第2話 バラまき親父とJKお散歩

 よく、ガキの貞操が乱れていると耳にするよな。かく言う俺も、そんなガキに毛が生えた程度でしかないのだけどね。でも、あえて今だけは、行使したこともない選挙権を笠に着させていただき、オトナとして声を大にして言わせてくれ。全くだ! ってね。

 最近のガキは何を考えて生きてるんだろうな。よくニュースで見る、おっさんが女子中高生との淫行騒ぎ。春夏秋冬、その手の報道は枚挙にいとまがない。

 彼女たち当人からすれば、おっさんに抱かれて数万円の利益を生み出すことは、罪でもなんでもないのかも知れないな。ただの方法、手段、人間ができる唯一の錬金術だ。

 確かに俺たちにとっての法や罪、罰ってやつには致命的な欠陥があるからな。あんたもわかるだろ? どんな罪もバレなきゃ無罪ってことだ。

 そんな俺も、年上の女に媚びと身体を売って金やモノに変えたことなんていくらでもあるさ。いや、そう、それは自由恋愛の範囲でね? 毎日がバースデーだっただけのこと。

 けれども、俺の黒歴史とここにいうガキの貞操とは、また話が違うと思う。いや、一緒かもしれないけどね。

 なぜこのように、彼らの貞操は乱れてしまったのだろうか。そんな疑問に百点の答えを持ってはいないが、想像ならしたことがある。

 有り体に言って、環境だろう。

 調べればセックスのやり方なんてすぐに出てくるし、今では静止画ではなく動画が主流。そんな動画や画像が無限に溢れる環境で、それに対する忌避感なんて抱けるはずがないのだ。

 しかも、まわりには、そんなコンテンツでフラストレーションを上げた、若者を貪りたくてウズウズしている輩の多いこと。まあ、そいつらも時代の犠牲者かも知れないよな。夜な夜なエロサイトで無修正動画を見られる世の中って、多分、既に狂ってる。

 俺は若ければ若いほど良いだなんて思ってはいないが、やはり年をとればそんなふうに考えるのかも知れないな。まあ、心を若く保ちたいのはわかるが、そういうのは法律の許す範囲内でやろうぜって話。もしも自分の娘が風俗嬢や、援交なんてしてたら嫌だろ? けれどもどうして、こっちがはなれても働く少女たちは増える一方。そりゃあ、そんな店があるから悪いと言いたくもなるよな。

 何にしても金のかかるこの時代だ。身につけるもの一つ、食べ物一つ、化粧品一つ。SNSでイイネ! を一つ稼ぐためにおしゃれなスウィーツを頼まないといけない世界に生きる若者は、いつだって金欠に違いない。

 女子高生が手に持つそのスマホは一体何を映しているんだろうな。人気のゲームだったり、それこそSNS、もしかしたら援助交際の交渉最中だったりしてな。ウリだの神待ちだの隠語を使うさまはヤクザのようにも見えるよな。

 まあ、若者にもたくさん、それぞれ、十人十色いろいろな生き方や考え方があるはずだ。若者だなんて一括りにされるのも、彼らにとっては至極業腹だろうけどね。

 それでも、家族との時間の減少とか、そもそも親の教育だとか、汚い情報に溢れているネットとか、学のない俺には断定できないけど、きっとこんなような原因がいくつもあって、その結果、隠れた非行少年や非行少女が増えて、その子供が大人になり、徐々にモラルが腐っていくような、そんな気がしてならないんだ。

 さて、長く語りすぎたが、かたや東大を目指して日々努力する若者と、若さを使って金を生み出す錬金術師。今回はそんな若者の中では一際聖女のように見えた女子高生と、バラマキをするおっさんの話。


 まずは、当時巷で噂になっていたバラマキオヤジの話をしよう。

 彼はまごうことなき中年で、けれども冴えないおっさんという風体ではなかった。太ってはおらず、むしろ痩せていて、いつもスーツを身にまとって、颯爽と街を歩くスタイリッシュアンドダンディ。

 ジャラジャラとした貴金属を身につけることなく、おろしたてのようにピカピカのスーツと革靴はグッチ。腕にはロレックスが見え隠れ。ぱっと見はただのハンサムなオヤジだが、よく見ればそいつが本当の金持ちであることがわかる。彼は複数の事業を展開する社長であった。大学生がノリでチャレンジして成功したような成り上がりではなく、昔からあった家業である零細企業を自らの力でどんどん成長させた実力を持った社長。

 彼の思考やカリスマは大いにひとと物、金を呼び込んだ。努力に裏付けされた自信の溢れた彼の眼差しはとても強く、睨んでもいないのに圧力を感じるほど。

 そんな、老若男女問わず惹きつける魅力をもったスーパーダンディがハマっていたのはJKお散歩。今は警察の摘発対象になっているようだったが、当時は限りなくグレーなバイトという位置づけの、JKビジネスの一つだった。

 JKお散歩とは文字通り、JKとお散歩するというもので、それに対し代価として金を払い、ビジネスとして成立させたものだった。ただの散歩で終われば限りなくグレーなバイトでしかないが、現実はそうそう綺麗なものじゃない。体のいい援助交際の温床になっている場合もあったらしい。それどころか、女子高生にモデルをしないかとスカウトして、その契約書を盾に、十八歳を超えたらAV落ちさせるなんて蛮行も事実よくある話らしい。表面上はグレーでも、ほんの少しだけ蓋を開ければ漏れるように溢れ出るのは真っ黒なヘドロ。

 現実ってのはいつだって、幻想という名のカモフラージュを纏っている。

 そんなJKお散歩を利用して、彼は毎週のように女子高生を伴い街を歩いているそうだ。普通の人間がそれを見てどう思うだろうか。あまりにもダンディな彼が、援助交際なんぞに手を出しているなんてまわりはそうそう思わない。

 そういう外見的な魅力も、彼が一代にして財を築くことのできた理由だろう。ほんと、イケメンは三文どころじゃないほどにお得ってわけ。

 愚痴が混じったが、とにもかくにも、彼はその魅力により違和感なく女子高生を連れて街を歩く。そして何よりも紳士。散歩以外のことは絶対に求めやしない。そして、彼は五万円の範囲内で奢るのだ。ご飯だったりアクセサリーだったり、衣服や化粧品なんてものをね。けれど、彼は一つのものには一万円までしか払わない。身の丈にあわない物を不用意に与えないとする彼なりの配慮らしい。

 そもそも、結局この噂は噂でしかなかった。彼はJKお散歩というサービスを利用するのではなく、単に友達、友達から友達の友達へ、と紹介に紹介を重ねていただけだった。それを知ったのは、俺が彼――スーパークールなダンディなノリオと、直接話す機会があったからだ。いや、彼は俺の友人で、そしてじいさんでもあった。

 その邂逅は七月の半ば、梅雨が明け暑さが増し、ガキたちの行動も活発になり始める時期だった。


「知ってるか? バラマキオヤジの話」


 いつものたまり場、パルコ裏の喫煙エリアで、シュウゴが得意げにそんなことを言い出した。


「ああ、なんかこの辺にいるらしいな。なんかチカの友達の妹か誰かが、実際そのおっさんに会ったらしい。なんか噂とはぜんぜん違うみたいなこと言ってた気がしたけど、忘れたわ」


 噂をドヤ顔で披露したかったのか、シュウゴは出鼻をくじかれたように不満げな顔を浮かべ、仕返しとばかりに会話をそらした。


「チカちゃんっていうのか、アキラの彼女。てか、アキラにちゃんとした彼女ができるなんて初めてじゃね?」

「いなかったわけじゃないけどな。すぐ別れたり、いつの間にか消えてたり、いるのかいないのかわからなかったり、飼われたりしてる時期が続いてたな」


 その久々な彼女はいまだリハビリの最中だ。どれだけ優秀な販売員だったかは知らないけど、復職はきっと不可能だった。


「まっ、それでも俺は働いたら負けだと思ってるけどな」

「クズかよ。まあ、今度会わせてくれよ。大丈夫。俺はホントの友達の女には手を出したりしないんだ」


 恥ずかしげもなく小寒いセリフを吐くシュウゴの顔はなんともにこやかだった。不思議と、こんなやつでもホントの友達とか言われると、なんとなく気分が良くなるものだ。たまに殺したくなるほどムカつくこともあるけどね。


「で、バラマキオヤジがどうかしたのか?」

「それがさ、俺の知り合いにやんちゃなチーム組んでるやつがいて、この前クラブでばったり会った時に話を聞いたんだけど、近い内にバラマキオヤジがオヤジ狩りに遭うらしいってさ。自分たちがやるとは言ってなかったけど、まあ、やるつもりだろうな」

「今どきそんな馬鹿なやつがいるもんだな。普通に街を歩いててもなかなかお目にかかれるものじゃないし、そのたぐいの人種は絶滅したのかと思ってた」


 数年前までは珍しくもなかったこの街周辺に蔓延っていたヤンキー集団は今、その影すら探しても見当たらない。

 馬鹿みたいにローダウンした古いセダンや、虫の触角みたいにかちあげられたハンドルのバイクはどこへ行ってしまったのだろう。まあ、たまに夏祭りや年末年始で見かけるけどね。

 いつもいるこの喫煙エリアも、その頃は落書きや吸い殻のポイ捨てで汚れきっていて、雰囲気もたいそう悪かったが、大規模な清掃と改修が行われた結果、俺みたいな気弱な青年が安心して一服できるように変わるのだから、時代のもたらす変化というのも馬鹿にしたもんじゃない。劇的ビフォーアフター。

 クリーンな街作りの行政執行か何かは知らないが、とにかく国が動いた結果、不良集団とホームレスの掘っ立て小屋は排除された。けれど、そんな街でも、相変わらず見えないところで援助交際だのなんだのと、犯罪やそれに近い行為がどこかで行われている。そして、やはりそれは目に見えない。

 自ら不良だと威嚇して歩くやつらよりもよっぽど恐ろしいよな。僕は至って真面目ですって顔をして、どんな悪行を働いているのかわからないんだから。松茸のふりした毒キノコ。

 若者の心や行動も、この街のように、時代を経て劇的に変わっていく。

 いくら自分の記憶を辿っても、今を若者として生きる彼らとは重ならない。二十を超えたばかりの俺ですら、今の中高生とは住む世界が違うんだ。

 しかし、おっさんも馬鹿なもんだと思った。というか一体何が目的なんだろう。金にものを言わせて紳士を気取る、勃たないだけのロリコンか、って具合にね。

 だが、ノリオは馬鹿だったかもしれないし、ずれていたかもしれないが、彼なりの信念と、彼なりの目的、彼なりの正義のもとに行動していた。


 深夜零時過ぎ、俺は泥酔したシュウゴをクラブから引きずり出して、居酒屋通りの裏手に放り投げた。横向きに寝たシュウゴの首元にコンビニで買ったミネラルウォーターを引っ掛けてやる。

 シュウゴはテキーラを瓶で一気飲みしても平気な顔をして踊り狂うこともあれば、カクテルいっぱいでベロベロに酔っ払うこともある不思議なやつだ。今日はテキーラ一気でこの有様。まあ、大抵の人間がこうなるよな。

 優しい俺が手厚く介抱してやっていると、遠くの方から不穏な声が聞こえてきた、

 ぐお、うお、なんてうめき声と、どんっという妙に不快で重たい音。それが、ひとがひとを殴る音であることを理解した俺は身構えた。というか硬直した。

 シュウゴは最悪、見捨てることにした。俺は犯罪なんかに巻き込まれたくないし、きっと、ホントの友達であるシュウゴなら笑って許してくれるに違いない。

 いつでも逃げ出せるように中腰の体勢で様子を伺う。

 やがて、人影が三つほど俺の前に現れた。どうしようかと思い悩んでいると、街頭に照らされて、先頭を走っているやつの顔が鮮明に見えた。

 雑に脱色したのか緑がかった金髪、ズラズラと連なったピアスの付けられた耳からは血が流れ、折られたのか、顔の中心より右に寄った鼻からも血が滴っていた。

 ダボダボのジーンズが脱げないように腰に手を当てながら、逃げるように走り去るそいつの表情に浮かぶのは、紛れもない恐怖だった。


「おいおいおいおい」


 俺はもう、心の中の戦慄を留めることができず、思わず口に出していた。

 ただのヤンキーくらいなら別に女を連れているわけでもないので喧嘩にすらならなかったろうが、そいつらがこぞって逃げるようなヤバいやつを相手に何を言えば助かるかなんてわかったもんじゃない。そんな相手でも、普通に話ができそうなコミュ力の塊はテキーラで夢の中。

 さすがに本気で、逃げ出そうか考えていたが、変に逃げて、追われて、あいつらの仲間だと思われるのも危険かと思った俺は、その場に留まって善良な無関係者として振る舞うことに決めた。

 颯爽と、疾風のごとく去っていったやつらのあとを追ってか追わずか、コツ、コツ、とゆっくりとした革靴の地面を叩く音が耳に入る。これは、相当やばいかもしれない。スーツの相手に不良が逃げ出す? 答えは簡単、カタギじゃない。

 足音とともに現れたのは、はちきれそうなブラックスーツを纏い、夜なのにも関わらずサングラスをかけた大きな男。単純に怖かった。だって、右の拳に誰かのへし折れた歯が刺さってたからな。俺は、この夜ほどシュウゴに出会わなければよかったと思ったことはなかったね。


「君、大丈夫か?」


 その声はブラックスーツの大男からではなく、その巨体の奥から聞こえていた。大男の背中から、ひょこっと顔を出した声の主も、同じようにスーツ姿の痩せた男だった。

 大男が守るように周囲を警戒しているのを見ると、こいつが親玉に違いない。学のない俺でも多少の敬語は使えるんだ。テンパりながらもどうにか言葉を選んで返事をする。


「はい。連れが飲みすぎて潰れてしまったので、ここで介抱してました。そちらこそ大丈夫なんですか? なんか拳に刺さってますけど」

「ああ、大丈夫。彼はとても、鍛えているからね」


 知らなかった。ひとは鍛えると拳に歯が刺さっても大丈夫らしい。


「そうですか。ちなみにさっきここを通っていったヤンキーとは無関係ですよ。俺たちは善良な一般市民です」


 そう言うと、痩せた男は腹を抑えて快活に笑った。


「その言い方だと、僕たちがまるで善良な一般市民じゃないみたいじゃないか」


 当たり前だ。拳に歯を生やした善良な一般市民がいてたまるか。心の声は胸の内にとどめて、俺は次の言葉をひねり出そうと必死に考えていた。


「まあまあ、そんな怖がらなくても大丈夫だよ。実際、僕は本当に普通の会社で働いているんだ。ただ、社長という立場上危険がないわけじゃないからね。秘書兼警護役の彼を連れて歩いていただけなんだ。驚かせて悪かったね。ヤクザものに見えたかな」


 完全にその筋の人間だと思っていた俺は心底ホッとした。一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませる必要はないらしい。もしひとつでも間違えたら魚の餌にでもさせられるのと本気で考えていた。


「僕は鹿島紀夫と言うんだ。よろしくね」

「俺はアキラと言います。こっちで伸びているのはシュウゴです」

「ここで会ったのもなにかの縁だ。それに、少なからず怖い思いをさせてしまったみたいだからね。送るよ」


 あんただったらどうした? 丁重にお断りさせていただくか、無遠慮にもお言葉に甘えるか。俺は怖いもの知らずではないが、一度興味が湧けば我慢ができない質なんだ。それは深い海の底で生じた気泡のように、ひたすら海上に突き進み、その果てに至るまで決して消えることはない。


 俺はいつかソウヤとでかけた時以来、人生で二度目のレクサスに乗り込み、自宅へと向かっていた。運転手は先程の大男。見てくれとは逆にえらく丁寧な運転は法定速度ピッタリで、重力を感じさせないハンドルさばき。社長の車の運転となるときっと必要な技術なんだろう。そう言えばソウヤが雇っていた運転手もこんな運転だった気がする。

 ソウヤはセダンがあまり好みではなく、ただ舐められたくないという理由で買っていたが、すぐに売り払ってしまっていた。その際安く譲ると言われたが、俺みたいなやつがこんな車、それこそバランスが悪いよな。俺がどんなに背伸びしたって逆立ちしたって、あの新古車のクラウンが限界だ。まあ、修理歴はついてしまったけどね。

 シュウゴは住んでいるアパートが近いため、早々に部屋へ投げ捨てた。今は俺とノリオが後部座席に隣り合わせで座っている。真ん中にはなんのボタンだかわからないスイッチが散りばめられた肘置き。運転席と助手席のヘッドレストにはモニターが付いていた。

 本革張りの座席に姿勢正しく座っている俺は、慣れてきたと言えど、少なからず緊張していた。まさか、このままどこかへ連れて行かれたりしないよな、なんてね。


「なに、そんなに固くならなくてもいいよ。とって食ったりなんかしないからね。そうだ。まだ少しかかるだろうから話をしよう。僕は若い子と話すのが大好きなんだ。さっきもね、若い子と話をしていたら、恥ずかしながらオヤジ狩りと言うのかな、それに遭ってしまってね。命からがらやっとの思いで対処してたところだったんだ」


 命からがらだったのは、逃げていたあのガキどもだったように思う。

 恐怖なんてもの、ひとは意外と顔に出さないもんだよな。怖い話、お化け屋敷、ホラー映画。そんなものによって湧き上がる恐怖心は娯楽と一緒。ビクッとしてびっくり。サプライズに心を踊らせているだけに過ぎない。本当の恐怖を顔に滲ませた人間ってのはそうそう見れるものじゃない。

――ふと、俺はシュウゴの話を思い出した。バラマキオヤジがオヤジ狩りに遭うっていう予言のような話。


「普段から若い人と交流してるんですか? 最近はネットとかで人とつながるってのも流行ってますしね」

「ここ最近は特にね。まあ、噂みたいにJKビジネスなんかにお金を払ってはいないんだけど、確かに女子高生と多く会っているのは事実だからね。カマをかけなくても普通に聞いてくれて構わないよ。あなたは今噂のバラマキオヤジですかってね」


 どうやらお見通しのようだった。食えないオヤジ。


「すみません。ちょうど今日話題に上がっていたのでつい勘ぐってしまいました。まさか本人に会って話ができるなんて思いませんでしたよ」

「僕は、君のような前途ある若者に注目されるような大それた存在じゃないさ。ひとよりも運良く少しだけ稼がせてもらってはいるけどね。でも、それなりに苦労して、辛い目にも遭った。そして、今頃僕は、自分が施され続けて生きてきたことに気がついた。だからこんなふうに、未来を担う子供と触れ合って、今度は僕が施してあげたい、なんて思っているんだ。この国は、どこかおかしくなっているように思う。若者は特にそうだ。僕は説教をしない。できない。ただ施すことしかできない。施すことで防げる非行があるなら、いくらでもお金を使おうと思ったんだ。今回は痛い目を見てしまったけどね。彼には悪いことをした。迷惑をかけるね」


 ノリオは言葉尻を上げながら、運転席に目を向けた。


「とんでもありません。社長のお好きなようになさってください。私はその先々で職務を果たすだけですから」


 ルームミラー越しにノリオを見ながら、優しい声で大男は応えた。声以上に優しい瞳を向けていたような気がする。サングラスで見えやしなかったけどね。


「なんで女子高生を相手にしているんですか? 体裁も風聞も良くはないだろうし、最近は条例も厳しくなってきてるって聞きます。また今回みたいに馬鹿なガキに狙われるかもしれないし」


 単刀直入に、確信へ至る質問をぶつけた。グレーなビジネスを介していないにしても、特に女子高生と多く接しているのは本人も認めていた。

 世のためひとのためと言うならば、もっと見栄えが良くて称賛される方法がいくらでもあるはずだし、それを実行する財力もあるはずなのだ。全体ではなく個人として若者を、しかも女子高生を相手にするような行動は、怪奇極まりないように思えた。


「そうだね。まあ、さっきも言ったけど、何も女子高生専門でお金を与えているってわけじゃないんだけどね。それでも、やはり彼女たちが一番この社会に犯されているように見えているのは確かなんだ。女性というのはリアリストだ。男なんかよりもずっと強い。いくら汚れても気にしないくらい、強い。けれど、できれば綺麗でいてほしい。その綺麗が広がっていって欲しいって思うんだ。今はきっと、汚れが広がってしまっている。誰かがきっと叫ぶべきなんだと思う。誰の立場も、誰の思いも気にすることなく、ただ、正しいことを叫ばなければならないんだと思うけど、僕にはそれができないんだ。僕は正しく、家族を愛することもできなかったような人間だからね」


 確かに、今の御時世誰にだって人権がある。間違ったことを間違っていると糾弾しても、そいつが完璧じゃなければ、その粗を馬鹿みたいに攻め立てる。完璧な人間なんてこの世にはいない。だから、間違いを正すこともできない。俺は率直に気持ち悪いと思うんだ。 

 どれだけ真摯な訴えでも、どれだけ強い言葉でも、完璧じゃない一人の人間に動かせるほど、社会はきっと、軽くない。 


「――あと一つ、僕は、娘を探しているんだ」


 付け加えるように口にしたノリオ。その言葉に驚いてその表情を伺う。遠い景色、もしくは遠い記憶思い浮かべているようなその瞳は、隠しようのない寂寥が滲んで見えた。


「今日は本当にありがとうございました。あのままだったらシュウゴの部屋で雑魚寝するはめになるところでした」

「いやいや、いいんだよ。なかなかおもしろい時間だった。僕はいつも聞き手だからね。自分の話ができて新鮮だったよ。――ああそうだ。君はお母さんか彼女さんはいるかい」


 独特な質問だった。母がいないかもしれないことを前提とした、孤独者の質問のように思えた。


「母はいませんけど、彼女はいます」

「それは良かった。――これは僕が経営している会社のひとつ、美容エステと脱毛の店の無料券が入ってる。今日のお礼じゃないが受け取ってくれ。こんなものしか手元になくて申し訳ないけれどね」


 送ってもらった上に物まで受け取るなんて、非常にバランスの悪い状況だった。けれど、ノリオには有無を言わせない迫力のようなものがあり、俺は差し出された封筒を渋々受け取ることにした。けれど、やはり気持ちが悪い。


「何から何までありがとうございます。けど、もらいっぱなしというのは駄目な性分なんです。もし、ノリオさんが良いと言うなら、俺も娘さんを探しますよ」

「おお、それはありがたい。でも、君にも生活があるだろう。――こうしよう。探すなんて真剣なことはしないでいい。けれど、君がでかけたり、ひとと話したりした時に、僕の娘のことを心の隅に留めておいてくれないかな」

「わかりました」


 そうして連絡先を交換した俺は車を降り、駐車場からマンションへと向かった。エレベーターに乗り込む前には正面入口のセキュリティを解除しなくてはならない。手間のかかることだけど、慣れてしまえばどうということもない。そんな何重の防衛機能に守られるような大層な人間でもないけどね。

 玄関ホールで解錠装置に鍵を挿して自動ドアのロックを解除しようとしていたら、声をかけられのけぞった。振り返ると、サングラスをかけた大男が俺のことを見下ろしていた。


「何か悪さをしようとしたら許さないからな。わきまえろよ」

「そんなこと、一ミリも考えちゃいませんよ。なんなら部屋の番号も彼女の連絡先も教えますよ」


 俺は何やら疑われているらしい。そりゃそうだよな。どこの馬の骨とも知れないガキに、大事な社長が謀られるかもしれないんだから。今日のこともある。実際何度も同じような事があったのかも知れない。悪人はいつだって、自分からかけ離れたような純粋で切実な思いを食い物にして利益を貪る。


「それはいらない。だが、そういう素振りを見せたら容赦するつもりはないからな。それだけは覚えておけ」


 俺は、その拳に無造作に張られた絆創膏を尻目に答えた。


「肝に銘じておきます」


 部屋に戻るとチカがいた。午前二時を過ぎているのに、のんきにソファに寝っ転がって、録画された流行りのドラマなんかを見ている。

 既にあの事故というか自殺というか、ともかくあれから半年ほど経っている。チカは懸命にリハビリをこなし、杖を使ってだが、幾分か歩けるようにまで回復していた。俺がいる時は基本的に車椅子を押してやるのだが、最近ではそれも身体がなまるからといって拒まれたりすることもしばしば。

 借りていた部屋は既に退去し仕事も既に退職している。少し離れた実家で養生中だが、こうして俺の部屋に入り浸っていることが多い。ミカンは腐ると放っておくと他のミカンを腐らせるらしいな。さておき、チカの親とは絶対に顔を会わせたくないと常々思ってる。

 生きたいと願う力ってもんは、どこか現金で醜くみえるときもあるが、眼前でその結果や成果を見せつけられると、どことなく素晴らしいものに見えてしまうよな。


「これ、もらったからあげるよ」

「え? 私って毛深かった? これでも結構気を使ってるつもりだったんだけど、割とショックかも」


 そんな嫌味を含めて渡したわけではないが、妙な受け取り方をするチカにすかさずフォローを入れる。


「いや、そういう意味じゃないよ。単に知り合いからもらったってだけ。それとも、俺がツルツルになればいいか?」

「うーん。水泳選手でもないのに毛がないのは少し嫌かも。わかった。もらうね」


 女って不思議だよな。ついこの前までは下着を見せるのも恥ずかしがってたくせに、今では落ちている縮れ毛が、自分のものかお前のものかと火花を散らす間柄に変わるのだ。ひととひとの関係性なんてものは、時間とは別の理屈で動いてるのかもしれないな。まあ、相手によるって但し書きは必要だけどね。


「それで? 誰にもらったの? また女の人?」

「こんなにも人畜無害でできた男を女に貢がせるだけのクソみたいに言うのはやめてくれ」

「おい。未だろくに働きもしない男が無害なわけないでしょ。無害っていうか、無?」


 それはさすがに言いすぎじゃね? とも思いはしたが、現状その通りなのでぐうの音も出ない。


「これはこの前チカが言ってたバラマキオヤジにもらったんだ。すごいだろ」

「え? ほんと? 会ったんだ。ならこれは私がもらってしかるべきだね。女子高生ではないけど」

「そうだな、さすがに女子高生はきついだろ――いて」


 俺は日に日に勢いを増すチカの右ストレートの強さにうめき声を上げた。


 なにも、俺は酒や女のためだけに街へ繰り出しているわけじゃない。なのでこんな晴れた昼下がりでも、この街の人口密度を上げにやってくることも少なからずある。

 今日は小遣い稼ぎのために、ソウヤのオフィスまで足を運んだ。オフィスと言っても小さな雑居ビルのワンフロアを間借りした質素なものだ。けれど、ソウヤが手がけるビジネスには、大きな機材もたくさんの人材も必要としないらしく、この部屋にはソウヤと二人ほどのスタッフしかいなかった。実際パソコンさえあれば喫茶店でもできる仕事内容のようだが、見栄を張ったりクライアントに舐められないようにとか、諸々の配慮の結果この街に構えたらしい。まあ、具体的な事業内容なんて知らないけどね。

 俺はソウヤに、たまにではあるが、単発や短期の仕事を斡旋してもらったりしていた。人材派遣もソウヤの仕事の一つらしい。様々な仕事を相場よりも高い給料でやらせてもらえるのでなかなかに美味しいのだ。恐らくソウヤが利益度外視でピンハネすることなく俺に金を渡してくれているのだろう。頭が上がらないなんてことはないが、足を向けて寝られないのは確かだった。寝室から見たこのオフィスの方角なんて知らないが、精神的には向けていないので問題ないだろう。


「お疲れ。今回はどんな仕事がいい?」


 ソウヤは座り心地の良さそうなパソコンチェアに深く腰掛けて、いわゆる社長机みたいな無駄にでかいデスクに肘を突いていた。

 見渡せば前回来たときよりも物が増えていることに気がついた。最初は安物の長机とパイプ椅子しかなかった、質素を絵に書いたような場所だったが、時間がたつにつれ、利益が増えるにつれ、世に言う会社のような雰囲気が出てきた。いっとき、狂ったように何でもかんでも買っていて、もので溢れかえっていた事もあったが、いらないものはすべて断捨離、今ではちょうど居心地のいいくらい。


「JKとお近づきになれて、かつお金がいいところ」


 何だそれと呆れながらも、ソウヤはパソコンを叩き始めた。もうすぐチカの誕生日ということもあり、ほんの少しだけ良いものでもプレゼントしてやろうかなんて考えていた。けれど、俺にとってそれは二の次で、実際はJKとお近づきになる方が重要だったりした。俺はノリオの娘とやらを、わりと本気で探そうと思っていた。

 自分の彼女の誕生日よりダンディを選ぶ彼氏ってのはどうなんだろうな。けれど、俺はこういう生き物なのだ。目先の興味に囚われて、それまであった興味をすぐに捨ててしまうんだ。けれど、まあ、チカは別格とだけ言わせてくれ。俺はのろけ話が苦手なんだ。


「ないことはないな。比較的若者が集まるイベントの設営と警備の仕事はどうだ?」


 悪くない。俺は二つ返事で了承し、詳細の説明を求めた。

 実働半日以上で日当は三万円。休憩時間を含めた拘束時間は八十時間。三日以上も磔にされるが、その分給与は破格と言って差し支えない。しかし、プリントアウトされた書類に記載された勤務地を見て愕然とした。ど田舎なんてものじゃない。山と森と川しかないような地区だった。デフォルメされたマップ画像は、広がる緑色にちょこんと申し訳なさそうに赤いピンが刺さっている。

 ライブと言うよりはレイヴだと、知識人ぶったソウヤが得意げに口にする。屋外で三日三晩騒ぎ倒すイベントらしい。普通に考えて女子高生が参加していいイベントではないこの企画だが、しかし、若者たちは年齢を偽り相当な人数が潜り込んでくるらしい。完全にブラックなイベント。

 だからこそではないが、見回りのような存在が結構な数必要なのだそうだ。運営も、利益を生むことではなく開催自体が目的というイカれよう。未だ警察に悟らせず時代錯誤の乱痴気騒ぎを夜毎に繰り返すこのイベントは、どうしたって少年少女にいい影響を及ぼすはずがあるわけないよな。

 レイヴは昔から、麻薬と犯罪の温床だとまことしやかに噂されている。決して高校生が来るようなものじゃない。というかそもそも日本人という人種にそぐわないんじゃないだろうか。

 まあ、だからこそ人里離れた山奥で行うものなんだろうけど。そして今はネット社会。顔も知らない相手と恋人にだってなれる時代。そんな情報の溢れた世界で、高校生が好奇心でそのびっくり箱を開けて、中に引きずり込まれることなんて、もはやよくある話の一つ。


「これ、本当に大丈夫なのか?」

「これを大丈夫にするのがお前の仕事。俺もシュウゴも顔をだす予定だから、そんな寂しそうな顔をするな」


 寂しい顔ではなく怪訝な顔をしていたつもりなんだが、いくら金を持っていたって、こいつは人の表情が分かっちゃいない。いや、悟っているが少しずれているのだ。きっといい女ってのはそういうズレに敏感で、こいつにたかるダメ女にとっては魅力に映るに違いない。

 ところであんたはレイヴの語源を知ってるか? なんでもロンドンのジャマイカ系移民の俗語で、「自分に嘘を突いて無理やり盛り上がる会合」を意味するそうだ。なかなかセンスのある言葉。そうは思わないか?


 レイヴ開始と同時にメインステージで、こんな山奥ではご法度であろう二対の火柱が昇った。会場は全部で五つある。それぞれのステージで昼夜を問わずの盛り上がり。爆音騒音お構いなしだ。大体の人間は夜に力を注ぐので、昼間は運営が用意したみすぼらしいテントや持参のもので眠りにつく。風呂はなく、トイレは仮設。環境としては最悪だが、誰もそんなことは気にしない。空気の支配力ってのは凄まじいよな。クラブとも全く違う雰囲気に当てられた俺は、ほんの少しテンションを上げた。

 警備という名の観客として会場をうろつき、若者の多さに驚いた。というのも、何やら有名なインディーズバンドが複数出演するのだとか。未成年にかけられた魔法は二十二時に解ける。俺が話を聞いたガキどもは目当てが終われば帰ると言う。無敵の二十時に言われれば説教することはできない。そもそもする気もないけどね。

 俺にはインディーズだのジョーンズだのはわからないから、理解はできない。俺にとってのビートルズやピストルズだっていうんなら文句を言う気も失せるが。もちろん、自己責任で。

 そんな若者との刹那の邂逅を繰り返しながら、結局俺もそれなりに楽しんでいた。ただ英字でセキュリティとプリントされた黒いTシャツを着ているだけの俺でも、その効果は馬鹿にできないとソウヤは言っていた。俺のようなものが紛れ込んでいるだけで、多少の抑止力にはなるのだそうだ。

 俺は仕事を仕事と思わぬまま、つつがなく職務を全うした。


 ふと見つけた顔に俺は驚愕する他なかった。ステージから離れた場所で、騒いでいる若者を遠目に見ながら同じように笑顔を浮かべるノリオが、簡易式のキャンピングチェアに腰掛けていた。


「アキラくん。君も来ていたのか」


 さすがにあの輪に紛れるつもりも、一緒になって踊り狂うつもりのないその姿に一応の安心を覚える。けれど、ノリオなら意外と絵になりそうな気がしないでもない。バラマキオヤジよりはダンシングオヤジのほうがかっこいいしね。


「こんばんは。まさかこんなところまで足を運んでくるだなんて思いませんでしたよ」


 俺は半ば呆れつつも少しだけ感心した。恐らく還暦を回るほどの御老体がよくもまあこんな山奥までってね。その顔は嫌味なほどに若々しく整ってはいるが、線の細さはごまかせない。隣に大男がいるのでなおさら小さく見えて仕方がない。


「若い子がたくさん集まるイベントだって聞いてね。君は仕事で来ているようだね。あまり危ないことに首を突っ込んではいけないよ。――このイベントは、僕が来るところでも、それ以上に子供が来るようなところではないだろうからね」


「俺は危機察知能力に優れてますから、問題なしです。――それはそれとして、ノリオさんの娘さんって、どんな感じの娘なんですか? 名前とか、写真があったらもらっときたいんですけど」


 ノリオは「そう言えば教えてなかったかな」と言って、慣れた手付きでスマホを操作する。


「市村六花と言うんだ。よろしくね」


 送られてきた画像には、入学式と書かれた看板の前でこちらに向かって溌剌とピースサインを送る、制服姿の女子高生が写っていた。中学を出たばかりの初々しい姿に懐かしさを覚える。俺にもこんな時代があったな、なんてね。


「今は高校三年生のはずだから、きっと見栄えもぜんぜん違うだろうけどね。何か手がかりがあったら教えてくれ」


 名字が違うのは、まあそういうことだろう。そもそも探さなければ見つからない時点でお察しだ。それにしても全く似ちゃいない。まあ、女の子は母親に似ると蒸発した母が言っていた気がするし、そういうこともあるのだろう。


 ノリオは早々に自分のいるべき場所でないことを悟ると会場を後にした。仕事やその立場もあるからな。こんなところに長居をすればいらぬ厄介事に巻き込まれるかもしれない。

 娘のことは気にせず楽しんでくれ、なんて言われたが、俺は無性にノリオの娘を見つけ出したい衝動に駆られた。俺は善人とはかけ離れた、エゴにまみれた人間だ。そうしたいからする。そうした先のものを見たい。それだけだ。もちろん、やりたくないことはやらないし、やらなくていいことはやらない。ただの好奇心の奴隷ってわけ。

 まさか、こんなイベントに来てほしくないとも思っていたが、若者が口をそろえて楽しみだというバンドを調べてみると驚いた。リッカが入学した高校の、その卒業生。何かがつながるような感覚を得た。まさかまさかという願望は、もしやもしやという予感に代わり、俺は視線を会場の隅から隅へとはしらせた。傍目から見たら誰よりも仕事熱心なセキュリティに違いない。

 イベント最終日、俺はリッカと出会うことになる。状況はななかなに切迫した、彼女にとっては思い出したくもない最悪の日になったことは確かだ。


 メインステージからサブステージへ至る獣道。基本的には運営しか使わないようなその場所を、俺はショートカットのために歩いていた。自分の背丈ほどある雑草なんてものは街じゃそうそうお目にかかることもない。俺は虫は嫌いだが自然は好き。もう少しチカが回復すれば、キャンプなんかに繰り出しても悪くないな、なんて考えていた俺の視界に、数人の人間がたむろしている姿が飛び込んだ。

 腕に付けられたリストバンドから、彼らが運営ではなく観客であることを悟る。こんな運営しか使わない道からも外れた森の中で何をやっているのだと気になった俺は、その集団に近づいていく。さすがにタバコなんか吸われて山火事にでもなったら俺の命も危ないからね。喫煙マナーは守ってもらわなければならない。海でも山でも、街でもね。


「――やめて」


 けれど、その小さくて、けれど確かな悲鳴は女性のもの。想像を超えた、切羽詰まった状態だった。


「何してる!」


 囲みを作った男たちに向けて叱声を飛ばす。俺は善人じゃない。偽善者ですらない。正義の味方でもない。けれど、視界に入ってしまえば声を出さずにはいられない。

間違ったことを間違っていると叫んで、その間違いが正せればどれだけ楽なんだろうな。正義の味方はいつだって、正義でない俺たちを守ってはくれない。間違っているものが淘汰されていく自然界とは違い、俺たちが生きるこの社会は、結局間違いに寛容なのだ。けれど、それを糾弾する人間には容赦のない間違い探しを行う。誰もが、自分が間違っているかもしれないことが怖いんだ。

 あんたはどうだ? 職場で、家庭で、街なかで、間違いを見つけたらどうしてる? 見て見ぬふりをする。警察を呼ぶ。方法はいくらでもある。そんな時いつも俺たちは間違えることを恐れずにはいられない。動けなくなる。確かな正義が、その胸にあったとしてもね。

 俺だってそうだ。けれど、これはもうエゴの問題。正しいか正しくなんて度外視。俺はそれをしたいと思いすると決めたからする。感謝を求めず、糾弾を恐れなければ、人はなんだってできるんだと思う。チカがそうしたみたいにね。

 叫びながら近づく俺は、その異様とも言える雰囲気に吐き気すら覚えた。雰囲気とは空気。そしてそんな空気に支配された環境では、ケモノよりもよっぽど狂ったケダモノが生まれる。

 人の行動を制限するのは、法や倫理なんかでなくて、その場の空気なのかもしれない。その空気を吸い込んだが最後、個人だろうが集団だろうが、簡単にそいつの自制心なんてものはぶっ飛んでしまうんだ。

 囲いが怯み、散らばりだした中に見えるのは組み敷く男と組み敷かれた女。女の顔には濃く化粧が施されていたが、よく見ればあどけなさの残る少女であることに気がついた。男のほうは、少なくともおっさんというふうではなかったが、顔は見えなかったのでなんとも言えない。ともかくそいつは目に見えて泥酔状態で、タガが外れた欲の塊だった。

 不幸中の幸いは、その男が泥酔状態であったこと。フラフラの、ただ体重のみでのしかかっているだけならなんとかなる。これが素面だったり、なおかつ格闘技経験者だったりしたら目も当てられない。やり方を考えればなんとかなるかもしれないが、確実に危険な賭けになる。

 素面でこんなことをしてしまうようなやつは早々にブタ箱へ入るのだろうが、その時点で被害者は存在するわけだ。酒を煽ってこんなことをするようなやつも同類だ。いつだって犯罪者は犯罪を犯さないと犯罪者にならない。被害者からしたらたまったもんじゃないよな。最初からブタ箱で生まれればいいのにってね。

 散らばった囲いの隙間から、助走を付け、のしかかっている男に体当たりをすると、もとからフラフラだったそいつは面白いように転がった。呻く男をうつ伏せに組み伏せて、その片方の手を肩甲骨まで引っ張り上げて締め上げる。


「いってぇ!」


 うるせえよ。へし折ってやろうか。なんて思いもするが、怪我をさせても俺が捕まる危険性が上がるだけ。こんなやつは死んでもいいなんて思いもあるが、暴力は正義の味方以外が使えばただの悪にしかなれないのだ。それに、こいつにも大切なやつがいたり、こいつを大切にしたりしてるやつがいる。俺はそんなやつらに言い訳してまでこいつをどうこうする度胸はない。


「もしもし。今大勢の男が女の子を襲ってます! 今すぐ応援をよこしてください!」


 俺は即座に取り出したスマホに向かって、まわりに聞こえる大声で叫ぶ。

 ただ囲っていただけのこいつらも、それでも立派な犯罪者に違いない。しかし、俺はこいつら全員をどうにかしようなんて思ってはいなかった。俺はただのしがないフリーター。スーパーマンでもキャプテン・アメリカでもないのだ。変に刺激して反抗する空気になればもうおしまい。多勢に無勢。俺はギタギタのボコボコにされるに違いない。

 一目散に逃げていく囲いたちを舌打ちしながら眺めた後、スマホを操作して今度こそ運営本部と連絡をとった。過呼吸気味にシャクリを上げる少女の声と、男のうめき声。うるさいぐらいの鈴虫の鳴き声と、遠く聞こえる爆音。まさに夏の風物詩だ。


 組み敷かれていた少女は十八歳になりたての現役高校生。暴漢と化した男に無理やり連れ込まれ、犯されそうになった。何をどう間違えればそんなことになるんだろうな。酒のせいと言っても、結局はそいつの本性にほかならない。酒は夢を見せはしない。ただ現実を暴くだけ。暴かれた現実が自身の知る現実でないから、夢を見ている気分になるだけ。

 掘っ立て小屋の運営本部。恐怖に涙する女子高生。暴漢は別の場所へと隔離された。とりあえずすぐさま警察が来て、イベントは中止、とはならなかった。


「ねえ、名前は?」


 助けたのは俺だが、こういう時、男が話しかけるのは怖いだろうという配慮で、社会経験豊富と豪語する妙齢のギャルが対応にあたっていた。


「イチムラリッカ」


 いくら俺でも、数時間前に聞いた名前を忘れたりなんかしない。その名前が俺の探していた女子高生の名前であることはすぐにわかった。


「あんた、リッカって言った? 六つの花で、六花?」

「はい、そうですけど……、なに?」


 リッカは怪訝そうな顔で俺を睨む。いけない、いけない。あのダンディを見習うんだ。女子高生には真摯にね。俺は努めて優しい声色で接する。


「いや、あんたを探してるってひとがいたんだ。さっきまでこの会場にいたけど、もう帰ってしまった」

「私を探してる? 誰ですか?」

「あんたを娘だって言ってたけど」


 リッカの表情に影がさす。あまり触れてほしくない話題のようだが、こちらも引くわけにはいかない。なので、無言で返事を催促した。


「――私、母子家庭だから、確かにお父さんはいないけど、それ、本当に私なんですか? 同姓同名じゃないですか? リッカなんてよくある名前だし」


 そう言われるとそうかもしれない。けれど、俺にはノリオにもらった画像があった。三年前の入学式。顔も雰囲気も正直違う。もし違うと言われても納得できる。

 確信はないが、一縷の希望にすがってその画像をリッカに見せた。


「――これ、私だ。なんでそんなの持ってるんですか? 怖いんですけど」


 さらに怪しいものを見るような視線。確かに、ストーカーと言われてもすぐに否定できない状況ではあった。同じような視線で俺を見るケバい姉さん。けれど、彼女がいてくれて助かった。二人きりならこの段階で逃げられていたかもしれない。


「これは、本当にあんたのオヤジだって名乗る人にもらったんだ。嘘じゃない。バラマキオヤジって知ってるか? あの人はあんたを探すためにああいうことをやってるらしい。まあ、ただ若い子と話すのが好きなだけってのもあるけどね」

「バラマキオヤジって、あの? ――お母さんはお父さんのこと、話してくれないし、私も顔だって覚えてない。今はお母さん、彼氏作って楽しそうにしてるし――困る」


 そりゃそうだよな。いきなり記憶の片隅にしかない男に父親だと言われても困惑して当然だ。ましてやリッカは華の女子高生。そういうことに潔癖な年頃でもあり、けれど、こういうイベントにも参加してしまうほど危うい存在。


「だよな。とりあえず俺の方で確認してみる。――だけど、リッカ。説教するつもりはサラサラないし、俺自身そんな褒められた人間じゃない。でも、だからって言うべきことを言わずに後悔したくないから言う。もうこんなところには来るな。今日こうしてリッカを助けることができたのは、俺がそういう気分だったからだ。たまたまだ。次に同じ状況の娘がいたとしても、俺は助けないかもしれない。けど、俺はそんな自分が悪いなんて思わない。臆病を恥ずかしいなんて思わない。スリルと興奮は遊園地だけで十分なんだ。それ以上のものを求めたらいけない。求めて、手に入れても、何も残っちゃいないんだ。そのために捨てた大切なものや、そのためにしてしまった後悔だけがとれないかさぶたみたいに残り続ける」

「リッカだって! 私だって、こんなところ来たくなかったもん。エミが、友達がただのライブだからって、無理やり」


 その先は言葉にならず、ぶり返すように泣き出した。お姉さんは大丈夫、大丈夫だからと

優しくその背中を撫でる。

 俺は、けれど、放った言葉を撤回するつもりは毛頭ない。的外れだなんて思わない。その気がなくて、そのつもりがなくても、その結果だけが重視される世の中なんだ。人殺しだってそう、子供を生むのだってそう。譲れないもののために人を殺せば、それは犯罪だ。犯罪によって生まれた子供は、けれどただの子供だ。どちらも結果が大事。どんな理由でも人を殺してはいけないし、生まれた命は愛を持って接しなければならない。

 はたして、それが正しいのかはわからないが、それでも世の中はそんなものだ。


「世の中は間違ってる。時代も、社会も全部正しくなんかない。俺だってきっと正しくない。だから俺は、正しいことを探してるのかもしれない。そんな俺が、リッカを助けたことは、俺の中で胸を張れる、数少ない正しいことだと思う。――つまり、何が言いたいかというと、助けられてよかった。無事で良かった。それだけだよ」

「――お兄さん、理屈っぽいよ」


 俺はいつもそう、理屈でどうにか伝えようとして、結局うまく相手に伝わらなくて途方に暮れる。俺はきっと論理だの理論だのとは違うものを、いつも言葉にしようとしてる。ほんと、言葉って不自由だ。俺自身すら、何をどう伝えたいのかわからなくなってしまうんだから。言葉の迷子センターはどこですか? ってね。


 イベントが終わり、八月も二週目に突入すると、太陽は地球を燃やしたいのかと思うほどに照りつけ連日猛暑日が続く。今年は降水量も台風も少なくて、海や海水浴客にとっては天国だろうが、農作物や水不足なんかで日本全国で悲鳴が上がる。

 数キロ圏内でこの暑さにより人が死んでも、この街は変わらずおしゃれ。人の死なんて、死体を目の前にしてみないとフィクション小説の一ページと変わらない。ようは読む側の問題ってわけだ。

 だとしても俺は街に出る。命をかけて買い物へ行く。塩分水分をしっかりとって、日照り続きのアスファルトを踏み鳴らす。俺の懐も猛暑とは行かないが小春日和ほどには温かい。

 この街は不思議なもので、パルコやセレクトショップ、おしゃれなカフェが乱立する清廉されたクリーンな区画と、古着屋やパチンコ、電気屋やメイド喫茶、水タバコが吸える場所なんかが転々とした古い町並みを残した雑多な商店街が隣接していた。

 身にまとうファッション、取り扱うブランド、行き交う人々の趣味嗜好も綺麗に別れている二つの国。その国境はちょうど中央に位置する太い国道と、その上を通る高速道路。高速道路の支柱のせいで中央分離帯がめちゃめちゃ太い。昔はこのあたりにホームレスの青い小屋がひしめき合っていたが、大清掃によって綺麗に消えた。果たして彼らはどこへ消えてしまったのか。

 俺は古着も好きだし、おしゃれなカフェも好き。特にパスポートもいらないので二つの国を行ったり来たり。別に店のテイストにあわない格好でも、靴さえはいてれば大抵の店には入れるものだ。ズタボロのヴィンテージデニムを穿いてスーツを仕立てたこともある。

 商店街方面からパルコに向かうために国境で永遠に近い赤信号を待っていると、スマホが着信を告げるために振動した。リッカからの返信だった。

 俺はあの掘っ立て小屋で、すでに連絡先を入手していた。まずはケバいお姉さんと交換してもらってとかいろいろ考えはしたが、考えるのがめんどくさくなった結果、ストレートに連絡先を聞くことにした。

 そのことは、とりあえずノリオには伏せておいた。誤解や勘違いがある中で出会ってマイナスな結果を生むことは避けたかったのもあるし、リッカ自身あんなことがあった直後でさらなるストレスを与えるのも気が引けたというのも理由の一つだった。

 事件は――結局警察沙汰にはならなかった。その暴漢もものすごく反省していたし、そもそもそいつは高校二年生。囲いのヤツラに無理やり酒を飲まされて、騙されて、おもちゃにされた。それでも自分のしでかしたことを反省し、自首したいと本人は言っていたが、結果的に、それをリッカは許すことにしたらしい。

 強い女だと、そう思わずにはいられなかった。さすがはあのダンディの娘というだけのことはある。まだ暫定だけどね。

 連絡の内容は、今街にいるか? というものだった。今まさに国境から入国審査を抜けるところである旨を伝え、ならば会いましょうと、そういう運びとなった。未だチカへのプレゼントは買えてない。


「あ、アキラさん。こんにちは」


 妙に馴れ馴れしいのは、この前の一件以来、水面下でのやり取りを続けていたからだろう。と言ってもたまに電話したくらいだが。そのたまに、で運悪くチカが俺の部屋にいる場面が多く、ことあるごとに誰よ何よと詰問された俺は、素直にピチピチのJKって答えてやった。あれ以来チカは既読無視を続けてる。無言の反抗って一番心に来るよな。


「お母さんに頼んでお父さんの写真でももらおうかと思ったんだけど、駄目だった。二人の写真なんて残ってなかったし、リッカがいる写真なんてお父さんの顔くり抜かれてた。名前すらも教えてくれないんだよ? さすがに自分の母親ながらこの人大丈夫か? って思っちゃったよ」

「それはなかなか、ユニークなお母さんだな」


 俺は自分のアルバムなんて持ってないし、片親だったが死別だったのもあり、あまり共感できる話ではなかった。まあ、俺の母親も蒸発はしたが高校卒業の歳までは家賃だけは払ってくれてたし、今もこうして生きているから、特に文句はないけどね。


「だから、お母さんが憎々しげに騙ってた顔の特徴を踏まえてリッカが似顔絵を描いてきたんだ」


 うだるような暑さの中立ち話もなんだということで、俺たちはそう遠くない場所にあったファミレスに逃げ込んでいた。ドリンクバーでとってきたメロンソーダをことりとおいて、差し出されたルーズリーフの切れ端を受け取った。その似顔絵は、率直に言って上手くも下手でもないほどのクオリティだった。けれど、目に見えて特徴的なのは右目の下にある涙袋。ノリオにはなかったものだった。顔だけくり抜かれた写真でわかるのは体型だけ。確かにひょろっとした体格は似ていると言えなくもないが、無理矢理に共通項を見つけなければならない時点で同一人物とは言い難いだろう。


「おかしいな。やっぱりノリオさんじゃなさそうだ。でも、そうだとしたら写真を持っている理由がわからない。」

「お母さんが言ってたけど、確かに入学式の時にお父さんにメールで画像送ったって言ってた。――リッカとしてはその、ノリオさん? に会ってもいいけどね。アキラさんがちゃんと側にいてくれるなら、だけど」


 スマホをいじりながらそんなことを口にするリッカ。その申し出は単純にありがたいし助かるが、こんな不鮮明で不明瞭な状態で引き合わせるのにも抵抗がある。暴いてはいけない誰かの秘密を、俺はただの好奇心で暴こうとしているのかもしれないんだ。

 その俺の愚行で、あのダンディが傷つくところは見たくないからね。けれど、ここのところノリオにはあえていないし連絡もつかない状態が続いていた。忙しいのかアポすらとれない。謎ばかりが深まり一向に進展しない状況。俺はどこか焦っているのかもしれなかった。

 俺は一度落ち着くことにする。何も明日世界が終わるわけではないのだから。


「そう言ってもらえるのはありがたいけどね。まあでも、俺のほうでできるだけ確信とれるまでは保留にしよう。幸い今は夏休みだしな。俺は万年夏休みだし、時間は腐るほどあるわけだからな」

「え? アキラさん、無職なの?」

「俺は正義の味方……じゃなくて女性の味方なの。万年夏休みの、ね」

「うわ、聞くだに女の敵にしか思えない」


 そうしてその話題は終了した。結局、最後にはその箱を開けなくてはならないが、今はこの空腹を訴えるお腹に餌を与えるほうが重要だ。俺はミートスパゲッティ、リッカはおしゃれなかき氷を頼み、時間の許す限り雑談した。

 俺も二十を超えた立派なオトナ。ティーンエイジャーと話す機会なんてこの先そう多くはないだろうということで、その会話を単純に楽しむことにした。ノリオはこういう気持ちだったのか、なんてふと思った。三個ほどしか違わない俺たちの時代とは、似ていてもやはり違っているのだ。


 食事を終えた席を立とうとした時に、スマホを確認したリッカが爆弾発言をした。


「私のお父さんの名前、ミキヒサだってさ。さっきようやく教えてくれた。――もう、答え出ちゃったのかな、これ」


 名前。それは明確な違いをもたらす自己と他者を区別するための記号。俺はそんな簡単に箱の中身が明らかになるとは思っていなかった。どこかできっと父親はノリオだという希望を持っていたんだろう。そういう意味では、すでに俺は焦っていたようだ。

 それでも、俺は疑った。ノリオが偽名を使っているのか、もしくはリッカの母親が嘘を教えたか。けれど、どちらもその理由がわからない。必要がない。

 結局、徐々に手元に転がるピースを埋めていっても露わになるのは否定的な事実だけ。猿でもわかる不等式。

 俺にできるのはもう事実を殺すか、突きつけるかしかないのかもしれない。それでも俺は、その前に一旦ノリオと話がしたかった。そのために連絡を取り続けた。

 まあ、最終的に俺の願いは届かない、けれど、望みは叶い、ノリオはこっちがアホらしくなるくらいに笑顔だった。嘘でも、偽物でも、それらはけれど、決して空っぽではないのだ。だから、そんな嘘と虚偽の上に成り立ったあの結末は嘘なんかではなく真実だ。

 だって、あんな笑顔は嘘なんかじゃ作れないからね。


 ことが動いたのは数日後、珍しく大雨が降っていたその日、俺は街に出ることなく、近所のスーパーに買い物へと出かけるため車に向かう途中だった。傘を忘れたことに短く悪態をつきながら、玄関ホールから車に向かって走ろうとしたその時声をかけられ立ち止まる。

 徐々に濡れていく服も髪も気にならない。なぜなら目の前の大男はそのまま風呂に浸かって百を数えたのかというくらいにびしょびしょだった。迫力のある巨体にサングラス。張り裂けそうなブラックスーツと高級そうな革靴。水を弾いているのはサングラスだけ。


「社長はいない。話がある」


 言葉少なにそう言うと顎で車に乗れと指図された。状況がつかめないままに、促されるまま後部座席に座る。かつて、こんなにびしょ濡れのガキが高級車の上座を陣取ることがあっただろうか。


「俺、今からスーパーに行くところだったんですけどね」


 聞こえるように、嫌味たっぷりに言ったつもりだが返答はなかった。ひょこっと運転席の影からルームミラーを確認して様子を伺う。水に濡れたサングラスは漆黒。表情はわからない。ただ、唇が僅かに震えているような気がした。

 数分の沈黙。そして、大男は大きなため息を吐いた。それはただの疲れや落胆からくるものではなく、悲しみと辛苦に冷えた心に凍えたような、そんな震えたため息だった。


「――社長は、もう長くない」


 後頭部を金属バットで殴られたような衝撃と、ドライアイスでも飲み込んだかのような胸の冷たさで、心と体が固まった。


 ノリオは、数年前から大病を患っていたらしい。今でこそひょろっとした体型だが、それまでは大男と並んでも遜色がないほど、鍛えられた筋肉を纏っていたらしい。想像つかないけどね。

 病名は、ありきたりな末期の胃がん。発見した段階ですぐに手術を受けたようだが、結局寛解には至らなかった。

 今まで仕事にのめり込み、楽しいなんて感情を持つことなく、取り憑かれたように、ただひたすらに事業の拡大だけを考えて生きてきた結果、気づけば人生の袋小路。何かの弾みで子供を成し、結婚に至るが、仕事一辺倒、家庭を顧みない彼が幸福な家庭を築ける道理はなかった。そして、孤高に生き、高みへと至った彼が手に入れたものは、莫大な富と皆殺しの病魔。

 悪辣な細胞が彼の命を奪う前に、けれど、蝕まれたのはその精神。自分の人生とはなんだったのか。なんの意味があったのか。楽しい思い出なんてものを何一つ持たないノリオが自身の人生を振り返った時に目にしたのは、途方も無いほどの暗闇。そして前に向き直ったところで待ち構えているのは大鎌を携えた死神だけ。

 人生ってのはほんとうにままならないもんだよな。苦労して、苦労して、その果てに待つのは四方八方を囲む闇だけ。けれど、この世にはありふれた、よくある道程でしかない。この先に何かがあるはずだと虚を貫いて、その実、ただ墜落するだけの人生。振り向いた時の闇よりも、前にある、それしかない一本道のすぐ先で構えられた鎌こそが恐ろしそうだと想像する俺は、きっとまだまだガキなのだ。自分の天井なんて全く見えやしないのだから。

 誰かに裏切られたわけでもない、ただ自身が行ってきた努力の結果、誰のせいにもできない、ただ自身が間違えたのだと気づいた瞬間、彼の心にはただ虚ろだけが広がった。

 その様子を常に近くで、殴られるように見てきた大男。「つまらない人生だった」と口にし続けるノリオに、大男は何も返せなかった。

 だって、そうだろ? ノリオの努力を、ノリオの繁栄をことさら身近で感じてきた最たる観測者だったんだ。それを正しかったと、間違っていると評価できる人間なんて、そもそも誰にだってできることじゃないのだ。

 しかし、みるみる弱り果てていく姿を晒すノリオに対し、沈黙を守るのも限界に達した大男は、一つだけ嘘をついた。

――あなたの娘さんを、街でお見かけしましたよ。きっと会えば、喜んでくれるはずですよ。

 しかし、返ってきた弱々しい言葉に、彼の心はへし折られる。

――僕に、娘なんていただろうか。

 こんなことがあっていいのか、そんなことがあっていいのか。彼はどこまでも空っぽで、何も持たずにその人生を終えようとしている。ずっと見ていた、尊敬していた、同様の孤独を持った大男が唯一父とさえ思えるほどに慕っている彼が、こんな終わり方なのは許せなかった。そして、後先考えず、ついつい出てしまった大男の行動が、すべての始まりだった。終わりに至るまでの、始まりだった。

 大男は、自分の娘の名前と、その写真をノリオに授けた。

 ああ、そうだ。そうじゃないか。その写真を抱きしめたノリオは、みるみるうちに精気を取り戻した。

 少し皮肉だよな。自分にとっても、すでに会えない娘、もう元には戻ることのできない壊れた関係。元嫁が気まぐれでよこした愛娘の写真が、この世で一番尊敬する人の命をつなぎとめたんだからな。

 それからのノリオは、どこにいるかもわからない偽物の娘を探すために能動的に外へ出た。見つかるか見つからないかはもう問題ではなく、ただ街に出歩いて、未だかつて見たことも感じたこともなかった風景や感覚を味わって、生きることの喜びを見つけていった。

 ノリオは死を目前にしながらも、生まれて初めて生まれたことを実感したのだろう。それはかつて、チカが味わった感覚と同一なものなのかも知れない。違いは、その先があるのか、ないのかというところ。

 一体どんな心境なんだろうな。ノリオも、大男も。俺には推して量ることすらできなかった。それが許されることとも思わなかった。

 俺は何も言えなくなった。ただ、聞くことしかできなかった。リッカをつれて見せたらどうなるのかなんて好奇心で動いていた自分が、急にちっぽけな存在に感じた。


 俺は、初めて見た、大の大人が流す大粒の涙と鼻水の量を感慨深く思いながら、部屋に戻ってチカを抱いた。心が波打つ時、俺は女を抱きたくなるらしい。

 行為が終わった後、ただ物静かに俺を見つめる瞳に尋ねてみる。


「今は、もう死にたいなんて思わないの?」


 それは、あれ以来一度も聞くこともなかった、俺の中でほんの少しだけ燻っていた、残り火のような疑問でもあった。


「そうだね。死にたいって思うのはもうやめたから、迷うのもやめた。いつだって生きることを選ぶことに決めたの。きっと、誰だって正解がわからない問題を抱えながら、それでもこれが正解だと信じて生きてると思う。――今のこの瞬間だけを大切に生きてると、誰かが『ちゃんと将来のことを考えなさい』って言うよね。でも、将来を考えて、いつかやってくる死に怯えて足を竦ませていると、その誰かは違うことを言うんだよ。『今をもっと生きなさい』ってね。生きるっていうのは、その狭間を行ったり来たり、ぶらぶらすることなんだと思う。どっちが正しいなんて、絶対にない。だから私は死なないことを唯一つの正解に決めたの」


 そんなことを言いながら、チカは俺の頭を優しく撫でた。俺はこういう時、少なからず退屈から解放される。チカを抱く瞬間、チカに触れて、その温もりを感じる瞬間、チカといれば、心がいくらでも波を打つ。

 チカはいい女だ。見てくれやセックス、それまでの過去を度外視しても、人として芯が通っているのは魅力的。そして、その芯とは恐らく自身が決めた自身の正解。こう生きるんだと決めている力強さは素直に尊敬する。


「つまらない人生ってなんだろう」


 つい口から漏れたその言葉はノリオを指すものだったが、チカはそれが俺自身が抱いているものだと勘違いしたのか心配そうな顔を向けた。


「今、俺はつまらないなんて思ってないよ。ただ、歳をとって、病気かなんかで死ぬ直前に俺の人生ってなんだったんだ、なんて思いたくないなってだけ」


 ノリオは、それが嘘でできたものだったとしても、光を見つけ立ち直ることができた。しかし、俺は将来自身の死に際で、同じような暗闇を予感した。努力さえもまともにしていない、空っぽで、ただのうのうと過ごした記憶にも残らない過去と、眼前に広がる断崖絶壁に挟まれる。俺は、何か持っているだろうか。何もなく、そして探すのだろうか。


「つまらない人生っていうのはね、きっと私がアキラに出会わなかった人生を言うんだよ。これは、私にとっての正解。――私はアキラの正解になりたいな」


 つまりはチカにとってはそういうこと、果たして俺にとってつまらない人生とはなんなのか。俺の正解とはなんなのか。俺はチカにどう返したか。それは俺のブランディングに関わるので割愛する。言ったろ? 俺はのろけ話が苦手なんだ。

 あんたも考えてみるといい。今、自分の人生は何を抜いたらつまらない人生になるのか。そして、それを死ぬまで、壊れるまで大事にしてやってくれ。

 まあ、そんな甘い甘い言葉を放った口で、もう別れるだの嫌いだの死ねだの塩っ辛いことを平気で言ったりするんだから、なかなか女ってのは難しいものだよな。きっとなんど人生をやり直してもきっと理解しあえるものではないのだろう。ただ、チカとは何度だってやり直したいと、俺はそう思うんだ。


 俺は迷っていた。ただ迷っている以外の行動をしないままに五時間位同じ場所でぼーっとしてしまうくらいにね。そもそも俺は即断即決とは程遠い。迷う時はとことん時間をかけて迷うような人間だ。しかし、世の中はやはり迷う人間に対してそうそう優しくできてはいない。社会も、人もね。

 ノリオの抽象的だった死期が、ここに来て明確に定まってしまった。持って僅か二週間。カウントダウンが始まってしまった。なるほど、これはなかなかお涙頂戴のドラマティックな大舞台のように見える。でも、本当のところはどうなのだろう。ノリオは、あの穏やかな表情の裏で何を考えているのだろう。もし、俺が今死期を告げられたとして、やはりあんな顔をするのだろうか。けれど、もし仮にそんな穏やかな顔をしていたとしても、その裏ではすべての人間を逆恨みして、呪い、妬み、誰か一人くらい道連れにしてやりたいなんて考えてしまうかも知れないな。

 俺はノリオがこれまで得てきた楽しいと思える時間以上の物をすでに得ている実感があった。そんな俺でも今死ぬとなると物足りない、少ない、おかわり! なんて思うに違いない。

 ノリオはまだまだきっと腹ペコだろう思った。それでいて、もう満腹だとうそぶく優しい大人のように見えた。

 見舞いに行くたびに嬉しそうな顔を咲かせやがる。大人面するなよ。腹が減っているならそう言えよ、と思った。俺は、やっと長い迷いの果に正解を決めた。チカと同様に、それが正解だと決めたんだ。


「ぜひ会ってほしい人がいる」


 この言葉をぶつけた相手はチカじゃない。俺には父も母もいないから、違う意味で会わせる顔なんてないからな。なので、この言葉を、きっと生涯恋人に言うことはない言葉を受け取ったのは、目の前の呆然とした表情の現役女子高生。


「ええと、ノリオさんのこと?」

「正解」


 そのやり取りは、前回会った場所と同じファミレスで行われていた。晩飯時であるためなかなか繁盛していて雑多な音と声が入り交じる空間で、場に似つかわしくない悲壮な話題を振らざるをえない。俺はあえて感情を押し殺して淡々と、ノリオがもう長くないことを告げた。


「そっか、ノリオさん死んじゃうのか。会ったこともない人だけど。リッカのことを探してて、しかも娘って思っている人が死んじゃうのは、うん、辛い」


 自分の気持を確かめるように頷きながら口にするリッカの表情には、確かに寂寥の念が垣間見えた。

 俺は心底ホッとした顔を晒していたかも知れない。現状を知り、それでも何も感じないような人間でいてほしくないというのは、俺の勝手なエゴに過ぎないが、それでも俺の望み以上の反応を得ることができた。あとは、協力してくれるかどうか。


「わかった。いいよ。少しは怖いって思うけど、もっと怖い目に遭ってる時に助けてもらっているしね。それに、リッカはお父さんって知らないから、嘘でもお父さんに娘として扱われてみたいっていう気持ちがどこかにあるんだ。最低かな。これから死んじゃうって人に身勝手な願望押し付けて」


 迷いなく快諾し、けれど、自身の抱える感情がどこか不誠実のように思えたリッカは、その表情を曇らせた。


「いいや、リッカは最高だ。いくら自分の願望だからって、こんなことに協力してくれるやつはそういない。それに、その願望だって、俺は決して悪いものだなんて思わない。これから生きていく上で、なんの罪にもならなければ罰もない。むしろ誇っていいことだと思うよ。もしこの先、このことを悪し様に言うようなやつがいたら、俺がそいつを間接的に潰してやる」


 父を知らない娘と、娘を覚えていない父の願いは、この先できっと交差しているに違いない。ちょうどいいなんて言葉を使うと、悪巧みをしているようで嫌になるが、それでも、これを運命だと思うことはそれはそれで業腹だ。この結末が決まっていたなんて許したくない。これは俺や、ノリオ、大男とリッカの思いと、努力と、決断の上に成り立った、作り上げたものなんだから。


「そんな物騒なこと言わないでよ。リッカは少し、自分を見直すことができた。きっとこの気持ちを恥じることも、悔やむこともないから。――リッカのせいでアキラさんが暴力沙汰なんて、全然うれしくないしね」

「間接的にって言っただろ? 俺は喧嘩が弱いんだ」

「さすが、万年夏休みの正義の味方だね」


 そう言って、リッカは笑った。俺も笑った。あとは、この笑顔をあの二人に届けるだけだった。


 一報がもたらされたのは、リッカの決意から一日ほどしか経っていない、深夜と早朝のつなぎ目あたり、日も出てないような時間だった。


「もう限界のようだ。来てくれ」


 そういう大男の、電話越しにもわかる振るえる声は、誰よりも彼自身が限界であることを表しているかのようだった。

 ほんと、死ぬなら時間帯を考えてほしいよな。しかも、予測されていた死期よりも一週間ほども早かった。生まれる時間は決められないが、死ぬ時間も決められない。決められるのは殺す時だけ。他人も、自分も。


「わかりました。すぐに行きます」


 通話を切ったその画面をすぐに切り替えてリッカに発信した。頼む、出てくれ。寝ていてすべての決意は無駄に終わりました、なんて落ちはいらないんだ。そんな俺の願いが届いたのか、五回目の着信でようやく通話が始まった。よくよく俺の気を揉ませてくれる。内容は簡潔に。今からノリオに会いに行く、迎えに行くから準備をして待ってくれ、と。

 俺はすぐさま着替えて部屋を出た。今日に限ってチカは実家。けれど、誰もいない、ただ暗いだけの部屋に、なんとなく行ってきますと呟いた。

 リッカの家は割と近かった。車で二十分ほど。指定された住所に到着してから早五分。女の準備には時間がかかることは分かってはいるし、若干危惧していたところもあるが、思いの外早く、リッカはその場に現れた。もしももう十分二十分かかるようならこの場でおお声で名前を叫んでたかも知れないけど。

 驚いたのは、そのリッカの姿。晩夏とは言えいまだ蒸し暑い熱帯夜なのにも関わらず、身にまとっているのは長袖のセーラー服、新品みたいにピカピカで、その顔に施された化粧もいつもとは違っていて幼く見えた。


「この日のために準備しておいたんだ。あんまり写真と替わっていても良くないかも知れないって思って。でも、鏡を見て少しだけショックだったよ。全然変わってないんだもん。リッカって、成長してないのかな」


 助手席に乗り込んだリッカは、得意げにそんなことを言って笑っていた。けれど、その手はほんの少しだけ震えている。この少女は本当に強く、誠実で、自分とは全く違う生物なんじゃないかと疑ってしまう。


「外見なんてどうだっていいさ。リッカの中身は今の俺よりもずっと立派だと思う。成長してないわけがない」


 ワシャワシャとその小さな頭を撫でてやる。


「わっ、やめてよ。ワックスとれちゃうじゃん」


 俺は無性に、いたこともない妹に思いを馳せた。きっと本当の妹というのはまた感じの違うものなのかもしれないが、妹という存在が急に地面からにょきにょきと生えてくるなら、リッカのような妹がいいと本気で思った。

 俺は張り詰めていた緊張を、隣に座る偽物の妹にほぐされながら、最期の時を迎えるノリオのもとへと急いだ。


 高速を飛ばして二十分ほど、一際大きな大学病院にたどり着き、正面玄関の前に無遠慮に車を停めて、大急ぎで出入り口に向かう。


「開かねえ!」

「アキラさんこっち! 夜間用の入り口じゃないと!」


 開かない自動ドアを何でかち割るかを本気で考えていた俺に、冷静に指摘をくれたリッカ。今は大人の体裁よりも大事な事があるので、言い訳もせずに夜間専用出入り口と表示された場所へと向かった。

 入口を抜けたすぐそこに、大男は立っていた。大男と形容するにはいささか縮んで見えてしまうほど、憔悴しきった顔をしていた。

 俺の存在に気づいて右手を上げて、けれど、そのままの形で固まったように静止した。

 しまった! と心の中で額に手を当てた。目の前の大男に、ミキヒサに、俺はリッカを見つけたことすら教えていなかった。

 目の前まで来た俺たちを、というかリッカの方を向いて動かないミキヒサ。例のごとくサングラスで表情は窺えないが、想像は難くない。きっと驚きのあまりに目を見開いて、眼球が零れ落ちそうになっているに違いない。


「あの、どうかしましたか?」


 怪訝な顔でミキヒサに声をかけるリッカ。どうもこうもない。ただ目の前に自分の父がいるだけ。ただ、本人だけがそれを知らないだけ。


「いえ、まさか本当に写真の娘さんが来てくれるとは思わなかったので」


 そう言って背中を向けるミキヒサに先導されて、俺たちはノリオの下へと向かった。


「待ちくたびれたよ。このまま一人、ぽっくり逝ったらどうしようかと思った。来てくれてありがとう。アキラくん、今まで僕に付き合ってくれてありがとう」


 その声には張りも潤いもあり、このまま死んでしまうとは思えないくらいに精力に溢れていた。


「間に合ってよかったです。俺は、ただしたいように、したいことをしただけです。その結果、俺は見つけることができたんだ。奇跡やや運命なんて言葉は大嫌いだけど、今この瞬間が本当にそういうもので出来上がっているんなら、少しだけ感謝してもいいくらいです。――おいで、リッカ」


 真新しそうなローファーのかかとを鳴らして、リッカはおずおずと俺の横にまで近寄った。目線だけを動かしてリッカの顔を見るノリオ。ああ、と言葉にならない感慨を漏らして、深く深く目をつむる。そのまま深い眠りについてしまったのかと思うような安らかな顔。十数秒、ようやっと目を開けたノリオは、いつものように優しい目で俺たちを交互に並び見た。


「君がリッカさんだね。ようやく会えた。死ぬ前に、君にあえて本当に嬉しいよ。――よくやってくれたね、アキラくん。僕は夢でも見ているのだろうか」


 俺は深くうなずいた。そして、リッカは誰に促されるでもなく前に出て、ノリオの側に顔を寄せた。


「えっと、久しぶり。でいいのかわからないけど、会えて嬉しいです。――お父さん」

「ああ、僕も嬉しい。頭をなでてもいいかな?」


 リッカは小さくうなずいて、ノリオの手の近くまで自分の頭を寄せた。枯れ木のようなノリオの腕は力強く掲げられ、優しく優しく、リッカの頭をゆっくりと撫で、するりと、そのやわらかな頬に手を添えた。リッカはそれがこぼれてしまわないように、受け止めるように自身の手で包み込んだ。


「本当に、ろくでもない人生ではあったけれど、終わりよければ全て良しとはよく言ったものだね。僕は今、この世の中で誰よりも幸せだと胸を張って言えるよ。自分の死がこんな幸福なものになるなんて思いもよらなかった。想像もできなかった。生まれてきたことを今日ほどうれしいと思う日はなかったな。部下と、若者に囲まれて」

「娘さんもいますよ」


 俺はリッカの華奢な肩に手をおいて得意げに言ってみせた。どうだ、すごいだろって具合にね。すると、皺くちゃな老けきった顔をさらにクシャクシャにしてノリオは大きく笑った。何がそんなに面白いのかと、俺とリッカは顔を見合わせた。


「――君は、僕の娘ではないね」


 俺は本日二度目のしまった! を心の中で唱えた。まさかの展開だった。それを指摘されるとは思っても見なかった俺は、何をどう取り繕えばいいものかと頭を抱えそうになった。


「いやいや、責めてるわけじゃないんだ。僕が探していたのは間違いなく、紛れもなく君だよ。そんな寂しそうな顔を見せないでくれ。本当に、父譲りの、優しくて強い目元をしているね」


 そう言って、ノリオは俺たちの後ろにいたミキヒサを指差しこう言った。


「君は僕の孫娘だ。――そして、僕の息子はあれだ」


 ミキヒサは呆然と立ち尽くすことしかできなかった。リッカもどういう意味なのかわからず、ただただ小首をかしげていた。


「ミキヒサくん、君は僕の愛すべきただ一人の家族だ。僕には、君以外に家族と呼べるものはない。そんな君にも子供がいた。僕には孫がいた。本当に嬉しいことだ。君に、一番の感謝を。リッカさん。僕の孫娘。どうか幸せな今を、幸せな明日を生きてください。アキラくん。君もまあ、孫みたいなものだね。今までと同じように、したいことをして、したいように生きなさい。君が欲しいもの、求めているもの。それはきっと目には見えないけど、きっとこの世界にあるものだ。探しなさい。――では、僕は眠るよ。おやすみなさい」


 そう言って瞑られたノリオの瞼が、再び開かれることはなかった。

 血のつながりなんて一つもないこの空間で、けれど確かに、彼は家族に看取られて静かに息を引き取った。本物だとか偽物だとか、そんなものは一切介在する余地もなく、ただ純然たる幸福を、俺は目の前で目撃した。


 ノリオの葬式当日。制服を着たリッカと数年ぶりにスーツなんてものを着た俺は、大行列の参列者に尻込みして、会場の端で固まっていた。喪主を務めていたのはミキヒサだ。いつか流していた涙顔からは想像できないくらい凛々しい顔つきだった。もちろんサングラスはしていない。印象的な涙ボクロと優しい目つきは彼の印象を全く違うもののように見せた。

 忙しそうに参列者の対応をするミキヒサを尻目に、早々に引き上げた俺たちは、お決まりのファミレスへとやってきた。


「アキラさん、ホストみたいだね」

「やかましい。――あれからミキヒサさんとは連絡とってんの?」

「うーん。なんかいろいろ忙しそうだし遠慮してる。やっぱり本当のお父さんって言われてもぴんとこないよ。なんかすごいマッチョだし、イメージと違うんだもん。まだノリオさんが本当のお父さんって言われたほうがしっくりくるよ」


 俺は苦笑いをしながら、今は亡きダンディを思う。俺を孫だのなんだのと言っていたが、俺からしたら、失礼かもしれないが、友人のように感じていた。そう考えれば納得もいった。俺はなぜこれほどまでに精力的に動いたのか。きっと、俺は友達のために動いていた。友達の死を悲しんでいた。なんたってあの人は、誰よりも若々しく笑うんだ。


「まあ、ミキヒサさんも、いまさらのこのこ出てきてどうこうするつもりはないんだろうけど、それでもたまに会うくらいは良いんじゃないか? 卒業祝や入学祝いが控えていることだし、もらえるもんはもらわないとな」

「それは現金過ぎだと思う。まあ、もらえるなら受け取るけど、自分からほしいなんて言えないよ」


 この娘はどこまでも遠慮しいで、誠実で、真面目だ。そして勇気もある。いい女ってのは女子高生のときからいい女らしい。今どきの大人なんてもんは、俺を含めてろくでもないやつばっかりだ。リッカの二倍も歳を重ねておいて、生き方や考え方が小学生から止まっているやつが多すぎる。いや、それは子供に失礼かもしれないな。子供みたいなダンディだって、この世には存在するんだから。


「今回は本当に助かった。リッカには貸し一つってことにしておく」

「まあ、リッカ自体アキラさんに貸しがあったはずなんだけどね。でも、もらっとく。――なんだかお兄ちゃんみたいだね。ホストみたいだけど」


 こんな妹が彼氏を紹介しでもしたら、俺は般若の形相で睨みつけて潰すだろう。間接的にね。

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