第3話 紅色を思い出す

「昨夜はよく眠れたか? 寝不足は馬車に酔いやすい」

「大丈夫、僕はどんなところでも眠れるので」


 誇らしげな様子のパーシヴァルの姿は親の欲目を抜いても可愛らしく、ヒューバートはこみ上げてくる『頭を撫でたい』という衝動を懸命に抑えながらアリシアに顔を向けた。


「私も大丈夫です」

「それなら早速出発しよう。気分が悪くなったら、たとえ五分後でも遠慮なく言ってくれ」


 そう言うとヒューバートは丸めていた地図を広げてみせる。パーシヴァルに見せてあげると昨夜約束したのだった。


「これが地図?」


 パーシヴァルは初めて見る地図に興奮した。

 地図に描かれたパーシヴァルの生まれ育った町はまるで豆粒で、ヒューバートが昨日一日で進んだ距離と指し示すと、その豆粒が間にいくつ入るか測り始めた。


「あの町の端から端まですごい時間がかかるのに、馬車ってすごく早いんだね」

「この馬車が早いのよ」


 いまにも馬車を下りて繋がれた馬を褒めたたえそうなパーシヴァルにアリシアは笑い、馬車を見ようと窓にぺったりと顔をつけて外をみるパーシヴァルにヒューバートも笑う。


「うちの馬車を褒めてくれるのは嬉しいが、こんなに移動できるのは天候に恵まれたことと、道が舗装されて良くなったからだな」


 この街道は最近まで未舗装だったこと、雨が降れば路面は荒れて大変だったことを話せば理知的なパーシヴァルの目が『もっと』と話の先を強請る姿にヒューバートは嬉しくなる。


「馬車がたくさん走っています」

「便利になれば利用者が増えるし、利用者が増えれば活気に満ちた道は安全になる。盗賊の心配はなくなるし、舗装や修復に係る予算も増える」 


「それじゃあ道がもっときれいになれば王都までもっと早く着くんですか?」

「それは……どうかなあ」


 辺境から王都まで七日かかるというのは道がまだ未舗装の時代で、雨で道がぬかるむなど天候の大きかった影響も大きかった時代の話。早朝に出たり日没直前まで馬車を走らせれば、平民が先を譲る貴族の馬車ならばそこまで無理をしなくても一日で二つ先の宿場まで行くこともできる。


「それは無理よ、道が便利になった分だけたくさんの馬車が通るのだから。無理に急いで事故にあったら大変だわ」

「そうだね。ごめんなさい、侯爵様」


 アリシアの言葉に、自分が我が儘を言ったと感じてしまったのだろう。項垂うなだれたパーシヴァルの頭をヒューバートはポンポンと叩いて優しく撫でた。


(本当はもっと早く着くのだと言わない卑怯な自分が『気にするな』とは言えないな)


 自分の考えに没頭していたヒューバートは自分がパーシヴァルの頭を撫でたことも、頭を撫でられたパーシヴァルが驚いたあと照れ臭そうに笑ったことには気づかなかった。




「あまり進まなくなりましたね」

「事故でもあったのか?」


 車窓の風景からここが湖畔の街と次の街の中間地点だとヒューバートは判断し、懐中時計で時間を確認して悩む。

 次の街のほうが距離は近く、宿も取れていると連絡があったから夜遅くについても問題ない。しかし、ヒューバートの心の弱い部分が「湖畔の街に戻ったほうが都合いいだろう?」と唆す。


「どうしました?」


 アリシアの声にハッとして、ヒューバートは首を振って弱い自分を追い払う。


「このままでは到着が夜になりそうだと思ってな」

「暗くなってからの移動は危険でしょうか」

「天気ももちそうだし、そこかしこに護衛の者たちがいるから夜盗の心配はないだろう」


 コンコンと馬車の窓が叩かれて、小窓を開けるとレイナードの騎士が顔を見せた。


「次の街で祭りが行われているため、検問で渋滞しているようです」

「収穫祭の時期か、失念していたな」


 窓から見えた刈り込み済みの小麦畑を見たヒューバートは舌打ちしかけたが、アリシアたちの目があることに気づいて寸でのところで止めた。


「侯爵様、私たちは野営でも構いません」

「宿は昨日のうちに予約してあるから問題ない。ただ、このままで行くと宿の食事時間に間に合わないんだ」


 宿場町の宿屋は、食事時間が終われば食堂を酒場として開放することが多い。


「俺たちは酒場でも問題ないんだが、君たちをそこに連れていくのは少し……」


 『少し』ではない障りがあるため、ヒューバートは言い淀む。


 宿場町に立ち寄るのは圧倒的に男性が多いため、酔っ払い同士の喧嘩もあるし、彼らの財布を狙った商売女たちも酒場に集まってくる。ヒューバートに酔っ払うつもりはないし、喧嘩をするつもりもないし、商売女の誘いにのる気は一切ないが、なんとなく気まずい。


「それなら、夕食は露店で食べちゃ駄目ですか? 露店なら夜でもやっていると思うから」


 パーシヴァルの意外な提案にヒューバートが驚いている間に、アリシアが「こら」と嗜める。


「ヴァル、侯爵様にそんな場所で食事をさせるわけにはいかないわ。貴族は私たちとは違うの」


 明確に自分たちを分けるアリシアの言葉が心に刺さったが、ヒューバートは唇をグッと噛み、ついた傷に気づかれないように言い返す。


「君だって、露店の食事は合わないのではないか?」

「私は惣菜店にも露店にも慣れておりますわ」

「俺だって総菜店にも露店にも慣れている。よし、パーシヴァルに露店で肉串を買ってやる。この辺りは畜産が盛んだから肉が美味しいはずだ」


 自信満々のヒューバートの言葉にアリシアが戸惑っている間に、ヒューバートの提案に「やったぁ」とパーシヴァルが歓声を上げる。


「二本買ってください」

「二本と言わず、五本でも十本でも、好きなだけいいぞ」


 ***


(初めて会ったときのぎこちなさが嘘のようだわ)


 目元を優しげに緩めたヒューバートがパーシヴァルの黒髪をくしゃくしゃとかき回すのを、アリシアはぼんやりと見ていた。父子の触れ合いはとても自然だったし、母親である自分に見せるのとは少し違う笑顔で甘える息子の姿にアリシアは目を細める。

 パーシヴァルは人に甘えるのが上手く、人との付き合いが苦手で甘えるのが下手なアリシアは息子のそんな性格が羨ましかった。


 そんなアリシアの羨むような視線に気づいたヒューバートは口の端を上げた。


「君にも好きなだけ肉串を買ってやるから機嫌を直してくれないか?」

「……そんなに食べませんわ」


 息子を羨んでいたなんて知られたくないからヒューバートの勘違いにはホッとしたが、食い意地をはっていると勘違いされた点は好ましくない。

 フンッとそっぽを向いたアリシアの耳にヒューバートの笑い声が届いた。


(侯爵様がこんな楽しそうな顔を見せてくださるのは初めてだわ。少しだけ可愛く見えるのはきっと、パーシヴァルに似ているせいね)



 馬車はのんびり進み、陽がすっかり暮れてから街に着いた一行は旅装のまま露店に出かけることにした。


「美味しい肉串を見つけるには、匂いを辿りながらすれ違う人たちの手元を観察するのが大切だ」


 ヒューバートの言葉に元気よく「はい」と返事をし、言われたとおり鼻を動かしながら露店の並ぶ通りを進むパーシヴァルにアリシアは笑う。

 せっかくの祭りに暗い気分は似合わないと、祭りを楽しむためにアリシアも祭りの装飾をされた通りを見渡した。


 夜になっても灯籠のおかげで通りは明るい。

 夜更かしを許される特別な夜なのだろう、パーシヴァルと年の変わらぬ子どもたちがそこかしこを駆け回っている。


 ヒューバートとパーシヴァルが並ぶ姿を三歩分後ろで見ながら、冷やかし気分で露店を眺めていたアリシアの足が止まる。粗末な布の上に並べられたブローチから目を離せなくなったアリシアに、店にいたこの地域の民俗衣装を着た男が「お目が高い」と笑いかけた。


「何か欲しいものがあったか?」


 予想以上に見入ってしまったらしく、顔をあげると少し焦った顔をしたヒューバートがいた。アリシアが後ろにいないことに気づいて慌てて戻ってきてくれたようだ。


「あれか?」


 別にそれが欲しかったわけではない、ただ記憶に引っかかったから目に留まっただけ。そう言ってアリシアが止める前にヒューバートが男にそれを指さす。


「その赤い石のついたブローチをくれ」

「はいよ!」


 嬉しそうに答える男に声にいまさら違うとは言いづらく、アリシアがヒューバートに礼を言おうとしたら、男がアリシアに笑いかけた。


「旦那さんと同じ赤だね。奥さんと同じ緑のカフスボタンがあるが、どうだい?」

「商売上手だな。両方もらおう」


 慣れた手つきで金を払い、「釣りはいらない」と言って商品を受けとるヒューバートにアリシアが呆気にとられていると、ブローチを見てヒューバートが「似ているな」と呟いた。


「覚えて?」

「祭りの土産と言って俺が渡したやつだろう? 実はあの日、俺は仕事を探しに行っていたんだ」

「仕事、ですか?」


 自嘲するようなヒューバートの表情に良い思い出ではなさそうだとアリシアは感じたが、彼の昔話を止めたくなかった。


「王都の祭りは人手不足の店が沢山あると聞いて、まあ子どもだったし、結局は装飾品を売る店の店主が同情で俺に店番をさせてくれたんだ。賃金の代わりに彼の作品を一つもらう約束で」

「そう、だったのですね」


 そのブローチはまだアリシアの宝石箱の中にある。


 妊娠が分かったときに辺境の街までの路銀はある程度貯まっていたが、新天地で子どもを養育するには不安があったためルビーの腕輪は売った。そのときそのブローチも目に入ったのだが、二束三文の価値しかないと言われてそのまま宝石箱に戻した。

 でも売れなかったから宝石箱に戻したと言うのは自分への言い訳で、宝石箱を開けるたびに赤く光る石にヒューバートを思い出していたことをアリシアは仕方なく認める。


「まあ、あのとき祭りに行った経験が生きて、こうして美味しい肉串を見つけることができるんだ」


 そう言ってヒューバートが肉串を一本アリシアに渡す。

 いつの間にか騎士たちが肉串を買っていたようだ。


「美味しいよ、お母さんも食べてみて」


 パーシヴァルの元気な声にヒューバートが表情を緩める。


「君は甘たれのほうが好きそうだ」

「ありがとうございます、侯爵様」


 突然酸っぱいものを食べたような顔をしたヒューバートにアリシアは首を傾げる。


「ここで侯爵だと知られたくない。今だけは名前で呼んでくれないか?」


 その声には名前以上の何かを乞う響きがあり、思わずアリシアは俯き、それでも肉串の礼だと思い名を呼んだ。


「はい、ヒューバート様」



(恋心は呪いみたいね)


 夜祭の余韻か、久しぶりにヒューバートの名前を呼んだのが原因か。

 宿のベッドに横になってもアリシアはなかなか寝付くことができず、隣のベッドで眠るパーシヴァルの寝息を聞いていた。


 アリシアがヒューバートに恋心を抱いていたのは過去のことであって、いまのアリシアがいまのヒューバートに恋をしているわけではない。あくまでも昔のことで、この七年でアリシアが変化したようにヒューバートも変化した。


(いま心で燻っているのは、きちんと終わらせなかった未練だわ)


 恋ではない。

 恋ではないけれど、過去も現在もヒューバートほどアリシアを切ない気持ちにさせる男性はいなかった。

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