路地を進むと、商店街からは漆黒に見えていた闇に徐々に橙色が混じり、焚火を思わせる暖かな揺らめきが強くなってきた。日はとっくに暮れているようだ。


 路地の先には一軒の家屋があった。

 こじんまりとしたそれの前には軽自動車が三台横並びにして置けるくらいの庭があり、周囲の土地とはびっしりと植えられたイチイの生垣で隔たれていた。路地の正面の生垣は一部が欠けており、そこに古びた庭木戸が設置されている。木戸から家屋の玄関までは石畳の小道が続いており、左右には道を照らすように小さな洋風のカンテラが複数設置され、灯が瞬いていた。

 僕は庭木戸に手をかけ、奥に押してみた。戸はキイ…と音を立てながらも滑らかに開く。庭木戸をゆっくりと閉め、僕は玄関に向かって歩を進めた。石畳はよく掃除がされており、小石や枯草の類は一つも落ちていなかった。あまりに整えられ、浮世離れしているともいえる小道を、僕はつり橋を渡るように慎重に運動靴で踏みしめる。

 玄関屋根には小道にあったものよりも大きめなカンテラが一つ下がっており、その灯に照らされた看板が見えた。


《喫茶 yew》


 そこは喫茶店だった。外観は小さなレンガ倉庫のようで、古風な雰囲気の店だった。

 気づけば僕はその店のドアノブに手をかけ、思いっきりドアを引いていた。重厚な木製のドアが開き、ドアベルが僕の来訪を告げた。




 店内は薄暗く、喫茶店というよりはよくアニメやドラマで見るようなバーのような雰囲気だった。右の壁際には今の時代には珍しいレコードプレイヤーが置かれ、ゆったりと悲しげな曲調のクラシックを奏でている。テーブル席はなく、カウンターに椅子が四つだけ。一番手前の椅子に客は一人だけだった。カウンターの向こうには店員らしき三十代後半くらいの女性が一人、何やら作業をしながら客と何やら談笑をしている。

 ドアベルに気づいた店員が顔を上げ、僕に笑顔を向けた。

「いらっしゃいませ、お一人ですか?」

 僕が頷くと、店員はどうぞ、とすでにいる客の隣の席を勧めた。僕は促されるままその席に腰を掛けた。

 途端に僕は困ってしまった。フラフラと入店してしまったが、特にお茶をする気分でもないし、むしろ僕は買い物帰りで、急いで家に帰らなければならなかった。今になって、冷凍食品の袋に付く結露が気になった。

「あら、お使い帰りなの?よろしかったら、冷蔵庫使います?」

 店員は僕の焦りを感じとったのか、声をかけてくれた。ここで申し入れを断り、すぐに家に帰ることもできたが、なぜかそうすることが最善ではないように思ってしまった。僕はもう少しここに居たいと思ってしまっていた。

「す、すみません。ではお言葉に甘えて…」

 僕はエコバックを店員に渡した。店員はざっと袋の中身を確認すると、テキパキと、それでいて丁寧に食材を閉まっていった。

 カウンターにはハガキサイズのメニュー表が置かれており、コーヒーや紅茶など喫茶店では定番のメニューが記されていた。

 ここまでしてもらって何も頼まない訳にもいかず、僕は紅茶を注文した。あいにく、僕はコーヒーが飲めない。匂いは好きだが、あの苦味、酸味はどうも苦手だった。

 僕の横には、ずっと女性が座っていた。

 スーツ姿で両肘をテーブルに置き、顎の下で両手を重ね合わせ、左の薬指には指輪がキラリと主張した。女性は楽しそうに、でも黙って店員の方を目で追っていた。カップになみなみ注がれていたであろうコーヒーは真っ白なカップの内側をうっすら染める程度しか残っていなかった。さらに表面の瑞々しさが失われて見えることから、この女性がただコーヒーを飲むためだけに訪れたのではないことが推測できた。

「はい、どうぞ。お砂糖とかミルクは自分調整してくださいね」

 店員が僕の前に湯煙が立ち昇る紅茶を置いた。カップの隣に砂糖、ミルクの入った小さな容器がそれぞれ置かれた。

 砂糖を入れるか否かを思案していると、僕の隣の女性が立ち上がり口を開いた。

あららぎさん、私そろそろ行きます。色々お話聞いてくださって、本当に感謝してます」

 女性はそう言うと、店員に向かってとても幸せそうに微笑んだ。

「石田さん、そうですか。私もお話できて良かったです。また来てくださいと言えないのが残念ですが、暗い気持ちでお別れはしない方がいいですからね」

 蘭さんと呼ばれた店員も石田さんに微笑み返し、その場には何とも穏やかな時間が流れた。


 



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