第5話

 怖くなった私はその後、しーちゃんが置いていった鞄を持って家まで様子を見に行った。


 しーちゃんはまだ帰っておらず、代わりにおばさんが出てきた。


「あら、ちほちゃん久しぶり。今日はあの子と一緒じゃなかったの?」


 夕飯でも作っていたのかエプロンで手を拭きながらにこやかに挨拶してくれる。

 私は先ほどの事情をかいつまんでおばさんに説明する事にした。


 頭がおかしい子だと思われても困るので帰り道に見知らぬおじさんから貰ったタピオカのサンプルを食べたしーちゃんが突然お腹が痛いと言いだして、走ってどこかにいってしまったという事だけを伝えた。


 私は真剣だったけど、おばさんは私の話を聞くやいなやお腹をおさえて大爆笑し「あの子ったらほんと馬鹿でごめんなさいね。きっとどこか公園のトイレにでもこもってるんでしょ。そのうち帰ってくるわよ」と言っていた。それ以上何も言えなかった。


 家に帰り、夕飯を食べてからもずっと気になっていたので我慢できずにしーちゃんのスマホに電話してみた。

 何度かけても出ないのでSHINEでメッセージを送ってみたけど、こちらもお風呂に入る前に確認してもまだ未読のままだった。


 時計は20時を指していた。そろそろ電話をするのも迷惑な時間帯になるかもしれない。我慢でき無くなってしーちゃんの家に電話をしてみたら、今度はコール音が鳴る間もなくすぐに受話器が取られた。


「うわっ、びっくりした。あの、小川です。しーちゃんは――」


「もひもひ」


 しーちゃんの声ではなくおばさんの声だった。


「あの……、おばさん?」


「もひもひ」


 寝ぼけているみたいな声でただそう返ってくる。馬鹿みたいなとろんとした声なのに私の背中の毛穴がぶわっと開くように怖気が走った。


「おばさん、あの冗談やめてください。あれからしーちゃんは帰ってきました?」


「もひもひ。もひもひ。もひもひ」


「おばさん! やめてください! しーちゃんは帰ってきましたか!?」


 私は泣きそうになって受話器に向かって叫んでいた。


「帰っ、てきたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


 しーちゃんと同じだ。語尾を延々と低く伸ばして呼吸もせずに細く長く発声したままだ。

 悲鳴を上げて私は電話を叩き切った。


 お風呂を上がってからさっきのは何かの冗談なんだと思い込んでもう一度電話をかけてみたけど、今度は何度鳴らしても電話はつながらなかった。



 翌朝、いつもみたいに一緒に学校に行こうとしーちゃんの家に寄ってチャイムを鳴らしたけど誰も出てこなかった。しーちゃんのお父さんがいつも乗ってる車はそのまま駐車されていたのに。

 気になってポストも見てみたけど、新聞が中に入ったままだった。


「しーちゃん! 学校行こー!」


 恥ずかしかったけど外から声をかけてみた。でも何の反応もなかった。



 仕方なく一人で登校することにした私が教室に入ると、しーちゃんは何もなかったかのように席についていた。でもなんだか全身が土で汚れていて、千切れた草や枯れ葉が制服にくっついている。髪の毛だってぐしゃぐしゃできっと昨日お風呂に入ってないに違いない。


「ちょっと、しーちゃん! 大丈夫なの!? 探したんだよ! SHINEも返してくれないし!」


 声を掛けても何の反応もない。目を見開いたまま微動だにせず前を見ている。


「あ、おがちゃん。しーちゃんなんかちょっと朝からおかしいんだよね。全然しゃべんないの。喧嘩でもした?」


 クラスメイトの吉川さんが困ったように私に喋りかけてくる。やっぱりしーちゃんは私にだけじゃなくおかしいままなんだ。


「わかんない、昨日からなんか変で……それにおばさんもなんか……」


 うまく説明できずにいると異変を察知した周りのクラスメイトもどうしたどうしたと寄ってきた。けど相変わらずしーちゃんは何もしゃべらない。うっすらと笑みを浮かべたまままっすぐに黒板を見つめている。


「しーちゃん! ねえってば!」


 肩を掴んでゆさぶるとしーちゃんはぱかっと口を開いた。

 同時にどろっと口から赤いものがあふれ出てきてボチャっと机の上に落ちた。クラスメイトが皆一歩下がる。果肉入りのイチゴジャムみたいなソレが、肉片交じりの血だとすぐに気が付いた。


「けあけあけあけあ」


 しーちゃんは口元を真っ赤にして薄ら笑みを浮かべながらそう言った。奇妙な鳴き声みたいに聞こえたそれが「怪我怪我怪我」を意味しているのだと理解出来たのはしーちゃんの舌の先端が2センチほどちぎられたように失われていたからだった。


「ど、どうしたの……それ」


「けあけあけあけあけあ」


 にっこりと笑ったしーちゃんはぶるりと震えた後即座に無表情に戻り、無言で椅子に座ったまま何の反応も返さなくなった。まるで怪我をしているからしゃべれません、だから普通ですよ、とでも言いたげに。



 先生が教室に入ってくるとうんともすんとも言わなかったしーちゃんは突然ばちんと立ち上がり、その衝撃で椅子が倒れた。先生が「ど、どうしたー、びっくりしただろー」と興味なさそうに口にすると、しーちゃんは先生のところまで猛スピードでぴょんぴょんと飛んでいき「けあけあけあ」と言いながら口を開いて見せる。


「何を……あれ、どうしたんだその血。転けて舌でも嚙んだのか? ちょっと、おい! 何があった!? 誰か知ってるやついるか!?」


 先生が教室を見回して何があったと聞くけど、正直誰もその問いには答えられない。なんか朝から調子悪いみたいです、と誰かが声をあげたのが他人事みたいに聞こえた。

 その間もしーちゃんは相変わらずけあけあ言ってたけど、突然んーんー唸りだすとぐちゃぐちゃとなにかを咀嚼しだした。


「おい! やめろ! 何してんだお前!」


「んーーーーー! んーーーーー! んーーーーー!」


先生が肩をつかんでしーちゃんの咀嚼をやめさせようとするけどしーちゃんはそのままずっと唸りながらぐちゃぐちゃと――おそらくは残った舌を――咀嚼し続けていた。クラスメイトが悲鳴を上げるとしーちゃんは咀嚼していたであろう自分の舌の肉片をぶっと先生の顔に吐き出す。


先生が当然のように叫んでひるむと、すぐさまダッシュして廊下に出て「治っ、らーーーーーーーー」と語尾を伸ばしながら叫び、ぐにゃぐにゃと走ってどこかに行ってしまった。

 当然教室は悲鳴で飽和した。



 その後、明らかに様子がおかしいということで学校からしーちゃんの家に電話をしてくれたみたいだけど、誰も出なかったらしい。先生が放課後家まで見に行ってくれるというのでそれに頼るしかない。


 ほかの友達と帰るのもなんだか気分じゃないので私は一人で帰ることにした。

 通学路の河川敷をとぼとぼと歩いていると、川のほとりにしーちゃんがしゃがんでいるのが見えた。


「しーちゃん!? 大丈夫!?」


 大きな声で叫んで手を振りながら走っていく。でもしーちゃんは一切の反応を見せない。

 川に何かいたのだろうか。


 近づいていくとしーちゃんが何をしていたのか理解した。しーちゃんは川のほとりで下着を脱ぎ捨てて下品なヤンキー座りをしたまま川面に向かっておしっこをしているらしかった。中学生にもなって、しかも人目につくのになんてことをしているんだと思った。

 確かにしーちゃんは破天荒なところはあったけど、こんな事をするような女の子じゃなかった。どう考えてもあのタピオカのせいだとしか思えなかった。


「しーちゃん! やめなよ! なにしてるの!」


 ようやく傍まで行くとぼーっと川面を見ながらおしっこをしていたしーちゃんの首がぐるんと回ってこちらを見る。相変わらず焦点がおかしい。片方は私を、もう片方の目は私の背後を見ているようで気持ちが悪い。思わず後ろを振り返るけど何もいなかった。


「しーちゃん、どうしたんだよ? おばさんも変だし何があったの」


 私が半分泣きながらしゃべりかけている間も川に向かって勢いよくおしっこをしている。さっきからずっと止まっていない。


「ちょっと、しーちゃん! やめてよ!」


 ようやくしーちゃんのおしっこが止まると血交じりのよだれをたらしたままぼけーっとしていたしーちゃんの瞳に光が宿ったような気がした。


「ちほ、たすけて」


 泣きそうな顔で、元のしーちゃんの表情に戻って一言いうと、一瞬でまた弛緩した表情に戻り、「呼ばれ、あーーーーーーー」 と叫びながらまた走っていってしまった。私も頑張って走ったけど、どれだけ追いかけても全然追いつけなくて、結局しーちゃんを見失ってしまった。


 すぐに学校に戻って先生に連絡すると、警察に電話してくれたけど結局その日しーちゃんは見つからなかった。

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