第58話


 付箋のない空っぽのお弁当箱。

 これが本来の形だというのに、寂しさを感じてしまう。


 嬉しかったのだ。

 あの付箋が2人の関係を結びつけているようで、心のどこかで繋がっているような錯覚を起こしていた。


 もう終わった関係を、ほんの少しだけ夢を見ていたのかもしれない。

 叶はどうして夢実だと気づいたのだろうと疑問に思うが、味しかないだろう。

 舌先が夢実の味付けを覚えてくれていたのだ。





 その日は日本で一番輝いた演者や作品を決める表彰式が行われていて、テレビでその様子が生中継されていた。


 お気に入りのラフな部屋着を纏いながら、温かいお茶を啜りつつ、画面越しにその様子を眺めていた。


 「あ……」


 ドラマや映画に引っ張りだこだったあの子は当然ノミネートされていて、画面に映るたびに胸をときめかせる。


 大翔は部活で遅く、母親も友人とご飯に行っているため1人きりの室内。


 露骨に反応していても、誰にも気づかれないため、つい頬を緩ませながら彼女を見つめていた。


 前髪を斜めに流していて、赤色のマットなリップを塗っているため普段よりも大人っぽい。

 成人した彼女はすっかり美しい女性に成長して、今のあの子の隣に立つべきは、夢実ではない誰かだ。


 『では続いて……主演女優賞の発表です』


 司会者が言葉を続ければ、画面にはノミネートされている数名の女優が映し出される。

 緊張しながら見守っていれば、呼ばれたのは夢実が愛おしくて仕方ないあの子の名前だった。


 「すごい!叶ちゃん」


 主演女優賞なんて、これ以上名誉ある受賞はないだろう。

 歴代で最年少の受賞者らしく、盛大な拍手を送られた後、彼女がステージに立った。


 作品やファン、共演者に監督へと感謝の気持ちを、丁寧な言葉でスピーチしている。


 『……眞原さん、ありがとうございます。ちなみにいま、この気持ちを誰に伝えたいですか?』

 『……ひとりしかいないです』


 彼女が見つめているのはカメラだというのに、まるでジッと視線が交わっているような錯覚を起こす。


 ギュッと目を瞑って、苦しげに眉根を寄せている。

 覚悟を決めたように瞼を開いた彼女は、まるであの頃のように真っ直ぐな瞳をしていた。


 『……主演女優賞取りましたよ』


 シンと静まり返った会場。

 皆、叶が誰に向かって語りかけているか分からないのだ。


 「……あれ?」


 アップに映し出されたことで、叶の手に見慣れたリングが嵌められていることに気づいた。

 信じられない気持ちで、食い入るように画面を見つめる。


 「……嘘だ」


 間違えるはずがない。

 あれは何年も前に、一緒に江ノ島で作ったペアリングだ。


 首元には、一年祝いに渡そうと思っていたハートのネックレスが付けられている。


 『……どこまで頑張れば良いですか?あとどれくらい頑張れば……私はあなたの隣にいられるんですか』


 一筋、叶が涙を流す。

 どんどん瞳から溢れ出したそれは、頬を伝って淡い桃色のドレスにシミを作った。


 主演女優賞を取った女優のスピーチに、戸惑ったように会場がざわつき始める。


 『……賞を取ることより、天才だってチヤホヤされるより……私はあなたの隣にいることの方が幸せだって、どうすればあなたに伝わりますか』


 喉がキュッとしまって、カッと頬が熱くなる。

 ジワジワと瞳の奥底から涙が込み上げてきて、一回でも瞬きすればこぼれ落としてしまいそうだ。


 『あの場所で、待ってますから』


 そう言い残すと、叶は深々と頭を下げた。

 トロフィーを手にした彼女は、自分の言いたいことは全て言い切ったとでもいいたげに、スッキリとした顔をしている。


 「……ッ」


 堪らずにその場から立ち上がっていた。

 薄手のカーディガンだけを羽織って、財布と携帯電話を取って家を飛び出す。


 すぐにタクシーに乗り込んで、乱れた息で行き先を伝えた。


 「どちらまで?」

 「江ノ島駅まで」

 「これからですか?だいぶ掛かりますけど」

 「大丈夫です。お願いします」


 タクシーに揺られながら、ふと目に入ったカレンダー。今日が何の日なのか、そこではじめて思い出した。


 5年間忘れていなかったけど、必死に気にしていないフリをしていた。

 ユメカナ♡ちゃんねるがスタートした日や、はじめて手を繋いだ日も、すべてを覚えている。


 スケジュール帳にこっそりと書き込んで、あの頃は見返すたびに胸をときめかせていた。

 だからこそ、今日は2人が付き合った日だとすぐに思い出せたのだ。





 江ノ島に到着する頃には、すでに日は暮れてしまっていた。息を乱しながら坂を登った後、エスカーに乗りこむ。


 帰る人と逆走しながら足を進めて、ようやく到着する。

 エレベーターに乗ってあの場所へ行くけれど、彼女の姿はなかった。


 「……当たり前か」


 落ち着いて、ようやく冷静さを取り戻す。

 感情的になって飛び出してきたけれど、絶対にここにいると思ったのだ。

 

 あの場所と言われて、思いついたのは2人が結ばれたこの展望台だった。


 「……ッ」


 しかし一時間経って、さらにもう一時間経ってもあの子は現れなかった。

 ジッと眺めの良い景色を見つめるけれど、心は揺れ動かされない。


 当時は夕暮れの景色が世界一綺麗なもののように感じていたけれど、結局は誰と見るかが大切で、一人だと何を見ても意味がないのだ。


 キラキラと煌めくイルミネーションを見つめながらアクセサリーをプレゼントしてもらうことに、幼い頃は憧れていた。


 だけど本当はそんなことどうでもよくて、その相手があの子でなければちっとも嬉しくない。


 彼女と一緒にいられるのであれば、特別なプレゼントなんていらなかった。

 景色の良いムードがあるスポットだってどうでも良くて、ただ隣にいて、手を繋ぎながら歩くことができればそれで良い。


 彼女の隣にいられるならば、それ以上は何も求めないという思いを叶も抱いていることに、どうして気づかなかったのだろう。

 

 「申し訳ございません、閉館のお時間ですので」


 スタッフから声を掛けられて、それ以上とどまることは出来ずにエレベーターで一階まで降りる。


 叶が言っていたのはここではなかったのかと、不安が込み上げてくる。


 絶対にここだと思ったけれど、違ったのだろうか。だとすればあの子はどこへ行ったのかと、必死に考えていた時だった。


 「……ッ夢実さん!」


 諦めかけていた時、ずっと名前を呼ばれたくて仕方なかった声が鼓膜を震わせた。


 ギュッと胸が締め付けられて、今にも泣き出してしまいそうなのを堪えながら顔を上げる。


 そこには、テレビで見た時と同じ綺麗な衣装を着たあの子の姿があった。


 「ごめんなさい、すぐに式を抜けられなくて……」

 「……ッ」


 目の前に、あの子がいる。

 手を伸ばせば触れられる距離に眞原叶がいるのだ。


 一体、何を言えば良い。

 彼女に何から伝えれば良い。


 「……ごめんなさい」


 ずっと言いたかった。

 嘘をついてごめんなさい。

 遠ざけてごめんなさい。

 もう好きじゃないと、嘘をついた。

 本当は好きで堪らないことを、伝えたくて仕方なかった。


 怖かったのだ。

 彼女の将来を奪うことが怖かった。

 眞原叶の才能を奪う権利が自分にはないと思って、その恐怖から逃れようと遠ざけた。


 結局、夢実が怖がりだっただけだ。

 本当はずっと一緒にいたくて仕方なかったというのに。


 「……私、たくさん酷いこと言った。アイドルになりたいとか、色々理由付けたけど、本当はただ……自分に自信がなかったんだと思う」


 涙が溢れて、ひとつ、また一つとこぼしながら必死に自分と向き合っていた。


 アイドルとしてデビューをすることも出来ずに、散々自尊心を傷つけられた。


 自分には魅力がない、才能がないと自暴自棄になり掛けて、世界で一番大切な人がどれだけそれを否定しようと、心のどこかではその想いがずっと張り付いていたのだ。


 今だって叶の隣に立っていられるほどの魅力が自分にはあると思えないけれど、今度はもう、絶対に逃げたらダメだ。


 「……叶ちゃんの才能が私のせいで潰れちゃうって……そればっかり考えて、全然叶ちゃんの気持ち考えられてなかった」


 ぱっちりとした瞳から、涙が溢れていく。

 瞬きをしていないのに、叶の瞳からも次々と雫が溢れ出していた。


 「……もう、遅いかもしれないけど……もう一度最初から……叶ちゃんにアプローチしたらダメかな」


 ギュッと腕を掴まれて、体を引き寄せられる。

 後頭部に手を回されてから、背伸びをした彼女によって唇を奪われていた。


 懐かしい柔らかな感触に、叶への愛おしさがブワッと押し寄せてくる。


 「なかったことにしないでください」

 「……ッ」

 「……どんなに辛いことがあっても、苦しくても…あなたと一緒にいた時間を思い出せば耐えられた。あの記憶が……私の支えだった。だからなかったことにしないで欲しい」


 至近距離で、再び叶と目線を交わっている。

 ずっとこの時を夢見ていた。

 本当は叶ともう一度、こんな風に心を通わせ合いたかったと、自分の本音を隠すことが当たり前になっていたけれど、もう溢れさせてしまっても良いのかもしれない。


 「……私はあの日からずっと、止まってるんです。あなたがいなくなってから……何をしてもつまらなくて、息をするのも苦しくて」


 2人とも体を寄せ合って、力強く抱きしめ合っていた。

 もう二度と、離れないように。

 過ぎ去った時間を取り戻すように、ピタリと体を密着させ合う。

 

 「……お願いですから、もう二度と…あんなこと言わないでください」

 「叶ちゃん……」

 「もう二度と私の前からいなくならないで」


 再び重ねたキスは、お互いの涙のせいでしょっぱかった。

 だけど心は驚くほど甘ったるくて、熱で体が震えてしまいそうだ。


 こんなにも彼女が好きで、愛おしくて仕方なかったというのに、どうして見て見ぬフリをしようとしていたのだろう。


 あの頃とは違って、長い髪を触れながら、再び叶と心を通わせた実感でさらに涙が込み上げてくるのだ。




 あの日泊まるはずだったホテルに、5年越しに訪れていた。予約をしていなかったにも関わらず、偶然空室があるとのことで案内してもらえたのだ。


 柔らかいベッドの感触と、こちらに覆い被される叶の熱に緊張してしまう。


 叶とそういう行為をするのは二回目だ。

 初めてではないけれど、ずっと夢見ていた光景だからこそ、幸福で涙が溢れてしまいそうになる。


 軽くキスをしたあと、叶が言いづらそうにこちらに質問をしてきた。


 「……この前の……その、記事は……」


 言わんとしていることを察して、つい笑ってしまう。

 

 「あれ、誤報だから。青山さんは昔、天口屋でアルバイトをしていて、結婚式の余興を頼まれたの」

 「そうだったんですね……」

 「叶ちゃんと違って、私はそんな余裕なかったの」


 拗ねたように言えば、優しく髪を撫でられる。

 お互いの想いが通じ合っていたとはいえ、この5年の間彼女はフリーだったのだから、誰と付き合っていたとしても文句を言うつもりはない。


 本音を言えば嫉妬で狂ってしまいそうだけど、グッと堪えて大人の反応をしているのだ。


 「……私だって全部誤報なのに信じてくれないんですか」

 「……ッだってそんなのいくらでも言えるし」

 「……ひどいなあ」


 ギュッと彼女と手を繋げば、震えていることに気づく。いつも余裕があって落ち着いている彼女が、夢実を前に手を震わせるほど緊張しているのだ。


 「……慣れてる人が、こんなに緊張すると思います?」


 きっと2人とも同じだった。

 離れていても5年間同じ思いで、それぞれの道を必死に歩んでいたのだ。


 安心させるように首筋にキスをしてから、そっと彼女の背中に手を回す。


 ファスナーに手を掛ければ、叶も繊細な手つきで夢実の身につけていたシャツを脱がせてきた。


 互いの肌の熱に触れ合いながら、ようやく最愛の人のそばにいられる喜びを噛み締めていた。





 目が覚めるのと同時に、目の前に愛おしくて堪らないあの子の姿がある。

 もし全て夢だったらどうしようと不安だったため、優しく微笑まれてホッと胸を撫で下ろした。


 久しぶりの行為は一回では終わらず、気づけば意識を飛ばしてしまったのだ。


 「おはようございます」


 そう言っている叶の首元には、あのハートのネックレスが付けられていた。


 指にはペアリングがはめられていて、眠っている間に夢実の小指にも通されている。


 「ずっと取ってたの……?」

 「捨てられるわけないじゃないですか。けどしまいっぱなしはカビのもとなので、頻繁に掃除はしてました」

 「……じゃあ、ネックレスのこともだいぶ前から知ってた?」

 「はい。だって分かりやすく一番上にジュエリーショップの紙袋があるんですから」


 てっきりさっさと捨てられたと思っていたため、何年も取っていてくれたことが素直に嬉しかった。


 「……長かったですけどね、これまで」


 お互いの存在を確かめ合うように、ギュッと手を握り合う。

 じんわりと熱を感じていれば、叶が「そうだ」と言ってスマートフォンを取り出した。


 そして、2人の手元を写真に収めている。

 恋人繋ぎをしている2人の手には、ペアリングが付いていて、当然写真にも写り込んでしまっているだろう。


 「これ、あげましょうか。SNSに」

 「え……でも、いいの?事務所とか…」

 「私いま、五十鈴さんの事務所に入ったので。色々と自由にさせてもらってるんですよ。だからもう一度はじめましょう」


 そう言いながら、叶がスマートフォンの画面に表示させたのはユメカナ♡ちゃんねるのアカウントだった。


 何年も止まっていたというのに、登録者は少しだけど増えている。

 2人のことを、待ってくれていた人たちだ。


 「最後の動画がこれなんて、あまりにも悲しすぎるから」


 何度も頷きながら、堪えられずに涙を流していた。

 ずっとこの瞬間を夢見ていた。

 再び彼女と手を取り合って、ただ隣にいられることに喜びを噛み締める。


 くだらないことで笑い合って、嬉しいことがあれば報告するような、そんな些細な日常を焦がれていたのだ。


 特別な地位も世間からの評価もどうでも良くて、純粋に想いを寄せる相手の隣で、手を繋ぎながら歩いていきたいのだ。


 夢実はずっとピンク色になりたかった。

 かつて憧れていた五十鈴南のようなアイドルになることを夢見ていたけれど、いまはもう、別の未来を見つめている。


 彼女の隣で時を重ねていく。特別な出来事も起こらない、平穏な日々を過ごすことができれば、それ以上に願うことなんてないのだ。


 幸せで胸をときめかせながら、先ほど撮った写真をSNSに投稿する。

 こうして5年ぶりにようやく、ユメカナ♡ちゃんねるは動き出したのだ。

 

 

 (了)

 

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ピンクになりたかった ひのはら @meru-0731

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