仮初の救済

 今日も一人、孤独に揺られながら帰路に就く。帰宅部なので、夕焼けに包まれることもないし、夕暮れ時のチャイムに足を急かされることもない。でももし、そんな中を一人で歩いていたら、涙が止まらなくなっていたかもしれないので、夜へ向かう空気感だけがあるこの時間のほうが帰りやすい。


 一方、朝はいつも嘉琳が前に立っている。何かしら話しかけてくるので、おちおち寝ていられない。昨日はどこまでも潜り込めてしまい、泣き疲れたというのに、そんなことを知らない嘉琳はいいよなぁ……。


「ねー、一時期狂ったように、二位のものを暗記してた時期があったから、何でも聞いてよー」

「んあ……?どういうこと」

「例えば日本で二番目に高い山と言えば、北岳じゃないですか。そんな感じで、じゃんじゃんお題を出してくださいよー」


「じゃあ、記録上で二番目に身長が高かった人は?」

「ジョン・W・ローガン」

「ドイツの州の面積」

「ニーダーザクセン州」

「二番目に小さい友愛数の組」

「1184, 1210」

「世界で二番目に売れた本」

「毛主席語録」

「世界で二番目にできた地下鉄」

「うーん、ブダペスト」

「世界で二番目に長い曲」

「Organ2/ASLSP」


「ジョン・バーディーンのノーベル賞二回目の受賞理由」

「え?それは二位ではなくない?ずるいずるいー」

「その程度でいい気になったらダメってことだよー」

「ちなみに答えは何なの?」

「自分で調べてください」

「はー……、意地が悪いなぁ」

「そもそも知らないから、教えたくても教えられないんだよなー」


 私はこの勝利を噛み締めた。そうこうしていると、学校の最寄り駅に到着していた。


 先日、英語教師にしつこく詰められたが、その余波で家にも連絡がいき、母親からこう、やんわりと、連絡が来た事実だけが伝えられた。私がここまで落ち込んでいることは知っているし、無理をしなくても天誅は下らないのだが、また真朱帆が出しゃばる可能性もあるし、ここは一旦まじめに授業を受けてみようと思う。


 そのはずだったのだが、気が付いたら保健室にいた。ぼやけすぎた記憶を漁ってみると、あんまり眠そうにしているから、という理由で、体育の授業の途中で真朱帆に連れられたんだった。あとは、何か変な味の紅茶を飲まされて……?まさか、真朱帆がそんなことを考えるわけないか。


窓の外を見ると、もうだいぶ日は傾いていて、ギターを背負った少女たちが、仲良く談笑しながら校門のほうへ歩いていった。


 私はベッドを降りて、保健室からそのまま駅まで向かった。荷物も制服も置きっぱなしだが、貴重品はロッカーに入れてあるし、どうせ明日も学校に来るのだし、それで特に問題ないと思ったのである。


 しかし肝心のSuicaを持ってなかったので、駅と学校の間を往復していたら、すっかり空が茜色に染まり、少しばかり肌寒さを覚えた。思い出と哀愁と涙が溢れだし、目の前の電車に飛び込んでやろうと、その気にはなっていた。


「おい、どうしてそんなところで泣いてるんだ……」


 帰宅間際で、つまらないことに饒舌な高校生たちの声に紛れて、嘉琳の声がした。


「また悪しけくことを謀ってたの?しかもわざわざ反対のホームに来るなんて」

「えっ、ここ逆だった……?」

「そうだよ。それに、リュックはどうしたの。そんなもん、普通忘れる?」


 嘉琳は私の手を引いて、学校まで連れ戻した。私は不安定なステップで、これについていく。


「ちょっ、別にそんなことしなくても、明日もちゃんと学校行くからー」

「そこだけじゃないんだよ。いくら端っこって言ったって、あんなにボロボロ泣いて恥ずかしくないの?」

「それが何だって言うの」

「いいから、人として最低限のサムシングは、ちゃんとしておきなって」


嘉琳の監視の下、ジャージから制服に着替えて、音が吸い込まれるような、誰もいない教室にリュックを取りに戻った。


「なんで泣いてたのか、その、聞いてもいい?」

「なんでって聞かれても……。そういう気分としか。壊れるぐらい泣いたことない人には、わかりっこないでしょうけど」

「どんだけ追い詰められてるんだよ……。本調子を見たことがないから、判断に困るんだけどさ。その、ほんとうに辛いなら言ってくれれば、何か力になれるわけないよね、いやー思い上がり病み上がり昼下がりー」

「いいの?」

「いいって、何が?」

「……熱交換?」

「は?」


 私は机に座って、足を組んで偉そうにしている嘉琳の胸に飛び込んだ。これが許されないなら、私は自信を持って、この世から去ることができていただろう。


 嘉琳は僧帽筋の辺りに手を回して、溶けるように受け入れてくれた。まるで子供のように高い体温のくせに、大人の女性のような信頼感がある。まんまと気を良くした私は、嘉琳に自分の抱えているもの、というよりは莞日夏への愛を、号泣しながら根こそぎ朗読していた。


「寂しかった、一人で帰るのが怖かった、いつまでも夜が明けないんじゃないかと思った……、誰かに抱きしめられたいとも思ったかもしれない」

「そう……。本当にごめんなさい、もっと早く気付けたら……」


 嘉琳も私の頭を抱きしめた。嘉琳の頬が私の前髪の付け根に触れている気がする。


「何を謝ってるの、わっ私が弱いから、未練がましいから……」

「そうじゃなくてさ、本当だったら、あそこで潰えていた命なのに、それを運命に抗って、私が救い出してしまったんだから、責任は取らせてよ」

「そうやって、助かる運命だったってことじゃないの」

「それはそうだけど、そういうことじゃないっていうか。あの、もうお返しとして赤裸々に言うけど、どこまでも私を頼ってほしいんだよ……。その瞳に海が戻るまで、しぶとく付き合うから」


 私はこの色のない温もりを求めていたんだ。泣きながら笑えてきて、どこか正常に物事を捉えられていないような気がするけれど、嘉琳への信頼はきっと本物になる。もう少しだけ、こうしていても怒られないよね……。猫じゃあるまいし、愛撫誘発性攻撃行動なんて起こさないよな……。


「なっ、何してるんですか、嘉琳さん!」

「何って……、ちょっちょっと待て待て、これは違うんだ、そういうんじゃ……どういうんじゃーい」

「何も言ってませんけど……。もう下校時刻過ぎてるんですから、早く帰ったほうが……」

「そっち、そっちこそ、なぁんでこんな時間までいるんだよ!」


 何かが風を斬る音が聞こえた。その直後、ダーツが的に刺さるような音も聞こえた。


「ひ、人に物を投げないでください!」

「狙って外したし!こう見えて、ダーツぐらいやったことあるんだからぁー!」

「というか、この金属の棒、いったい何ですか?」

「え?あれだよ、トライアングルを叩くやつ」

「はぁ、何でそんな物を持ち歩いてるんですか……」

「いや、落ちてたの!だから、返しといて、音楽室とかに持って行けばいいと思うからー」

「相変わらずよくわからないなぁ。まあ、とにかく早く帰るんですよー」


「いつまでそうしてんだーっ」


 嘉琳は両肩をしっかり持って、私を胸から引き離した。


「泣きすぎ、産卵でもしてるのか?」

「そこまで “込み” で許してくれてるんじゃないの?」

「……このワンピース、気に入ってたんだけどなぁ」

「洗えばいいんだよ、洗えば」

「それ、汚した張本人が言うか?」

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