第56話

 

 フライパンをあおりながら、まだ純粋だったあの頃に思いを馳せていた。

 放課後になればこうして料理をして、急足であの子の家に向かっていた。


 早く会いたくて、美味しいと顔を綻ばせる姿をひとめみたくて、せっせと通ったものだ。


 「懐かしい」


 タワーマンションで暮らすよりも、こうしてフライパンを振っている方が自分には合っているのかもしれない。


 アイドルを卒業して半年。

 暮らしていたマンションは解約して、実家に戻ってきていた。


 そして芸能界も引退した夢実は、こうしてかつてのように実家の手伝いをしているのだ。


 暫く何をするか、決めていない。

 ひたすらがむしゃらに頑張ってきたからこそ、暫くは休むつもりだった。




 無事にその日の営業を終えて、夢実はお茶を啜りながらホッと息をついていた。

 居間でテレビを眺めていれば、話題は大人気女優について。


 『女優の眞原叶さんが、事務所の移設を発表しました』


 どうやら五十鈴南が設立した芸能事務所に移ったらしく、他にも人気モデルなど、数名が在籍しているとアナウンサーが続けた。


 「……すごいなぁ、叶ちゃん」


 どんどん遠いところにいってしまうような気がするけれど、一番遠いところに遠ざけたのは自分だ。

 

 あれから当然、連絡も来ない。

 かといって夢実から連絡するつもりもなかった。もし、連絡先を変更していたらショックだから。


 ブロックされているかもしれないし、新しい連絡先を教えてもらえなかった可能性もある。


 そもそも、叶はすでに他の人と付き合っているのだ。


 人気モデルとのスキャンダルも出ていたのだから、未練がましく彼女に迫るつもりもない。


 ため息を溢したところで、母親から声を掛けられる。


 「夢実、一くん来たわよ」


 もうそんな時間かと、すぐに一階に降りる。

 玄関先には、かつて天口屋でアルバイトスタッフとして働いていた青山一の姿があった。


 いまは大学は卒業してアメフト選手なのだから、かなり努力をしたのだろう。

 その活躍を朝のニュースで見かけるたびに、どこか誇らしく感じてしまうのだ。


 2人で訪れたのは、町にある中華料理屋だった。お願いがあるとのことで、食事に誘われたのだ。


 「本当にありがとうございます。彼女が夢実さんのファンで……絶対喜びますよ」

 

 一は大学時代から付き合っている彼女がいて、天口屋で働き始めたのもデート代を稼ぐためだった。

 

 「もう、奥さんになるんですよね?」


 照れ臭そうに一が頷いて見せる。

 結婚式の最中に流すメッセージビデオに出演して欲しいとのことで、すぐに二つ返事をした。


 「夢実さんはいま誰かと付き合ったりしてないんですか?」

 「まだアイドル辞めて半年ですよ?」

 「そうですよね。けど夢実さんなら引くて数多だろうに」


 苦笑いを浮かべて、その場を乗り切る。

 周囲はきっと、夢実は過去の恋愛を乗り越えたと思っているのだ。


 とっくに忘れているだろう、とそう考えているのだ。

 まさか5年近くもの間、かつての恋人を引きずっているなんて誰も思いやしないだろう。




 高校生になった弟は相変わらずサッカーを続けていて、最近は都代表として活躍をしているようだった。

 以前応援に行った時は、至る所から女の子の黄色い悲鳴が聞こえてきて母親と顔を合わせたものだ。


 今日も弟は練習に行っているため、母親と2人で仕事をしていた。


 「明日、大口の注文なんだけどいける?」

 「大丈夫」


 お弁当の注文数はかなりの数で、母親と一緒に行く予定だった。

 2人で仕事を分担するようになったため、遠方に配達ができる余裕が生まれていた。

 

 「どこからだっけ?」

 「ドラマの撮影現場ですって」


 今まではずっと、小規模でお店を切り盛りしていた。


 しかし配達を行うようにして範囲を広めたところ、味が良いと評判になって、こうして大口の注文をもらえるようになってきているのだ。


 今度はSNSでも始めようかと、こっそりと考えていた。母の腕の良さを1人でも多くの人に知ってもらいたいのだ。




 車で運転して、ワゴンを下ろしからお弁当をセットする。裏口で入館証を貰ってから、以前は頻繁に出入りしていたテレビ局内へ。


 置いておくように指示された部屋にて、ディレクターの方にお弁当を渡した。


 「ありがとうございます。うちの演者が好きらしくて、リクエストだったんですよ」

 「そうなんですか?」

 「たぶんまた頼むと思いますから」


 またよろしくお願いしますと、深々にお辞儀をしてから入館証を返却していた。

  

 母親と車に揺られながら、誇らしい気持ちで母親に話しかける。


 「やったね。さすがお母さん」

 「夢実も腕どんどん上がってるじゃない」

 「じゃあ帰りにコンビニでアイス買いたい」

 「大翔の分も買ってみんなで食べよっか」


 上機嫌でその日は帰宅をして、それから連日で注文が入るようになった。


 気に入ってもらえたことが嬉しくて、母親と今日は何をおかずに入れようかと話ながらフライパンをあおる日々。


 芸能界を引退してすぐに運転免許証を取得して、この日は夢実1人で車を運転して配達へ訪れていた。


 ワゴンを使用するとはいえ、1人で何十個のお弁当を運ぶのは大変なため、往復をしてから指定された部屋へ。


 無事に運び終えて部屋を出ようとすれば、懐かしい声で名前を呼ばれる。


 「……お久しぶりです、夢実さん」


 落ち着いた低音に驚いて顔を上げれば、かつて同じ事務所に所属していたアイドルの目白圭。


 叶の義理の弟だった。


 「どうも……」

 「リクエストしたのオレなんですよ。夢実さんのところのお弁当屋に」


 最近はアイドルだけではなく、俳優としても活躍している。きっとまだ内密だろうけど、ドラマに出演するため撮影しているのだ。


 そんな彼がどうして天口屋に配達を依頼したのかちっともわからない。


 「叶が全然ご飯食べないから」

 「え……」

 「元々偏食なんです、あいつ」


 夢実といた時、あの子はいつも美味しそうにご飯を食べていた。

 おかわりをすることも多く、てっきり好き嫌いのない子かと思っていたのだ。


 「小さい頃から子役をしていたから、ストレスでしょうね。何を食べても美味しくないって、栄養食ばっかり食べてた時期もある」

 「……ッ」

 「……余ったお弁当、叶にあげました。夢実さんのお店だって黙ってたのに…一口も残さず食べてた」


 美味しいと嬉しそうに頬張っていた姿を思い出して、ギュッと下唇を噛み締める。


 ニコニコと笑いながら、夢実の作った料理を食べてくれる姿が堪らなく好きだった。

 何の変哲もない、特別な出来事なんて起こらない、平穏な時間。


 その幸せを自ら手放したのだ。


 「だからお願いがあるんです」

 「なんですか?」

 「2日に一回…いや、1週間に一回でいいから、叶に弁当を作ってもらえませんか?もちろんお金は渡しますから」


 自分から遠ざけたくせに、中途半端に距離を詰めても良いのだろうか。

 悩んでいれば、圭がさらに言葉を畳み掛けてくる。


 「でも……」

 「気まずいだろうから、夢実さんが作ったことは黙っていて構いません。オレが受け取りに行きます」


 少しだけ、欲を出した。


 また、あの子に夢実が作ったご飯を食べてもらいたい。

 美味しいと言ってもらいたい。


 ご飯をろくに食べないと聞かされて、心配になったのだ。


 「分かりました。使い捨てじゃなくて、お弁当箱に詰めて渡します…その方が保存状態も良いだろうから」

 「ありがとうございます」

 「……私が作ったことは黙っていてください」

 「もちろんです」


 いまさらチャンスを狙っているのではないか、とあちらに警戒されたくなかった。


 彼女が自分の世界を生きていることくらい分かっているから、ただ叶に美味しいご飯を食べてもらいたいだけなのだ。

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