第7話 ダンジョン 三


 本当の恐怖を味わったことがなかった。怖い話を聞いたりホラー映画を見たりしてゾッとすることはあっても、所詮それらは一時的なもの。じりじりと精神を蝕むような真の怖さは、俺の住んでいた街には存在しなかった。


 死が隣り合わせのダンジョンにこそ本物の恐怖があった。


「ギィィ!」


 俺の身体を下から上に舐めるように見つめてくるゴブリン共。ネクサスから聞いたことがある。ゴブリンの手に落ちた人間は、男なら虐殺され、女なら死ぬまでゴブリンの子を孕ませられるのだという。


 奥歯を砕かんばかりに噛み締める。ふざけるな。この身体はウィンターからの借り物だ、お前らに汚される訳にはいかないんだよ。


 内心ひどく恐怖しながら、怒りの言葉を反芻して自らを鼓舞する。


 そして、襲いかかってくる敵対者たちと正対する。ゴブリン達は肉の身体に容赦なく武器を振るう。人を殺すために全力を出せる者の、なんと恐ろしいことか。


 襲いかかってくる肉体に込められた力、間近で見る表情の迫力、武器にこびりついた血の臭い――全て味わったことのない恐怖だった。


「うっ……ぐ!」


 数的不利も相まって、ゴブリン共の殺気に気圧された。気勢を削がれ、後退してしまう。鼻を抉るような悪臭さえ彼らの貫禄の後押しをする。


「何してるトウキ! 容赦するな!」


 ネクサスの声が飛ぶ。彼は既にゴブリンの首をひとつ刎ね飛ばしていた。隻腕とは思えぬ頼もしいネクサスの後ろ姿に勇気づけられて、強く握り固めた魔法の拳を振りかぶる。大賢者の身体が躍動し、差し迫るゴブリンの武器を弾き落とした。


 俺は殺し合いと無縁の生活を送ってきた現代の人間だ。小動物ですら殺せる自信がない。だから今の俺の行動は、決意によるものではなく恐怖に突き動かされての反撃だった。


 恐怖と拒絶のイメージが新たな魔法を紡いでいく。魔法の両手でゴブリンの猛攻を防ぎつつ、右手から全てを焼き尽くす炎を爆誕させる。


「燃え尽きろっ!!」


 刹那、汗が蒸発した。熱風が顔面を叩く。空気が膨張し、爆風が幾重にも重なって巻き起こる。暗いダンジョンの中に超高温の熱源が照射され、蹂躙を開始した。


 青い炎の塊だ。直径は1メートル程。あまりの熱さに直視できない――


「ギャアアア! ギイイ!」


 正面を陣取っていたゴブリンが、ファイヤーボールを避け切れずに被弾してしまう。炎の動き自体は緩慢としていたが、逃げ場が無かったために直撃である。


 すると、じゅわ、という音を立ててそのゴブリンが消失した。冷たいバターに熱した鉄球を押し付けるように――ファイヤーボールの勢いが衰えることは無かった。


 灰になったゴブリンの両隣にいた敵も、ファイヤーボール通過の余波で身体の半分以上を焼かれて悶絶していた。武器を放り投げて地面をのたうち回っている。


 ファイヤーボールが一直線に進んだだけでこの被害。しかも、巨大な火の玉はダンジョンの壁すらも焼き切って一直線に進んでいった。


 火の玉の行く末は気になったが、とにかくゴブリン達に大きな隙ができた。今しかない。俺は2体のゴブリンに向かって暗黒の拳を振り上げた。そして無造作に振り下ろす。赤いトマトの実が潰れるようにして、叩きつけた地面ごとゴブリンの頭が弾け飛んだ。


「っ……」


 死の直前のゴブリンの表情が脳裏に焼き付けられる。モンスターを気持ちよく殺せない俺は、やはり異世界に向いていないらしい。


 残りのゴブリンは5匹。既に俺が3匹、ネクサスが2匹殺した。噎せ返るような鉄の臭いがダンジョンの中に充満している。血と肉と熱でごった返しになった小さな地獄。


 しかし、ゴブリンはまだ諦めてくれない。俺の身体と、囮に使った少女の身体を狙っている。


「くそっ」


 本当に嫌だ。俺がイメージしていた異世界の戦いは、もっとスタイリッシュでかっこよくて、血とは無縁だったはずだ。


 ゴブリンが放ったボウガンの矢を暗黒の拳で弾き飛ばし、返す手でゴブリンを壁に叩きつける。そのまま火の魔法で敵を灰に変え、息のある者は殴り潰し、敵の身体を破壊していく。


 最初は余裕綽々だったゴブリンも、残り3匹になると様子が違っていた。明らかに逃げ腰になっていた1匹を高熱で焼き尽くす。


 同時、死角に回り込んでいたネクサスが残り2匹の首を刎ね飛ばす。その体格に似合わず、猫のような身のこなしだった。


「これで終わりか。案外何とかなるものだな」


 気付けば戦いは終わっていた。あちこちで炎の残滓が燻っており、地面や壁には火と破壊の痕跡が刻まれている。ネクサスが殺したゴブリンの死体はそのままなので、異臭が堪らなくきつい。


「ゴブリンの装飾品はそこそこの値段で売れたんだが、この調子じゃ売り物にならんな」


 ネクサスが燃え尽きた何かを拾い上げる。そういえば、生活資金を稼ぐためにダンジョンに潜っているんだった。でも俺はそんなことまで気が回る人間じゃない。


「ガキは無事か?」


「あ、そうだ! 早く治療しないと!」


 俺達はボロボロの少女の元に駆け寄り、その身体をそっと持ち上げた。栄養失調のせいか痩せ細っている。その上、少女は脚を怪我していた。鋭い傷痕はゴブリンによるもの。残酷だが合理的なゴブリンのやり方に、今更ながら怒りが湧いてくる。


「植民地から来た奴隷か。哀れだな」


 ネクサスが腰のポーチから小瓶を取り出し、少女の口に押し当てた。中身の液体は恐らく回復のポーションだ。


 突然液体を飲まされて驚いたのか、少女が意識を取り戻す。俺とネクサスの顔を見て目を見開く少女。既に脚の出血は収まっており、肌の血色が随分と良くなっていた。


「よ、良かった。生きてる……」


「……助けちまったもんは仕方ねぇ。こいつはウチで預かるぞ」


 何となくネクサスならそう言ってくれると思っていた。ただし彼には左腕が無いので、俺がおんぶすることになった。


「あ、あの……」


「安心して。俺達怪しい者じゃないから」


 俺は少女に向かって笑いかける。こっちに来て初めてエルフの身体で良かったと思った。元の顔の粘ついたスマイルを披露したら、きっとゴブリンか何かと間違えられただろう。


「トウキ、やっとオレ達にも運が向いてきたぞ」


 少女を背負うために四苦八苦していると、ファイヤーボールが切り開いた通路の先の方でネクサスが嬉しそうな声を上げていた。小走りで戻ってきたネクサスは、その手に奇妙な石板を持っていた。


「隠し部屋の中にあった財宝だ。とあるスジに高く売れるんだぜ」


 フフンと鼻を鳴らすネクサス。皮肉混じりの嘲笑ではなく、本当に嬉しそうだ。


 A4サイズほどの何の変哲もない石の板で、波打つような模様が刻まれている以外はどこにでもありそうな一品なのだが……コレクターというのはこっちの世界でもよく分からない。


 日本でも牛乳の瓶の蓋を集めるコレクターがいたくらいだし、ダンジョンはそういう珍品好きには堪らないんだろうな。


 石板を縛って背負ったネクサスは、まだ嬉しいことがあるのか、少女を背負う俺に手招きしてきた。


「上層に続く通路がある。しかも遠くの方に松明が見えた。地図に乗っているエリアの可能性が高い」


「無事に帰れるってこと?」


「あぁ。踏破済みエリアの罠はほとんど解除されてるはずだからな」


 ネクサスの一言を受けて、俺の背中で丸まっていた少女が息を呑む音が聞こえた。ずっと暗い場所にひとりぼっち……きっと寂しかっただろう。


 俺は少女を更に元気づけるため、雑談じみた軽口を言ってみた。


「帰ったら美味い飯でも食べたいな」


 それにネクサスが応じてくる。


「良い店を知ってるんだ。肉を食いに行こうぜ」


 いや待て。これって死亡フラグじゃない? その店に辿り着くことなく死ぬやつじゃん。


 会話のキャッチボールが始まった瞬間、俺は滝のような汗をかき始めてしまう。


 しかし、30分程歩き続けた結果、俺達は無事に地上に帰還することが出来た。


 そういえば、最近は「あからさますぎる死亡フラグは回収されない」という言説が主流になっているんだった。


 そんなことを考えながら、俺達はネクサスの家に辿り着いた。

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