臆病者の恋

彼方

臆病な恋

 私が彼女に気づいたのは、漸く物心がついたくらいの年頃だった。


 貿易商で財を成したという曽祖父が建てた古い実家の、広い中庭に聳える一本の桜。生前の曽祖父のお気に入りで、よく傍に佇んでは見上げていたというその木が春色に淡く色付く頃、花影の落ちる樹の下に気づけば彼女は立っていた。

 年の頃は十四か五か。いや、もっと幼かったのかもしれない。痩身で小柄な体躯に、吹けば飛ばされてしまいそうだと不安にかられたのを覚えている。色が褪せ、擦り切れた着物から覗くのは小さな手と細い素足。見える肌は花より白く、磁器のような透明感を纏わせている。

 すぐにでも消えてしまいそうな儚さに、幼い私は魅了された。そして恐れた。いつか、そのまま春に溶けて消えてしまわぬだろうかと。恐れは幼い足を中庭へ面する縁側に向かわせ、けれどそこから先へと踏み出す勇気はくれず、私は安全地帯からただ彼女の姿を見つめていた。ひたすらに、食い入るように。

 だからだろうか。彼女の纏う透明感が印象などではなく、本当に透いているのだと気づくまで然程時間はかからなかった。

 私が気づいてもなお、彼女は常に立ち続けていた。花に染まる景色の中、何にも染まらぬ暗い瞳で何処か遠くを見つめたまま。俯いた顔に、編んだ髪が解れてかかり、差した影の奥から外を見つめる対の瞳。熱の籠もった眼差しをいくら注ごうとも、底の無い虚ろな瞳に熱が宿ることはなく。 

 幽霊なのだから仕方がないと思いつつ、いつか熱の宿った眼差しが向けられる日がくるのではないかと、幼子らしい当てのない希望を抱いていた。


 だが、希望というものは存外儚いものなのだと幼い私は知ることとなった。最後の花が落ちたその日、彼女は姿を消した。私の目の前で、春の空気に溶けるように。その時の嘆きようといったら、傍から見ても酷い有様だっただろう。癇癪を起こして泣き叫び、母を大変困らせてしまった。

 母だけではない。今で言う家政婦として長年使えてくれていたツヤという女性がいたのだが、彼女にも遠慮なく当たり散らしてしまったのを覚えている。彼女は否定も非難もせず、支離滅裂な私の嘆きに懇懇と付き合ってくれた。

 膝に伏せる私の背を呼吸に合わせて撫でながら、重ねた歳を感じさせる穏やかな優しい声で彼女は私に語ってくれた。


 『私もお仕えの日々が辛くて、坊っちゃんのように泣いた頃もありました。その度に、松乃さんにこうして慰められていたのですよ』


 膝に伏せる私の背を優しく撫でながら、そうして彼女が話したのが『松乃』という少女の話だった。

 松乃は、曽祖父の代に八つで奉公に来たツヤよりも六つ歳上の少女で、長い三つ編みを翻し、熱心に勤めをする姿は家の内外から愛されていたとツヤは言った。涙に濡れる頬を拭ってくれた色の白い痩せた指を、今でもよく覚えていると。

 出会った翌年の春、急に国へ帰ってしまった際には、厳格だった曽祖父も沈んだ顔をしていたそうだ。中庭の桜の木の下に佇むようになったのはその頃からで、きっと彼女の好きだった桜の下で面影を追っていたのだろう、とツヤは続けた。

 そうか、あの少女は松乃という名なのか。いなくなって初めて、私は彼女の名を知った。もっと早くに知っていれば、一度でも名を呼べたかもしれない。

 そんな度胸は無かったと理解しながら、取り戻せない日々を嘆き私はまた涙を流した。


 やがて季節は巡り、暖かな風が萌芽を呼ぶ。中庭の桜の木も閉じていた蕾が膨らみ始め、綻んだ花が枝を淡く飾り始める。

 そして花の香りが縁側に届くころ、あの少女が――松乃が再び現れた。

 予期せぬ再会に私の心は踊った。同じ轍を踏むまいと、喜びのままに庭へ駆け出そうとした。が、地についた足はそこで止まり、根が生えてしまったかのように動きを止めてしまった。鼓動が早まり、手に汗が滲む。すぐそこに松乃がいる。その事実が嬉しく、そして酷く恐ろしかった。

 駆け寄り、声をかけたらどうなるのだろう。一言名を呼んだら、あの虚ろな瞳が一瞬でも自分を写してくれるかもしれない。けれど、何も写さないままだったら。無意味な囀りとして扱われ、存在を無視されてしまったら。そもそも彼女はもうこの世の存在ではない。決して交わらない事実を突きつけられて、自分は果たして耐えられるのだろうか。

 悩んだ挙げ句、私は縁側に足を戻した。結局、その年もまた彼女を見つめるだけで終わった。

 その翌年も、また次の年も、松乃はやはり現れた。花の溢れる春の季節に。褪せた着物に包み込んだ色白の小柄な体躯と、長い髪がほつれかかり影の差した白い顔。そして、虚ろな瞳はそのままに。

 死人である彼女の時は止まったままだ。けれど、私の時は進んでいく。背が伸びて力が付き、学びを深めて知識をつけ、そうして子供らしい柔らかさと引き換えに私は大人になっていく。


 『いつの間にか、ひいおじいさまとそっくりになられましたね』


 最初にその言葉を聞いたのは、高校生になったばかりの春の頃だったか。職を辞し、老人ホームに入居したツヤは、私が見舞うたびにそう言った。父でも祖父でもなく、曽祖父によく似ていると。

 ただ、面影を追う彼女の目は懐古とは程遠く、まるで常に何かに耐えているようで。けれど、彼女を煩わせるそれに踏み込むことができないまま、翌年の桜が咲いた春の日にツヤは亡くなった。結局、私はここでも一歩を踏み込む勇気が持てなかったのだ。

 今思えば、きっとツヤには分かっおていたのかもしれない。これから起こる事が、全て。


 ツヤの葬儀を終えて実家に戻ると、私は薄暮に染まる廊下を抜けて真っ先に縁側へと向かう。中庭に面する硝子窓を開け放つと、淡く染まった花弁がひとひら屋敷の中へと迷い込んだ。

 暮れゆく空の下、薄く花をつけた桜が風に緩くそよいでいる。方々に伸びた細枝が鈴鳴のようにさざめいて、枝先につけた小さな花がはらりはらりと宙に舞う。

 薄色の霞が景色を彩るその奥に、やはり松乃の姿はあった。

 心臓が走り出し、口からまろび出そうになる。けれど、あえて抑え込もうとはしなかった。暴れまわる心臓の勢いをそのままに、縁側から地面へと足を下ろす。下駄を履き、二、三度足を踏み鳴らすと、私は胸の鼓動に合わせて一歩足を前へ進める。

 一歩、二歩。松乃の姿が近づく。風にそよぐ三つ編みの解れた毛筋がよく見える。

 三歩、四歩。褪せた着物の繕い跡が、袖から覗く手の皹が、鮮明な形となって私の前に現れる。

 そうして辿り着いた桜の下、僕は彼女の前に立った。見下ろしたその姿は随分と小さく、華奢な肩は触れるだけで壊れてしまいそうに思える。彼女はこんなにも幼かったのか。いや、こちらが大人になったのだ。出合った頃より歳を重ね、今では彼女を越えてしまっていたことに今更ながら気がついた。

 そう、もう子供ではないのだ。安全地帯から眺めるだけの臆病な子供ではない。私は一つ喉を鳴らすと、微かに震える口を開いた。


 「ま、松乃……さん」


 腹から出したつもりだったが、しっかりと語尾が上擦っていた。熱くなる顔を覆いたくてしかたなかったが、せめてもの矜持でそれを阻む。堪えるように両手を握り、来るかも分からぬ次を待った。

 彼女は反応するだろうか。顔を上げるか、言葉を返すか。それとも、結局は何も変わらないままか。

 悠久とも思える間が通り過ぎ、辺りに薄闇が広がっていく。いくら待てども身動ぎすらしない彼女に、やはり何も変わらないかと踵を返そうとした、その時だった。


 『……』


 微かに聞こえた吐息。華奢な肩がびくりと震え、俯いていた頭が少しずつ上がり始める。

 まさか、と思った。心臓が痛い。小刻みに揺れる呼吸に、息苦しくなる。欲しくて堪らず、それでいて恐れた彼女の変化。何かが確実に変わろうとしている期待と恐怖に私は震えた。けれど、戸惑う私の目の前で彼女は少しずつ行動を進めていく。眼下のつむじが奥へと隠れ、彼女の顔が顕になる。

 そして伏せられていたその目が、私を見た。


 「あ……」


 私を見上げる暗い瞳に鈍く光が宿っている。目尻は吊り上がり、眉間には幾重もの皺が寄っている。

 それは紛れもない憎悪。あの虚ろだった瞳が湛えていたのは、何も混じらぬ澄んだ怨みの念だった。

 慄く私の前で彼女の口が小さく開く。声は聞こえなかった。だが、言われた言葉はすぐにわかった。


 『ゆるさない』



 気づけば、私は手に斧を持ち、桜に向かって振り下ろしていた。鋭い刃が幹を刳り、重い響きが木霊する。それは、桜の悲鳴だったのかもしれない。

 声なき声が耳を劈き、硬い感触が手を止める。そうして我に返った瞬間が何度もあった。けれど、その度に傍で囁かれるのだ。

 『ゆるさない』と。

 松乃は間違いなく私に向かって言っているのだろう。だが、それは私に向けられた言葉ではない。いや、言葉だけではない。瞳に湛えたあの憎悪すらも、一欠片とて私には手に入らない。

 向けられた瞬間、理解してしまった。国へ帰ったはずの松乃が何故、桜の下に現れるのかを。ツヤが堪えていたものの正体を。そして何故、松乃が憎悪を抱えているのかを。

 ここまでくると悟らざるを得なかった。大人になってしまった私は、もう決して彼女の瞳に写らない。

 私は力の限り何度も斧を振り下ろした。何度も、何度も、何度も。

 やがて父が駆け付け、肩を掴まれ引き剥がされるまで、私は斧を振り続けた。そして引き剥がされる瞬間、思いっきり幹を蹴った。

 花を抱えた枝先がぐらり、と大きく揺れる。右へ、左へ、と二三度揺れると、抱えた花を散らばせながら前のめりに倒れ込んだ。散り落ちていた花弁や地面に落ちていた花が、風で巻かれて舞い上がり、ふわりと地面に落ちてくる。それはまるで降り積もる雪のようで、再び冬が訪れたのかと思ってしまうほどだった。

 だが、その印象は的を得ていたのかもしれない。


 あれから何十年とたった今も、あの桜は枯木のままでいる。植木屋にでも見せれば僅かばかりの回復もあったのかもしれないが、父は結局折れた木の処理だけして切り株はそのままにした。もしかすると、父は父で何かを知っていたのかもしれないが、今はもう確認する術はない。

 縁側から見える切り株は、年々枯れて細っていく。この桜に、二度と春は訪れない。


 そして松乃も、あの日から一度も姿を現さないでいる。


 けれど残念に思うところが私は心底安堵していた。これでもう、彼女の姿を見なくて済む。もう何も期待することもなければ、変えられぬ絶望を味わうこともないのだから、と。

 桜を切り倒したあの日まで、結局私は臆病者のままだったのだ。だが、今の私は違うのかと問われれば、上手く答えられる自信は無い。胸の内には今も、あの日の桜が咲き続けているのだから。


 その桜の下で、得られるはずのない彼女の笑顔を、私は今も探している。

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