第3話 心が火照る

 アリシアが十一歳のとき、十三歳のヒューバートの婚約者になった。

 二人の婚約は二人の生家、上位貴族に縁が欲しいコールドウェル子爵家と資金難のレイナード侯爵家の両方に利益のある政略的な婚約だった。

 

 コールドウェル家は子爵位だったが優秀な先祖は勤勉さを買われて王家から特別に領地を与えられ、先祖は上手に領地を運営して莫大な資産を築いてきた。

 アリシアの父はその子孫であることが不思議なほど勤勉に働くことを嫌がり、領主としての仕事は領主代理に丸投げして本人は酒・女・賭博で資産を食いつぶしていた。

 そのくせこの男は野心家で、この男は実家への資金援助を餌にして伯爵家出身の妻を迎えた。


 アリシアの母はこの男の妻のコールドウェル子爵夫人ではなく、コールドウェル邸で働く下女。

 生母は産褥熱さんじょくねつが原因で亡くなり、夫人が認めたのでアリシアはコールドウェル子爵令嬢になったのだったが、子爵も夫人もアリシアに興味はなかった。夫人がアリシアに乳母と侍女をつけて離れに追いやったので、二人はアリシアの存在さえ忘れていたという。


 アリシアが子爵と再び顔を合わせたのは二歳のときだった。

 存在すら忘れていたくせに子爵はアリシアの優れた容姿に喜び、この瞬間にアリシアは子爵の駒となったのだが、相変わらず離れで放置されていたため自分が駒だと知ったのはアリシアが十歳のときだった。


 この日、コールドウェル子爵家では夫人が主催の茶会が開かれてアリシアもそれに呼ばれた。

 突然のことにアリシアはどうしていいか困ったが、夫人から「お前は特に何もしなくていい」と言われたので大人しくしていることに決めた。


 それは『茶会』はという名の競売会だった。


 子爵家に最も利益を与える者にアリシアを娶らせる。

 二人は自分たちが満足できればアリシアが年老いた男の後妻になろうが、悪趣味と評判の男の愛人になろうが構わなかったのだ。アリシアと同じ年頃の子どももいたが、ほとんどは父親と同じ年のほどの男性。何かを探るような視線にゾッとしたことをアリシアは今も覚えている。


 アリシアの容姿が男性受けの良いことも災いした。

 儚げな雰囲気を持つアリシアは年齢よりも大人びており、少女が女性に変化しようとする独特で危うげな美しさが遊び慣れた男たちの目を引いた。


 しかし実際にはアリシアは十歳・しかも人との交流が最低限のアリシアの情緒は十歳にしては大分幼く、子ども向けの恋物語にすら頬を染めて憧れる少女だった。

 そんな少女には欲にぎらつく男たちの目は恐怖でしかなかった。


 その後も『茶会』は定期的に開催され、アリシアは無理やり参加させられた。

 顔も知らない父親ほどの年齢の男たちから贈られたドレスや宝飾品を身につけさせられる自分をまるで人形のようだと思ったとき、アリシアは感情を捨てることにした。



––お前の婚約者が決まった。


 アリシアがそう言われたのは、珍しく子爵が離れに来た十一歳になって少したった頃だった。そして『婚約者』という言葉がギリギリだったアリシアの心を崩壊させた。

 子爵はそれを聞いたアリシアが壊れるなんて思っていなかったのだろう。「これから来るから準備しろ」とだけ言って離れを出て行った。


 そこから何があったのかをアリシアは覚えていない。


 気づいたときには、アリシアは屋敷の正面の庭の端にいた。

 気が狂ったまま屋敷を出ていけばよかったのに、よりにもよって自分を買った『婚約者』がこれから来る場所にいることに慌てたアリシアは玄関の石段脇にある植込みの影に隠れたに隠れた。


 夫人が玄関から出てきて使用人にあれこれ命令する声がして、『婚約者』はよほどの人物らしいとアリシアは思った。


 このときアリシアが抱いたのは好奇心なのだろう。

 アリシアは周囲のざわめきに紛れて少し移動し、馬車留めがよく見える場所に移動した。

 やがて馬車がそこに止まると、転がるように子爵家の下男が走っていき階段ステップを置く。そのタイミングをはかったように馬車から一人の男性が出てきた。


 その男性は黒髪は陽に当たると少し赤く光る不思議な髪だった。


 「ようこそ」と歓迎する子爵の声にアリシアは吐き気がこみ上げたが、続いた「レイナード侯爵」という言葉に驚いた。子爵なんかが家に招ける者ではないからだ。

 さらに驚くことに、彼らの挨拶からアリシアは自分の婚約者が男性の息子らしいと気づいた。


 また少しだけ体を移動させると、アリシアの目にレイナード侯爵と同じ髪をした少年がいることに気づいた。少年は『ヒューバート』と呼ばれていた。


 本の中の王子様とは違うけれど、少年の黒髪に整った顔立ちはアリシアのお気に入りの本に出てくる騎士様を彷彿とさせた。都合のいい夢を見ているのかもしれないと思ったが、「庭を散歩してきます」という少年の声に夢じゃないかもとアリシアは希望を持った。


 気づくと玄関先には少年だけが残っていて、アリシアが少年をぼんやりと見ているとがその唇が動いた。


––絶対に許さない。


 それは小さな呟きだったはずだが、風が拾ってアリシアに届けた。切ったらぐつぐつ煮えたぎる血が吹き出そうな、力強い声だった。

 「誰にも『ハズレ』などとは言わせない」と言って握られた少年の拳は真っ白で、アリシアはその衝撃に動くことはおろか瞬きも忘れた。

 

 この瞬間にアリシアは恋をした。

 それと同時に、彼と違って逃げた自分が恥ずかしくなった。


 彼に相応しい人になりたいと、「人形のようだ」と蔑まれることもあったアリシアの心に炎が灯された。


 ***


(息が詰まりそう)


 初めて見た時と変わらない意思の籠った赤い瞳から逃れるように、アリシアは手元の紅茶に視線を落とした。いい大人が何をしているのかと思ってしまう。


(二十七歳……昔と雰囲気が変わったのは年齢のせいだけではないわね)


 アリシアの中のヒューバートの姿は二十歳で止まっていたため、最近では思い出しても年下の可愛い男の子のように感じていた。それなのにいま目の前にいるヒューバートは違う。経験を重ね社会的に成功した自信からか、男性としての余裕のような器の厚みを感じられる。


(パーシヴァルに似ているわ)


 正確にはパーシヴァルがヒューバートに似ているのだが、あの日見た彼の父親とヒューバートのように、パーシヴァルとヒューバートの似ているところがアリシアの目に留まる。時間がたっても切れない縁を感じさせられた。


(私、老けたとか思われていないかしら)


 時間を意識したのでアリシアは自分の年齢が気になり、そして次に身なりが気になった。

 接客業なので清潔感には気を使っているが着ているワンピースは着古しているもの。化粧はいつも通り簡単にすませるもので、家事や仕事の邪魔だからと長い髪は一つに縛っているだけ。


 子爵令嬢だった頃に全く未練はないが、そのときの自分しか知らないヒューバートにいまの自分がどう見えるかがアリシアは妙に気になってしまった。

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