喰らうものと刻むもの

葉霜雁景

絶好

「貴方は愚かな人間なのですねぇ」


 目に見えたまま言った、おそらく侮辱に分類されるだろう言葉。またがって見下ろした先、鉄の寝床に拘束した人間は、その言葉に笑っていた。


「ああ、ずいぶん馬鹿になってしまった。お前があんまりにも美しかったのでな」


 この後に及んでも正気を失わない人間だと思ったけれど、狂っていたのかもしれない。人間の中には、窮地に立たされると狂う者もいるのだと、雷雅らいがさんや風晶ふうしょうさんも言っていたし。


「お前には、人の側に留まって欲しかったが。もう後戻りの希望すら見込めないな。おれの声も届かなければ、服のすそすら掴めない」

「後戻り……? はて。俺は最初からこうですが」

「ほう。最初からそうだと言うのなら、どうして一部の人間に執着しているのだろうな?」


 そう言われると確かに。自分でも不思議に思っていた。何故かどうしても持ち帰りたくなる人間が現れることは。この藍色をした人間もその一人だったけれど、今まで獲ってきた人間よりもずっと欲しくてならなかった。


「まあ、それはそれで気分が良い。あの鬼が記憶を消そうとも、お前の中に残っていたということだからな。お前が己を見る日は来ないと思っていたが、見込みがあったと分かっただけでも充分だ」

「……? 不思議なことばかりおっしゃいますねぇ。ちゃんと見ているではないですかぁ」

「こちらの話だ。お前は知らなくて良いことだよ、こんなもの。妨げになるだけだ。己は自由なお前を、お前が自由であることを望んでいるのだから」

「俺にそのようなことを望む人間がいたのですねぇ。では、俺が自由であるのなら、貴方は俺に喰われてもよろしいので?」


 荒唐無稽、たぶんこの人間を評するにふさわしい言葉だと思う。けれどやっぱり、人間は笑っている。


「己は既に、お前に多くを奪われているし、くれてやったよ。照らすべきお前が失われ、こうして敗北した以上、何をされても構わない。……ああ、だが。お前、喰うまでするのは己が初めてと言ったな」

「はい。不思議と貴方は喰いたくなりました。肉を喰らって、血をすすって。残ったものはまとめて焼いて、粉にして、酒で飲み干します。あ、頭蓋を残すかどうかは、少し迷っておりますが」


 迷っていたけれど、何だかそれは違う気がしてきた。今まで獲ってきた首は、何だか手元に置いておきたかったから、髑髏しゃれこうべにして残しているけれど。残ったら、誰かに持って行かれてしまうかもしれない。それは駄目だ、だって。


「いま決めましたぁ。貴方はすべて腹に収めます」


 これは俺の■だから。


「ずいぶん熱烈なことを言ってくれる」

「へえぇ、これがそう聞こえるのですか。貴方やっぱり狂っておられるのですねぇ」

「ああ、狂っているとも。己から正気を奪い、消えない痕跡を刻んだお前が、すべて忘れているのは少し腹立たしいがな」

「あれ、俺のせいだったのですか? それはすみません」


 ——俺がいなければ、貴方はもっと長く輝けただろうに。


 前触れなく、誰かの声がよぎった。俺とよく似た声、だと思う。


 ——貴方に会えて嬉しかった。貴方に応えられなくて苦しくなった。


 またよぎって、体内に染み渡っていく。誰なのか分からないけれど、言葉の意味がよく分からないけれど、思っていることが同じなのは考えずとも分かる。

 これを他の誰かに渡す気は無い。渡ろうものなら奪い返す。決してどこにも行かないよう、俺の中に縛り付ける。


「……あは、妙ですねぇ」


 心臓が埋まる真上、骨に守られて硬い場所に頭を埋める。何だかとても堪らない。何が溢れ出しそうなのかは分からないけれど、そうしていないと堰が切れる予感がした。


「貴方には、何も知られたくない気分になる。なのに、俺以外の誰の手元にも行かせたくない」


 血潮の脈動と、ほのかな香りが感じ取れる。それが美味しいと確信できることも奇妙だった。今まで獲ってきた首の持ち主たちには、そんなこと思わなかったのに。


「いい気味だな」


 嘲笑う声がした。穏やかな声がした。


「己が付けた傷も、己で覚えた心情も、己の味も、何一つ忘れないでいればいい。忘れられなければ最高だ。お前を愛した愚者の存在を、魂の核にまで刻み込んでおけ」


 呪いを吐く声がした。良しと許す声がした。

 それらを発した喉に牙を立てれば、あっさりと血が吹き出した。


 俺の舌は、酒以外の味を知らない。だというのに、肉が、血が、臓物が、何もかもが美味しかった。美味しいと知覚する悦びを知って、これがたったの一度きりであることが、胸を握り潰し締め上げてくる。

 温もりと鉄の匂いが飛散して、温もりはすぐ弱まってしまうけれど、鉄の匂いは鼻腔を塗り固めていく。口内が弾けて踊る肉たちの舞台になる。突き立てれば突き立てるほど、引き裂けば引き裂くほど、漁れば漁るほど、啜れば啜るほど、深く深く深く深く、喰らい進めていけばいくほど。


「ふ、ぁは。あはは」


 装いではない笑いが込み上げる。美味しくて、嬉しくて、楽しくて。

 ああ――藍と紅とくろがねで作られ広がっていく海に、ずっと沈んでいたいなぁ、なんて。束の間の夢に浸っていた。



 肉と臓物を喰い終わり、余韻から抜けられないまま、どれくらいの時間が経っただろう。こんなに血の匂いが溢れているのに、温かさが失われていくのがさびしい。残ったものを集めないといけないのに、ここから離れたくない。

 何一つ忘れなければいいと言われた記憶があるけれど、これは駄目だ、忘れようがない。すべてを懸けて殺し合うのとはまた別の至福だった。まだ酒が残っているから味は堪能できるけど、喰い破っていく感覚は、口内と鼻腔が塗りたくられる感覚は、もう二度と味わえない。

 こいしいだとか、せつないだとか、言葉があるのは知っていた。たぶん今、俺の中を占めているのはそれだ。ああ、きっと、俺は。


「――触るな」


 耳元で弾けた声が、思考を妨げる。たまに聞こえる声。たまによぎる声。さっきも聞いた気がする声。良いところなのだから、邪魔しないでほしい。


■■これ■■おれのものだ。お前のものじゃない」

「何ですか。未練がましくて鬱陶しいですよ。さっさと消えろ」


 あは、と笑う声がした。不快、腹立たしい。お前、そんな風に笑ったことなんて一度もないくせに。


■■これを誰かにやる気はないけど、お前にだって渡す気は無い。人間のものだ、お前のものではない」

「はいはい、そうですか。自慢が済んだなら消えろ、負け犬」

「ええ、これで最後ですから。与えてもらったもの全部を壊された以上、もう留まる必要もない」


 気配を伴った幻覚は、ぱっと消え去った。あれにも二度と会うことはないだろう。そんな気がする。

 ……ところで、俺は何をしようとしていたんだっけ。ああ、そうだ。とびきり美味しい酒を作るんだった。こんなに良い匂いがする血と骨があるのだから、無くなるのが惜しいほど旨い酒が作れるに違いない。


「えへへ、こんなにも良い気分にさせてもらえるとは思いませんでした。お礼の一つでも言えれば良かったのですが」


 残念ながら、形としてあるのは骨だけ。特徴的な藍色が彩りに混ざっていた頭蓋を持ち上げて、歯の部分に口付ける。唇があった時にした気がしなくもないけれど、お礼を込めて改めて。伝わっているかは分からない。


「あはははぁ。貴方のこと、死んでも忘れないでいますねぇ」


 言われた通り、刻んでおいたので。というか刻まれたので。

 俺が狂わせてしまったらしい貴方、忘れようのない貴方。再会することがあったなら、今度はどうしましょうね。何をしても、貴方は俺に色んなものを与えてくれるのでしょう。


 それでは。また逢う日まで、さようなら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喰らうものと刻むもの 葉霜雁景 @skhb-3725

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ