第2話 信頼を挟む

「今日は少し冷えるので、温かいお飲み物をお持ちいたしますね」


 その言葉に本職である侍女が動こうとしたが、ヒューバートはそれを目で制した。この状況を整理する時間がアリシアには必要だと思ったからだ。


「外にいてくれ」


 ヒューバートの声に、アリシアの肩が微かに揺れた。自分に背中を向けているアリシアの意識は全てこちらに向いていることに、ヒューバートはアリシアが自分を警戒していることを痛感する。


 チクタク チクタク


 店の中は静かで、時計だけが音を発している。


(歓迎されるとは思っていなかったが)


 全身で会話を拒絶しているアリシアに、どうやって話を切り出すかヒューバートが悩んでいるとアリシアが振り返った。


 その手には紅茶のセットが二人分。

 「話は聞いてくれるようだ」とヒューバートは安堵した。


 慣れた手つきで紅茶を注ぐアリシアを見ながら、ヒューバートは彼女が甘い紅茶を好んでいたことを思い出す。

 その記憶は間違っておらず、シュガーポットからとった大盛り一杯の砂糖を紅茶に入れる以前と変わらないアリシアの姿にヒューバートは嬉しくなった。


 アリシアがヒューバートに砂糖を勧めることなくシュガーポットを端に置いたことで、自分が紅茶に砂糖を入れないことを彼女が覚えていてくれたことに気づいた。


(アリシアが俺のことを覚えていてくれたとしたら、それは……)

「ご用件はなんでしょうか?」


 ヒューバートの思考にアリシアの声が割り込んだ。

 ヒューバートが目を向ければ警戒を露にした萌黄色の瞳。かつての温もりはなく、警戒の色だけがそこにあった。


 静かな睨めっこはしばらく続いたが、先に白旗を上げたのはヒューバートだった。


「服の注文をしたい、と言ったら?」

「婦人用ならば承りますわ」


 場の空気を変えたくて苦肉の策で茶化してみれば、返っていたのは意外にも了承の返事。しかしアリシアの顔を見れば、彼女がそれを信じていないことは一目瞭然だった。


(一昨日来いとでも言われたほうがマシだな)


 思ってもいないことを平気で言えるアリシアに、ヒューバートの胸がチクリと痛んだ。


(冷静過ぎる)


 こうしてアリシアと再び向かい合える日を、ヒューバートは何度も想像してきた。

 今回のように探し出して会いに来るパターンもあれば、ドラマチックに街で偶然再会するパターンもあった。そのときのアリシアの反応も、笑顔で歓迎してくれるものから「帰って」と叫ばれるものまで。


 しかし実際に会ってみると何百通りもの想像など役に立たない。

 アリシアは最初に少し動揺を見せただけで、ヒューバートの想像より遥かに現実のアリシアは落ち着いている。自分が期待していたほどにはアリシアの中に自分が存在していなかったことをヒューバートは思い知らされた。


「子どもに会いたくて、来た」

「……あと三十分ほどで帰ってくると思います。このままお待ちになりますか?」


 ヒューバートが練習の何十倍も時間をかけて願いを口にしたのに対し、アリシアは少し戸惑いを見せたもののヒューバートが拍子抜けするほどあっさりと受け入れてみせた。

 

「……いいのか?」


 ヒューバートの言葉にアリシアはうなずきながら優美に微笑む。


「自分でおっしゃったことですのに」

「自分でも烏滸がましいことを言っている自覚があるからな」


 ヒューバートの言葉に何かしら納得できる点があったらしく、アリシアの表情がふっと緩んだ。笑顔というほどではないが、少しだけ緊張を緩めたアリシアの様子にヒューバートの体からも少しだけ力が抜ける。


「いつか来るかもしれない、と思った日が今日来ただけですので」


 子どもに会いに来ても来なくても構わない。言外にそう示すアリシアにヒューバートは苦笑いを浮かべた。それ以外に自分の表情を隠す術がなかった。


「なぜ会いにきたのかは聞かないのか?」

「『会いたかった』でいいではありませんか」


 子どもに対する義務感、興味、もしくは愛情。侯爵として後継ぎ問題に困った等、アリシアにもヒューバートが何かしらの理由を持って会いにきたことは分かっているのだろう。


「少しお待ちください」


 そう言ってアリシアが席を立ち、引き出しから出した封筒がヒューバートに差し出される。何かと思って伸ばしかけた手が、アリシアの次の言葉で止まった。


「母子証明書の写しです」


 母子証明書があれば、国王でもそこに記された母と子を引き離すことができない。それがこのノーザン王国の法律だ。

 この証明書には父親の欄もあるが子どもの親として優先されるのは母親のほう。よほどの理由がない限り母親が子どもの親権を奪われることはない。


 アリシアはヒューバートが受け取らないと分かると、自分で証明書を出して机の上に置いた。

 子の欄には『パーシヴァル・クリフ・シーヴァス』、母親の欄には『アリシア・メルト・シーヴァス』。父親の欄は空欄だった。


「君の寛容な態度は、これがあるからか」


 ヒューバートが子どもに会いに来た理由などアリシアにはどうでもよくて、アリシアにとって重要なのは子どもの親権はアリシアにあり、その真剣は絶対に渡さないということだとヒューバートには分かった。


 母子証明書を見せたのは法律を盾に戦う意志、そしてヒューバートを信頼していないということ。


(信じてほしいと言っても無駄だな)


 アリシアの身分では、子どもの親権争いで彼女が侯爵のヒューバートと互角に戦うには法律に縋るしかないと頭では分かる。アリシアがヒューバートを信じられるほどの関係も築けていない。それでも信じてほしいと思うのは我が儘だとヒューバートはため息を吐いた。


「子どもを勝手に連れていくことはしない……証明する方法はないが」


 ***


(本当に母子証明書を突きつけることになるとは)


 アリシアは、実は冷静を装いつつも心配していた。

 ノーザン王国の法律では、親権争いのときに最も強い効力を発揮するのは母子証明書であることは確かだ。しかし母親の権利を保障し過ぎて、児童虐待や児童買春など犯罪の温床になりつつあることから、実際の裁判では母子証明書の効力が徐々に弱まっている。

 最近の裁判での母親の勝率は六割程度。絶対の安心を得るには低すぎる数値であったので、ヒューバートが「子どもを勝手に連れて行かない」と言うまでアリシアは安心できなかった。


(安心、か)


 ヒューバートの言葉を証明する方法などアリシアにはない。

 しかしその言葉を信じられる程度にはアリシアはヒューバートのことを知っている。


 二人が結婚していたのはたったの七日間だったが、婚約期間は七年間。

 一般的な貴族の婚約期間の倍以上の時間を、二人は婚約者として過ごしていたのだから。

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