第5話 焔の事件
昼休みの時間が訪れようとしていた。お腹を空かせた学生が食堂へ一斉に駆け出すのが廊下の窓から見える。ワイワイと賑やかな彼らの笑顔は後顧の憂いなどない晴れやかな未来を象徴しているようだ。一方の僕はというと、教室の角の方の席で、一人悶々とお昼を食べていた。一人配信を見ながら、孤独で孤高のボッチ飯。朝一緒だったマコトは、他のクラスの友達と食堂に食べに行くから、僕のお昼は大体いつもこんな感じである。そういうわけで、僕はいつもの配信の代わりに、さっき踏んだリンクの再応答を待っているのだった。結局あの後、興奮してサイトに飛んだ割には、思うような体験はなかった。えらく長い読み込み時間の果てに待っていたのは、お馴染み空サイトである。あまりにも何もないものだから、思わず叫んでしまった(そのせいで保険を追い出された) リロードしても同様に時間が掛かり、結局待つのはあの空白のページである。そんなわけで、現在通算更新回数十五回。悶々しながら待っている。
教室の中は僕の他にも十五、六人程度の人がいた。三十人くらいのクラスだから、せっかくの食堂を使わない人が半分にも上る(まぁ僕の見識だと、食堂を使うのはマコトみたいな極端な陽キャという印象だから、クラスの半分くらいは許容してもいいのかもしれない) では何を食べているのかと言うと大体購買の弁当で、鉄道公社の影響か、駅弁の試供品が売られているようである。『ようである』と僕が呼称するのは、こうして一年近く学校に通っているにもかかわらず、自宅と教室の行き来しかしてないためだ。実際学校の食事システムがどうなっているのか、僕は知らない。噂だと、一日三十三個限定の仙台直送牛タン弁当があって、その獲得に生徒たちは日々しのぎを削っているとか。僕はいつも自前の弁当があるから、あまり関係ない話なのだけどね。
おっ、話をすれば、ということで、僕の目の前の席に弁当を持った男が座る。姿は肥太り、見るからにちょっと陰険そう。何を買ったのかなと思い、後ろからチラリと覗き、僕はぎょっとする。手に持っていた弁当が牛タン弁当だったことに驚いたのではない(勿論それにもびっくりしたが)問題はその数である。なんと彼の机の上には、十個もの牛タン弁当が置かれていたのである。噂が本当ならコイツは三分の一ほどの限定弁当を買い占めていることになる。どんな事情があるかは知らないが、とんでもない奴だ。知らなければよかった。そう思っていると、
キ―ンコーンカーンコーン。鐘が鳴る。昼休み中ほどの鐘。時計を見れば十二時半。まずい、
「鏡の向こうの皆さん、こーんにちはー。最底辺から、最高峰まで! 全ての皆さんと繋がるVtuber『
『美バ肉おじさん乙』『くさそう』『きもくて草』コメント欄から悪口スパチャが続けざまに流れてくる。おっと仕事だ、やばい、コメントキーボードが閉じられなくて、管理者画面にいけない! 学校のWi-Fiじゃ回線が重いのだ。いつもは自前のものを持ってくるのだが、今朝の画像に気を取られて、自身のポケットWi-Fiを持ってくるのを忘れていたのである。このままじゃまずい。コメント欄が流れ、僕の予想通りに送られたアンチのスパチャがAZの目に触れ、表情が歪む――ああ、まただ。またやってしまった。今日は一日に二回もミスをしている。もう二度とあの子にあんな顔させちゃいけないってのに。
「ぶほほほ、ぶほほほ」突然前の席の男が笑い出す。覗くと、彼の持つスマホの画面には件のスパチャの送信画面があった。まさか、と思う間に、男が手元の画面を触ると、コメント欄に続けざまにアンチスパチャが流れる。刹那、僕は理解する。どうして今日、コイツがAZの配信を見ていることに気づいたのかも。多分コイツはAZにも今やっているように、他の配信者の配信を荒らすのが趣味なのだ。同じ学校のWi-Fiを使っているはずなのに相手の方の応答がこちらより速いのもそのためだ。奴は僕と同じようにポケットWi-Fiを持って、その上アンチ行為を働いている。そして多分コメントで流さないのは、AI対策だ。同じ機能を持つスパチャとコメントだが、スパチャは流すお金を払っているという点だけで、AIの監視を逃れることができると聞いた。
アイツの手口を長々と分析し終わったところで、沸々と怒りが湧いてくる。さっきからずっとそうだ。どうして、なんで、こうしてこんな酷いことを! 脳の裏で叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。周りの人からは見えないけれど、僕は今きっと怒っている。自分で、そうとは考えられないほどには。心臓のより深く、奥の奥から手が伸びて、僕の心室をグイ、と広げる。そうして失望と憤怒の差額にあきれ果てて、結論を下すように本能が呟いた――殴っちゃえよ。 姿は心を写すというんだ。こんなゴミみてぇな奴、他にももっと悪いことしているに決まっている。ここでお前が裁きを下すんだ。ヒーローになるんだよ――僕は拳を固めて立ち上がる。全身の力を溜めてーースパーン。僕の顔を思い切り殴り飛ばす。急な破裂音が鳴り、教室のみんなが僕の方を向く。前の奴も同様に。その隙に僕はすぐさま大量のアンチスパチャを削除する。ムカつくヤツを殴り飛ばすのはまた今度、ネットの世界でのことはネットの世界で片を付ける。今ヤツは僕の出した音に驚いてスパチャを打つ手が止まったはずだ。今こそヤツの悪意を消して失くして潰して砕いて消してやる。
『死ね』『死ね』『死ね』遅れた対応を取り戻すかのように、連続でスパチャが流れる。勿論全部同じアカウントだ。たかがアンチ行為にここまでねちっこく身を晒してやるか普通。明らかに異常者のそれとしか言いようがない。アイツが飽きるまで、奴の気力が無くなるまでこっちも根気よく消していく。そういやもう一人のモデレーターもいるはずなのに、アイツはいったい何をやっているんだ! そうしてひとしきり消していった頃、ようやく息切れを見せたようで、だんだんと数が減っていく。目の前の豚も悔しそうな様子だ。多分。
――やっと一息つける。長かったな、ははは。目を閉じる。内臓エネルギーが切れてきて、さっき無理やり冷ました頭が元に戻るのを感じる。何なんだアイツは! なんでみんなが大切にしているものを破壊する! どうして簡単に人を傷つけられる! 目の前のアイツも、ネットの海に漂う、奴らも。『そう怒っちゃいけないよ』自分の中の声が言う。『なんで』も『どうして』もないんだ。叩くやつは叩くし、叩かないやつは叩かない。そういうことなんだ。きっと遺伝子のせいなんだ。そんな奴には「この先」いっぱい出会う。我慢することが肝心なんだ。深いため息を吐く。あー気分が落ち着いてきた。内に渦巻いていた赤くて黒いイガイガが冷めてペーストみたいになっていく。とりあえず、今回はAZを守ることができたのかな。大分失態を犯してしまったけどさ。
「いいや、お前には無理な話だ」驚いて思わずバッと振り返る。しわがれてクタクタになって、誰かに祈るような男の声。何かあって振り向くとしても、問題の男は目の前にいるというのに。それとは違う、異質な声。後ろには当然何もない。安心して戻ると、今度は目の前のアイツが慌てている様子だ。急いでスマホの画面を見る。
『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』『死』
赤い死の字がコメント欄を埋め尽くす。あのバカまたやりやがったな。しかし消しても消してもすぐさま更新されて流れてくる。コイツはマクロ組んで流しているのか⁈ しかも全部同じ赤スパで。そういう明らかな荒らし行為はサービス側に排除されるというのに。とりあえず、そういうことを明確にしているというなら、と流石に耐え切れずモデレーター権限で、出禁申請を掛ける(今までは手作業だったから、すぐ消えるだろと思ってやっていなかった)。が伝家の宝刀はすぐに弾かれ、発動されるのは以下の処理。
「ケース404:無効なユーザーです、だぁ?」何回やってもこの処理で弾かれる。僕はすぐに前のデブに詰め寄る。コイツはアンチコメントをいちいちコピペで送りつけるようなやつだから、大した技術はないのが分かるが、マクロといい、この処理といい、何かがおかしい。
「これは君が書いたのか?」いきなり画面を見せる。
「あ、ううう」デブは僕のいきなりの問いかけに困惑した顔を見せるが、それ以上に取り乱して自身のスマホの画面を指差したまま顔が動かない。
『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』『死んだ』指さす方向を見るとコメントが段々と更新されていっている。
『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』
「あ、あああああ」デブが取り乱して急に暴れ始めた。しゃがんだり、手をむやみやたらに振り回したり、まるで折檻される赤子のように。危ないので、押さえつける。
「熱いっ」何を食ったか知らないが、コイツ、体が異常に熱い。
『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『死んだ』『俺は』『燃える』『燃えて』『『燃えて』『燃えて』『燃えて』『燃えて』『燃えて』『燃えて』「燃えて」
スパチャに混じってうわ言のように繰り返す。全く正気ではない。どんどん体が熱くなってくる。手足はもはや触ることすらできない。モデレーターの制御も聞かずコメントは加速する。正直、配信は重すぎて、映像がガビガビである。
『消えて』『霞んで』『消えて』『霞んで』『消えて』『霞んで』『消えて』『霞んで』『消えて』『霞んで』『消えて』『霞んで』『』――どこか、固まった世界の中心で、画面の彼女が笑った気がした。
突然スパチャの嵐が止む。急に立ち上がって、晴れやかな表情を見せるデブ。さっきまで苦しんでいたはずなのに、その太い手足には光すら見えて――
「俺は――祝福された」そう言ってアイツは、足元から燃え尽きる。命の痕跡すら残さず。ただのヒト型大の炎になって。
不意にメールの着信が来る。見知らぬメールアドレス。それも配信用とは別の例のサイトを見たスマホから。思わず開く。
「鏡AZは人殺しだ」届いたものにはそう、あった。
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