出来損ないの私
深月みずき
第1話 4月6日
プシュゥ……と音を立てて鉄扉が開き、自分と同じ服を着た人たちが外に流れ出ていく。
私はその流れに乗って外に出ると、その波の流れを止めてしまわないように足を動かしながら、左手でブレザーのポケットから先日作ったばかりのカードを取り出す。
ちゃんとカードが思った場所に入っていたことに安心しつつ、落とさないようにしっかりと握って階段を上り、誰が決めたわけでもない列に並んで改札を抜ける。
私には待ち合わせをしている人がいない。家から電車に乗って一時間とちょっと。偏差値もそこそこ高く、グループの中でも成績の良い方だった私も少し無理をして受けた高校だ。中学で仲の良かった友人たちは皆別のところに行ってしまった。みんな長時間かけて学校に行きたくはないらしかった。
少し心細く思いながらも、学校に向かってまだ見慣れない道を歩く。
今年の春はとても暖かい。卒業式の頃に咲き始めていた桜は春休みの間に満開になり、今ではそのほとんどが葉桜へと変わっていっている。
寺院への道を示す看板の矢印の方向に交差点を曲がり、住宅街を歩いていると、少し先を歩いている人から先ほど自分も使っていたものと同じ色のカードが落ちた。
どうやら携帯か何かを見ているらしく、落とし主の女性は気が付いていないように見える。通りがけにそれを拾い、少し歩く速度をあげて女性を追いかける。
しかし私よりも背の高いその女性は歩くのが速く、仕方なく小走りになって女性の横に並び、肩を指でとんとんと叩く。そして女性がこちらに気付き、イヤホンを外したのを見て、私はカードを女性に差し出した。
「これ、落としましたよ」
それを聞いた女性は「えっ」と声を上げると、立ち止まってブレザーのポケットや鞄を探り始める。やがて私の手にあるカードが自分のものだと察したようで、カードを受け取り、心の底から安心したような笑みを浮かべる。
「ありがとう。本当に助かった」
「いえいえ」
すごく綺麗な人だな、なんて思いながらそう返して、再び歩き出そうとすると、女性に呼び止められる。
「ねぇ、せっかくだから一緒に行かない?」
「え?」
「あなたも新入生でしょ?」
言われて気付く。今日は入学式。つまりこの時間に制服を着て登校している彼女も紅音と同じ新入生ということだ。
断る理由はない。どうしても一人で行きたいわけではないし、むしろ話すことで気を紛らわせることができそうだった。
「じゃあ……ええと、行こっか」
「うん」
私が歩き出すと、彼女も横に並んで同じ速度で歩いてくれる。
横目に彼女の方を見ると、丁度肩の辺りが見えた。私は中学の友人グループの中では一番背が高かったのだが、それでもそこらの男性よりは低い。けれども彼女はそれこそ男性の平均身長くらいは余裕でありそうだ。
そんなことを考えていると、上から女性らしくも落ち着いた低い声がかかる。
「さっきは本当にありがとう」
「あぁ、うん。気付いて良かったわ。なくなったら大変やもんな」
「本当にね。危うく二千円を失うところだった」
ふと、
「もしかして関東の人やったりする?」
「あー……うん。中学を卒業してすぐくらいに引っ越して来たんだよね」
「へぇ、そうなんや」
予想通りの答えに納得しながら、物珍しさに興味が湧いた。
「まぁ、向こうで一人暮らしするっていう案もあったけど、絶対大変だし、引っ越し先が京都って言われたらもう一択しかないでしょ」
「京都好きなん?」
「行ってみたい場所ではあったかな」
「どう? 実際に来てみて」
「まだそんなに観光できてないけど、この辺りは私がいたところとそんなに変わらないかも」
「そうなん?」
「うん。こんな大きい公園とかはなかったけど、駅前とか家とか、雰囲気は一緒」
「へぇ~。元いたとこって何処なん?」
「神奈川の左の方」
左の方と言われてもよく分からなかったが、それでも神奈川と聞いて都会を想像した私は、少し夢を壊されたような気になってしまった。
「そんなことよりさ。名前、教えてよ」
「ん?」
彼女の呼びかけで意識を現実に戻し、彼女の方へ顔を向けて少し視線を上げると、彼女と目が合ってしまい、すぐに顔を前に向けて視線を逸らす。
「たしかに、自己紹介もなんもしてなかったな」
「でしょ。私はいとうあおい。あなたは?」
彼女の名前を聞き、少し親近感を覚えた。
「いとうあかね」
「えっ、あなたも『いとう』なの?」
彼女は予想通り驚いた様子でこちらを見て言う。恐らく全く同じ名字だと思っているのだろうけれど、残念ながら私の名字は少しだけ珍しいため、あまり被ることはない。
「多分漢字が違うと思う」
「あ、もしかして東の方?」
「そ、正解」
「へぇ、そっちの『いとうさん』には初めて会ったかも」
「私も親戚以外では会ったことないわ」
「意外と同じクラスにいたりして」
「流石に分けるやろ」
「それもそうか」
彼女はつまらなさそうに言った。
クラス分けには確実に教師の都合が含まれているのだから、同じ名字の人が同じクラスになることはないだろう。けれども彼女の言う通り同じ名字の人が同じクラスにいたら、面白いことにはなりそうだとは思う。
「ねぇ、なんて呼んでほしい? 敢えてお互い『いとうさん』にする?」
「面白そうやけど
「じゃあ……『あかね』で。私のことも『あおい』って呼んで」
「はーい了解」
『あおい』はどういう字を書くのだろうと疑問に思ったが、どうせこの後クラス分けの表を見れば分かるからいいかと、開こうとした口を閉じる。
会話が途切れ、ふと自分たちが歩いている坂道の先を見ると、見知らぬ緑豊かな道が続いていた。立ち止まって周りを見るが、自分たちの他に制服を着ている人が見当たらなかった。
「あれ、この道で合ってる?」
「私が前来た時はさっきのお寺のところ右に曲がったけど」
彼女は後ろの方を指差してそう言った。
「いや気付いてたんなら言うてよ!」
「こっちからでも行けるのかなぁって」
寺院の名前が書かれた案内板のところで横断歩道を渡り、前方に制服を着た人がいるのを見てその道を進む。しばらく住宅街の車通りの多い道を通り、目印として覚えていた保育園のある交差点を曲がって坂道を上る。
話すことも思い付かず歩くこと五分。これから通うことになる高校に辿り着いた。
「とうちゃーく」
「お疲れ、あかね」
「あおいもお疲れ様」
さりげなく名前で呼んできた『あおい』に対抗するように名前で呼び、彼女を
校門で新入生を歓迎している教師に挨拶を返しつつ、生徒が集まっているエントランスに向かう。
思っていたよりは人と人との間に隙間があり、壁一杯に広げられている紙の上の方は難なく見ることができる。見えなければ『あおい』に頼んで見てもらおうかとも思っていたのだが、その必要はなさそうだ。
「どこ……って思ったけどあったわ」
「あぁ、本当だ」
私たち二人の名字は変な並べ方をされていない限りは上にある。掲示されている紙の上の方さえ見れば自分の名前は必ず見える。そのため、表の左上から探したにも拘わらず、ほんの数秒で『伊藤蒼依』と『伊東紅音』という二つの名前が並んでいるのを見つけられた。
「というか同じクラスだね」
「こんなこともあるのね」
そう言いながら既に用意されている靴箱に靴を入れて上履きに履き替える。親切な案内表示に従って自分たちの教室がある二棟三階へ上がり、扉の窓に七組という張り紙がされている教室に入る。
あまり早い時間に来たつもりはなかったが、まだ教室には数人しかいないようだった。
二人は集まる視線を気にすることなく教卓の上に置かれている座席表を見る。
「男女混合っぽいね」
「あぁほんまや」
自分の座る席の列を見ると、明らかに男性の名前が書かれていた。別段珍しいことでもないが、そのおかげで窓際最前列という黒板の見にくい席が回避できたようだ。
「『あかね』ってこんな字書くんだ」
「うん。口紅の『紅』に『おと』」
「うん。覚えた」
「日記でも書くん?」
「は? なんで?」
「ちゃうならええわ」
「えぇ……?」
困惑する蒼依を置いて、私は先に自分の席に鞄を置いて座る。それに続いて蒼依も、明らかに何も入っていなさそうな音を立てて鞄を机に置き、窓に背を向けて席に座った。
改めて蒼依の横顔を見て、やはり美人だと思う。
あごの辺りまで伸びる癖毛も、長い
「ねぇ、あんまり見られると恥ずかしいんだけど」
「いや、美人やなぁって思って」
私は蒼依の睨むような視線を意に介することなく素直に思っていたことを口にする。
「いきなり何?」
それは私の言ったことを信じていないというより、その言葉の通り何の脈絡もなく褒められたことに対して、純粋に疑問に思っているようだった。
「顔良しスタイル良し声良し……。あとは性格も良ければ完璧やな」
「もしかして喧嘩売ってきてる?」
蒼依は更に眉間に皺を寄せる。
「そんなわけないやん。素直に褒めてるんやんか」
妙に
「そう。ありがとう」
「お世辞ちゃうからな」
「分かってる」
どうも適当に流されているような気がして、若干むきになって食ってかかる。
「それにしては反応薄くない? もしかして褒められ慣れてる?」
「まぁ、中学の時にも友達から散々言われてはいたかな」
「へぇ、ええなぁ」
「紅音だって可愛いよ」
「そう?」
「うん。可愛い可愛い」
「その褒め方は腹立つ」
そうは言いつつ、それほど悪い気はしていなかった。
中学の始めの頃は見た目にそれほど気を遣っておらず、典型的な地味な女として過ごしていたのだが、友達と出かけた時、周りの子を見てどれだけ自分が可愛くないかを思い知った。
体型も太ってはいないものの、決して細いとは言えず、着替えを友達にも見られたくないと思う程度には恥ずかしいと思うようになり、それからダイエットをしたり、恋人ができたという友人に服や化粧を教えてもらったりと、受験勉強の合間に努力して今のようになった。
それをどんな形であれ褒められて嬉しくない筈がない。
「あ、照れてる」
からかうように微笑んで言う蒼依から顔を背けて、頬が上がってしまいそうになるのを、唇をきゅっと締めてどうにか抑える。
教室はいつの間にかそれなりに人が揃っていて、席が近い者は既に私たちのように楽しげに話している。やはり入学式というイベントということもあってか、皆気分が良いようで、ほとんどの人が初対面であろうに、長年の友人のように見えた。
まるで他人事のように教室内を眺めていると、隣の席に鞄が置かれ、その持ち主と目が合った。
「おはよう」
「あぁ、おはよう」
蒼依とは少し系統の違うタイプの美人だった。女子校だったら王子様として崇め奉られていても不思議ではないような、そんなタイプ。
「また美人さんが来たわ」
「あ、紅音がまた口説いてる」
「口説いてへんわ」
「なに? 二人は元から知り合いやったりする?」
「ううん。完全初対面」
眉を下げてくすくすと笑う彼女に、蒼依が柔らかい笑みを浮かべて返した。
「私は
彼女は席に座り、胸に手を当てて自己紹介をした。
「うん。私が紅音で、こっちが蒼依」
私は返事をしつつ、身体を彩綾の方に向けて蒼依を指差した。
「あかねに、あおいね。なんか名前まで似てるんやな」
「まぁ、色つながりではあるかも」
「それやったら私も『彩る』って漢字使うし仲間やで」
「それはちょっと強引すぎひん?」
「ええやん、仲間に入れてよ」
それから少しの間三人で話していると、チャイムが鳴って担任になるであろう教師が教室に入ってくる。
簡単な出席確認が終わり、先生の自己紹介を聞いた後、入学式についての説明を受ける。
七組が入場するまでにはそれなりに時間がかかるらしく、それまでの時間に持ってきていた書類を提出する。その後廊下に名簿順に並んで体育館に向かう。
私は目の前を歩く蒼依を見て、やっぱり背が高いなと羨ましがりながらついていく。
蒼依を見るとその姿勢の良さを見習おうと意識できるから、定期的に蒼依を見るのは良いかもしれない。
吹奏楽の演奏を聴きながら、中学校の体育館が二つ横並びで入るのではないかと思うくらいには大きな体育館に入場し、退屈な入学式が始まった。
長ったらしい学校長の挨拶に、来賓紹介や祝辞、在校生と新入生それぞれの代表の話などを聞き流す。
幸いにも眠気が襲ってくることはなく、何事もなく式を終えて教室に戻ってくる。
チャイムが鳴り、担任の先生の歓迎の言葉らしきものを聞き流していると、恒例の自己紹介が始まり、緊張するような暇もなく蒼依が当たり障りのない平凡な自己紹介をした。
私もそれに続いて何の面白みもない自己紹介をする。
関西人だからといってテレビに出ているようなボケ倒すような人間も、底抜けに明るい人間もいない。
隣の席の彩綾も他の人と同じように平凡な自己紹介をして、拍手が定期的に響く虚無のような時間が過ぎていった。
少しして保護者の人たちが教室に入ってきて、聞く意味のなさそうな話は聞き流し、この後の予定だけはちゃんと頭に入れる。
そうして短いようで長いホームルームが終わる。
「やっと終わった……」
「お疲れ」
ぐぅっと伸びをして息を吐くと、蒼依から労いの言葉をかけられる。横に顔を向けると、彩綾は既に母親らしき人と話をしていた。
「紅音のとこの親は来てるの?」
「ううん。蒼依は?」
「来てるよ。あ、ほら」
そう言った蒼依の視線の先を見ると、綺麗な人がこちらに向けて小さく手を振っていた。
やはり蒼依の美人さは遺伝らしい。
「行ってきたら?」
「うん。紅音も行こうよ?」
「いやなんで?」
「いいじゃん。恩人として挨拶くらいしてってよ」
まあそれくらい断ることもないかと、手を差し出してくる蒼依の手を取って重い腰をあげる。
前の扉から廊下に出て蒼依の母親と合流する。
「お母さん、こっちの子は紅音」
「蒼依も、紅音ちゃんも、入学おめでとう」
「ありがとうございます」
こんな状況は初めてでどうしていいか分からないが、とりあえず笑顔でお礼を言っておく。
「紅音ちゃん」
「はい」
「この子はちょっとリアクションが薄いけど、結構強引なところがあるから、嫌なことされたらちゃんと嫌だって言ってくれていいからね」
「それはもう任せてください。どついてでも止めてやりますから」
そう言ってガッツポーズをするように拳を胸の前で握ってみせる。
「うんうん。遠慮なくやっちゃって」
「やらないからやめて」
予想外に愉快な人だったらしく、蒼依のお母さんが乗ってきてしまい、蒼依に睨まれる。
それから蒼依のお母さんは蒼依といくつか言葉を交わし、こちらを気に掛けるようなことも言いつつ帰っていった。
「紅音を呼ぶんじゃなかった……」
「ええやん。面白かったし」
「今度紅音のお母さんにも会わせてね」
「うちは遠いから……気が向いたらね」
蒼依がどこに住んでいるのかは分からないが、片道一時間の距離をわざわざ来てもらおうという気にはならない。
「そんなことより教科書買いに行かな」
「すごい混んでそう」
「日にち分けてくれたらええのに」
そう文句を言いながら階段を下りて、予想通りできている長蛇の列に並ぶ。
「蒼依って選択授業なににした?」
暇潰しに訊ねると、蒼依が持っていた紙をこちらに見えるようにひっくり返す。見ると、自分と同じ音楽の教科書に印がされていた。
「そういえば自己紹介の時に吹奏楽やるって言ってたっけ」
「うん。美術とかに興味がないっていうのもあるけどね。紅音は部活どうするの?」
「今のところ入る予定はないかなぁ。多分勉強についていくので精一杯やし」
「中学の時は部活入ってなかったの?」
「ううん。私も吹奏楽部入ってたで。強制やったしな」
「そうなんだ。何の楽器やってたの?」
「トロンボーンやってた」
「え、腕届く?」
「そんな腕短くないわ! でも一年の頃は落としそうで怖かったから紐付けてたな」
「やっぱりあれ怖いよね」
「うん。トロンボーンの人がやる事故第二位よ。友達も一回指滑らせて落として泣いとったし」
授業で使うリコーダーよりも遥かに高いだろうと分かる金色の大きな楽器。当然その友人も丁寧に扱っていたが、曲の練習中、腕を目一杯伸ばさなければ届かないところまで伸ばした際に勢い余って指から滑り落ち、そのまま地面に衝突して凹ませてしまった。
呆然とする私と絶望したかのように涙を滲ませる友人。それをどうにか和ませようとする先輩たち。
今思い返せば笑って話せることだが、その当時は恐怖心でいっぱいになっていたことを思い出す。
「ちなみに一位はなんなの?」
「スライドで譜面台とか人とか、前方の障害物にぶつける」
「あー、やりそう」
「蒼依は何の楽器やってるん?」
「トランペット」
「あー……ぽい。似合うわ」
「でしょ? 小学校の時からやってたからそこそこ上手いよ」
「じゃあここの吹奏楽部でも大丈夫やな」
「別にここそんな経験者じゃないと駄目ってことはないでしょ」
「そうやけど。ついていくの大変やん」
「まぁ全国とか行ってるところだからね」
「あとマーチングもあるし」
「ねぇ、もしかしてそれが理由だったりする?」
「何が?」
「吹奏楽部に入らないのって」
「七割くらいは」
「ほとんどじゃん」
「だって中学でいっぱい頑張ったし、もうええかなって」
「えー、やろうよ」
「気が向いたらね」
「またそれ?」
その後も蒼依からの誘いを断りつつ列が進み、無事に教科書を購入することができた。
途中で蒼依の教科書を入れていた紙袋が破れて教科書を床に
校舎から出て、暑い日差しから少しでも逃れようと日陰を求めながら歩く。
学校からしばらくは住宅街が続くため、この時間帯は日陰がほとんどない。風が吹けば涼しいと感じるのが唯一の救いだ。
「蒼依って電車はどっち方面?」
「私は京都方面だよ」
「じゃあ反対側か」
少しだけがっかりしつつ、横断歩道を足早に渡る。
「そうなんだ。紅音の家遠いって言ってたけど、どの辺なの?」
「奈良のちょっと手前くらい」
「え、それってどれくらいかかるの?」
「歩きも含めて片道一時間半くらい」
「じゃあ今日は七時に家出たってこと?」
「うん。そのくらいやな」
「何でこんな遠くの学校にしたの?」
「なんなん? めっちゃ質問してくるやん」
「え、そう?」
「うん、そう。蒼依から来る言葉ぜーんぶ疑問系」
「え、そう?」
「さては確信犯やな!?」
「バレたか」
腹癒せとして軽く横っ腹を小突くと、半笑いの謝罪が返ってくる。
今日初めて出会った相手に対してこんなことをしていることに、ふと我に返ったかのように気付いて笑う。その様子を蒼依は不思議に思いながらも一緒に笑っていた。
少し経って落ち着いてきたところで、蒼依が真面目なトーンで話しだす。
「楽しそうな紅音に一つ残念なお知らせ」
「ん?」
「私たちは駅に着いたら定期券を買うためにまた列に並ばないといけない」
「やめろよ、テンション下がるやん」
この日今までで一番何が疲れたかと言われれば、間違いなくあの教科書販売の列に並んでいる時だ。長々とした話を座って聞くことのできる入学式よりも、数十秒に一歩ずつ進むだけのあの時間の方が、圧倒的に疲労感が強かった。
再びあのような時間を過ごすのは耐え難い。
「今から急いだら少なかったりしない?」
「分かんない」
「じゃあ蒼依のペースで歩いて。それについていくし」
「おっけー」
蒼依は答えるのと同時に歩く速度を速めた。
今朝上ってきた緑豊かな道を蒼依は平然と歩き、私は小走り気味に足を動かす。
さすがにこれを駅まで続けるのはしんどいと、堪らず蒼依に訊ねる。
「いっつもこんな速度で歩いてんの?」
「ううん」
「はぁ?」
「いつもはこれくらい」
蒼依はそう言って少し速度を落とすと、早歩き程度でついていけるようになった。
「ごめんね。なんか可愛くて」
「性格バツやな」
容姿と声に丸をつけて、空欄にしていた性格のところに大きくバツ印をつけた。
「えぇ、ごめんって」
「良い人やと思ってたのになー」
不満そうな声をあげる蒼依を責めるように拗ねてみせる。単調な声で、明らかに心がこもっていないので、誰が聞いても冗談だと分かる。
「お詫びに連絡先教えるからさ」
「それ何の対価にもなってへんくない?」
「交換してくれないの?」
「するけども」
私はブレザーの内ポケットから携帯を取りだし、蒼依の差し出した携帯画面に表示されているコードを読み取ると、画面に何かしらのキャラクターのアイコンと、『アオイ』とカタカナで書かれたアカウントが表示される。
「これで合ってる?」
「それじゃなかったら怖いでしょ」
「それはそう」
知らないのだから仕方がない。
実のところ私が自分の携帯を持ったのは中学を卒業してからのことで、連絡先はそれこそ両親のメールアドレスと電話番号しか入っていなかった。そのためアプリはただの背景と化しており、連絡先を交換するというのは初めてだった。
それを蒼依に伝えると、「もしかして友達いないの?」なんていう失礼なことを言われたので、さっきよりも強めに小突いた。
じゃれついている間にもう駅前に到着し、案の定できている列に渋々並ぶ。
「あっつい。汗搔いてきた」
「それだけ髪伸ばしてると暑そう」
蒼依はショートヘアのため首が出ているが、私は背中まで伸ばしているため、首の後ろは全部隠れている。
「短いのってやっぱり涼しい?」
「まぁ開放感はあるよ」
「夏に向けて切るのもありやなぁ……」
「勿体ないからそのまま伸ばしなよ」
「こっちの方が好き?」
「短いの想像つかないから分からない」
「それはそうね」
私自身髪が短かった時期はほとんど思い出せない。それこそ生まれたての時と小学校の時くらいしかないだろうなと思う。
最近で一番短かったのは中学に入りたての頃だろうか。
「ばっさりやってみたい気もするけどね」
「そこまで伸ばすのってどれくらいかかるの?」
「短くした記憶ないから分かんない」
「そうなの?」
「でも肩から今くらいになんのは二年くらいかかってるんちゃう?」
「へぇー、そうなんだ」
「蒼依は逆に伸ばしたことない感じ?」
「うん。肩より下に伸ばしたことないんじゃないかな」
「そうなんや。似合いそうやのに」
蒼依を見て、ロングヘアを想像してみると、悪くはないように思えるが、蒼依には何でも似合うんじゃないかとも思う。
「まぁ、手入れするのめんどくさいから」
「たしかに」
「乾かすだけでも時間かかるでしょ?」
「うん」
「やっぱりめんどくさいからいいかな」
「私もめんどいから切ろうかな」
「駄目」
「何で蒼依が決めんねん」
「いいじゃん。そのまま腰まで伸ばそう」
「実はそれは校則に引っ掛かります」
「え、そうなの?」
「うん。たしか長すぎるのはあかんかったと思う」
「えぇ……? 染めるのはいいのに?」
「そう。謎よな」
そんなことを話しているうちに列が進み、私の番が回ってくる。
今日の朝に予め記入しておいた紙と証明書を提出してお金を払うと、ほんの数秒で出来上がったカードを手渡される。
続いて蒼依も無事に購入し、改札を通る。
「もうすぐ来るっぽいな」
「ねぇ、明日どうする?」
「どうって?」
「一緒に行く?」
「あー……そうね。じゃあ八時くらいに着くやつ乗るわ」
「分かった。じゃあまたね」
「うん。またね」
遠慮がちに手を振り、私は右側のホームに向かう。
もう少し話していたかったような気もするが、まだ一日目。これから毎日のように会って話すことになるのだから、別に今日じゃなくたって良い。
もしかしたらこの後事故に遭ってさっきのが最後の会話に……なんてこともあるかもしれないが、そんなことはそうあることではない。
もしなにかあれば連絡先も交換したのだから、携帯で伝えれば良い。これがあれば好きな時に好きなことを伝えられる。
階段を下りてすぐに反対側のホームを見ると、丁度蒼依も下りてきたところのようで、目が合った。
小さく手を振ると、向こうも同じように手を振った。
偶然出会っただけの彼女と初日でここまで仲良くなれたのは運が良い。不安だらけだった朝とは違い、今はもう既に明日が楽しみに感じてしまっている。
この先また中学校の頃のように憂鬱な気持ちで登校することになるかもしれないし、そうはならないかもしれない。
この先のことなんて何が起こるか分からないけれど、少なくとも明日は楽しく過ごせそうな気がした。
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