喰らうものと刻むもの
葉霜雁景
絶好
「貴方は愚かな人間なのですねぇ」
目に見えたまま言った、おそらく侮辱に分類されるだろう言葉。
髪も目も藍色という、人間としては珍しい部類の男。目を引く外見と言われればそうなのだけれど、それ以外にも何か、惹きつけるものを内包しているような人間。
「ああ、ずいぶん馬鹿になってしまった。お前があんまりにも美しかったのでな」
この後に及んでも正気を失わない、不思議な人間だとも思ったけれど、狂っていたのかもしれない。人間の中には、窮地に立たされると狂う者もいるのだと、
「お前には、人の側に留まって欲しかったが。もう後戻りの希望すら見込めないな。
「後戻り……? はて。俺は最初からこうですが」
「ほう。最初からそうだと言うのなら、どうして一部の人間に執着しているのだろうな?」
そう言われると確かに。自分でも不思議に思っていた。何故かどうしても持ち帰りたくなる人間が現れることは。この藍色をした人間もその一人だったけれど、今まで獲ってきた人間よりもずっと欲しくてならなかった。
「まあ、それはそれで気分が良い。あの鬼が記憶を消そうとも、お前の中に残っていたということだからな。お前が己を見る日は来ないと思っていたが、見込みがあったと分かっただけでも充分だ」
「……? 不思議なことばかりおっしゃいますねぇ。ちゃんと見ているではないですかぁ」
「こちらの話だ。お前は知らなくて良いことだよ、こんなもの。妨げになるだけだ。己は自由なお前を、お前が自由であることを望んでいるのだから」
「俺にそのようなことを望む人間がいたのですねぇ。では、俺が自由であるのなら、貴方は俺に喰われてもよろしいので?」
荒唐無稽、おそらくこの人間を評するにふさわしい言葉だと思う。けれどやっぱり、人間は笑っている。捕まって、身動き一つ取れないのに。
「己は既に、お前に多くを奪われているし、くれてやったよ。照らすべきお前が失われ、こうして敗北した以上、何をされても構わない。……ああ、だが。お前、喰うまでするのは己が初めてと言ったな」
「はい。不思議と貴方は喰いたくなりました。肉を喰らって、血を
迷っていたけれど、何だかそれは違う気がしてきた。今まで獲ってきた首は、何だか手元に置いておきたかったから、
「いま決めましたぁ。貴方はすべて腹に収めます」
これは俺の■だから。
……はて、なんだろう。よく分からない。分からないけど、何かの欠片が落ちている、気がする。
「ずいぶん熱烈なことを言ってくれる」
「へえぇ、これがそう聞こえるのですか。貴方やっぱり狂っておられるのですねぇ」
「ああ、狂っているとも。己から正気を奪い、消えない痕跡を刻んだお前が、すべて忘れているのは少し腹立たしいがな」
「あれ、俺のせいだったのですか? それはすみません」
——俺がいなければ、貴方はもっと長く輝けただろうに。
前触れなく、誰かの声がよぎった。俺とよく似た声、だと思う。
——貴方に会えて嬉しかった。貴方に応えられなくて苦しくなった。
またよぎって、体内に染み渡っていく。誰なのか分からないけれど、言葉の意味がよく分からないけれど、思っていることが同じなのは考えずとも分かる。
これを他の誰かに渡す気は無い。渡ろうものなら奪い返す。決してどこにも行かないよう、俺の中に縛り付ける。
「……あは、妙ですねぇ」
心臓が埋まる真上、骨に守られて硬い場所に頭を埋める。何だかとても堪らない。何が溢れ出しそうなのかは分からないけれど、そうしていないと堰が切れる予感がした。
「貴方には、何も知られたくない気分になる。なのに、俺以外の誰の手元にも行かせたくない」
血潮の脈動と、ほのかな香りが感じ取れる。それが美味しいと確信できることも奇妙だった。今まで獲ってきた首の持ち主たちには、そんなこと思わなかったのに。
「いい気味だな」
嘲笑う声がした。穏やかな声がした。
「己が付けた傷も、己で覚えた心情も、己の味も、何一つ忘れないでいればいい。忘れられなければ最高だ。お前を愛した愚者の存在を、魂の核にまで刻み込んでおけ」
呪いを吐く声がした。良しと許す声がした。
それらを発した喉に牙を立てれば、あっさりと血が吹き出した。
俺の舌は、酒以外の味を知らない。だというのに、肉が、血が、臓物が、何もかもが美味しかった。美味しいと知覚する悦びを知って、これがたったの一度きりであることが、胸を握り潰し締め上げてくる。
温もりと鉄の匂いが飛散して、温もりはすぐ弱まってしまうけれど、鉄の匂いは鼻腔を塗り固めていく。口内が弾けて踊る肉たちの舞台になる。突き立てれば突き立てるほど、引き裂けば引き裂くほど、漁れば漁るほど、
「ふ、ぁは。あはは、あはははぁ」
装いではない笑いが込み上げる。美味しくて、嬉しくて、楽しくて。
ああ――藍と紅と
肉と臓物を喰い終わり、余韻から抜けられないまま、どれくらいの時間が経っただろう。こんなに血の匂いが溢れているのに、温かさが失われていくのがさびしい。残ったものを集めないといけないのに、ここから離れたくない。
何一つ忘れなければいいと言われた記憶があるけれど、これは駄目だ、忘れようがない。すべてを懸けて殺し合うのとはまた別の至福だった。まだ酒が残っているから味は堪能できるけど、喰い破っていく感覚は、口内と鼻腔が塗りたくられる感覚は、もう二度と味わえない。
こいしいだとか、せつないだとか、言葉があるのは知っていた。たぶん今、俺の中を占めているのはそれだ。ああ、きっと、俺は。
「――触るな」
耳元で弾けた声が、思考を妨げる。たまに聞こえる声。たまによぎる声。さっきも聞いた気がする声。良いところなのだから、邪魔しないでほしい。
「
「何ですか。未練がましくて鬱陶しいですよ。さっさと消えろ」
あは、と笑う声がした。久々に、覚えていたことも忘れかけだった感情が蠢く。不快、腹立たしい。お前、そんな風に笑ったことなんて一度もないくせに。
「
「はいはい、そうですか。自慢が済んだなら消えろ、負け犬」
「ええ、これで最後ですから。与えてもらったもの全部を壊された以上、もう留まる必要もない」
気配を伴った幻覚は、ぱっと消え去った。あれにも二度と会うことはないだろう。そんな気がする。
……ところで、俺は何をしようとしていたんだっけ。ああ、そうだ。とびきり美味しい酒を作るんだった。こんなに良い匂いがする血と骨があるのだから、無くなるのが惜しいほど旨い酒が作れるに違いない。
「えへへ、こんなにも良い気分にさせてもらえるとは思いませんでした。お礼の一つでも言えれば良かったのですが」
残念ながら、形としてあるのは骨だけ。特徴的な藍色が彩りに混ざっていた頭蓋を持ち上げて、歯の部分に口付ける。唇があった時にした気がしなくもないけれど、お礼を込めて改めて。伝わっているかは分からない。
「あはははぁ。貴方のこと、死んでも忘れないでいますねぇ」
言われた通り、刻んでおいたので。というか刻まれたので。
俺が狂わせてしまったらしい貴方、忘れようのない貴方。再会することがあったなら、今度はどうしましょうね。何をしても、貴方は俺に色んなものを与えてくれるのでしょう。今この時がそうだったように。
それでは。また逢う日まで、さようなら。そんな日があればのことですけれど、ねぇ。
喰らうものと刻むもの 葉霜雁景 @skhb-3725
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