第3話 愛のケモノ

 夏が終わり、遠目に見える山々が紅に染まり始める頃には、肌に触れる空気がしんと冷えて感じ始める頃。

 そんな折、世の中では凶悪な事件が多発していた。それも、同じ人間がたくさんの事件を起こしたわけではなく、示し合わせたわけでもないのに、同時多発的に、いたるところで凶悪とされる犯罪行為が発生していた。数の話をすれば、例年と大差はないのかも知れないし、ただ俺が家にいることが増えてニュースを見ることが増えただけなのかも知れないが、少なくとも俺の体感としては多いと感じるほどではあった。

 ひとはときに生物で最も残酷な一面を見せるよな。よくよくそんなことをするようなやつは人間じゃないなんてセリフを耳にする。社会規範を守らず、法を守らず、ただ、欲のままに動く人間は動物と一緒だなんてどこかのご意見番とされる芸能人が、ワイドショーで得意げに言っていた。

 それは違う。と俺は思う。動物のほうがよっぽど生物として真っ当に生きているんじゃないだろうか。人間こそがすべからく生物として落第で、さらにそのうちの極小数が、そこからあぶれた狂人だ。

 動物や植物を知性の有無で自覚なく見下す俺たち人間はきっと、あらゆる他の生物から嘲笑を受けているに違いない。そして気味悪がられていることだろう。あんなの、生き物なんかじゃないって具合にね。

 はた迷惑で奇天烈な自分殺しとは似ていて少しだけ差異のある、凶悪で凄惨な被害をもたらす犯罪に対する人々の関心。どこか他人事のようなのは同様だが、心のどこかにはがれにくいかさぶたのような違和感と不快感を残す。けれども人間の精神は強靭で、数週間後にはサラッと忘れるか、熱を失ったカイロのように見向きもされなくなってしまう。

 あんたは今までに起きた凶悪事件をどれだけ覚えているだろうか。それこそ数え切れない程の殺人、強盗、強姦、詐欺、暴行が、繰り返し行われてきたわけだが、その実、それぞれの背景や具体的な手口、犯人の人相なんてものまで、朧気にしか思い出せないんじゃないだろうか。ああ、あの頃あの辺りでヤバイ事件あったよね。みたいなふわふわした一種の思い出のような霞がかった記憶にとしてしか残っていないんじゃないだろうか。

 当事者関係者は死ぬまで覚えているようなことでも、半径十キロほど離れたところに住む他人は、どこか他の国で起きた出来事のようにしか感じることはできないんじゃないだろうか。

 きっと、ひとはどこかでひとが犯す凶悪な事件を忘れたいと願っている。ひとがそんなことするはずないと思いたい。目を塞ぎ、耳を塞ぎ、知らない体でいたいんだ。

 俺がこの秋出会ったのは、数年前、俺の地元を騒がせた元凶悪犯。そいつはひとを殺した殺人者。殺意を持って明確に、相手に恐怖をとことん植え付けてから死に追いやった。嬲るように痛めつけ、爪を剥ぎ、皮を剥ぎ、ありとあらゆる苦痛と恐怖を与え、対象を文字通り破壊した。

 彼は自らその行いを告白して捕まった。日本は罪刑法定主義。罪には罰を。そして、検察は彼に無期懲役を求刑した。

 彼はそもそも猟奇的な殺人者というふうではない。確かに行われた犯罪は、その死体は、猟奇的といって差し支えないものだったが、彼は正義感溢れる青年だった。

 けれど、善人ではなかった。悪人だった。というか、悪ガキだった。素行不良、非行三昧。何度も警察のお世話になるような札付きのワルだった。

 殺人は、最高刑が死刑。もしくは無期懲役、五年以上の懲役刑が科せられる。裁判が行われ、彼に下された判決は懲役七年だった。それは人を殺めるという反社会的行動に対しては少なからずかるすぎる判決に感じられる。しかも、彼は札付きのワル。前科一犯どころではない。少なからず、刑期が軽すぎるなんて論調はあったが、ニュースに取り沙汰されなくなるにつれて、世間から忘れ去られていった。

 そして、彼はその七年を待たずして刑務所を出て社会に紛れていった。それは、広い広い水たまりに朱を落とすかのように馴染んで広がり、やがて誰の目にも映らなくなった。

 死刑にならなかった凶悪犯は、今何をしていると思う? 新たな犯罪に手を染めるやつもいれば、幸せな家庭を築いているやつもいるが、結局、俺たちとあまり変わらない生活をしているやつがほとんどだ。今朝、家を出たときに見かけた犬を連れて歩くじいさんも、電車の中でたまたま隣に座った中年も、もしかしたら、世を震撼させた凶悪犯罪者かもしれないわけだ。そして、それを判別する力なんて、俺たちは持っていないのだ。

 ところで、俺はケンカというものをあまりしたことがない。強い弱い以前に、ケンカそのものが苦手だった。するのも、見るのもね。ケンカや暴力は、ひとを魅せたり昂ぶらせたりするよな。だから、その周りにいる人間も目をギラつかせて煽ったり、火に油を注いだり、一緒になって燃焼したりするわけだ。俺はそれが苦手だった。

 他人にケモノのように生きろなんて言っておきながらなんだと思うかも知れないが、それはそれ、これはこれ。行われる闘争行為の、その理由如何によってはなんの憂慮もありはしないが、そういう空気やなにかに刺激され、あるいは飲み込まれてしまう人が苦手だとでも言えばいいのだろうか。どうも動物の闘争と人間の闘争では、根本から異なって見えてしまう、そして、俺は目の前で行われるどこか違う闘争を、なんの感慨もなく冷めた目で見下してしまうのだった。

 しかし、その日、俺は初めて暴力というものに心を熱くさせられた。どんなケンカも、格闘技の中継ですらたぎることのなかった俺が、その時、その場にいた彼に釘付けにされてしまったんだ。


 夜中、というよりは明け方に近い午前四時前。街へ出ていた俺は終電を逃し、シュウゴとソウヤとともに飲み屋通りを練り歩いていた。久々にいい酔い方をしていた。一歩足を送るだけで前に進むことができる。たったそれだけのことが愉快で愉快でたまらなかった。それは隣をスキップしながら歩くシュウゴも、今年流行りのポップスを熱唱しながら歩くソウヤも同様だった。

 いつも同じ相手に、同じ流れで同じセックスをしているのに、なんだか妙に気持ちがいいてことがないか? それはきっと俗にいう会心の一撃のようなもので、その日その夜の俺たちも、それに似たなにかだった。いつもよりしこたま気分が良かったんだ。


「ブランコ乗ろうぜ!」


 そう言うシュウゴは一目散に近くの公園へと向かい駆け出した。このままではまずい。あの公園にはブランコが四つあるが、そのうちの二つは尻も入らない幼児用の小さいやつ。必然的にあぶれたやつが拷問のように尻をねじ込ませる羽目になる。

 フライングした集後に悪態をつきながら後に続き、ソウヤも叫び声を上げながら追いすがった。

 公園に着くとシュウゴが入り口で、棒のように立っていた。そして俺も、その光景を目撃して案の定棒立ちになった。

 数十メートル先、公園の中央には、オレンジ色の疎いラインが入った、昔はやったプーマのジャージを上下で揃えた男。それを囲っているのは全体的にダボッとした服装をしたヤンキー集団。まあ、見た目がそんな感じなだけでヤンキーでもなんでもないのかも知れないが。けれど、それ以上に異様なのは地面に突っ伏した十人ほどのヤンキーたち。これらも、別にヤンキーではないのかも知れないが。


「てめえ! くそっ、ふざけやがって!」


 囲っているうちの一人が吠えた。鼻から鎖のようなピアスをぶら下げた男の鳴き声は、なぜ自分が起こっているのかという難癖みたいな内容だった。お前から、とか、お前のせい、とかね。

 要は、ジャージが何やら不快なことをしたから僕たちはキレました。キレてるのはこっち、なんでお前が手を出してるんだ。このやろう。みたいな支離滅裂の逆ギレだった。

 正直何を叫んでいるのか半分くらい聞き取れなかったが、とりあえず見たままを言えば、フクロにしようとして返り討ちにあった、という感じ。しかし、一人で複数を相手にするなんてのはなかなか真似できるものじゃない。しかもすでに十人が伸びている死屍累々。

 激昂する鎖ピアスは鍔を吐き、耳障りな金切り声を上げてジャージに向かって殴りかかった。しっかりと、ケンカなれした動きだったように思う。俺には格闘技の心得はないが、幾度となくケンカというものを見る機会があったからそれくらいはわかる。目をつむって手をブンブン振り回すヒステリックとは訳が違う。けれど、彼が返り討ちにあるのはもはや必然のように思えた。なぜなら、ジャージは笑っていた。笑って、どうボコボコにするのかを考えてるようだった。

 果たしてどんな返り討ちに遭うのだろう。細かくまとめたカウンターで顎を撃ち抜くんだろうか。それとも相手の腕をひっつかんで投げ飛ばしてしまうんだろうか。そんな想像をするだけで、俺の手は汗を握ってしまう。

 そんな俺の素人考えの予想とは裏腹に、繰り出されたのは前蹴りだった。蹴るというよりは、踏むかもしれない。ジャージはスニーカーのソールの味を教えるかのように、鎖ピアスの顔面を踏み抜いた。

鮮やかだったとしか言いようがなかった。ポケットに手を入れたままに、不敵な笑みを浮かべたまま、ただただ力を振るう強者に見えた。というか実際に強者だった。

メキっという耳障りな音とともに鼻血を吹いて失神する鼻ピアスに、俺は拍手を送りたかった。いいやられっぷりだ、なんてね。残る二人は顔を見合わせて両手を上げる。


「マジですみませんでした。もう、やめてください」

「ケンカふっかける相手は選べよ」


一人が言うと、男はなんの恨み言もなくただそれだけを言って、やはり不敵に笑ってみせた。

 ぞろぞろと、のそのそと彼らは俺たちとは逆側の入り口へと歩き出し、その場から退散していった。首を鳴らしながら振り向いたジャージ。その視線の先にいたのは茫然自失だった俺たちだ。


「お前らはなに? あいつらの連れかなんか?」


 口調は荒いが、別段ケンカを売ったような話し方ではない。好戦的ではないが、別にやるならやるけど? って感じ。

 もちろん俺はさっきのやつらに倣い、両手を上げて首をブンブン横に振って、そんな意思がみじんもないことを表明した。しかし、俺は忘れていた。隣の馬鹿が、馬鹿だったことを忘れていた。


「俺はシュウゴ! そいつらは全く知らないやつだけど、あんたとケンカがしたくなった! 相手してくれ!」


 俺はシュウゴの過去も、ソウヤの過去だってそれほど知ってはいなかった。つるみ始めて約二年間。確かに喧嘩っ早いところもあるし、俺とソウヤが止めなければケンカになっていたことだってよくあった。だから、実際こいつが殴るところも殴られるところも、俺は目にしたことなんてない。

 今回も、いつもなら俺が羽交い締めにでもして止める状況ではあったのかも知れない。けれど、なぜかその選択肢は浮かばなかった。むしろ応援したい気分。


「いいぜ。俺はヨシキ。なんかこんなふうに名乗りを上げると戦国武将みたいだな。――そこのお前、審判してくれ。止める時は一言、止めろって叫べばいいからさ」


 名乗りを上げたジャージ、ヨシキに対し、俺は並々ならない既視感を持った。けれど、佳境を迎えた本日のメインイベントを前に、その既視感は掴む前に消えていった。


「了解。俺はアキラ」

「ああ、よろしく。ちなみにこんな堂々やるんだ。さっきの腑抜けみたいに適当にあしらうつもりはないから、責任重大だぞ? 俺は止めろと言われるまで止まらないからな」


 会話の最中しきりに柔軟を繰り返していたシュウゴが「よしっ」と膝を叩いた。怖じ気をかけらも見せることなく、ヨシキの眼前まで距離を詰め、俺を一瞥し促した。

 ケンカの審判なんてしたことない俺に、振られても困るが、それでもなんらかの合図をしてその争いを始めなければならない。


「スタート!」


 なんか、短距離走が始まりそうな場違いで間の抜けた合図になってしまったが仕方がない。俺にとっては丁寧な履歴書を書いて大手企業にエントリーするくらい分不相応な行動だった。

 俺の掛け声にあわせて、最初に動いたのはシュウゴだった。先程まで俺と一緒におちゃらけていたやつとは思えない、猛禽類のような鋭い眼光とテレビで見たことあるような身のこなし。立ち姿。フラフラの足取りで飲み屋通りに無作法に駐められた自転車に片っ端から足を引っ掛けて転がっていたのに、それが演技だったかのような凛々しい構えだった。

右拳は顎を隠すように、左手は目線の高さまで掲げたシュウゴから滑るように繰り出されたジャブを、俺は目で捉えることができなかった。気づいた時にはヨシキも動いていた。同じようななめらかな動きで躱し、お返しとばかりに空いたボディへと右拳を叩き込む。

 ボンっという空気が鈍く響く音が聞こえる。完全に、その拳はシュウゴの腹に打ち込まれていたが、シュウゴ止まらず、反撃を繰り出した。

半ば感心したようなヨシキの顔、けれどその顔に焦りはなかった。そして、それまで浮かべていた不敵な笑みとは違う、冷たい表情に切り替わった。

 それは、手加減をやめたとか、本気になったとも言える表情だった。けれど、俺にはその顔が、まるで人を殺すような殺意に満ちた顔に見えて、そして、先程脳裏をかすめた記憶が鮮明に呼び起こされた。

 俺はヨシキを知っていた。一方的に。そして他の人が彼をどう呼んで、なぜそう呼ばれるのかを知っていた。そして、周囲の醜聞とは全く違う、彼の本性を知っていた。

 肉と、骨が打ち合う音がして我に返る。正直、シュウゴはボコボコだった。最初から拮抗とは言い難いほどに実力差はあった。けれど、シュウゴは未だ笑みを浮かべ余裕の表情、に見えた。

 こちらをちらりと覗くシュウゴは小さく頷いた。俺もそれに応えるように声を震わせ応援した。意地でもこの戦いを止めないと誓った。


「あれは止めてくれって合図だったんだけどな」


 シュウゴはいつになく真剣な面持ちでそう言った。


「悪かったって。でもお前笑ってたじゃんか。そんなふうには見えなかったんだから仕方ないだろ」

「本当にびっくりした。俺だけおいて二人とも走り出して、ようやく見つけたと思ったらシュウゴは死体になってたし」


 議題はこの飲み屋の代金を誰が奢るかというもの。まさか俺な訳がない。俺は親友を信じただけで悪いことなんてなにひとつやっちゃいないんだ。悪いやつってのは、そもそも勝手にケンカをおっぱじめたり、足が遅すぎて肝心な場面に立ち会えなかったやつを言うに違いない。いつもなら割り勘だが、文句を言い始めたシュウゴのせいで、果てのない論争が始まっていた。


「なんだよシュウゴ。全然そんな雰囲気じゃなかっただろ? 絶対一発は入れてやるってぶっ倒れるまで顔に書いてあったじゃん。嘘つくなよな」


 戦争の間に割って入るのは、シュウゴをボコボコにした張本人のヨシキだった。

 俺はシュウゴが死んだあと、ヨシキがその場を立ち去ろうとした際に連絡先を聞いていた。後々警察沙汰になった時に連絡がついたほうが都合がいい。というのは言い訳で、単にいつもの悪い癖。俺の興味と好奇心による行動だった。

 最初は三人で飲んでいたが「機会があればもう一回やりてえ」と嘯くシュウゴをびびらせるためにヨシキをこの場に呼んだ。ヨシキが現れるやいなや借りてきた猫みたいにおとなしくなって目を泳がせるシュウゴは傑作だった。シュウゴの隣の席に座ったヨシキはノリがよく、着席直後にシュウゴの肩に手を回して快活に笑ってみせた。

 酒もあり、打ち解けた二人はいささか波長が合うようで、最終的には全員で盛り上がった。


「まあまあ、今日は勝者の風格を見せるってことで俺が出すわ。好きなだけ食え、好きなだけ飲め!」


 チェーンの食べ放題飲み放題の居酒屋なのだが、謎の気迫に俺たちは「おお」なんて声を漏らした。

 タバコミニケーションと飲みニケーションはなかなか馬鹿にすることができない。時間制限いっぱいに大いに飲み食いして、店を出る頃には十年来の親友のような錯覚を起こしそうだった。


「おつかれ」


 なぜか別れの挨拶として定着しているセリフを口にして、それぞれの家路を辿る。ばいばいなんて恥ずかしいし、じゃあななんて気障だしな。きっと日本有史以来青年以上男性限定別離の言葉使用頻度ナンバーワンに違いない。

 電車で来ていたのは俺とヨシキだけ。俺たちは後を引くふわふわとした酔を楽しみながら駅へと向かった。


「サエカは元気ですか?」


 特に、そこまで気にしているわけではなかった。俺が一番興味を持っているのは目の前のヨシキであり、その妹のサエカでは決してないのだが、俺は会話のとっかかりとしてその質問を選んだ。


「なに? お前サエカの知り合い? シュウゴとソウヤも?」


 前を歩いていたヨシキは立ち止まり、振り返って俺の顔をまじまじと覗いた。睨むでもなく、訝しむでもなく、ただ、俺の顔を見る。


「サエカとは中学の時一緒のクラスでしたから。ちなみにあいつらは地元が違うんで関係ないですよ」

「そうだったのか。なら俺の後輩になるわけだな。面白いめぐり合わせだ」


 かっかっかと特徴的な声でヨシキは笑う。


「お前、サエカと仲良かったの?」

「まあまあですかね。ただ、あいつが中学校に来なくなってから、多分俺だけがあいつとたまに会っていた。話を聞いていた。それだけです」


 仲が良かったと、男女の仲をそういうふうに表現すると、恋愛関係を彷彿とさせるが、俺とサエカはそういう関係にはなったことがない。そもそも東中学は一小一中、一つの小学校がそのままのメンツで中学に上がるので、ほぼ全員が幼馴染。惚れただの腫れただのはなかなかない環境だった。


「――アキラ。お前、どのくらい知ってんだ?」


 俺は少しの間黙ってしまった。なんて返せばいいのかわからなかった。取り繕うべきか、すべてを言うべきか。


「事件のことは知ってますよ」

「そういう意味じゃねえ。サエカに、聞いたのか?」


 サエカが、ただ一人俺にだけその話をした理由はわからない。けれど、俺はそれを知っていた。言いふらすこともなく、別段気にするわけでもなく、ただ、知識として知っていた。


「多分、聞きました。なんでヨシキさんが、人殺しをしたのか」


 人を殺す。あんたはこれをどう思う? いけないこと? 許されないこと?

 俺にとっては、確かにいけないことだ。けれど、その理由は法律や社会なんて関係がない。ただ俺がしていけないと思うからしないだけだ。逆に、してもいいと思ったら、俺は自分がどうするかわからない。きっと、多分その通りにしてしまう予感だけはある。

 法律で禁止されているからいけない。それも確かに一つの答えなのかも知れない。けれど、そんなものはただの文章だ。なんの力もない作文だ。誰も助けないし、誰も守らない。守るのは俺たちだ。

 ついこないだまで戦争をしていた俺たちが、何を持って人殺しを悪だというんだろうな。安易に駄目なものは駄目、禁止されているから禁止っていうのはなんか違うんじゃないかと俺は思うんだ。

 人それぞれ殺しちゃいけない理由を持つべきじゃないだろうか。誰かが決めた、やっちゃいけないことリストに書いてあるからやらないってのは、なんか気持ちが悪くなる。

 誰だって人を殺したくなるくらいに怒ることがあるだろう。なんなら妄想の中で何度も何度も殺しているかも知れない。けれど、大多数の人間は人を殺したりはしない。それは、殺す理由より殺さない理由が勝っているからなんだと思う。

 それでも少数は人を殺す。なにかそうさせる理由があったんだろう。ただの願望、欲望、怨恨、貧困。殺人には絶対殺意がある。そして殺意とは理由だ。ただ殺したいだけも、けれど、そいつの中では立派な理由。

 人の中にある理由なんてものは数値化できないから、なんとも言えやしないけど、恐らくは彼らのやっちゃいけない理由が負けたのだ。もしくは存在しなかった。

 そういう発作的な殺意を収めるには、法律なんてものはいささか無意味に感じもする。俺は、それぞれ人が、自分自身に課した、やっちゃいけないことリストにこそ価値があり、力があるんだと思うんだ。これはきっと、殺人以外にも言えること。

 無学な俺が六法全書を開いて刑法を読んだ結果、面白いことに気がついた。俺は刑法ってのは、人を殺すな! 女を犯すな! って感じの禁則事項が羅列されているものだと思っていたが、まったくもって違っていた。

 人を殺したらこんな罰があるよ。女を犯したらこんな罰があるよ。そんなことが事細かに何条にも渡って書かれている。これこそが罪刑法定主義なのだろう。犯罪という行為を指定して、それに対する罰を明確に規定する。構成要件に該当する不法で有責な行為が犯罪となる。要は誰が犯罪者で、どんな刑罰が下るかという説明書でしかないわけだ。

 そもそもにおいて、普通に生きて六法全書を開くこと自体あまりあることではないだろう。大体の人間がふわっとしたものとしてしか法律を捉えられない。そもそも目に見えるものじゃないのだから当たり前だけどね。

 まあ、何が言いたいかというと、浅学で馬鹿な俺からみた刑法ってのは、やっちゃいけないことリストにすらなりえないってこと。どうしたら犯罪がなくなるのか。そんなことは俺にだってわからない。ただ一つだけ言えるとすれば、動物は法律なんて必要とせず、犯罪もなく社会を円滑に回してるってこと。俺たちはもっと、自分自身に正しさの根拠を持たなきゃいけないのかも知れないな。


 中学二年生のとき、一つの事件が発生した。人殺しだ。しかも、なかなかの凶悪犯罪だった。死体は半壊だった。拷問でも行ったかのような惨状だったとニュースで言っていた。

 その犯人は、サエカの兄のヨシキ。実名報道されていたこともあり、その事実は瞬く間に地元へ広がった。

 そもそも、ヨシキは世間一般に言われる不良少年だった。当時の彼は十七歳で、高校には行かず、いつものように非行を繰り返す、地元では有名な悪童だった。それがひと一人を殺したというのはなかなかにショッキングかつ、地元民は心のどこかで「やっぱりな」という納得も与えた。

 それと時を同じくして、サエカは学校に来なくなった。当たり前のことだと、俺を含めたみんなも若いながらに察していた。彼女自体が悪くないことは分かっていた。けれど、だからといって学校に来てくれなんて言うことはできない。殺人者の妹が怖いと言うよりは、ただ、どうせもう会うことがないのも分かっていたし、来られても接し方もわからない。何より、その事件を話すこと自体、彼女の名前を口にすること自体が禁忌とされていた。それほどまでに、ヨシキ自身が恐れられていたし、その事件は深い傷でないにしろ、幾分か俺たちの発展途上の心に影響を与えていた。

 そんななか、俺はサエカとたまにだが会っていた。人気のない公園に二人、ブランコなんかを漕ぎながら、俺は学校であった些細な出来事なんかを報告していた。

 始まりは、そう、ただの深夜の散歩だった。既に父親は死んでいて、母親はめったに家に近寄らなかった。というか、多分夜の店で働いていた。そんな俺は、別段荒れると言うでもなく、ただ居心地の悪いひとりきりの部屋から逃げるように、ただ、深夜を徘徊していた。そんなときに、馬鹿みたいにぼーっとしてブランコに座っていたサエカを見つけた俺は、やはり好奇心のままに声をかけた。

 サエカはもとからおとなしい性格だった。けれど、笑うこともあるし、泣くこともあれば怒ることもある、無口ではないし表情も乏しくはない少女だった。けれど、その時の彼女は本当に虚ろだった。


「どうかした?」

「どうもしない」


 そんな会話から始まった。俺たちは互いの心に巣食う汚れた何かを互いに見せ合った。それはきっと、ただの傷のなめ合いに過ぎなかった。


 サエカは、その日いつものように塾へ行って、いつものように塾から帰っていた。時刻は二十二時。夜は怖いが、共働きの両親からの迎えはない。たまにヨシキがバイクで迎えに来てくれるが、その日は一人で帰っていた。なんのことはない。歩いて十五分ほどの距離だった。

 その十五分で、その事件は起きた。急に後頭部に焼けたような熱を感じた。声も出なかった。ただ、その熱さが痛みだと感じるのと同時に、サエカの意識は暗転した。

 まどろみの中で、サエカはいろいろな痛みと感覚を味わっていた。ザラザラとしたもので体中を拭われるような感覚と、内臓をまさぐられたような痛み。味わったことのない不快感はで意識を覚醒させたサエカの視界に広がるのは、自分の身体で繰り広げられた惨劇だった。

 サエカは、誰とも知らない男に犯されていた。

 嫌だと、やめてと、そう言いたいのに口は動かない、声も出ない。自分が犯されている実感も、感覚も鮮明にあるのにサエカ身体は言うことを聞かなかった。

 そこがどこかはわからない、ただ、耳に聞こえる男の息遣いだけが嫌に響いた。

 ため息とともに引きずりでた男。これで終わりか、なんてサエカは他人事のように考えた。けれど、次にまた、別の男が現れた時、サエカの心で何かが切れた。

 喉が擦り切れるほどに叫んだ。喚いた。言葉にならない絶叫。

 けれど、それを楽しむかのように男は凶悪な笑みを浮かべた。それとともにまたやってくる、内臓を押し上げるような感覚と痛み。男は笑った。舌を這わせながら、殴りながら、馬鹿みたいに腰を振った。

 なんで、こんな事になったんだろうと、なんで、こんな目に合わなければならないんだろうと、そう思えばそう思うほど、怒りは募る。けれど、徐々に声も出なくなる。抗う力がなくなっていく。

 こんなはずじゃなかった。こんなふうに、なぶられたくはなかった。触れてほしい相手は別にいた。汚れた自分は、もう誰からも愛されることはない。

 それは、絶叫ではなく、慟哭だった。ただ、サエカは泣いた。好きな人を思い、泣いた。

 その後のことは覚えていない。ただ、兄が自分の名前を呼ぶ声だけが聞こえた。

 次に目を開けた時――もうヨシキは殺人者になっていた。


 その話を聞いた俺は、けれど、たいして驚きはしなかった。それは俺自身が母親に犯されていたからだったのかはわからない。

 そんな俺の告白を聞いたサエカも、特に驚きはしなかった。


「なんで、こんな世界に生まれちゃったんだろうね」


 それだけ言って、月のない空を見上げた。

 中学卒業と同時に、サエカはその公園には顔を見せなくなった。

 

「サエカなら、普通に専門卒業して隣町の保育園で働いてるぞ?」


 それは、俺に一種の安堵を与えた。今にも消えてしまいそうなあの顔が、今は子供に囲まれて、ちゃんと生きているという。それはきっと幸運で、彼女の強さがもたらした結果だろう。


「そうですか。よかった、って言うべきなのかわからないですけど」

「いいことだろ。お前みたいにニートになるよりはずっとな。――たまにはあいつに会ってやってくれないか? あいつの連絡先教えとく」


 そう言ってヨシキは数桁の番号を打ち込み、俺のラインに転送した。


「まあ、機会があれば」


 けれど、自分からサエカに連絡を取ることはきっとないなとも思っていた。未だにフラフラしている俺が、真っ当に生きることを選んだ彼女に会うってのは、なかなかどうして、ハードルが高いと感じたからだ。

 けれど、意外にも俺は自分から彼女に連絡することになる。なんでこんな事になったのか、なんでこのようなことになったのかを知るために。


「おはよ」

「もう十時だよ。てか働けよ」


 十一月に入り、ことさら寒さも強まってきたその日。語尾に働けよをつけるのが流行中のチカに声をかけ、三人がけのソファに座るチカの隣に腰を降ろした。

 あくびをしながらスマホのチェック。今日は特に用事も予定もない。暇つぶしに街に出るかどうするかを考える。そろそろ冬も近づいてきたし、チカと出会って季節が一周しようとしている。中々に感慨深いが、それをあえて口にする性格でもない。

 チカがぼけーっと流し見るテレビに映るのは、朝の情報番組だった。今日の天気と気温を確認するために目を向ける。ついついテレビの天気予報って見ちゃうよな。別にいつだってネットさえあれば確認できるのに、なんとなくこっちのほうが正確な気がしてしまうのは俺だけだろうか。

――只今入ったニュースです。

 なんてお決まりのセリフと共に画面が切り替わる。この地方の天気が表示される前に飛ばされ小さく舌打ちしてしまう。


「なんか、昨日の夜に傷害事件があったらしいよ。相手は意識不明の重体。犯人逃走中とかで、ずっと同じニュースやってる。――ここって隣の町だよね? 物騒だなあ」


 のんきな間延びしたチカのセリフにつられて、俺もどこか現実味のない感覚でその隣町の報道に視線を向ける。確かに隣町。けれど、滅多なことじゃ行くこともない住宅街。ただ、犯人が捕まってないのは危ないかな。くらいに軽く感じていた。それほどまでに、世の中における犯罪なんてものはありふれてしまっていた。


「危ないから今日は家から一歩も出ないようにしよう。そうしよう」

「えー、冷蔵庫の中空っぽだよ? てか働けよ」


 そんなとりとめのない話をしながら、馬鹿みたいに平穏な一日を始めようとしていた。

『逃走中の沢村芳樹容疑者の行方は未だ掴めておらず――』

 俺は言葉を失った。つい最近も二人で酒を飲んだ、同級生の兄貴で、もと殺人犯のヨシキが、殺人未遂容疑をかけられた上に逃走中。

 俺は、不審がるチカを尻目に、その報道番組が終わるまで一言も声を上げることができなかった。


「ヨシキさんが人殺しってマジなのかな」


 その日の昼過ぎにシュウゴによって呼び出された俺がいたのは、いつものたまり場ではなくクソみたいなボロアパートの一室。シュウゴは物で溢れた自室のベットに腰掛けて、無理やり作ったスペースにやっと腰を落ち着けた俺にそう言った。


「まあ、前に人を殺したことがあるってのは本当。一人は死んで、一人は重傷だった。俺は地元が一緒だから知ってた」


 すでにヨシキが過去にした犯罪は衆目の下に晒されていた。事件発生から丸一日も経っていないのに、よくやるものだと感心した。けれど、その全ては事実だが。それは全てではなかったことを不審に思う。ヨシキはサエカを救うために殺した。その情状酌量により、未成年であったこともあって短い刑期で社会に復帰したわけだが、けれど、情状酌量の件は事細かに説明はされなかった。単に、未成年という部分だけ強調し、コメンテーターは厳罰を科すべきだったと批判していた。それは、恐らくはその事件の被害者であるサエカに対する配慮で、ヨシキに対する悪意によるものでないのは理解できたが、それでもどこか不快感が残る。


「じゃあ、もしも捕まったら、ヨシキさんてどうなるんだ?」

「そんなの俺にわかるわけないだろ? ただ、もしその被害者が死んで、傷害致死じゃなくて殺人で立件されたら、もしかしたら死刑になるかもな」


 なんの根拠もないが、けれど、通算二回目の殺人と聞けば、大抵の人間が俺と同じ予想をするだろう。それは、その行いは、ヨシキを殺人鬼と言わしめるにたるものに違いなかった。

 報道の内容によれば、ヨシキは面識のない人間の家に押し入り、住人を文字通り半殺しにして逃走を計ったとされる。被害者の住んでいた部屋には物色された形跡があり、金品を奪うために押し入ったのではないかという予想が立てられていた。


「俺、ヨシキさんに死んでほしくねえ。教えてくれよ、アキラ。俺はどうしたらいい?」


 すがるような目で見られても、俺にできることなんて何もない。目の前にいるシュウゴのようなコミ力も、ソウヤのような金を集める頭も、ヨシキのような腕っぷしも、サエカのような強さも、リッカのような誠実さも、チカのような勇気もない。俺は、ただの好奇心の塊だった。見渡す限りにおいて一番使いようもない馬鹿だった。そんなことは分かっていたはずだが、こうして殴られるように現実を突きつけられると、無性に腹が立ってしまう。

 俺は、そんな俺が嫌いじゃないとか言い続けてきた。正解などないことも知っていた。けれど、正解は自分で決めるものだということを見せつけられた。

 俺は、いつだって自分の正解を決められずに、ただ、したいことをしているのだと言い訳していた。

 そんな目で見るなと、シュウゴを呪った。俺に、何も持っちゃいない俺に正解を求めるなと、そう言いたかった。


「わからない。ただ、できることだけを探そう」


 それがただの逃げなのは分かっていた。シュウゴが期待を裏切られたかのような顔をしたのも見えていた。だとしても、俺はここにきて、何をどうしたいのかも見失っていた。それは、単に自分にできることがないことを、言い訳にしているだけでもあった。


 シュウゴの部屋を出て、近くのコインパーキングに停めた車までの道すがら、俺は意を決して先日もらったサエカの番号に発信した。こんな状態だ。きっと立て込んでいるに違いないだろうと期待してはいなかったが、二コールほどで繋がり驚いた。

 けれど、驚いたのはその後。俺の耳元で発せられた声を聞き、俺は顎がはずれるかと思うほど驚愕した。


『よう、アキラ。サエカとは会えたか?』

「は?」


声の主はヨシキだった。飲みに誘うような気軽な声。なんの気負いも、焦りも感じられない。


『なんだ、今家じゃないのか。なら早いとこ帰ってくれ』


 電話越しでもわかる、いつもと同じ、どこまでもいつもどおりのヨシキの口調。


「今どこで、何してるんですか? マジで――ヨシキさんがやったんですか?」


 俺は、別に怒っていたわけじゃない。ただ、興味津々、好奇心で知りたいことを根堀葉掘り聞きたいというわけでもなかった、はずだ。ただ、友人が無事なのか知りたかった。きっと、それだけだった。


『まあ、そうなるわな。今、俺がいるところは言えない。ただ、これだけははっきりさせておく。――俺がやった。これは事実だ。疑いようもない真実だ』


 そうか、と俺は納得した。けれど、やっぱりなとは思わなかった。そして、その理由を教える気なんてないんだろうことも悟ってしまった。


「俺に、何をしてほしいんですか?」


 だから、俺に連絡をとった理由を聞くことにした。


『話が早くて助かる。――少しの間でいい。サエカをお前のところで預かっててくれないか? あれでも俺の妹だ。こんなことで警察に引っ張られておくのも忍びないからな。俺が捕まるまでの間、頼む』


 それは、少しの間が終われば、ヨシキが捕まることを意味していた。そして、捕まってしまえば、二度とヨシキに会えない予感があった。別に、友達と会えなくなるなんてことは、よくある話だろう。過去に仲がよかったやつでも、時間が過ぎれば同じではいられない。時と環境の変化は、関係において最も作用をもたらすものだからな。あれだけ仲の良かったあいつらも、子供ができた嫁ができた、中には死んだと噂されるやつもいる。どっちからか離れていき、そして追わないことを選択して、その関係は乖離していく。

 けれど、ヨシキの場合は違う。こちらがどれだけ追おうとも、あちらがどれだけ踏みとどまろうとも、目に見えない壁が立ちふさがり、目に見えないナイフがその糸を絶つ。


「わかりました。任せてください。――でも、分かってますか? 捕まったら、自分がどうなるか」

『はは、自分が死ぬのが怖くて、人殺しなんてできるかよ』


 狂ってるなんて、思えなかった。ただ、すごいなと感じた。

 電話の向こうからサイレンが聞こえ、唐突に通話は切れてしまう。こちらではそのサイレンは聞こえない。この街でない、どこか別の場所にいることだけはわかった。


「おかえり。なんか、お客さん来てるよ?」


 自室に帰り、玄関で靴を脱いでいると、奥からチカがスリッパを鳴らして出迎えた。


「ああ、そうだった」

「別に、説明しろなんて言うつもりないけどさ、危ないことだけはしないでね」


 そう言うチカの顔にはどういうことか説明してと書かれているようにも見えたが、俺はその我慢に甘えることにした。

 リビングに入ると、いつぞやかチカがそうしていたように、サエカはマグカップをあたたかそうに両手で持って口をつけていた。いつぶりだろうか。ただ、そんな懐かしい感慨を持つことを、きっと現状は許してくれない。それでも、俺は許される範囲内で、彼女との再会を喜んだ。


「ああ、久しぶり、アキラ。生きてるとは思ってなかった」

「そのトゲのある喋り方も変わらないな。そんなんでよく保育士なんかになれたもんだ」


 久しぶりに聞くその声はほんの少し記憶と違って低かった。顔の造形も少なからず変わっていた。けれど、身にまとう雰囲気は、その達観した、人を寄せ付けない空気は、相変わらずだった。


「うるさいな、社会不適合者のくせに生意気。そのくせ、まさか彼女がいるなんて思わなかったけど」

「俺をなんだと思ってんだよ。彼女の一人ぐらい俺にもできるわ。――さっき、お前に電話して驚いた。まさかヨシキさんが出るとは思わなかったからな」

「――ああ、どうりでスマホがないわけだ。ほんと、とんでもない兄貴だよ」


 サエカは、諦めたような、裏切られたような顔をしてそう言った。


「まあ、確かにとんでもない人間なのは同感だ。――どうしてこんな事になったのか知っていることがあれば教えてくれないか?」

「その好奇心で突っ込んでいく感じも変わらないんだね。けど、残念なことに私はアキラが求めるような答えは何一つ知らない。ただ、兄貴があんなことしてくれたせいでろくに家にも帰れないから、しかたなくこうしてアキラの家に来たわけ。あいつの言うことを聞くのは癪だけど、他に行くところもなかったから。――ただ、彼女と暮らしてるだなんて思ってなかったから、他の場所を探すことにするよ。これ、ごちそうさま」


 カップをことりと置いたサエカは立ち上ろうとする。


「まあまあ、私は気にしないからさ。ね? サエカさん、だっけ。行くとこないならここにいなよ」


 俺が制止する前に、チカがそう言ってサエカの肩に手を置いて座らせた。俺が驚いて目を瞠っていると、チカは得意げに笑ってみせた。どうせこうするつもりなんでしょっと暗に言われているような気がして、俺は敵わないなと首を横に振った。


「まあ、チカもこう言っているし、それに、ヨシキさんから頼まれてるってのもある。お前は知らないかもしれないが、俺はヨシキさんと仲が良いいんだ。妹を見捨ててボコボコにされるのも嫌だから、ぜひここにいてくれ」


 俺は、きっと笑っていた。別に、何も面白くはない。こんな状況を面白がれるやつはそれはそれで才能だ。俺にそんな稀有なものは存在しなかった。けれど、その笑いがいけなかったのかはわからない。


「――私にっ! 私なんかに優しくしないで!」


 張り詰めた糸が切れたように、サエカは唐突に声を荒げる。


「もう、全部、全部嫌なんだ。なんで私はこんなに不幸なんだ。あの日に犯されてからずっとそう。すべてが憎い。自分も、他人も! 全部、全部。――なんで私ばかりがこんな目に遭う? なんでアキラは幸せになれるのに、私はそうはなれないの? この世界は私のすべてを否定する。私が抱くただ一つの思いすらも踏みにじる」

「でも、お前は死ななかった。生きたい理由があるんだろ?」

「そのただ一つの理由だって、きっともうすぐなくなってしまう。――私はどこまで汚されれば許されるの? 汚れなきゃ、生きてちゃいけないの? アキラならわかるんじゃない? 犯されて、汚されて、何もかもきれいに見えるのに、決して自分は綺麗になんてなれないって諦めて、ただ羨ましがることしかできない。普通に生きることを許されない。なんで、どうして――」


 慟哭。心を震わせるほどの慟哭。悲しみ、苦しみ。そんな言葉じゃ足りないくらいの感情が涙とともに溢れ出す。けれど、俺はどこかそれがきれいに見えて仕方がなかった。俺にはできないことだから。純粋な感情を放つサエカの姿は眩しい。そして、その美しさを彼女は自身で見ることができないでいる。


「大丈夫、大丈夫だから」


 チカは何もできないでいる俺を尻目に、サエカの震える身体を抱きしめた。汚れてなんかいないと、汚くなんてないと、言葉にはしないけど、それを伝えるように、その頭をなで続けた。


 サエカは、数ヶ月前から強請られていたと言う。

 強請りの内容は、至極簡単。この動画をばらまかれたくなかったら、自分の言うことを何でも聞く人形になれ。そういうものだった。

 数々の写真、動画。それはサエカの生活のすべてが監視されえいるかのようなものだった。寝室、トイレ、脱衣場。あられもない姿を収めたデータを盾に、その男はサエカを強請った。

 言われるがままに人形を演じた。サエカにとって、汚されることなどもうどうでもいいことだったから。今ある生活を守るために、サエカは逆らうこともせず汚され続けた。

 ただセックスするだけで守られる日常。汚れきった身体以上に、彼女には守りたいものがあった。

 そして、その状況が兄に知られる事となった。


「兄ちゃんに任せておけ」


 ヨシキは、ただそれだけ言ってサエカの前から姿を消した。そして、気づけば彼は逃亡犯になっていた。残っていたのは書き置きだけ。ただ、アキラを頼れと、それだけが書かれていた。


「私は、また兄貴を汚してしまった。あのひとは誰よりも純粋で、誰よりも正義漢で、誰よりも真っ直ぐなんだ。なのに、昔みたいに、私が汚れたせいで、兄貴が汚れてしまった。私が全部悪いんだ。私なんかが、生まれたから」


 泣き続け、ようやく落ち着いたサエカは自身を蝕み続ける状況を淡々と語った。


「そんなこと言うな、なんて、俺には言えない」


 何を言ったところで、俺は彼女の毒にしかなれないことを自覚した。サエカにとって、俺は同質の、汚れきった、ただ幸せとか誠実とか、綺麗なものを羨むだけの存在でいなければならなかった。

 けれど、俺にはチカがいた。そんな俺が言えることなんて何もない。もしかしたら、俺は彼女に裏切られたと思われることが怖かったのかも知れない。


「ただ、あの時、俺がヨシキだったらって考えた事がある。もし自分の大切な存在が同じ目にあったらどうするのか考えた。けど、俺には大切なものなんてなかったから理解することはできなかった。でも、羨ましいと思った。そんなふうに、ひとを殺すほどの思いを持てることが羨ましいなんて思った」


 今でも、正直わからない。チカに何かあったとして、俺はどうするのだろう。何もできずに、うずくまることしかできないのだろうか。

 俺はヨシキに魅せられた。あんなふうに生きられたら、なんて思わされた。けれど、自分がきっと、同じことはできないことも知っていた。


「私は、汚れてる。それだけならまだいい。――私は私のせいで、綺麗なものが汚れたことを喜んでしまうほど汚い。最低な人間なんだ。それでも、どうしようもないほど人間で、自分で死ぬことも選べない」


 俺には、サエカが何を言っているのかが理解できなかった。ヨシキの人殺しを喜んでる? それが何を意味するのかがわからない。


「サエカさんは、お兄さんが大好きなんだね」


 けれど、そのチカの言葉で、すべてに納得がいった気がした。


「サエカさんは、お兄さんが大切なんだね」


 大好きで、大切で、そんな存在が自分のために自身を犠牲にした。それを喜ぶこと。


「サエカさんは、お兄さんを愛してるんだね」

「いくら汚されても構わない。けど、私の思いが兄さんにバレてしまうのが怖かった。嫌だったんだ」


 それはきっと、人間が愛と呼ぶものに違いなかった。そして、泣きながら頷くサエカの姿が、綺麗に見えて仕方がなかった。


「サエカは、ヨシキさんを男として愛してるんだな」


 俺は、隣で目を瞑るチカに声をかけた。壁にかけられた時計の秒針が時を刻む音が響く。

 本当はチカを帰してサエカに寝室を使ってもらうつもりだったが、有無を言わさないチカの迫力に負けた。最終的に、サエカからの申し出もあって、俺たちは寝室、サエカはリビングのソファで眠る形で落ち着いた。


「そう、なんだと思う。私は一人っ子だし感覚はわからないけど、世界はこんなにも広いし、ひとはこんなにもたくさんいるんだから、多分そういうこともあるんだろうね。――世の中の決まり事って、多分ほとんどが正解に近くて、でも、絶対に正解じゃないんだと思う。きっと、サエカちゃんの思いをこの世界は、少なくともこの国は、いけないことだって言うんだろうね。それが正しいと思って、当たり前だと思って。だからこそその言葉はとても強い力を持つと思う。だって、みんなそれが正しいって思ってるんだから。でもさ、やっぱりそれは正解じゃないんだと思う。だって、ひとを自由に愛することが、その思いが間違っているわけがないよ。世の中にはもっと歪んだ汚いものが溢れてるに違いないのに」


 チカの真剣な言葉は、いつだって重たい。それは一度死を選んだことがあるからなのか、生きるために真剣だからなのかはわからない。けど、こんな空っぽの俺にいつだって力強い真実のような言葉をくれた。


「私はさ、アキラといるために自分を殺そうとした。多分それは多くの人の正解じゃない。アキラだってそう思ってるかもしれないけど、私には正解だったんだ。だって、今こんなにも幸せなんだもん。だから、これが正解って決められる。そうやって考えたら、サエカさんの正解ってなんだろう。このまま、ヨシキさんが捕まることが正解なのかな」


 わからない。わからないことばかりで、わからないことがどんどん増えていく。俺には何も決められない。何が正しいのか、何が間違っているのか、俺はいつもその選択から逃げている。


「いつもみたいにさ、したいようにすればいいんだと思うよ。私はあのひとの過去も、アキラの過去もわからない。だから、アキラが何を迷っているのかは分かってあげられない。でも、私の知ってるアキラはさ、きっと最後はしたいようにするんだと思う。怖がりながら、迷いながら、最後にはそうするんだと思う」

「今、俺ができることはサエカを泊めることだけだ。それ以外、俺にできることなんてなにもない」

「そうだね。だから、したいことが見つかるまで待つことしかできない。それはもどかしくて、苦しいことかもしれないけど、それでも逃げずに待つしかないんだよ。そのうち、アキラがしたいことっていうのが見えてくるはずだから」


 どうなんだろうな。ノリオに言わせてみれば、「終わりよければ全てよし」の形へ持っていくことが、きっと俺のしたいことだ。でも、現状においてなにが「よいこと」なのかわからない。すべてがなかったことになれば、サエカを蝕む記憶やヨシキの行動のすべてをなかったことにできれば話は早いが、俺はそんな秘密道具を持っちゃいない。

 けれど、結局は俺のいないところで、俺の知らない場所で、俺の関わらない形で、全ては終わった。ヨシキは、ただ自分がしたいようにした。

――そして、ヨシキはまた、一人殺した。


『アキラ! アキラ……、アキラ!』


 その電話を受け取った俺は、ヨシキを探すために街へ出ていた。見つかるとは思っていないが、それでも、ただ家に引きこもることを、俺自身が拒否した。


「落ち着いて、俺の声を聞いて。まずは深呼吸しよう。大丈夫、俺はちゃんと、チカの声が聞こえてる」


 チカ取り乱した声なんて聞いたことがなかった。いつだってのんきで、図太くて、柔らかくて穏やかな彼女が、息の仕方を忘れたように、しきりに呼吸を繰り返していた。

 何度かの深呼吸を経て、チカは「ごめん」と短く呟いた。


「何があったか、説明してくれ」

『――宅急便が来て、そのひとが急に押し入ってきて』


 チカは、震えた声でそう言った。なんで、俺はこういう大事な時に、大事な場所にいられないんだろうか。全身の血の気が音を立てて引いていった。


『それで、またもうひとり男のひとが入ってきて、その男のひとを殴って連れてった。サエカさんが「兄さん」って呼んでたから、多分ヨシキさんだと思う』

「――無事なのか?」

『私は平気だよ。ただ、サエカさんはその後を追ってどっか行っちゃった。警察を呼んでいいのかもわかんないし。ごめんね。心配かけて。もう平気だから』


 俺は、もうこんな声で謝るチカの声が聞きたくなかった。わからないことだらけのこの状態に、ただ怒りだけがこみ上げる。正解なんてどうだっていい。どうでもいい。そして、これが憎しみだということを自覚した。生まれて初めて感じる憎悪。胸が熱いのか冷たいのかも定かじゃない。ただ、痛いほどに鼓動していたのは確かだった。


「すぐに戻るから、そのまま待っててくれ。ちゃんと全部鍵を締めて、誰が来ても出るな。絶対だぞ」


 それだけ言って通話を切った。前を走る車も、赤く点灯する信号も、すべてが憎くて仕方なかった。


 部屋は、ほんの少しだけ散らかっていた。


「はは、特にすることもないから掃除してた。――だめだったかな」


 そう言って俺を出迎えたチカの肩は未だ震えていて、顔は真っ白。そして、唇の端が切れていたのを見て、俺は生まれて初めてひとを殺したいと思った。

 俺は、強がるチカをただひたすらに抱きしめた。このまま俺の胸で壊れてしまえばいいとさえ思った。誰かに壊されるぐらいなら、俺が今壊してしまえばいい。そんなことを考えてしまうくらい。強く、強く――。


「……アキラ、アキラ、アキラ」


 よかった。そんな言葉、言えるわけがないよな。いいことなんて一つもない。こんなことをしでかしたやつも、ここにいなかった俺も、何もかもを殺してやりたいくらいに憎い。

 憎い、憎い。そして自覚する。なぜこれほどまでに憎いのか。

 皮肉だよな。俺は憎しみを持って、初めて愛を実感した。今まで何一つ大切にしなかった俺は、自分自身すら憎むことなく生きてきた。けれど、今は違った。奪われたら殺したくなるくらい大切にすること。それが俺にとっての愛だった。それが正しいかはわからないけど、俺にとってはそうだった。――きっとヨシキにとってもそうなのだ。そして、彼はただそのためだけにひとを殺したんだ。

 俺は、どうするんだろう。目の前に、チカを犯したやつがいたら何をするだろう。殺すことは正解か、不正解か、なあ、あんたはどう思う?


 電話が鳴った。着信画面にはサエカと表示されていた。こちらから何度かけても繋がらなかったくせにとも思うが、それでも出ないわけにはいかない。


「――ヨシキさん。よくもまあとんでもないことに巻き込んでくれましたね」

『そうだな。すまん。まさか彼女と住んでるとは思ってなかったんだ。――だから、お前には権利がある。今から言う場所に来てくれないか?』


 そこは市外の山奥だった。キャンプ場でもスキー場でもない。ただの山。行ったら、後戻りができない気がした。きっと、ヨシキの言う権利とはそういうことだ。その権利を行使するか、放棄するかを、ヨシキは俺に問うている。

 掃除を終わらせ、何事もなかったようなふりをする健気なチカを見る。自分のしたいこととは一体何だ。


「少し、時間をくれませんか?」

『――わかった。けど、そんなには待ってられない。俺にも我慢の限界があるからな。日付が変わる前に来なきゃ、後は俺の好きにする』


 それだけ言うと、ヨシキは通話を切った。


「――私はね。多分少し嬉しいんだ。アキラが私のためにそんな顔をしてくれた。悲しい顔じゃなくて、怒った顔。私のためにそんな顔をしてくれる。私はそれで十分だよ」


 傍らで俺の腕を優しく掴むのはチカだった。

 いつも、俺が責めるのは他人ではなく自分だ。きっと、チカはそれをずっと見てきたんだろう。


「でも、私は言ったよね。アキラにはしたいようにしてほしい。したいように生きて欲しい。大丈夫。私はアキラがなにをしようが、したいって思おうが止めないよ」


 いい女だと、本当にそう思う。綺麗だとも思う。なんで、こんなひとがいるのに、世界はここまで邪悪なんだろう。世界はなんで、綺麗なものこそを汚そうとするんだろう。

 きっと、感情の一つ一つは綺麗なものに違いなのに、何かの拍子でそれはヘドロのような見てくれに変わり異臭を放つようになる。愛も、憎悪も、悲しみも、愉悦も、一つ一つはこんなにも純粋なのに、なんでこんなにも現実はグロテスクなんだ。

 それは、美味しいものだけを入れた鍋のようなものなのかもしれないな。ハンバーグにオムライス、ステーキや寿司、それを全部すき焼きにぶち込んだような世界に、俺たちは生きているのかもしれない。


「よう、アキラ。意外と早かったな」


 俺は、ヨシキが指定した山奥までやってきていた。本当になにもない。誰もいない。どんな形の生き物のものかわからない鳴き声と、木々が揺れて枝がなる音だけが響いていた。

 ヨシキは無造作に駐められたミニバンの前で待ち受けていた。タバコを吸って一息ついているその姿は、世間を追われている逃亡者には見えなかった。


「彼女は大丈夫か?」

「はい。まあ、少し唇を切ったくらいですかね」


 俺の言葉に、「それはよかった」と漏らすヨシキは、本心で安心したように吐息を漏らした。


「見るか? その犯人。ボコボコのギタギタで、意識もねえけど、それでお前の気が晴れるなら一発でも殴ればいい。大丈夫だ。どうせ最後には俺が殺す。なんの問題もないだろ。多分」

「――はい」


 披露するでもなく、ただ事実を見せるように淡々と。ヨシキは体重を預けていたミニバンのトランクを開けた。後部座席が一つもないその空間には、いつか遠目に見た「壊れた人形」が横たわっていた。

 ふー、ふーと言う漏れ出る吐息と、それに伴って微かに上下する上半身が、その人形が人間であることを証明していた。目を隠され、手足を縛られ、いたる所が血に濡れた、肉食獣に狩られた獲物のような有様だった。


「こいつは、俺が前に殺し損ねた、サエカを犯したやつのうちの一人だ。こいつが諸悪の根源。こいつがサエカの部屋に監視カメラを付けた張本人。そんで、この前半殺しにしたのはサエカを犯してたクソ野郎。――こいつは俺に復讐するつもりだった。もう一度サエカを犯すことで復習しようとしたんだよ。けど、面が割れてるし、そもそもこいつのナニは俺が切り落としたからな。だからこいつは他の人間にサエカを食わせた。ほんと、なんでこんなやつがこの世にいるんだろうな」


 激情を冷静に押し止めるようなヨシキの顔はどこまでも冷たかった。


「こいつの部屋でデータをぶっ壊しながら待ってたんだけど一向に帰ってこないから、まさかと思ってお前の家に行ったら案の定だ。まさか宅急便の格好してるとは思わなかったから出遅れた。すまないな」

「……殺るんですか?」

「殺るね。俺はそういう生き方でしか生きていけない。これからもずっとそうに違いない」


 俺は、ついカッとなってとか、衝動的にやっているフシがあるのかと思っていた。でも、違っていた。衝動でもなんでもない。ただ、愛するひとを汚した存在を殺す生き方を正解としただけの、愛のために人であることを捨てて、気高きケモノになることを決めただけの一人の男だった。


「サエカはどうするんですか? こいつを殺せば、死刑になるかもしれないですよ?」

「あいつに俺は必要ないさ。むしろ、俺のせいで嫌な目にあってきただろう。もう、いいんだ。俺は、ただの殺人者だよ。きっと生まれる場所を間違えた。人を殺せる人間がいていいはずがないんだからな。別に、正義を語るつもりもない。結局俺は自分が殺したいから殺したに過ぎないからな。あいつらが、犯したいから犯したのと、本質は変わらない。どっちも人間として終わってる」


 本当にそうだろうか。俺は、ヨシキより正しいと思える生物を知らない。間違っているけど、正義ではないけど、ただ正しいと思えることがあってもいいんじゃないか?


「ヨシキさんは、サエカを愛しているんですね」

「ああ、愛してる。誰よりも。――まあ、あいつに言ったことはないけどな。なんで妹なんかを愛しちまえるんだろうな。しかも、そのために人を殺せちまえるんだろうな。最初からできないように生んでくれりゃいいのにさ。ひとを殺せる人間も、妹を本気で愛する兄も、きっとこの世界には必要ない存在だよ」


 俺は、ヨシキに死んでほしくなかった。だから、殺さないでも済む道を提示したかった。そのために俺ができることは、これだけだった。


「――だそうだよ、サエカ。よかったな」


 なにもよくはないだろう、それでも、俺の車から出てきたサエカは、嬉しそうな涙を流して笑っていた。


「――サエカ」

「兄さん! 私も、私も兄さんが好きだ。ずっと、ずっと好きだった。この思いが、兄さんにバレるのが怖くて、ただ汚され続けた」


 それは、単なる一枚の手紙だったとサエカは言った。ヨシキに対する思いを綴った手紙。自分の裸の画像なんかばらまかれたってどうでもよかった。ただ、隠しきりたい思いがあった。


「私が、私が兄さんを愛したせいで、それを隠そうとしたせいで、また兄さんにこんなことをさせた。ごめんなさい、ごめんなさい。――あなたを愛して、ごめんなさい」


 こんな二人を、あんたは汚いと罵ることができるか? 確かに、ひとは殺しちゃいけないよな。兄を愛してもいけない。妹を愛してもいけない。それを決めたのは誰だ? あんたの正義はどこにある? 読んだこともない分厚い六法全書の中? 

 そして、何がそれを裁くんだ? 神か? 自然か? わかるよな。結局ひとを断罪するのはギロチンでも電気椅子でもなくひとなんだ。

 借り物の正義で悪と糾弾するだけの覚悟があんたにはあるか? 俺にはないね。俺にはひとを殺せるだけの正義はないんだ。ただ、探そうと思う。誰に決められたわけでもない正しさを、探し続ける。そんな生き方があってもいいんじゃないか?


 結局、ヨシキはそいつを殺した。残虐に、悪虐の限りを尽くしてその命を奪った。そして、自ら自首し、その事件は幕を閉じた。

 世間は彼を殺人鬼と呼んだ。ひとを二人殺し、一人は未だ意識不明の重体。


「憎いから殺した」


 犯人の供述はそれだけだと、ワイドショーでは報道された。その裏にある愛が露見することはなかった。殺人容疑。殺人未遂。彼は死刑に処されたところで、何も後悔はしないだろう。

 やっぱりなと、世間は口をそろえて彼を罵る。

 とんでもない狂人だと、更生なんて望めないと、死刑が妥当と口にした。そんな後味の悪さを残しながら、結局、当事者以外の人間の、その記憶は薄れていく。

 テレビでは年末特番のエンターテインメント。ワイドショーに出ていた芸能人が、馬鹿みたいに笑っていた。ヨシキを殺人鬼と称したその口で。

 はははと、俺は笑った。その滑稽さに、自身の無力さに。俺がその芸能人だったら、彼らが正しいと言えば、世界はほんの少しでも変わるんだろうか。

 そんなことを考えながら、その年の幕は閉じた。

 ハッピーニューイヤー。

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