第2話 紅色を贈る

 湖で獲れた魚が中心の食事を終えて部屋に戻ったヒューバートは愛用している革の手帳を取り出した。カバーを外して内側から黄ばんだ絹の切れ端を取り出し、元の白さを思い出しながら草の刺繍を指でなぞる。


 湖を渡る風が起こす波のパチャパチャという音しかしない部屋の中でヒューバートが刺繍を見ていると、扉をノックする音がしてヒューバートは扉を開ける。


「旦那様の決済が必要な書類をお持ちいたしました」


 執事長補佐のメルデスが少し疲れた顔で立っていた。彼は父である執事長のボッシュに代わり、ヒューバートの確認が必要な書類を持って王都とヒューバートのいる所を往復し続けている。


「ボッシュはどうしている?」


 ヒューバートの問いかけにメルデスは苦笑した。


「すっかり不貞腐れております」

「年寄りが拗ねると面倒でしかないな」


 辺境に発つ前、「アリシアの居場所が分かったかもしれない」と言って旅の準備を命じたヒューバートに「連れて行ってほしい」とボッシュはごねた。

 六十歳近いボッシュに長い上に休みも最低限の強行軍は酷だからとヒューバートは彼を屋敷に慰留させたが、聞けば追加で呼び寄せた後続の騎士たちにも連れて行けとごねたという。


「この書類はいかがしますか?」

「そこに置いておいてくれ。急ぎは?」

「上の五つですね。決済印付きの書類を持って帰ってきてほしいと言われました。一番上の案件については指示もほしいそうです」

「それは今すぐ仕事をしろということだな」


 ヒューバートはため息を吐き、イスに座って書類に目を通す。一番上の書類は商会から預かったもののようで、目を通したヒューバートは留守役のアランの悲鳴が聞こえた気がして苦笑した。



「トルーダ商会か……王都を留守にすると連絡したのに。相変わらず勝手な方だな」


 南方の国に本拠地を置いているトルーダ商会の女商会長リアンナからの面会希望にヒューバートは苦笑する。


 リアンナは異国情緒あふれる妖艶な美女で、気に入った男性がいればダンスに誘う感覚で一夜を共にする。磨かれた美貌とウィットに富んだ会話、既婚者や婚約者持ちには声をかけないという彼女のルールに則った誘いを断る男はいない。正確には、ヒューバートが断るまで一人もいなかったらしい。


 断られたことが彼女にどういう影響を与えたかなどヒューバートには分からないが、彼女は王都に来るたびにヒューバートに面会を求め、酒の席に誘ってくる。


「彼女の常宿に詫びの花といつもの酒を贈っておくように伝えてくれ。花選びは任せる、と」

「……畏まりました」


 メルデスの返事の間にヒューバートは苦笑する。


「何か言いたそうだな」

「その……今回の詫びに旦那様を所望することはありませんか?」


 メルデスの心配は理解できたが、「それはない」とヒューバートは笑って答える。


(彼女は自分なりのルールを持っているからな)


 ワガママで自由気まま、本能で動く奔放な美人というイメージが定着しているリアンナだが、それは彼女がそう見せているだけだ。本当の彼女はとにかく無駄や損が嫌いで、ビジネスでも男性関係でも彼女が『無理』と判断したことにはそれ以上踏み込まないし踏み込ませない。


 誘いを断った時点でヒューバートは彼女にとって『無理』な男。を二度と誘うことはなかった。彼女もある程度ヒューバートを理解していて、ヒューバートの『無理』に踏み込んでこない。


「面倒なことはならないから安心しろ」

「本当に、本当ですね?」

「そんなに信用ないのか?」

「旦那様を信用していないのではなく、問題は女性のほうです」


 メルデスの言葉に、「レイナード邸の使用人は漏れなく女性嫌いになる」と愚痴っていたボッシュをヒューバートは思い出す。


 女嫌いになる原因は屋敷に届くヒューバート宛ての手紙や贈り物だ。


 ノーザン王国唯一の独身侯爵で、国一番の商会の長。

 艶やかな黒髪を持つ美丈夫で、年齢は二十七歳と男盛り。こんなヒューバートが女性にもてないわけがない。


 未婚の令嬢から若い未亡人にまで、爵位も年齢も問わず多くの女性がヒューバートの気をひこうと手紙やプレゼントを贈ってくるのだが、彼女たちから贈られてくるものは茶会や夜会への招待状といった『まともなもの』から、使用済みの下着やいわくつきの呪いのグッズといった『まともではないもの』まである。


「血で書かれた『死』という字を見た日の夜は眠れませんでした」

「『私と思って』というメッセージカード付きで贈られてきたあの人形のほうが怖い。あの人形の毛、おそらくご令嬢本人のものだぞ」

「お祓い係経験者からしてみれば全く笑えません」


 震えるメルデスにヒューバートは苦笑する。


 メルデスのいう『お祓い係』とは、本来の仕事をさぼった者や大きなミスを犯した者が就く罰に近い仕事。仕事内容はヒューバート宛ての手紙や荷物を全て検分し、『まともではないもの』を屋敷の焼却炉で焼くこと。『かなりヤバいもの』を神殿に送って処分してもらうのも彼らの仕事だ。


「贈り物のルビーが貯まっているそうです。一応旦那様の資産になるので勝手に処分もできず、邪魔だからどうにかしてほしいそうと嘆願書が出ています」

「いつも通り売りに出せ。金は擁護院や孤児院に、俺が受け取っていないことが分かるように派手に寄付しろ」


 ノーザン王国では大切な者に愛情と庇護の証しとして自分の瞳の色の石が付いた宝飾品を贈る風習がある。彼女たちは赤い瞳のヒューバートからルビーの付いた宝飾品を贈られることを夢見て、自らルビーを贈って『お返し』を期待しているのだ。


「皮肉なものだな」


 ポツリとこぼされたヒューバートの言葉に、メルデスはその視線を追って棚の上に置かれたベルベットの箱に気づく。急ぎだったので既製品だが、アリシアとまだ見ぬ子どものために一生懸命選ぶヒューバートの姿をメルデスは覚えていた。


「先ほどの食事のときに突っ返された。まあ、パーシヴァルに贈ったカフスボタンは受け取ってもらえたが」


 顔も知らない女性からは婚約指輪を強請られて、贈りたいと思う女性には庇護の証しすら拒絶される。皮肉な状況にヒューバートはもう笑うことしかできない。


「アリシア様らしいではありませんか」

「そうだな」


(昔からアリシアは贈り物に興味がなかったな)


 貴族にとって贈り物も社交の一つであり、貴族間では常に贈り物が行き交っている。

 茶会に招いてもらった礼の品から求愛の品まで。一日に飛び交う贈り物の数は膨大で、配達人の出入りの数とその荷物量でその家の権力が分かるとさえ言われている。


 今でこそ王都で最も配達人が出入りしているレイナード邸だが、ヒューバートの子どもの頃は金がなく、月に数回あるお茶会でアリシアに持っていく花の購入費にも悩むほどだった。

 金で買われた婚約者というレッテルが貼られた身で贈り物など見栄を張る必要はなかったかもしれないが、手ぶらで行くなどヒューバートには許せなかった。


 しかし、無いものは無い。

 仕方なくヒューバートは自宅の庭の花を摘み、自分でリボンを結んで持って行くしかなかった。庭師が管理していない庭の野花、さらに緊張で強く握ってしまうため萎れてしまうことが多かったが、それでもアリシアは口元に笑みを浮かべて花を受け取ってくれた。



「花束にすれば良かったかな」

「長く家を留守するのにそんなの貰っても困るだけですよ」


 メルデスの呆れた声にヒューバートは項垂うなだれる。


「贈り物は苦手なんだ」


 侯爵家の借金を完済して懐に余裕ができると、ヒューバートはアリシアに何か贈りたくなった。

 しかし金があってもスマートに贈る技術がないヒューバートは「何か欲しいものはないか?」とアリシアに直接聞いてしまった。これは物欲の乏しいアリシアに対して悪手である。


 相当困らせたのだろう。アリシアには青い顔を震える声で「何もいりません」と言われ、それ以来ヒューバートは「何か贈りたいが、何を贈っていいか分からない」をひたすら繰り返していた。


 結局、ヒューバートがアリシアに贈れたものは紅いルビーを付けた腕輪を一つだけ。それだって「贈れなかった婚約指輪の代わり」と言って受け取ってもらったのだった。

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