四国の黙示録(6-3)

「ここは?」

 カナエは目を覚ますと、暗い、湿気た一室にいた。床や壁は、レンガで造られていて、横たわっているカナエは頬でザラザラとした砂やレンガの瑕瑾の感触を感じていた。部屋の明かりは蝋燭のみで、あまりにも暗すぎて、部屋の構造がわからない。四方を見渡すと、闇だけが際限なく続いている。入口は開いていて、外からの光が差し込んでいるが、部屋の中を照らすほどではない。急に痛み出した頭を押さえた。髪が濡れている。そうだ、私は崖から飛び降りて、その後は?

「ようやく起きたか」

 カナエは声の方を向いた。蝋燭の光に灯され、足と大きな手だけが見える。男の低い声だった。

「私はどうしてここに?」と質問した。

「外が騒がしいから、仲間に探索させていたら、川の岸辺に打ち上げられている君を見つけてね。地上の騒ぎについて聞くために連れてきた」

 彼らは、今、愛媛で起きていることを知らない。確証はないが、末永は四国中の亜人や人間に命令を出して、殺戮ゲームを始めていたはずだ。あれだけ大きな出来事を知らないなんて。カナエは心当たりのある一人の人物を思い浮かべて、確信を持って男に問いかけた。

「あなたは誰なの?」

「私か」と言うと、男は立ち上がった。そして、闇の奥から宣教師風の格好をした剃髪の大きな体をした男が現れた。確かに写真でみた彼と同じ顔だった。しかし、写真で見た彼はもっと穏やかな表情をしていた。今の彼は無表情であるが、何かへの大きな怒りを湛えているように見えた。

「私は加藤広大、君は?」

「警察庁公安部亜人捜査課の望月カナエよ」

「そうか公安の人間か」と思案し、

「公安の人間ということは、四国での消失事件について調査しにきたのか?それとも私を?」とそのまま続けてカナエに聞いた。

「両方よ。それに私は人間じゃないわ」とカナエは言った。

 加藤はカナエの腕に腕輪がつけられていないことを、確認して、訊いた。

「亜人なのか。本当に?」加藤は疑っている。カナエは自分が亜人だと証明するものを身につけていない。川に落ちた時に、自分の身分を証明するものも、どこかへ行ってしまったことが、ポケットの感触からわかる。カナエのスーツのポケットは空っぽだった。

 そこで、「人間が亜人と身分を偽る必要があるの?」とカナエは答えた。

「確かにそうだな。なかなか、聡明なお嬢さんだ」と言って、カナエの元まで悠然と歩み寄り、カナエの目の前でしゃがみ、表情を和らげた。

「君が四国の人間なら口封じのためにこの場で殺してしまおうか、と思っていたが。亜人ならやめておこう。外で何があった?」

 加藤は抑揚のない低い声で、冷酷なことを言った後、カナエに質問した。カナエは外で起こっている事と、自分の能力について詳細に話した。

 カナエの話を聞いた加藤は物憂げだった。人間の愚かさを案じていた。加藤は後ろで腕を組みながら、入り口まで歩いてカナエの方を振り向いた。

「災難な目に遭ったようだね。ほとぼりが冷めるまで、ここでゆっくりとしているといい。人を呼んで案内させよう」と言って部屋を出ていった。



 ボロボロの格好をした、痩せた男が部屋に入ってきた。見窄らしく見えるが、非常に溌剌としている。右腕には二つの腕輪が装着されている。四国で管理されている亜人のようだ。

「立てますか?」と男の細い手がカナエの方まで伸びてくる。

「ええ、大丈夫です」とカナエは言って、軋む体を持ち上げて、痛みを感じながらもなんとか立ち上がった。至る所が痛くてしょうがないが、骨は折れていなさそうだった。カナエは案内人と一緒に、部屋を出た。部屋はこの都市で最も高い場所にあり、眼下に広がるのは、レンガ造りの大きな街だった。天井に張り巡らされたライトが街を照らしている。巨大な地下の採掘場のような雰囲気だったが、街は賑わっていた。カナエは理解した。加藤は一年で、この地下都市を築き上げたのだと。

 この街では、人々が畑を耕し、建物の中を窓から覗くと、機械を使って、服を縫製したり、食品を加工していたりする。酒屋に服屋、八百屋など、街道には様々な店が出店し、住民たちは楽しそうに生活を営んでいる。そして、カナエが最も目を疑ったのは、亜人を証明する腕輪をつけていない人がいることだった。すなわち、亜人と人間が普通に一つの街の中で親しげに生活していることだった。

 カナエはこの街の異様な光景を見て、案内人に訊いた。

「この街は加藤が創ったの?」

「ええ、加藤様が亜人と貧民街の人間たちを集めて、この地下都市を創りました。ここでは、外の世界と違って、亜人と人間は両者を憎み合うことなく平和に暮らしています。亜人たちは能力を使い、この都市のインフラに貢献し、人間たちは学のない私たちに読み書きを教え、子供たちを教育し、物語を読み聞かせたりして、各々の役割を果たしながら手を取り合って暮らしています」案内人は慇懃にカナエに説明した。

 カナエの目の前に広がっていたのは小規模な自分が思い描いていた理想の亜人と人間の姿だった。そして、あれだけ憎み合っていた亜人や人間を和解させた加藤という男がどんな男なのか、案内人に尋ねた。

「加藤は一体全体何者なの?」

「加藤様ですか?加藤様を一言で語ることは難しいです。彼は人文科学、自然科学、情報工学、あらゆる学問に精通していて、時に哲学者でもあり、科学者でもあり、指導者でもあり、芸術家でもあり、政治家でもある。傑物、彼ほど偉大な人を一言で表現してしまうことが失礼に思えてしまうお方です。そして、それだけ孤高の存在でありながらも、自身の能力に驕ることなく、彼は常に誰かの父や母、友人、兄弟であり続け、皆に平等に親身に接してくれます」と加藤について説明した。そのまま続けて、

「彼はこの四国で行われている、農業事業や生産業の仕組みを理解し、この街に応用しました。そして、彼はこの四国で起こっている全てに怒り、巻き込まれた人間や亜人たちを憂い、救い出しました。私たちは彼を愛し、尊敬しています」と加藤への賞賛を語った。

 加藤は人間や亜人の全てを手懐けた指導者だった。腕輪を装着した子供達が笑顔で走り、カナエたちを追い抜いた。この街の住人は地上の亜人や人間達と違って、皆一様に生き生きとしていた。

「あれは?」と案内人のカナエは訊いた。商店街を抜けると、銃を携えた集団が、教官のような男の掛け声を合図に、訓練を行なっている。

「ここだって、いつまで安全かどうかわかりません。加藤様は軍隊に所属していたこともあるようなので、有事に備えて、ここの住人のほとんどに、あのような戦闘訓練を行なっているのです」

 確かに、この街が地上の人間達にバレたらあっという間に襲撃されてしまうだろう。加藤は、あらゆる場合を想定して、策を練っている様だった。自衛のためなら、しょうがない、とカナエはやるせないながらも納得していると、地下帝国に放送が響き渡った。

「皆さん」男の声は加藤の声ではなかった。聞き取りやすい若い爽やかな青年の声だ。

「地上は今、大変な混乱状態にあり、武装した亜人や人間が集中しております。加藤様はおっしゃいました。この混乱に乗じて一気に愛媛を落とせば、末永が所有している武力を一気に壊滅させることができると。計画を実行する時が来たのです。今こそ、四国を乗っ取り、加藤様がこの地に君臨し、亜人と人間が手を取り合う社会を創る時が来たのです。最後の決起集会を大講堂で加藤様直々に執り行います。ぜひ皆さん、大講堂にお集まりください」

 住人達は、天井を見上げ、どこか報われたような顔をすると、商売をやめ一斉に大講堂へ駆けた。住人達にぶつかり、カナエは倒され尻餅をついた。倒れたカナエに目もくれず、住人達はカナエの横を過ぎ去ってゆく。この四国で戦争が起きようとしていた。カナエは、加藤を止めるために、住人達を追いかけた。

 大講堂にて、武装した人間と亜人達が加藤が登壇するのを待ち侘びている。建物の周りでは、加藤の演説を聞こうと、観衆がごった返し群れをなしている。カナエは、この観衆に、もみくちゃにされながらも、なんとか大講堂の扉まで向かっていた。

 加藤は登壇した。加藤は厳かに、力強く語った。

「我々がこの四国に住む亜人たちを末永の魔の手から解放する時が来た。末永はこの地で、数世代にも渡り、亜人達を虐げてきた。この地下で生活をしていればわかる。亜人も人間も同じ種族で、協力し、お互いを尊敬し、愛し合うことができる。末永は悪魔だ。我々はその悪魔から、この地に住む人々、これから生まれてくる亜人達を救う使命を与えられた」

 続いて慈しむような声で「私がこの地に調査しに来た時、末永が行なっている、過酷な強制労働、人体実験、差別の数々をこの目で見た。その上、これらの非人道的な行為は四国だけではなく、日本全土で行われている。私が生まれた頃には、この亜人社会は出来上がっていた。若かった頃の私にとって亜人が差別されているのは常識であり、慣習だった。私はこの地で実際に彼らが人間に虐げられている姿を見た時、恥ずかしくなった。間違っていると気がつきながらも、周りに合わせ、自身の精神の安定を守るために、この問題を直視しないようにしていた昔の自分を。そして、絶望した。この状況を見ても、人間たちは誰も異議を唱えようとしない。亜人達は呪われた運命を受け入れ、諦め、抗おうとしないことを。私は悲しかった」

 加藤は沈黙した。亜人達は末永の事業に巻き込まれ、死んでいった仲間達を思い浮かべ悲しみに暮れ、涙を流していた。加藤は涙を流している観衆を一通り眺め、拳を高く上げて宣言した。

「この地は、悲しみで溢れている。末永という悪魔がこの地に取り憑いた。今日、我々はこの地から悪魔を解き放つ英雄となるのだ。明朝、暁闇の頃。我々は愛媛に奇襲を仕掛ける。もう一度言う、我々は英雄になるのだ。この地では多くの血が流れるかもしれない。私は地上に住んでいる君たちの友人や兄弟を殺すことになるだろう。だが、この戦争が終わり、我々がこの地に君臨し、手を取り合っている平和な姿を見た時、彼らは我々の行いを認め、盛大な賞賛を天界から送るだろう」と言い終わると、亜人達は大きな拍手を加藤に送り、銃を天にあげ、決意を表明した。

 演説が終わると、カナエは思い切り、大講堂の扉を開けた。士気が高まった大講堂の中は、扉の開放音が響き渡り、観衆はカナエの方に振り向いた。観衆は静まり返った。カナエは加藤に向かって、一直線に肩に力をこめて力強く歩いて行った。

 観衆達は歩いて行くカナエを見つめていた。観衆の列を抜け、登壇している加藤をカナエが見上げ、「奇襲行為なんてやめなさい」と言い、そして、「もしあなたにその意思がないのならあなたの身柄を拘束する」と言った。

 登壇している加藤の側近がカナエを捕まえに行こうとすると、やめなさい、と加藤が静止した。

「君一人で何ができる」

「一人じゃないわ。あれ?」カナエは腕につけているスマートウォッチで蒼井達に連絡しようとすると、電波が入ってこないことに気がついた。

「ここは地上からの通信を全て遮断している。君が助けを呼ぶことはできない」

 加藤は壇からゆっくり降りてきて、カナエと向き合った。

「ここで平和に生活していればいいのに、あなたたちはどうして争おうとするの?」と加藤に訊いた。

「私は見てきた。数々の残虐な行為を。私はそれを赦せない」加藤は怒り憂いていた。

「だからと言って、武力に頼る必要はないじゃない。あなたほどの人間なら、もっと別の方法だって選択できるはずなのに」

「確かに、武力に頼らない方法だって私は考えた。現実的な方法はいくらでもある。だが、変革までどれだけの時間がかかる?。その間に、どれだけの亜人や人間が犠牲になる?。言っておくが、末永が人体実験に使っている生物は亜人だけじゃないぞ。大量の人間だって死んでいる。それを見過ごせと」

「ただあなたのやり方では、新たな怨嗟や憎しみを生むだけよ。それに、世界には血が流れずに成功した革命だってあるわ」と言うと、加藤は盛大に笑った。そして真面目な顔をして語り出した。

「確かに世界には大なり小なり多くの無血革命を成功させた歴史がある。有名どころだと、そうだな、インドの独立運動なんかだな。しかし、それは結果的に血が流れていないように見えるだけで、実態はどうだ。革命を成功させるためにどれだけの時間がかかった?その間にどれだけの人間が虐げられた。物事の表層だけを見て、歴史を語ってはいけない。それでは教科書に書かれてあることを暗記しているのと同じだ。中身を見ていない。別に無血革命を否定しているわけじゃないぞ。非暴力への意志は尊い」と言い、続けて、

「問題なのは、無血革命の歴史があったからと言って、この地で再現可能とは限らない。そして、私は必要最小限の犠牲で、迅速にこの地を制圧し、社会に変革をもたらすなら、この地で戦争することが最善だと考えている。そして幸いにも君たちは計画の前倒しに大きく貢献してくれた」

「犠牲の数と救った命の数で革命の良し悪しが決まるわけじゃないわ」カナエは加藤の考えを非難した。

「そうだ、確かに革命は命の数で良し悪しが決まるわけではない。その行為と結果にどれだけの大衆から支持を得られたか、で決まる。あなたは本当に聡明なお嬢さんだ」

「わかっているならなぜ?」

「なぜ?では聞こう、君はこの社会は正しいと思うか。問題を先延ばしにしても良いか?」

 カナエは加藤の問いに、少し思案して「この社会は間違っているわ。私が亜人だから言っているわけじゃないわ。私たちは人間と同じように意思があり思考する。肌の色が違う、宗派が違う、言語が違う、人間は似たような姿形をしながら、皆それぞれ違っている。そして、違っているからといって、差別していい理由にはならない。今の日本は人間と同じ種族であるはずの私たちへの差別を助長している。私はそれが許せない。だから、私はこの社会を正す一員として、警察庁で働いている」と言った。

「それだけこの社会に変革が、今、必要だとわかっていて、なぜ?私たちの行いを認めようとしない」

「できるだけ早い変革は確かに必要よ。ただ、あなたのやろうとしていることは、末永達がやっていることと変わらない。相手を力で押さえつけて、従わせる。そのやり方はきっと間違っている。それに人間は失敗し、間違えながらも少しずついい方向へ向かって進むことができる。文明はそうして進歩してきた」そして、カナエは講堂に集まった住民を指差して「それに彼らの命はどうなるの?彼らの命も必要な犠牲だって言うの?あなたは彼らと一緒にこの街を創り上げ、苦労を共にしてきたのに、彼らが巻き込まれて死んでもなんとも思わないの?」と言った。

「もちろん、心が痛まないわけではない。ただ、彼らは大義のために死んでいくことを受け入れている。そして、彼らのこれから虐げられる人たちを憂う気持ちを私は尊重している」というと、観衆は何度も頷いた。

「そんなの殺し合いを正当化するための詭弁よ」

「どうやら、なかなか聞き入れてもらえそうにないようだね。サイコメトリーとか言ったね。君の能力なら私が見てきたものが視えるはずだ。これを視ても、同じことが言えるかね」と言って、手を差し出した。カナエは差し出された手を握り意識を集中させた。

 

 加藤は亜人の消失事件の捜査のために、四国にやってきた。調査するうちに、末永達の悪逆非道な行いを各地で見た。加藤は人間が同じ姿形をした生き物に、これだけ残酷な行いが出来ることに絶望している。亜人への人体実験の数々。末永の命を弄ぶような行い。軍事演習と称した、新兵器の実験台にされる亜人達。その行為は亜人だけに留まらず、貧民街の人間にまで及んでいた。そして、加藤の思念の奥深くまで視ようとすると、暗闇の中に、大きな門が立ちはだかった。門の前には、狐面を被った狂言師が立っていた。

「ここから先は閲覧禁止だ」と狐の面の青年は言った。

「あなたは誰?」と訊くと、現実世界に戻された。

 カナエは呼吸を荒げ、大量の汗をかいていた。疲れと絶望から膝からガックリ落ちて、四つん這いになりながら浅い呼吸を繰り返した。講堂の床を垂れた汗が、濡らしている。視界がボヤけ始めた。

「視たのか?」加藤はカナエを見下ろし、話しかけた。

「ええ」

「あれを見ても、時間と共に人間はより良い社会に向けて歩んでいくことが出来ると言えるのか?」加藤はカナエに問いかけた。

「より良い何かを求める。哲学的だ。ソクラテスのエロースの概念に似ている、プラトンの饗宴という本を君は読んだことがあるか?。私は小学生のころ読んで以来だが、今でも当時感じたことを鮮明に思い出せるよ」

 カナエは唾を一度飲み込んで、

「あるわ、エロース、すなわち人間の愛は、美や善を目指すものだと。人間のあるべき姿は、美や善を求め進化して行く姿だと」カナエは簡単にその本の自分なりの解釈を述べた。

「進化か、なるほど亜人らしい意見だ。私はこの本を読んだ時こう思った。なぜ人間が善なるものを求めるのか?。それは人間が善なるものと対極に属しているからだと。すなわち人間は悪の領域を住処にする。蛾が、街灯の光を求め飛んでいくように。人間は闇に属し、光を求めるのだと」

「人間は生まれながらにして悪だと」

「そう捉えてもらっても構わない。自然界にも縄張りや求愛のための闘争はある。共食いや同族殺しを行う生物も多く存在する。ただこれは自己防衛や子育て、生物が根源的に持つ種の繁栄を目的とした欲望の一つだ。人間だけだ、同種に対してここまで悪意を持って理性的に残酷なことが出来る生物は。なぜだ?私は考えた。形而上学的な結論になるが、私は人間は悪魔に取り憑かれた生物なのだと結論づけた。亜人と言う、蔑称はなかなか皮肉が効いている。悪人の上に、心もないなんて。最低だ。私は、もし、亜人と人間をひと括りに呼ぶなら、こう名づける。悪魔の類人猿、と」

 カナエは固唾を飲んで加藤の話を聞いていた。加藤はカナエに口を挟む余地を与えなかった。彼が政治家であり哲学者でもあると言った案内人の言葉を思い出していた。彼の言葉には他の人にはない力強さがあった。

「ところで、人間の本質はなんだと思う?」

 加藤はカナエに答える暇も与えず、語り出した。

「私は人間の本質は安定だと思っている。こう見えても、私は化学の修士なんだ。人間、いや、生物は、所詮、原子の集合体だ。分子や原子は安定な状態を求める。原子核と電子は安定な距離を保とうとする。反応は不安定な状態から、安定な状態へ進む。励起した電子は、大きなエネルギーを放って、基底状態に戻る。物質は不安定な状態を嫌う。この原子や分子の性質は我々生物のDNAにも刻まれている。ホメオスタシス、恒常性、生物は進化する性質を持つが、同じ状態を保つ機能も備わっており、根源では不安定なものを取り除こうとする。人間も同様だ。不安を取り除こうとする。不安とはなんだ?、未知への恐怖だ。未知の生物への恐怖は、偏見を生み、偏見は差別を生み出した。この社会は亜人と言う未知の生命体への恐怖から成り立っている」

 加藤が語り終わると、カナエは自分の意見を述べた。

「私は人間の本質はより良いものを求めて変化しようとする尊さだと考えている。現にあなたたちは、この社会を変えようと行動している。そして、小規模ながらもこの地下で協力して生活をしている」加藤は再び大きく笑い、

「差別されているはずの亜人の君が人間の尊さについて語るかね。変化は人間の本質ではなく、安定な状態から、次の安定な状態への過程や可能性の話だ。確かに我々は、この地下で手を取り合って暮らしている。我々は対話した。お互いを蔑むことなく、尊重し、意見を戦わせた。この日本に、必要なものは、対話だ。だがなぜそれができないのか。話を戻すが、人間は安定を求め、不安を取り除こうとする。人間は恐れている。数千年かけて築き上げてきた、自分たちが生物の頂点に君臨していると考えている矜持が他の知的生命体に蹂躙されてしまうことを。化学反応を進行させるためには、熱や光など大きなエネルギーが必要だ。これは反応の基本原則だ。我々は、この社会を人間と亜人が対話できる安定な世の中に変えるためには、まず、この社会の上で君臨している政治家や資産家たちの権力を瓦解させねばならない。そのためには大きなエネルギーが必要だ。我々が行おうとしていることは、この社会に変革をもたらす大きなエネルギーになることだ」

 加藤は全てを語り尽くした。観衆たちは息を飲み、静かにカナエと加藤の対話に耳を傾けていた

「あの光景を見て、この話を聞いても、君は意見を変えようとしないかね」加藤はカナエに訊いた。加藤も観衆もカナエの意見を批判しながらも、決して蔑んだりはしない。カナエが口を開くまで、誰も話そうとしなかった。加藤の問いへのカナエなりの答えを観衆たちは求めているように見えた。

そして、カナエは立ち上がり、口を開いた。

「あなたの言っていることは、正しいのかもしれない。変革に大きなエネルギーが必要なことは確かよ。それでも私はあなたたちがやろうとしている虐殺行為を見過ごせない。それに、私にとってあなたたちの社会のあり方は、一つの理想の形だった。そんな社会を築いた人たちの尊さを私は失いたくない。そんな彼らを尊い犠牲の一部にしてはいけない」カナエは泣きながら訴えた。

「血を伴う革命の良し悪しについては、民衆と時代が決めるべきだ。そこで、私たちの議論の答えは彼らに決めてもらうことにしよう。彼女の意見に賛成するものは、拍手を」と加藤が観衆たちに呼びかけた。誰も拍手をしなかった。観衆は、皆一様に下を向いている。加藤は彼らがカナエの意見を選ばなかったからと言って、批難することも、得意げになることはしない。彼は優越感など微塵も感じていなかった。彼の目的は対話であり、相手を説き伏せることではなかったからだった。

「それでは私の意見に賛同するものは、拍手を」と言った。観衆の意外な反応に加藤は初めて戸惑いを見せた。

 観衆は誰も、手を叩かなかった。加藤は悟ったような顔をして黙りこくった。カナエは涙目で観衆の方を見た。誰も話そうとしなかった。

「俺にはどちらの意見が正しいかなんてわからない」と感情を漏らすように言った。とうとう観衆の一人が沈黙を突き破った。

「そこの嬢ちゃんが、俺たちを心配してくれて、必死に止めてくれようとしているのはわかる。俺は今の社会を変えるためならなんだってやるつもりだった。俺は決意を固めていたはずなのに、これからやろうとしていることの重大さについて考えると急に怖くなった。何より、俺は死ぬのが怖い」と本音を語った。カナエの気持ちは彼らに届いていた。カナエの言葉は観衆の心を打った。

 あれだけ一致団結していた観衆は、加藤への忠誠心からなのか、決意が揺らいでしまったことに気まずそうにしている。そんな観衆を見かねて加藤は言った。

「そうか、どうやらこの対話は、彼らの士気を下げてしまったようだ。私はもしかしたら、答えを出すのを急ぎすぎていたのかもしれない」

「それじゃあ」

「だが、変革を止めるわけではない。今回は延期する。半年だ、半年だけ待とう。私の予測では、ここが末永たちに見つかるのは、早くて半年だ。それまでに、君たち警察庁はこの四国から末永を失脚させろ。叩けばいくらでもボロが出るやつだ。この四国での不正の証拠は日本国内のどこかにある私のセーフハウスにある。戸籍情報等を辿っても無駄だ。インターネットの情報等でも絶対に調べられないようになっている。今、教えてやりたいのだが、事情があって教えることができない」

「あなたをサイコメトリーしたときに狐面の青年に会いました。それと何か関係がありますか?」

「そうか、君は彼に会ったのか。私は政府や、末永たちから、四国の調査記録を守るために記憶を移し替えた。君のような能力を使って、私を調べ、悪用する輩が現れるかもしれない。その青年を探せ。彼を見つけ出せば、きっと、末永と日本政府の悪事を暴ける」

「それだけの証拠を揃えて、なぜ?」

「私は末永の悪事に日本政府が絡んでいることを知って、警察庁内部の人間を誰も信用できなくなった。私は傑物なんて呼ばれているがね、所詮ただの無力な個人に過ぎない。一人で太刀打ち出来るような相手ではない。私には一緒に闘う味方がいなかった。君の周りの人間は信頼できるのかね?」

「ええ、もちろん」

「そうか亜人の君から見ても信頼できるんだ。よっぽど気高い仲間なのだろう。私に足りなかったことは、信頼できる人間を見つけ、頼ることだったのかもしれない」加藤はしみじみ語った。

 観衆は街に帰っていった。彼らの表情に悔しさや、やるせなさはなかった。彼らは加藤も一人の人間なのだと、より加藤を身近に感じていた。彼らは元の生活に帰っていった。カナエは、緊張の糸が切れ、その場で気絶し、三時間ほど眠った。

 すっきりと目が覚めると、横には加藤と屈強そうな亜人が横に座っていた。そして、体はまだ痛い。

「地上まで案内しよう」と加藤はカナエに言った。

 地下空間にある長い階段を三人で登り、地上に出ると、夜があけていた。雲ひとつない快晴の水色のセピアな空が四国の大地の上に広がっている。爽やかな風が、二人の決意を祝福しているようだ。カナエが蒼井たちに連絡すると、蒼井たちは三十分ほどで、車に乗ってやってきた。

「あれが君の仲間かい」

「ええ」カナエは、泥だらけの車を見て、また蒼井がまた無茶なことをやろうとしたのだろうな、と考えていた。車を降りた明石は大きく手を振って、カナエの元まで走ってきた。蒼井は、いつも通り難しそうな顔をしながら、ゆっくりこちらに歩いてきている。

「今日の対話は非常に楽しかった。またやりたいよ」とカナエを称えた。

「そうですね」とカナエは歯に何かが詰まったような感じで答えた。金輪際二度としたくない、とまでは言わないが、正直疲れるから、できれば避けたい、と考えている。

「最後に握手を、と言いたいところだが、君の能力を考えると控えた方がよさそうだ。私の思念で君の意思を捻じ曲げてはいけない。内密に連絡を取れる手段を考えておくから、来月に彼らと来なさい。困った時に尽力できるようにしておこう」と加藤は言った。

「ありがとうございます」

 駆け寄った明石は「カナエちゃん、大丈夫だった?」と訊いた。カナエは膨れて、「なんであの銃のこと説明してくれなかったんですか?」と非難した。明石は手で空気を切るようにしながら、「ごめん、ごめん。なんせ急ぎだったから」と適当に謝った。

 遅れてやってきた蒼井を見て、カナエは片方の腕を差し出した。腕輪を装着して、とお願いしている。

「無事でよかった」と言って、珍しく微笑んでカナエの腕に腕輪を装着した。

「あんたは」と加藤の顔を見て、蒼井は驚き、漏らすように言った。そして、「何があった?」とカナエに訊いた。カナエと加藤は地下都市での出来事を簡単に説明した。

「そうか、そんなことになっていたとは。そうか狐面の男」と呟き、加藤の方を見て思案した。

「あんたを見つけ次第、連れ帰る予定だったが、今回は望月を助けてもらったことに免じて、見逃してやる」と蒼井は言った。年上、なんなら、一応警察庁の先輩である加藤に向かって、あんた、なんて呼び捨てにするあたり本当に遠慮がないな、とカナエは思った。加えて、出世できなさそうだな、とも。

「なかなか聡明なお嬢さんを部下に持ったようだ。大事にするといい」と言って、加藤たちはその場を去ろうとした。カナエは自分のことを彼は聡明なお嬢さん、と呼ぶのを気にいっているのだろうか?と考えていた。

 すると、一発の銃声が晴れやかなこの地に鳴り響いた。加藤の頭を銃弾は貫き、顳顬から血を噴き出し、その場に倒れた。カナエには全てがスローモーションに見えた。銃声の方を見ると、迷彩柄の服を着た男が、誰かと電話をしていた。



 後藤のポケットの中のスマートフォンがバイブしている。後藤は電話に出て、なんだ、と訊いた。

「ターゲットを射殺しました。捜査課の亜人もいますが、どうしますか?」と加藤を射殺した後藤の部下が電話越しに報告した。

「そうかそうか、ご苦労だった。そちらはいい。これ以上警察庁を敵に回す必要はない」と言って電話を切った。後藤は満足そうに密かに笑っている。

「クソッ、一晩探してもあの亜人の女の死体が上がらない。どうなっているんだ。どうした?、何かいいことでもあったのか?」と末永は聞いた。

「いえ、仕事が一つ片付いたのでね。できればもう一仕事して帰りたいのですが」と答えた。

「もう一仕事?随分仕事熱心だな」と末永は感心した。



「そんな」カナエは両手で口を抑えている。加藤は動かない。付き添いの亜人はその場で膝をついて、涙を流して悲しみに暮れた。そして、加藤を持ち上げて、腕に抱えながら、地下都市へ帰って行った。蒼井たちは、亜人が加藤を連れ帰ることを止めなかった。そして、加藤の死体を地下の住民たちに任せたことが後々大きな問題に発展すると考えてもいなかった。

 地下都市の住民は加藤の元に集まり加藤の死を悲しんだ。彼らにとって、加藤は希望だった。悲しみは怒りに変わっていた。彼らは武器を取り、大講堂に集まった。

「やはり加藤様の言うことは正しかった。奴らは悪魔だ。これから奴らに裁きの鉄槌を俺らが下す」と加藤を連れ帰った亜人が叫ぶと、住民たちは、銃を再び天高く上げ、叫び、咆哮を上げた。亜人たちの能力を抑えるための腕輪は外されていた。彼らは決起した。加藤の言いつけ通り、作戦を頭の中で何度も反芻しながら、彼らは統率された動きで、地上へ向かって行った。彼らは加藤を弔うためにこの愛媛の地に、血の雨を降らせに行こうとしていた。


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