呪いの絵画 中編
6月18日
日曜日。再び岡本家を訪れたサバコは、敷地の中から塀を越えて立ち昇る一筋の白い煙を見た。
「なにしてるんですか!」
インターホンも押さずに岡本家の門をくぐり抜け、白い煙が続く庭先を睨む。すると、そこには枯れ葉と共に何かを燃やす岡本一郎の姿があった。
サバコが走り寄ってその燃える何かを確認すると、それは昨日まで蔵に保管されていた『少女D』だと分かる。
「ああ。サバコ君か。少し遅かったね」
「遅かったって……! なんで『少女D』を、呪いの絵画を燃やしているんですか!」
驚きと共に沸き上がるのは怒りの感情。呪いを孕んでいるという希少価値を抜きにしても、それは絵画として価値のあるものだと語っていたのは一郎本人だ。
「百年もの歴史がある貴重な絵画を、なぜ自ら! まだ検証の途中だった。この絵画には何か得体の知れない呪いがあるはずだったのに……!」
「逆に問おうか。君は何故そこまで怒っているんだい? 一体なんの為に?」
一郎は至って真剣に尋ねていた。サバコは揺さぶられたように一瞬戸惑ったが、すぐに自分の立場を思い出し、述べる。
「私はオカ研の部長、大蓮サバコですよ。オカルトをこよなく愛するからこそ、貴方のその突飛な行動は余りにも目に余った。だから……」
真意を語ったつもりのサバコは、どこか自信無さげである。すると、覚束ない言い分を述べる彼女の胸元に、一郎はずばりと人差し指を向けて指摘した。彼女の吐くが言葉全て、彼の予想通りだったかのように。
「それだよ。その執着こそが呪いの本質だ。君はオカルトが随分好きなようだし、その熱意も昨日の様子で十分理解できた。相応の理由と好奇心があってここに来てるんだろう。なのに何故だろうね。君は語るべき理由があり、それを語ったにも関わらず後ろめたい心地で居る。——察するにその原因は、語るべきもう一つの本音が抜けているからだよ」
未だ真意を理解できないサバコに向かって、一郎が静かに付け加えた。
「すなわち、君はあの絵画に心底魅了されていたんだ」
「わ、私が……?」
地面に捨てられ、枯れ葉と炎に絡みつかれた『少女D』は、最早跡形も見えなくなっていた。
風がひゅうひゅうと吹いている。昨日彼女を魅了し、取って喰おうとした少女はどこにも居ない。寂しさがサバコの胸を襲ったが、それこそが呪いだったのだと自覚すると、途端に頭から手先にかけて血の気が一気に失われていくのを実感した。
「さっき、咄嗟に違和感を覚えて言葉を濁した辺り、君は完全に呪いに侵されていなかったようだ。若いのに強い精神を持っている。でも、やはり危なすぎたんだよ。私は昨日それを再確認した。燃やす理由はそれだけで十分だ」
「もしかして、私が帰る前に蔵に勝手に入ったところを……」
「娘の悠里が近くに居たから大丈夫かと思って隠れてたんだ。盗み見して悪かったね。とはいえ、呪いの絵画はこの通り燃えてしまった。もう、君が検証をする必要はないよ」
苦虫を噛み潰した顔で、サバコは地面に倒れる燃え
失意の内に
「君を裏切るような真似をして済まないと思っている。でも、こんな絵画は早く無くなった方が良いんだ。悠里には私から説明するよ」
「しかし、これは余りにも早計すぎる……いや、もう何もかも遅いのでしょうが……」
「娘とは今後も良い仲で居てくれると嬉しい」
サバコは苦しそうに頷いた。しかし、本心では、彼のその言葉を完全に信用できずにいた。
彼、岡本一郎はそれまでの絵画を大切に扱おうとする様子や、呪いは風化している等という発言がありながらも、今ではその絵画の危険性を案じて処分を敢行してしまっている。何故今更、娘の友人が危険な目にあっただけでそこまでしてしまうのか。
第一、彼女は直感的に、呪いの絵画がこうも簡単に消失してしまって良い筈がないと思っていた。百年存在した呪いが、尋常の炎で失われる訳がない。しかし、現にこうして目の前で燃え滓となっている少女こそが現実であり、それは覆しようのない事実である。
しかし、それでもやはり、サバコにとって彼の言葉は嘘の混じった不純物のように聞こえて仕方が無かった。今すぐにでも、流れる言葉を手ですくって粗を探してみても良かったが、しかしそれでも相手は長年絵を守ってきた人間だ。あれやこれやと言葉巧みに躱されるのがオチだろう。
「ありがとうございました」
サバコは門の下で粛々と頭を下げ、岡本家を後にする。伏し目の奥で瞼を貫くようなギラついた眼光が、腰を据えて目の前の怪事を睨んでいた。一郎はそれを目にすることも、気付くこともなく彼女を見送った。
家を出てすぐに、彼女の足は日曜のS高校へと向かっていた。
疑念を抱えたまま退くことはできない。父が何も言わないのならば、次にこの依頼を持ち掛けた当人を問い詰めるまでだ。
オカ研の活動はまだ終わっていないのだ。
その日、夕空を見る前にS高校を訪れると、そこの美術室ではやはりキャンバスと向かい合う岡本悠里の姿があった。彼女は神妙な面持ちで筆を持ち上げては下ろすという退屈そうな動作を繰り返しており、サバコはその仕草につい部室内での自分の行動を重ねてしまい、「オカ研でも活躍できそうだ」という皮肉めいた冗談を思いつくも、口には出さなかった。
サバコが美術室に入ってきたのを察して、彼女は弾むように顔を上げた。神妙な面持ちから一転してその顔は喜びに満ちている。
「先輩、どうしてここに! あ、もしかしてモデルをやってくれるんですか?」
「……ああ、最初にそんなことを言ってたっけか。生憎だが別用だ。呪いの絵画を君のお父さんに燃やされてね……検証が出来なくなった。色々聞こうと思ったけど、これ以上は調べるなって感じで何も聞けなかったよ」
「そ、そうでしたか」
気を落とした彼女に構わず、サバコが尋ねる。
「少し気になったんだが、君は自分の手であの絵画を調べようとはしなかったのかい?」
「怖くて、私一人ではとても……父から散々『危ないものだ』って聞かされてたので」
「君も、私が体験したようなことを?」
「一度だけ。それ以来あの絵は長時間見ないようにしています。父曰く、初めて私が見た時は半日もずっとあの絵にしがみついていたそうで……」
「なるほど。いや、字面こそ衝撃的なんだが、正直言って……その」
「弱い、ですかね?」
言葉を濁すと、悠里がそれを汲み取るようにして付け足した。サバコはこくりと頷く。
「正直、呪いの絵画だと大層なことを言うものだから帰り道に事故にあったり、親族の誰かが死んだり、最悪死んだり、そういった事態を想定していた。それなのに結果敵に起きたことと言えば『絵の中の少女に極度に惚れてしまう』くらいだ。呪いと言えば呪いだが、これだけではどうも味気がない」
「そうですよね……」
「次に気掛かりだったのが、そんな程度で絵画を燃やした君のお父さんだ。やはり早計が過ぎると思うんだよ。あんなに簡単に呪いの絵画を燃やしてしまって良い訳がない。それに、効果がしょぼいとは言え百年以上保存されていた呪いの絵画だよ? 聖なる光でも無いのにものの見事に消し炭になっただなんて、馬鹿馬鹿しいと私は思うんだ。だから思うに——」
サバコは言い終える前に気まずそうな悠里の表情に気が付いた。少々デリカシーに欠けたかと反省する。引きずるような口調で、言葉を捻りだそうとする。
「ああ、つまり、私が言いたいのは……」
そこで、サバコの意図を汲み取った悠里がすかさず彼女の言葉を続けた。それは、実にサバコの期待通りの言葉だった。
「もう一つの『少女D』の場所について、ですね」
最初に岡本家を訪れたのが昼の三時頃だった。S高校から遠く離れていた彼女の家は、徒歩で行けば往復三時間以上を要する。
太陽が頭上を去って沈みかかる
「このまま行けば父さんに見つかってしまうので、裏口を使いましょう」
庭の奥の、あまり手入れの行き届いていない林にその裏道はあった。そこを通り抜けるとすぐに例の蔵へと繋がったので、二人は岡本一郎の目を気にしながら中へ入って行く。
侵入したことがバレないよう扉を閉め切ると、中はほぼ完全な暗闇になった。入るなり、サバコは蔵の中の照明を全て点け、そして昨日の記憶を頼りに奥へ奥へと突き進む。
その時の彼女の中では、ある胸騒ぎが起こっていた。
それは初め、岡本一郎と共に訪れた時には無かったもので、しかし単独で再び侵入した時には確かに感じたものだった。照明の届かない闇の中に潜んでいるような、あるいは照明の当たるところであっても、何物も恐れないといった風体のまま堂々と構えているような何か——それは隠す気も無ければ自ら襲い掛かる訳でもない、ただ口を開けて待つだけの巨大な意思の気配だった。
歩を進めるに連れてその感覚は雑念の無い、シンプルなものになっていく。巨大な意思の気配は近付くほどにその規模を肌身で感じられ、ああ、この先に居るのだと安心にも似た心地を得られた。きっと何も知らないより、何か一つでも理解できるものがあれば恐怖の感覚が薄れていくのが人間の本能なのだろう。
しかし、夕暮れに差し掛かる暗がりのアトリエで、呪いの絵画を目指す自分達の心に、安心などという毛色の異なった感情が入り込む余地など、普通は無い筈だ。サバコはその違和感を噛み締めながら、やはり止まることはせずに少しずつ歩を進めた。
「こ、これは……!」
——やがてそこで目にしたのは、乱雑に置かれた呪いの絵画、無数の『少女D』達。
どの絵も、間違いなく『少女D』だった。しかしよく目を凝らせば全て僅かな違いが存在することが分かる。状態も良いものとは言えないし、派手な傷があるものもある。どれも完璧に同じという訳ではないらしい。
だがこうも沢山呪いの絵画があっては危険ではないのか。
「まさか、全て贋作なのか?」
「はい。あの中央にあるもの以外は、全て」
「なんと……。それなら、一郎さんが燃やしたのも」
そうと分かれば、ずらりと並んだ少女達はやはり『ただの少女』だった。雰囲気に圧倒された気持ちを正して、サバコは中央にある布のかかったキャンバスを見つめる。胸騒ぎの正体は無数の少女達ではなく、中央のあの絵にあった。
何故こんなにも大量の贋作が存在するのか。この家にある作品は全て贋作だと岡本一郎が言っていたことを思い出す。岡本家で唯一の本物が今目の前にあるのだ。サバコは緊張がひとしお込み上げて、吐き気を催しかけた。
「先輩、見ますか?」
「……ああ、勿論」
深呼吸をし、覚悟を決めた。念のために岡本悠里だけは絵画から目を逸らして、サバコの雄姿を目の端で見守る。
そして、ついに布を取り払った。
想像通りの少女の人物画がそこにある。しかし、額縁もないその油絵に対し、サバコは改めて底知れない価値を見出した。深淵のような黒い瞳が、それまで虚空を見つめていたはずの黒い丸が、今度は、確実な視線で、確かな色彩で、気のせいとは断ずることが出来ないほど明確に、自分の方を見ているのだ。
昨日と全く同じ感情が脳の神経を刺激していくのを実感する。細胞一つ一つの繋がりが断たれ、脳みそに直接手を入れられているような気がした。思考活動の妨害、苦痛を和らげるための甘美な物質だけが活動を許される。見えない手により胸倉を優しく掴まれて、知らない少女の息遣いを感じてしまう。右脚が前に出て、左脚は危険だと喚きながらもやはり前に出た。少女は生きている。自分を呼んでいる。そんな気がする……。
——否。気がする。あくまで気がするだけだ。これ以上惑わされてはいけない! サバコは突如正気になって奥歯を思い切り噛み締めると、自らの頬の内側の肉を食いちぎった。
「いっ……!」
口内に広がった鉄の味と、その様子を見て慌てて駆け寄った悠里の手のぬくもりが現実を教えてくれる。目の端で呪いの絵画を捉えながら、取り戻した思考をフルに動かした。
「先輩、これ以上は見ちゃ駄目です! どうですか、何か分かりましたか……?」
「ああ……分かった。これは紛れもない本物だったよ。そして今更確信した。どうやら私は、いや私達は……」
サバコが言いかけると、蔵の扉が勢いよく空いた。同時に男の声が響く。
「悠里、悠里! そこにいたのか!」
鬼気迫る表情の岡本一郎が、そこらにある小物を倒しながら二人の下に駆け付けた。帰りの遅い悠里を心配して探し回っていたのか。彼のシャツには汗の痕がくっきりと残っている。
しかし彼が二人の下に辿り着くと、表情は一変した。蔵に居る娘。居るはずもない大蓮サバコ。そして焼却したと偽った呪いの絵画に、それらを見守るようにして囲う偽物の少女達。
「貴方に騙されていたんですね」
サバコが確かめるような調子で尋ねる。すると彼は諦めたように立ち尽くして、小さくため息を吐いた。
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