。


 あまりのんびりしていると急がなくてはいけなくなるため、妹との触れあいもそこそこに、私はパンを完食し、残ったココアを飲み干した。


 少し遅れて妹も食べ終わり、ゴミを妹に任せてコップをシンクに置かれている器の水に浸けた後、私は自室に戻って制服に着替える。


 中学校の制服は灰色の上着に灰色のスカートというシンプルさを追求したようなデザインだったが、この高校の制服はなかなか可愛らしい。


爽やかな空色のカッターシャツ。深海のような紺色に白色で縁取られたブレザー。黒と白のチェック柄のスカート。公立の高校にしては随分とおしゃれな制服だ。


 この学校を選んだ理由のうち半分くらいはこの制服が着たかったからだったりする。きっと私と同じ理由でこの学校を選んだという人も少なくないだろう。


 私は姿見の前に立ち、くるくると身体を回して変なところはないか確認し、ボタンで留めるだけのリボンを整えて、昨日のうちに準備しておいた鞄を持ってリビングに下りる。


 食卓のテーブルに鞄を置き、妹と入れ替わりで洗面所に入って歯磨きや洗顔を済ませる。眼鏡を外して、まだ慣れないコンタクトを数分掛けて何とか入れると、手櫛で髪を梳き、頬を軽く叩いて気合いを入れる。


「よし」

「お姉ちゃん何してんの?」

「うわっ、びっくりした……」


 可愛げのない悲鳴をあげて振り返ると、少し開けたドアの隙間から妹が覗き込んでいた。


「何か嫌なことでもあったん?」

「ううん。大丈夫やで」


 今日の予定はたしかに嫌なことと言えば嫌なことだが、根拠のない謎の自信に満ち溢れていた。制服のおかげか、友達に会えるからか。もう今更どうこうできる問題ではないからかもしれない。


「今日テストやから、ちょっと緊張というか……してただけ」

「まだ学校始まったばっかりやのにもうテストあるん?」

「うん。実力テストってやつ。涼音も中学生になったらやることになるかもな」

「えー、嫌やなぁ……」


 そうは言っても、あまり勉強している様子も見られないのに、妹は毎回ほぼ満点を取っている。私が妹と同じくらいの頃は一番高くて八十点くらいしか取れていなかった。


 少し悔しい気持ちはあるが、それ以上に優秀な妹が誇らしかった。


 リビングに戻り、母が用意しておいてくれた水筒と弁当を鞄に入れて、忘れ物がないかを改めて確認する。


 テレビの上にかけてある時計を見ると、家を出るには丁度良い時間だった。


「じゃあ行ってくる」


 鞄を肩に提げてリビングで寛いでいた母に声をかける。


「はーい」


 返事を背中に受けて玄関に行き、壁に右手を突いて、もう片方の手でローファーに踵を入れる。


「じゃあ行ってらっしゃい」

「お姉ちゃん気を付けてね」

「うん。行ってきます。涼音も気を付けてね」

「うん!」


 笑顔で手を振る妹と母に手を振り返し、家を出た。


 家から駅までは十五分ほど広々とした道を歩けば着く。


 空気はまだ少し冷たく感じるものの、太陽の光は春の陽気と言うにはあまりに熱い。周りに家が少なく、道が広いがために日陰の少ないこの道は、夏の晴れた日になれば地獄になるだろうなと思う。


 もう日傘を差してもいいかも、なんて考えながら歩き、燦々と照りつける太陽から逃げるようにして駅に入り、既に到着して待機してくれている誰もいない車輌に乗り込んだ。


 この電車に乗るのは乗り換えまでの一駅分だけだけれど、出発までまだ時間もあるため、私は入り口のすぐ隣の席に座り、読みかけの本を鞄から取り出して読み始める。


 しかしどうやら今日の私は本を読む気分ではないらしく、暫く経って電車が動き出しても、まだ一ページも読み進められていなかった。


 流れていく景色を見て、私は元々あった場所に栞を戻して本を閉じた。


 本を読む気分ではないけれど、暇だと感じる。どうせまたあと五分ほどしたら次の駅に着くのだが、その短くも長くもない五分という時間が面倒だと思う。


 ふと、出会った頃の蒼依の姿が頭に浮かんだ。


 あの時の蒼依はイヤホンをしていた。つまり何かラジオか音楽でも聴いていたのだろう。そしてそのイヤホンが繋がっていた先は私と同じ携帯だった。


 どうやって音楽を聴いているのだろうかと、ネットで検索しようとも思ったが、使っている人が身近にいるのだから、そちらに訊いた方が手っ取り早いだろう。


 『おはよう』と送ろうとして、指が止まる。


 なんとなく、この後直接会えるのに、先に携帯を介して話すのは嫌だった。


 私は入力した文字を消して、携帯を閉じる。


 別に挨拶なんて二回してもいいのかもしれないが、こんな定められた文字でやりとりするより直接話す方が良い。文字で『おはよう』と言われても、相手がどんな声色で、どんな表情でそれを言ったのか分からない。どうしても無愛想に見えてしまう。


 蒼依は比較的淡々とした喋り方をするが、それでも表情がないわけではないし、声もロボットみたいに抑揚がないわけでもない。こちらが何か言えば、それに対して笑ったり、眉を顰めたりと、何かしらの反応を示してくれる。


 会わない日なら未だしも、今日みたいに直接会える日はやはり直接会った時の方が良い。訊きたいこともその時に訊けばいい。別に切羽詰まっているわけでもないし、今訊いたところですぐに使えるわけでもないだろう。


 私がそう結論付けたのとほぼ同時に電車が駅に到着し、私はたくさんの人が並ぶホームに降りる。


 ぞろぞろとたくさんの人が車内を埋め尽くしていくのを眺めながらホームを歩き、階段を経由して反対側のホームへ移動する。


 また五分という微妙な待ち時間の後、電車が到着し、誰も座っていないシートの窓側に座る。


 ここから学校の最寄り駅まで約三十分。いつもなら本を開いて切りの良いところまで読むのだけれど、今日は何故か読書に集中することができない。かといって他に何か暇を潰すためのものがあるかと言えばそんなものはない。


 暇潰しのためにと持ってきた筈の本を役立てることができず、私は凡そ三十分の間、寝ようとしてみたり、同じ高校生だと思しき人たちの話し声を聞きながら外の風景をただぼうっと眺めたりして過ごし、途中で大半が同じ制服を着た人たちでできている列に並んで快速から各駅停車に乗り換えて、最寄り駅に到着した。


 今日は入学式の日とは違って二三年生もいるため、ドア付近だけではなく通路もいっぱいになった。


 乗り換えてからはドアの真ん前を位置取っていた私は、扉が開くなり外に出て、人混みに巻き込まれないようさっさと歩道橋を渡って改札に向かう。


 改札を抜けて外に出るとすぐに蒼依の姿が見えた。


相変わらずイヤホンをしている蒼依に小走りで近付き、二の腕の辺りに触れて声をかける。


「蒼依、おはよう」

「おはよう」


 こちらに気付くなり蒼依はイヤホンを外して挨拶を返してくれた。


 やはり直接会って言う方が良いな、と改めて思う。


「紅音は今日何時に家出たの?」


 蒼依がそう言いながら歩き出し、私もそれに並んで歩く。


「七時くらい」

「早っ。じゃあ起きたのは六時とか?」

「うん。五時半に起きるつもりやってんけど、ちょっと寝坊したからそのくらいやな」

「そんな時間に起きられる気がしないんだけど」


 蒼依が心底嫌そうな顔をする。朝が弱いのだろうか。


「蒼依は何時に起きたん?」

「今日は七時過ぎだったかな」

「私その時もう家出てるわ」


 私が太陽に文句を言っていた頃、蒼依はまだすやすやと家で寝ていたのかと羨ましく思う。


「何でこの高校にしたの?」

「えっとな、先生にここ行けるでって言われて、落ちる前提で受けたら受かっちゃったからかな」

「なにその理由」

「あとは制服が可愛かったから」

「あーそれは分かる」


 ふと思い立って、信号待ちの時間を使って蒼依を正面から見てみる。


「どう? 似合う?」


 そう言って今朝私が姿見の前でやったように身体を振る蒼依は、どこか良いとこのお嬢様のようにも見えた。


「良い。めっちゃ似合ってるわ」

「ありがとう。紅音も似合ってるよね。というか……」


 蒼依はそこで言い淀み、そのまま何かを考え込むように口を閉じた。


「なに?」

「いや、ごめん。何でもない。可愛いよ」

「なんやねんその取って付けたような褒め言葉は」


 明らかに何かを誤魔化した蒼依に冗談めかしく文句を言う。それに対する蒼依からの返事はなく、少しの沈黙の後、紅音は訊こうと思っていたことを蒼依に訊ねる。


「蒼依っていっつも何聴いてんの?」

「その日によって違うんだけど、今日は吹奏楽聴いてた」

「めっちゃ好きやん」

「うん。将来は音楽家になろうと思って」

「えっ、そうなんや」

「だから高校もそれなりに上手いところに入って頑張りたかったんだよね」

「それがここの高校にした理由?」


 訊きたい話に繋げられず、今の話にあまり集中できていないが、それらしい受け答えをした。


「うん。まぁあとは近かったっていうのもあるかな」

「それでちゃんと入れてるんやからすごいよな」

「勉強はできる方だからね」

「じゃあ今日のテストも結構自信ある感じ?」

「緊張はしてないかな。紅音は?」

「なるようになるやろ、とは思ってる」

「入試とそんなに変わらないだろうしね」


 蒼依は本当に余裕がありそうに見える。その一方で私は少し緊張していた。


 復習するにしても範囲が広すぎて苦手な部分を少し見直す程度しかしていない。私が自分で言ったようになるようにしかならないとは思いつつも、やはりテストと聞くと少し不安を感じずにはいられない。


 気付けば高校の門が見えてきて、訊きたかったことを訊くタイミングを逃したまま教室まで辿り着いてしまった。


「彩綾、おはよ」

「あぁ、おはよう。蒼依もおはよう」

「おはよう」


 ご丁寧に二人それぞれに挨拶をした彩綾は、元々話していた後ろの席に向き直る。


 彩綾と話している彼女は何という名前だっただろうか。運動ができそうな彩綾とは反対に、図書室が似合いそうな少女。大人しそうに見えるがくすくすと笑うその姿はなかなか可愛らしい。


わざわざ話しかけようとは思わないが、ちゃんと自己紹介を聞いていればよかったと少し後悔する。


 そんなことを考えているうちにチャイムが鳴り、担任の先生が来てホームルームが始まる。


 この後のテストについての軽い説明を受け、用紙が配られていく。


 今回のテストはそんなに堅苦しいものではない。たしかに自分がどれだけの実力があるのかを調べるものではあるが、成績に大きく関わるようなものではないため、あまり気負う必要はない。


 チャイムが鳴り、先生の合図でテストが開始された。




 何か反省することがあるとすれば、途中で集中が切れてしまったことだろう。


 ある時から周りの鉛筆の音が気になってしまい、問題文が頭に入ってこなくなってしまった。それでただでさえ遅い私の問題を解くスピードが更に落ちてしまい、見直しをする時間がなくなってしまった。


「どうしたの?」


 落ち込んでいると、蒼依が声をかけてくれる。


「いや、ちょっとやらかしたから」

「まぁ、本番じゃないからいいんじゃない?」

「いやでも本番じゃないからこそここでできてなかったら本番もできひんってことやん?」

「うーん……まぁ、そうとも取れるかも」

「やろ? 最悪や……」


 この世の終わりとまではいかないものの、ショックは大きく、つい大きな溜め息を吐いてしまう。


「ねぇ、それは置いといてさ。部活体験一緒に行かない?」

「あれって行かんとあかんのやっけ?」

「もしかして帰るつもりだったの?」

「うん。もちろん」


 力強く頷くと、えー、と不満たっぷりな声が返ってくる。


「吹奏楽部でコンサートあるらしいし、それだけでも一緒に行かない?」

「なんでそんなに私を連れて行きたいん?」

「だって、せっかくこんな身近に吹奏楽仲間がいるんだから、一緒に楽しみたいじゃん」


 それは分からなくもない。私だって自分の好きなものを蒼依が好きだと知ったら共有したくなる。


 我ながら自分に意思の弱さが面倒に思えてくる。


「じゃあ今日だけやからな」


 そう言うと、蒼依の目が見開かれて、口角が上がっていく。


「よし。行こう」


 謎の活力に満ちる蒼依に手を取られたところで、話を聞いていたらしい彩綾が話しかけてくる。


「二人は吹奏楽部行くん?」

「うん」


 蒼依が力強く頷いた。


「彩綾はどこ見に行くの?」

「私はバレー部。中学の時もバレー部やったからそのまま続けようかなって」

「へぇー。木下さんは?」


 今朝彩綾と話していた子は木下というらしい。どうやら蒼依は先週の自己紹介をちゃんと聞いていたようだ。


「夕夏は美術部やって」


 木下さんへの質問に彩綾が答えたことによって、運良く下の名前も知ることができた。


 やはり想像通り彩綾は運動部、木下さんは文化部と、自分の中だけで行っていた予想が当たり、心の中でガッツポーズをする。


 そんなことを考えている間に話が終わり、またねと手を振りつつ蒼依に手を引かれるままに鞄を持ってついていく。


「あれ、音楽室ちゃうの?」


 音楽室は四階にあると記憶していたのだが、蒼依は階段を下りていく。


「うん。中庭でミニコンサートやるってこの前の部活紹介の時に言ってたでしょ?」

「へぇ、そうなんや」


 正直全く聞いていなかった。興味がなかったわけではないが、そもそも今日のこのミニコンサートを聴きに来るつもりもなかったため、必要のない情報として聞き流していた。


 二階に下りて渡り廊下を通るときに中庭の方を見ると、たしかに吹奏楽部の人たちが準備を始めていた。


 恐らく正面になるであろう廊下に着き、準備風景を眺めていると、演奏には使わなさそうな大きな紙が運ばれてくるのが見えた。


「あれ何すんねやろ」

「多分書道部の人が使うんじゃない? 合同でやるって言ってたから」

「なるほどね」


 たしかこの学校は書道部も何かの賞を獲っていた記憶がある。吹奏楽部も全国大会に出場したという垂れ幕が掛かっていたし、運動部も、それこそ彩綾が入部すると言っていたバレー部も大会で好成績を残していたような気がする。


「公立でこんなに部活に力入れてんのすごいよな」

「紅音はやっぱり一緒にやってくれないの?」

「そうやなぁ」


 以前行ったこの高校の定期演奏会を思い返し、少しだけ考える。


「私はええかな。ついていけそうにないし」


 それは紛れもない私の本音だった。


「そっか」


 ちらと横目に蒼依を見ると、とても寂しそうな表情をしていて、罪悪感が大きくなる。


「演奏会とかあったら聴きに行くし、それで許して?」

「やだ」

「えぇ……」


 子どもみたいに目を背けた蒼依に困惑していると、今度はくすくすと笑って言う。


「今度買い物に付き合ってよ」

「買い物?」

「うん。それで許してあげる」

「分かった。ええよ」


 きっと部活で使うものでも買いに行くのだろう。どこに行くのかは知らないが、それくらいなら断る理由はないと、私は了承した。


 いつの間にか準備は終わったようで、何のアナウンスもなく突然演奏が始まった。


 一曲目に相応しい誰もが一度は聞いたことのある曲。しかしそのクオリティは途轍もなく高く、三年生がいないことを感じさせないものだった。


 やはり私がこんなにレベルの高いところに混ざっても足を引っ張ってしまうだけだ。最悪自分が潰れてしまう、そう思った。


 吹奏楽のオリジナル曲も交えつつ、書道部のパフォーマンスも終了し、中庭にたくさんの拍手が鳴り響く。


「よし、じゃあ帰るかー」

「えっ、練習は行かないの?」


 さすがにコンサートだけではなかったらしい。けれども私は冷やかしに行くつもりもないし、今ここで帰っても怒られるようなことはない筈だ。


「うん。あんまり遅くなると妹が寂しがるからな」


 それらしい嘘の理由を言うと、また蒼依は表情を曇らせた。


「それなら仕方ないか」

「うん。ごめんな」

「ううん。やりたくないのに無理にやってほしくないから」


 まだ蒼依と出会って一週間も経っていないけれど、彼女がとても優しいということは分かる。


 私はそんな彼女の優しさに甘えることにした。


「もうこの後すぐに音楽室の方行くん?」


 何となく携帯を開いて時間を見るが、集合時間なんて知らないことに気付いて、カバーについている磁石を親指で弄ぶ。


「そうなるかな」


 蒼依が中庭で撤収作業をしている先輩たちを見ながら言った。


 少しの沈黙の後、蒼依が何とも失礼なことを言う。


「一人で帰れる? 迷わない?」

「は? 私は別に方向音痴でも何でもないから大丈夫やけど」

「本当に?」

「私がいつ迷ってん」


 言った瞬間、気付いた。


「先週の木曜日──」

「あれはちゃうから! いや、うん。違わんけど違う。大丈夫」

「え、本当に送った方が良い?」

「いやほんまに大丈夫やから! 早よ行ってきぃや!」


 彼女の肩を掴んで方向転換させて、ぐいぐいと背中を両手で押すと、蒼依は笑いながら一歩ずつ進んでいく。


 本気で心配しているのか、からかっているのか分からないが、今は早く立ち去ってほしい。


「ちょっと押さないでよ。音楽室こっちじゃないし」

「知らん。こっちの階段からでも行けるやろ」


 顔が熱い気がして、それを隠すように押す力を強める。


 仕方ないと言うように苦笑する蒼依を階段まで押しやって、階段を上っていく蒼依を見送る。


「じゃあまた明日ね」

「はーい」


 そう言って手を振り返し、蒼依は上階へ消えていった。


 ふぅ、と一息吐いてから私は玄関に向けて歩き始める。


 既に吹奏楽部以外の部活の体験も始まっているようで、運動部らしいかけ声が微かに聞こえてくる。


 この時間に帰る人は少ない。そう思っていたのだが、靴箱に着くと、一人の男子と目が合った。


「伊東さんやっけ?」


 更に話しかけられてしまった。


「うん」


 別に男性が苦手というわけでは全くないのだが、何となく嫌な予感がしたのだ。


「今帰るとこ?」

「うん」


 彼の名前は何なのだろうか。それとなく靴箱を見てみても、名前らしきものは見当たらない。そして、嫌な予感が大きくなり、的中する。


「良かったら一緒に帰らん?」


 嫌ではない。しかし嫌ではないが故に断る理由もない。


「うん。ええよ」


 この場面で断れる人はどうやって断るのだろう。蒼依よりも背が高いな。


 現実逃避するようにそんなことを考えながらローファーを履いて、上履きを自分の靴箱に入れる。


 そして彼の元へ行こうとしたのだが、彼の姿が見当たらなかった。


「なんでやねーん……」


 べたな関西弁のつっこみを虚空に入れて、念のため彼の姿を探しながら門に向かっていると、彼は後ろから片足だけペダルに乗せ、ヘルメットを被った状態で登場した。


「ごめんごめん。自転車取りに行っててん」

「あ、そうなんや」


 なら尚更何故私を誘ったのか。疑問が倍になり、堪らず訊ねる。


「自転車なんやったら先に帰ったらよかったのに、なんで声かけたん?」


 我ながらあまりに正直に言ったなと思った。


 怒っているように思われるかもしれないと不安になったが、彼はあははと小さく笑った。


「何か目が合ったから、つい」

「そんな勢いだけで話しかけたん?」

「まぁええやん。一人で帰っても暇やろ?」

「暇やけども」


 学校出て下り坂をのんびりと下っていく。


 彼を見ると、勝手にスピードを上げようとする自転車を抑えて、時偶ペダルに臑を攻撃されていた。


「やっぱり乗って帰ったら?」

「いや、せっかく声かけたのになんもせずに帰るのは勿体ないやん」


 そう言って左に曲がろうとする彼を、私は立ち止まって反対方向を指差した。


「でも私こっちやし」

「あ、まじか」

「うん。じゃあ、また明日?」

「そうやな……残念やけど、結局また明日会えるしな」


 ということはクラスメイトなのだろうか。


「そうね」


 当てずっぽうに答える。


「じゃあまた」

「うん。またな」


 こちらを見ながら自転車に跨がる彼に手を振り、背中を見送る。


「あれが陽キャってやつか」


 ネットで見た知識から彼にぴったりだと思われる言葉を当てはめてみる。


 いかにも運動部にいそうなタイプに見えたが、今帰るということは帰宅部になる予定なのだろう。彼は自転車で通っているから家も近い筈。なら彼はきっとアルバイトをするのだろう。


「アルバイトか……」


 部活にこのまま入らないとして、家に帰るのはどう頑張っても四時を過ぎる。


 妹や夕飯のことを考えると六時くらいには帰りたいのだが、二時間だけ働けるアルバイトがあるとは思えない。


「分からん。これも蒼依に聞くか」


 蒼依と話すこと、という脳内のメモ欄に一つ追加する。毎日一緒に登校するのに話題が尽きたら地獄が始まってしまう。話題はたくさんあるに越したことはない。


 ふと、蒼依の寂しそうな顔が浮かび、約束を思い出す。


 今度、というのがいつかはまだ分からないが、高校生になって初めてできた友人と早速出掛ける約束をした。


 中学生の頃の自分からは考えられないくらいの幸運に思える。


 着ていく服は何にしようか。化粧はどうしよう。蒼依はどんな服を着てくるのだろう。


 そんなことを考える私の足取りは今朝よりずっと軽くなっていた。

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