第9話 思い至る
夜が明けて、朝になる。勿論僕はあの後家に帰って寝ることにした。結局あの後の夜のAZの配信は見る気にもなれなかった。アーカイブが残っている以上、配信していたというのはわかる。帰ってきた時間がかなり遅かったので、親と鉢合わせないか不安だったが、そこは心配要らなかった。そんな僕が今何をやっているのかというと、白昼堂々の妹の部屋への侵入である。妹は今小学校。勿論許可は取っていないから、無断でのということになる。ちなみに、話していなかったが、妹は言う所のスーパーハッカーである。ネットさえ繋がっていなければ、どんな情報にでもアクセスできるし、どんな情報も改竄できる。正確にはできたというほうが正しい。一年ほど前に親にバレてひどく怒られて以来、全くと言っていいほど電子の名の付くものは触らして貰えないのだ。それでも、そのツールのしまったUSBだけは、今も机の中に隠してあり、たまに取り出しては、ネットが解禁される日を夢見て眺めている。『ママには内緒』とのことだったが、今回はその代償を払って貰うということだ。早速妹の部屋からUSBを入手し、僕のPCに繋ぐ(使い方だけは知っているのだ)ダウンロードして、ツールを起動する。今回調べるのはここ最近の火災の事件について。と言っても一年前に大きな情報流出があった影響で警察のデータベースはほとんどスタンドアロン化しているから、探せる情報は監視カメラを使った一部のもの。
検索をかけるといくつかの候補がリストアップされる。さすがは気軽に起こしやすい事故というだけあって、今月だけでも百件にも上る。流石に多すぎるので、さらに条件をつけて絞りこんでいく、例えば、直前に「携帯電話等通信機器の使用あり」とか。しかし検索には死亡事故の文字は一つも見当たらなかった。僕は先の二軒を思い出す。二人とも音を立てての自然発火。そして両者とも数分の後焼失。あんな人一人を焼き尽くすほどの火災なら、何か事件の一つになってもよさそうなものなんだけど。条件を変えて調べてみる。例えば、死ぬ前にブツブツ喋るとか。ヒット無し。例えば、体温が急激に上がるとか。検索しててちょっと自分で変かなと感じたが、これもヒット無し。
しばらくうんうんと検索条件を変えて調べてみたが、少なくともAZの配信を見ていての火災事件はどこにも載っていなかった。確かにスマホをいじっていて火災が起きたと言える事件はいくつかあるものの、それがAZのものと思われるものは後にも先にも、僕が経験した、あの二軒だけだった。一旦ちょっと諦めて閑話休憩。昨日の出来事を思い出す。奇妙なスパチャと絵画の謎のこと。謎の画家、
「そういや、エイムスは人が燃える現象のことを『炎の病』って言っていたな」あまりにも回りくどく、カッコつけた言い方。あれは教会の人だからかなと思っていたが。
「えーなになに」ネットで検索してみる。画面に検索結果が表示される。だが、それはもっと早くに見ておくべきだったのかもしれない。スクロールの度に気づかされる。自分の酷い勘違いに。
「『炎の病』は人間を燃やすものではない」どのサイトもその事実を示す。「炎の病」、正式名称を聖アントニウスの火。十世紀に感染が認められた中毒症状の一つ。麦角菌という麦に感染するウイルスが原因で、感染した麦を使った食物を食べ続けると、手足が燃えるような痛みに襲われる。
事実、その条件で検索すると、いくつかの事件が関連性を示した。ざっと見て二十件ほど。一応この件に関してAZも行動を起こしていないわけではないみたい。だが、と考える。「炎の病」が人間を燃やさないことは理解した。しかし、僕が経験した二件に関して言えばこれは非常に奇妙なものだ。なぜ、あの二人は燃えたのか。そのことが頭に引っかかる。僕は椅子に座ったまま、天井を眺めて考える。自身を中傷したもののパンを麦角菌に感染したパンに変換する、もしくはその人間を麦角菌中毒にさせる。前者だと、日本人の食生活を前提にすれば、該当条件は少なそうだから、多分後者。問題はこの程度の能力じゃ、人間一人を焼失させるほどの効果はないってこと。調べると、フランスじゃ火曜日の聖人に祭り上げられるようだから、僕の知らない隠された能力くらいありそうだが、少なくとも公式に載った記録としては怪しいものは存在しない。
ポーン、と電子音が鳴る。音の方を向くと、AZの配信時間に合わせたアラームの音だった。体が自然にリンクを踏もうとするのを理性が押さえつける。理由はもちろん明白で、正直なところを言えば、まだ自分は怖がっているんだ。いつもなら、僕はノリノリで、義務感を持って、配信に向かっていただろうし、そこに何の躊躇いもなかった。昨日の僕と今日の僕。そこに身体上の違いはありはしないのに。彼女が殺人姫である、しかもまだ解決してはいない。その情報だけで、僕は彼女を忌避する。今までの情報は全て噓で、ネットの単なるデマなんだ。そうであれば、どんなによかっただろうか。幾度も願っては、現実の重みに押しつぶされ、震えて眠れない。俯いて自作のパソコンを眺める。逆さまに回り出すファンに、壊れる度に直した基盤。ボロイ機体に不釣り合いな最新鋭のディスプレイ。よく壊れるし、しかも長くはもたない。マシントラブルで配信に度々遅れては、コイツの出来の悪さを後悔した。でも壊れる度に愛着が湧いて、今じゃ結構長くなる――コイツはいったい誰のためのものだったのか。そんな疑問が出てきて、ため息が出る。なんだ。僕はまだAZのことを信じているのか。
力無く笑って動画リンクを踏む。それは確かめるために。信じるために、何よりも彼女のファンであるために。僕はエナドリの缶を開けた。
見ればいつもの配信。一般の視聴者が言うならそうだろう。いつもの挨拶祭りにAZのニュースコーナー。いつもの調子で続けるそれは、今考えると、死せる聖人が持つ、ある種の恒常性の発露なのかもしれなかった。いつも通りの姿を保ち、いつも通りの声を出し、いつも通りの精神性を見せる。そこに人を殺したがために生ずる事件へのヒントはない。だからAZをヒントにしない。
完璧で永劫不変の存在。そんなものは究極的にはあり得ない。どんなものにだって、必ず数ミリ程度の誤差が存在する。それが現代の通説。この場合の誤差というと、例えば、配信環境とか。例えば、モデルの機能具合とか。例えば、システムとか。そういうとこ。完璧な存在の埒外に存在するもの、それを利用する。
そう言って、僕はコメント欄を覗く。流れるコメントの中にいくつかの暴言が一瞬だけ流れた。一つの目の謎はここにある。それは、コメント数に反して、被害者の数が少ないこと。だが、これは統計的に推測ができる。AZの平均視聴者数は大体朝で三百、昼で四百、夜で七百ほど。同接数から予測するに、アンチはその約二パーセント。だが、実際に起きている事件数は、ほんの二十件ほど。事件が起きているのは一か月前だからアンチが即死するのじゃないにしても、もう少し事件が起きてもいい。ここから、能力は自身で制御できるものか、もしくは自動で機能するものじゃないことがわかる。つまり、能力の手動発動ゆえの事件の少なさ。それが、コメント数と被害者の数が合わないことへの予想。あとは、この炎上をAZがどういう条件で発動させているかということ。それが二つ目の謎。自動で発動するものじゃないとして、いったいどんな基準で人を燃やすか燃やさないかの判断をつけているのか。そしてこれは第三の謎にも共通する。
最大にして根本的な第三の謎。それは、人を炎上させる基準があるにせよ、ないにせよ、どうして人気Vtuber のAZ がこんなテロ行為を働いているのか、だ。さっきからその命題が、僕を苦しめて止まない。この天真爛漫な笑顔で、どうして人が殺せるものか。事実に本人に会っている僕ですら、この聖人が見せる完璧の牙城は切り崩せない――エイムスは「炎の病」についてなんて言ってたか。別のことに思考を巡らす。「人の悪意を感知して伝染する『聖なる炎』」あの男はそう表現していた。人の悪意か。随分とざっくりした表現。アントニヌスの遺骨を持つAZが実際に燃やしているのが悪意を持つアンチだから、それこそ自身に悪意を持っていれば感染させられるものなのだろう。僕はため息を吐く。昔の時代、それこそ聖アントニヌスの時代なら、悪意が伝わる方法が少なくて、被害者もまとまっていただろうに。しかも今の時代は情報が溢れすぎていて、僕ですらそのコメントに悪意があるかどうか判断するのは難しい。
……ん? 今なんて言ったんだ僕。悪意があるか判断するといったのか⁈ しかもこの僕が⁈瞬間、閃光が走る。散逸とした思考がまとまり、一つの道筋を形成していくのがわかる。
「なるほど。なるほど。いや! なるほど。なるほどォ!」机を立って、床を回り出す僕。いつの間にか配信は終わっていた。時計を見る。今配信終わったから、次の配信までにはあと数時間の猶予がある。もはや謎は解決した。あとは終わらせるための準備をせねばなるまい。
僕は部屋着を脱いで周りを見渡す。昨日と違って綺麗なお部屋。夜に汚れるはずだったそれは、僕の背信により今朝の時と同じ状態を保っている――AZを捨てればきれいなままなのに。一般の人はそう言うかもな。でもそれで綺麗になった部屋は実に空虚なものだろう。推しがいない世界なんて、燃えちまえ。クローゼットを開いて、制服を着る。と言っても今日は、学校はない。火事騒ぎでしばらく休校なのだ。だからこれは単なる雰囲気付け。階下へ下り。電話をかけて、食事を済ませる。以下準備は省略。後のお楽しみに。
「よし、行くか」誰もいないその家に、誰とも告げず独り言つ。そのまま行こうとすると、玄関の壁が僕を見る。僕が昨日苦しめられた、あの絵画だ(昨日の夜、なんとなく思い立って壁に掛けておいたのだった)画像の中のオリゲネス。鏡の中のオリゲネス。作者、無走空奏の立ち位置に存在するその聖職者は僕を見る。
――「言うところの悪魔、そして彼の天使たちについての真理、そも彼が悪魔になる以前には何者であったのか、何故に悪魔になったのかについての真相を弁えぬ者には、悪の起源は知られる由もない」――わかってるよ。そんなことは。こんな事件に巻き込まれる前からわかっているつもりだ。僕は向き直り、眼前の目標に走り出す。向かうは教室。事件の始まりの場所へ。
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