惡霊(5-2)
ここはどこだ?
目が覚めると、俺は晴れた日の塩湖の上に立っていた。
辺りを見渡すと、青空と白い雲のパノラマが無限に広がっている。
塩湖の鏡面にはこの美しい空が反射し俺の足元にも壮大なパノラマが広がっていた。
空と海面しかない場所でしきりに周りを見回していると、見慣れた女の後ろ姿が急に現れた。女は大事そうに何かを抱えている。
見覚えがあるのも無理はない、妻の美和子の後ろ姿だからだ。見間違うはずがない。
俺は安堵し、美和子の方に駆け寄り肩を叩いた。
振り向く美和子は、血で顔を真っ赤に汚し、不倶戴天の仇敵でも見るかのように俺を睨みつけている。
抱きかかえている物は、生まれてくるはずの赤ん坊だった。
赤ん坊の顔はのっぺらぼうで、力が抜け、青白い骸になっている。
「どうして」と涙目で俺を睨みつけ、赤ん坊を手放し俺の首を掴んだ。
俺は振り解こうとするも、女の力とは思えないほど強い握力のせいで手を外せない。
見下ろすと、地面に落下した赤ん坊は、落下と同時に体を幾千もの虫に姿を変えて、方々に散って行った。
「どうして、どうして。私たちを殺したのよ」
美和子は汚い声で俺を罵り、俺の首を絞めるのをやめない。
満足に呼吸のできない俺は涙を流して後悔した。
こんなハズじゃなかった、組織の潜入捜査なんて簡単に引き受けなければ...
叫びながら目を覚ますと、車内で拷問の終わりを告げていた金髪の男が本を読みながら俺が起きるのを待っていた。
「目が覚めたみたいだね」
男の声は異様に甘美な響きを帯びた優しい声だった。開いていた本を閉じて、本をそばに丁寧においた後、長い金色のまつ毛から覗かせている青い綺麗な瞳で俺を慈しむように見つめている。奥の助手席には女が座っている。少々痩せすぎているようにも思えるが、鏡越しに見える彼女はかなりの美人だった。そして、虫が詰め込まれた箱を被せられたことを思い出して、急に気持ちが悪くなり、俺はその場で胃のなかのものを吐こうとした。
「胃の洗浄をしたばっかだから何も出てこないよ。悪いことをしたね」
「謝るくらいなら、最初からするな。イテっ」爪が剥がされたせいで、指の先が痺れるように痛む。
「だが、君だって国家権力を振りかざして結構なことをしようとしていたんだぜ。虎穴に入らずんば虎子を得ずってやつなんだから、危険な目に遭うのは承知の上だろ?。それともなんだい?もしかして、自分は何とかなるとでも思っていたのかい?命は取り留めたんだ、運が良い方だと思わないと」と責任を棚に上げた。
「俺をどうするつもりなんだ」俺は痛みと吐き気で涙目になりながら男に訴えた。
「どうもしないよ。それより君があの組織に潜入することになった本当の経緯を知りたくはないかい?」と訊いてきた。男は八頭龍会に俺が潜入した経緯を知っているようだった。俺は組織の情報を横流しにし、強制捜査に踏み切るために潜入しているはずだった。
「組織の情報を警察庁に流すために潜入しているはずだが」
「これを」と男は資料を俺のスマートウォッチに送信した。俺は投影された資料の中身を確認すると、八頭龍会と有名なアンドロイド製造会社ハドンの金と物の流れについて記されていた。資料の最後には、男の顔が写っている。見覚えのある顔だ。
「これが俺の潜入捜査とどう関係がある?」最初から結論を述べない奴にイラつきながら訊いた。
「君はもう理解しているだろう?。その資料には八頭龍会と企業との不正取引がまとめられている」
「それで?」
「もしこの取引に公安が関わっているとしたら、どうする?」
「話が見えてこないか、それじゃあ、君が潜入することになった経緯を詳細に語るとしようか」
美しい男は語り始めた。
「君も国家権力に属しているなら、ロボットの人体への利用をこの会社が進めているのを知っているね。そして、人間の一部を機械と融合させて、サイボーグ化する技術が軍事転用されつつあるのは知っているだろう」
生まれつき、腕や足がない人間や戦争で体の一部を失った人間が通常の人間と同じように生活できるように、失った体の一部を機械で置き換える技術は確立している。日本は永世中立国の一つだが、世界は今、大きく二つの連合国が冷戦状態でここ数十数年間分断されている。ここ二百年で、最も世界は治安が悪く、細かい紛争が世界の各地で起こっており、日本も、軍隊や軍事用アンドロイドを送り込んでいる。そして、亜人の人間では思いつかないような開発能力を利用して、一部のアンドロイド製造会社や、義手や義足の製造メーカーは軍事利用を目的とした、人体のサイボーグ化を推し進めている。数年前までは、いくら技術が進んだとはいえ、夢物語だと言われていたが、ハドンは軍事用サイボーグをこの二、三年で実用レベルまで開発を進めていた。
「実践レベルで開発した商品を試すには、多くの武器や、VR空間でのシュミレーションだけでなく、実戦を想定した模擬戦が必要になる。正直、それだけの武器と、使い捨てにできるだけの人の命は普通には手に入らない。だが、ハドンは実現した。しかも三年で。彼らはね、八頭龍会から武器を調達し、四国の亜人を大量に囲っている巨大農園で、何度も模擬戦闘を行なっていたんだよ。今、君が手に入れたデータがその証拠だ。ハドンの優秀なエンジニアは、その不正会計の記録を残さないようにしていたが、八頭龍会は巧妙にデータを残していた。君がマークしていた龍って男、彼はかなりのやり手で、一人で企業を出し抜いたんだ。そして、データを持っているのをいいことに、今度は、サイボーグ化の技術と大金をハドンに要求し始めた」
「それを消すのが俺の本当の任務」
「そう、そして、農園での模擬訓練、そんなことをしていたら相手が亜人とは言え、君たち国家権力が見逃すと思うかい?もちろん普通の人間にもサイボーグ化の人体実験は行われていたんだよ」
俺は全てを悟った後、視界がねじ曲がるような気分になった。
「気がついたみたいだね。これは、企業と国の国家プロジェクト、八頭龍会はこれを迅速かつ低予算で進めるために利用されていた香港マフィア。しかし、八頭龍会は狡猾だった。そこで君の出番、君を八頭龍会への強制捜査を踏み切らせる証拠を得させる名目で潜入させ、君にデータを削除させる予定だったってわけさ」
俺は男から全ての真相を聞いたが、信じることができなかった。確かに記録はあるがいくらでも捏造できる。俺が公安警察だと知れば、短期間でこのくらいの話を作ることは可能だろう。猜疑心からか、俺は男に質問した
「仮にその話が本当だとして、お前」
「ああ、名乗っていなかったね。僕はニコライ、神屋敷ニコライ」と名乗った。俺はその名前を聞いて、おもわず笑ってしまった。
「お前がニコライ?出鱈目もいい加減にしろよ。神屋敷ニコライは、廃人状態で亜人収容所に収容中のはずだろ?」
「収容所にいるニコライは僕の身代わりだよ。君の優秀な同期が捕まえてくれてね」
そうだ神屋敷ニコライは、同期の蒼井が捕まえたはずだった。蒼井は汚名を返上するように管理区で取り逃がしたニコライを逮捕し収容所送りにした。亜人のデータと、七年前の事件前後の監視カメラのデータは全て消えていたが、蒼井の記憶と捕まえたニコライの人相と一致していたはずだ。これで殉職した上司の草壁の墓参りに行けると、しみじみ三年前に語っていた。思い出した、あの髭面の男、そうだ蒼井の上司だった草壁だ。
「じゃあ収容所にいるニコライは何者なんだ?」
「彼は僕が蒼井君にニコライだと信じ込ませた、ただの亜人だよ。僕が七年前に起こしたテロに関するものは何も残っていない。管理区にいた人間は、僕の能力で僕に関する記憶を消去させている。そして、蒼井君にだけ、収容所にいる彼を僕だと信じるように能力をかけた。何かあった時のスケープゴートになってもらうためにね。彼は亜人の大脱走が自分の原因だと思っているようだけど、僕が彼をただ嵌めただけなのさ」
ニコライは七年前の真相を説明した。蒼井は管理区での過失でクビになるところを、捜査課に左遷される形で今の課長に救われた。自分の過ちを払拭するかのように、死ぬ気で働いていたが、それが全て茶番だったということを、今、俺に告げられた。
「僕が何者かはこのさい、どうでもいいや。それより、今、君が知りたい答えを用意しているよ」
俺は八頭龍会がある、港に連れてこられた。俺が潜入していた建物の地下にニコライを名乗る男が俺を連れて行った。地下室には、椅子が二脚置いてある、一つは白で、もう一つは黒色の椅子だ。黒色の椅子には、布をかぶせられた男が椅子に座らさせられている。突き当たりの壁には、灰色に曇った大きなガラスが壁に埋め込まれている。この部屋から向こう側は見えない。おそらく、隣の部屋からこの部屋を覗くためのものなのだろう。ニコライは真っ白の椅子に座り、「その男の布をとりなよ」と俺に指示を出した。
男に被せられている布を取ると、俺の上司の棚橋の怯えた顔があった。こいつが俺に潜入捜査を命じた張本人だった。
「明智、良かった無事だったのか、お前から連絡が途絶えて俺はお前に何かあったんじゃないかって」
「棚橋さんはなぜここに?」
「わからない。出勤途中、いきなり誘拐されてこの状態で連れてこられたんだ。さっ、これを外してくれ。警察庁に戻ろう」と体を震わせながら俺に手錠を見せた。俺と棚橋の様子を悠然と横目で見ていたニコライは、「彼の手錠を外す鍵は僕が持っている、もし鍵が欲しければこれで僕を殺して、鍵を奪うといい」と言い、懐から銃を取り出して俺に渡してきた。
「いくら訓練されているとは言え、今の君じゃ僕と素手で渡り合うのは難しいことは理解しているだろう。彼を助けたければ、この銃を取って僕を殺すんだ」と言ってニコライは自分の額の中央を指差した。
差し出された銃を奪い取り、銃口をニコライの頭に突きつけた。引き金を引こうとすると、剥がされた爪のせいで指先に激痛が走った。俺は痛めつけられた真相を知る必要があることを思い出し、重たい銃をぶらりと下ろした。
俺の様子を見た棚橋は「おい、明智、どうしたその男を殺せ」と言った。
「棚橋さん、教えてください。俺はこの男から、企業とマフィアの不正取引の証拠を消すために今回潜入することになったと聞かされた。その不正取引に公安が絡んでいるって言うのは本当なんですか?」と俺は手を震わして、棚橋の頭に銃を突きつけ直した。
棚橋は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、笑いながら俺を諭した。
「不正取引?なんのことを言っているんだよ。お前こんな男の言うことを信じるのか。この組織は日本で麻薬や銃の密売をし、日本の犯罪増加に大きく関わっている組織なんだぞ」と地面を指差して、言った。
「証拠ならある」と言って、俺はニコライに送られた資料を見せた。
「捏造だろ」
「この画像の男。ここ一年近く、警察庁に頻繁に出入りしていたのを俺は覚えている」
「俺はそんな男知らねえよ。お前大丈夫か?そういえばひどい見た目だ。やつれている。正常な判断を下せていないんだ」
ニコライは会話を切るように、
「彼はしらを切り続けるようだね。そりゃ彼は不正取引を認可して、ハドンから金を受け取っていたんだから」と微笑んで言った。
「お前は黙っていろ」とニコライに怒鳴った。俺が怒鳴ると、棚橋はビクッと反応し、態度の変化を恐れ、ニコライは爽やかに微笑みながら俺をただ静観していた。
「なあ、あんた答えろよ。こいつの言っていることは本当なのか?。お前が保身のために俺を潜入させて、俺をこんな目に遭わせたのか」
そして、俺は一呼吸置いて「答えろ棚橋」と叫んだ。
「そんなわけないだろう。俺が、か?。何年の付き合いだと思っている。もう三年近く一緒に仕事をしてきただろう。俺がそんなことをするように思えたか」
警察庁の棚橋は不正をするようにも思えないが正義感が強い人間だとも思えない、いたって普通の男だった。可もなく不可も無く、ただ普通の男で、あまりにも普通すぎるが故、勘違いした同僚から裏で舐められているような男だった。この男を信じられないのは、ニコライから与えられた資料のせいだった。これが捏造かと言われると、俺はそうは見えなかった。このデータは俺には真実味を帯びているように思えた。そして、何よりニコライと棚橋の態度が対照的だったからだ。ニコライには絶対に殺されないという自信が、余裕のある態度から読み取れた。
「そいつを殺せ、明智」と脈絡もなく棚橋は叫び出した。
ニコライは俺と目が合うと、達観したような雰囲気を湛え、
「僕を殺しても構わないけど。もし、彼が不正取引の張本人だとしたら、君は今後どうなると思う?」と俺の身を案じた。
もし棚橋が不正取引に一枚噛んでいるとしたら、その情報を知っている俺を生かしてはおかないだろう。俺が逆の立場なら、即刻始末する。そのことを揉み消すくらい、今の警察庁なら簡単だ。
「僕が彼なら、君を生かしてはおかないだろうね。それに、今回の不正取引にもっと大きな組織が裏に控えているんじゃないか」
「防衛省か」
「そう、君なんて国家からしたら、蟻みたいなものだ。今の地位を守りたいものが、ちっぽけな君を見逃す理由があるかい?」
「そんな男の言葉に耳を傾けるな。こいつはお前を騙そうとしているんだ。このペテン師め」
「なあ、棚橋さん俺の質問に正直に答えてくれ。あんた誘拐されて、すぐに布を被されて来たのか?」
「ああそうだよ。そんな些細なことがどうした?」
「あんたはここに来るまで、何も見なかった。あんた、この組織って言ったよな。あんたこの地下室を知っているだろ」
「どう言う意味だ?」棚橋は俺の言っている意味がわかっていなかった。
「ここが何かの組織の建物の地下室だって、なんで、お前は知っているんだ。ここが八頭龍会の建物だって知っているだろ?。お前は地面に指を差して、まるで、ここが何かの組織の建物の中だと言わんばかりの仕草をした」俺は冷静じゃないのだろうか?俺は目の前にいる棚橋を少しも信用できない。
「今、お前は冷静な判断を下せる状態じゃないんだ。お前を八頭龍会に潜入させたのは俺だ。お前から連絡が途絶えた後に、こうやって拉致監禁されたら、八頭龍会でお前が何かして、俺がここに関係者として連れてこられたと考えるのが自然だろう」
棚橋の言い分も一理あった。この二人の男は意見も態度も全て真逆だ。腐臭の漂う、真っ白い清潔な地下室の中で、白と黒の二つの椅子に座っている二人。一人は俺の一挙手一投足に怯え、もう一人は俺の行動を気にする素振りを見せず、足と手を組みこちらを静観しているだけだ。片方は俺の決断を否定し、もう片方は俺の決断を受け入れようとしている。
そして、ニコライは俺の最も欲しかった言葉を口にした。
「君がどう言った決断をしようと、君の命は必ず補償するよ」
ニコライの言葉には妙な説得力を帯びていた。そして、真相がどうであれ、俺が生き残ることを最優先に考えるのであれば、俺は棚橋を殺すしかなかった。ニコライが死んだ後、この地下から安全に脱出できる保証はどこにもない。安全に逃げ出せたとしても、棚橋が俺を口封じのために生かしておく保証もない。棚橋を殺そう。俺は銃口を棚橋の頭につきつけて、引き金を引こうとした。
とうとう、棚橋は最後の命乞いを始めた。
「待て待て待て、そうだよ、不正取引に噛んでいたのは俺だ。金が欲しかったんだ。この不安定な社会で、危険と隣り合わせで働いているのに、普通の公務員と同じ給料しか得られないなんておかしいと思わないか。死んだって、誰も気にしない。記念に階級が上がるくらいだ。お前だってわかるだろう、もっと金がいるんだよ。贅沢したいってわけじゃないんだ。娘の学費や、親の介護費だって馬鹿にならない。こんな仕事をしていても家庭は火の車だ。なんなら、みんなやってる、そうだ、この件にお前を噛ませてやる。お前もこれから父親になるんだろ。大金が手に入るぞ」
この言葉を聞いた時、俺は先ほど夢で見た光景を思い浮かべた。俺には守るものがあり、帰りを待っている人間がいる。俺がいなくなったら彼女たちはどうなる。もしかしたら路頭に迷うことだってあるかもしれない。俺は死ねない、俺の命はもう俺だけの物じゃない。
俺はくどくど話し続ける棚橋の頭に銃弾を撃ち込んだ。棚橋は勢いで椅子ごと倒れて、額から血を流し、白目を剥いている。ニコライの方を見ると、ニコライは瞳孔を開き、狂気的な笑顔で棚橋が倒れている姿を見つめていた。
俺は衝動的に人を殺してしまった罪悪感に駆られ、自分のこめかみに銃口を当て、引き金を引いた。銃弾は発射されなかった。この銃には一発しか銃弾が込められていなかったらしい。とんでもないことをしでかしてしまったと思った俺は慟哭し、目を拭うと返り血のせいで、人差し指は紅く汚れているのを見た。膝から落ちて、意気消沈した俺を見て、ニコライは室内に反響するように大袈裟に拍手を送った。
「車で家まで送ろう」
ニコライは立ち上がって、俺に手を差し出した。
車内で俺はひたすら荒んでいた。激情に駆られた俺は、あんな簡単に自分の上司を射殺してしまった。こんなに簡単に俺が人を殺せる人間だとは思わなかった。棚橋のやつもそうだったのかもしれない。自分が簡単に悪事に手を染める人間だとは思っていなかったのだろう。善だ悪だなんて言っているが、そんなものは世の中にはない、あるのは永遠に続く現実との折り合い、半永久的に続く退屈な打算の連続。飢えていれば、人肉だって喰う。生きるためなら簡単に身を堕とす。堕ちるのは簡単だ。そして素早く落ちる石に苔はつかない。あの空間で堕ちていく俺を誰も止めることはできやしなかった。
車からは、政治家が街頭演説をしているのが見える。大衆にとって聞こえのいい、美辞麗句を機械のように述べているだけで、裏で何をしているのかわからない。あの政治家はどんな不正に手を染めたのだろうか。政治献金の本当の出所はどこなのだろうか。多分、あの政治家の元に集まっている、荒んだ大衆は、おそらく亜人に仕事を奪われた失業者たちだ。政治家は亜人管理区で企業の経済活動や、多くの税金が投じられていることに意義を申し立てている。政治家は当選するため。大衆は不運な境遇から脱するため。俺は家族を守るため。人間は自己愛のためならなんだってやる。打算は善悪の垣根なんか簡単に超えさせる。
「政治家はどうしてあんなに我が物顔なんだろうな」俺は鼻で笑った。
「政治家なんて生き物は、大衆の意見を代弁するために存在する。支持者に聞こえの良いような言葉で、大衆の意見を代弁することが仕事なら、彼は立派に仕事に責務を果たしていると思わないか」
「そうかもしれないな」
信号が変わり車が発進した。後ろから俺たちが乗っている車を別の車が追い越し街頭演説が見えなくなったところで、俺は外を眺めるのをやめた。
「あんたはなんで、俺の潜入捜査の目的が、不正取引の証拠隠滅だと知っていたんだ」
「警察官僚の中にも僕の仲間が潜り込んでいる。それで知っていたんだ。八頭龍会に本当の目的を知らずに、潜入している公安の人間がいるって知らされていてね。君を見たときなんとなくそんな気がしたんだ。そこの彼が君に拷問した時、君が不正取引について何も知らなさそうだったから、君がその男だと確信したよ」助手席には草壁が座っている。体が大きいせいでシートから体の一部がはみ出ている
この男は、マフィアだけでなく、日本の中枢にも影響力を持っているようだ。ただ俺には目の前の男が、何を目的にそこまで自分の影響力を広めているのか見当がつかなかった。彼は野心家にも見えず、亜人を解放した張本人だが、大きな大義を背負っているようにも、そして、人間に激しい憎悪を抱いているようにも見えない。彼が俺を含めた人間と接するときは、自分を愛するように優しく人に接する。敬意のようなものさえ感じられる。
「あんたは本当に俺に何もする気がないんだな」
「約束したろ。発言には責任を持つよ」
「俺が、あんたが捕まっていないことを証言したらどうする?」
「君が、かい?。君はそんなことしないだろう」
「なんでわかる?。会って、まだ数日しか経ってない俺の行動が」
「それは君が自己の正義に忠実な人間だと思ったからだ」
正義が善に属するなら、今の俺は正義とは対極にいるはずの人間だ。その俺にニコライは正義を説いた。
「君は今、警察、いや日本政府を恨んでいる。亜人から多くの恩恵を受けながらも、彼らを差別し、裏では不正に手を染め、そしてそれの隠蔽のために末端を利用している。君は彼を殺すと決意したとき、何を考えていたんだい」
「家族のことだった」
「君があの棚橋とかいう男を殺していなかったら。もしかしたら、君は死んで、君の家族は路頭に迷っていたかもしれない。最悪の場合は、君の関係者として始末されていただろう。君は家族を守ったんだ。そんな自己犠牲的な愛情と正義を持っている君が、他人のことを簡単に売るとは思えないよ」ニコライは愛情とも言った。
確かに俺はこの男を売ることなんてほとんど考えていない。おそらくこの男は、あの壮絶な苦痛を与えた張本人であるはずなのに、俺はこの男を憎むことが出来なかった。むしろ俺はこの男ともっと話していたいと感じていた。この男の言葉を受け入れることは、俺に妙な安心感を与えてくれた。
「あんたは、この日本をどうするつもりなんだ」俺はこの男が何を考えているのか知りたくてしょうがなくなっていた。
「さっきの街頭演説を見ていて思わなかったかい?。なぜだか亜人は日本だけに発現した、謎の人間の進化現象だと言われている。日本人が持つ特有の遺伝子のせいだと言われているが、本当にそうかな?日本人の遺伝子を持っている人間なんて、日本以外にもたくさんいるだろう」
亜人化現象は、現状、日本だけに起きた謎の生物進化だった。海外で、人間が十歳を境に亜人化したという報告はまだない。俺がニコライに目的を訊くと、ニコライは雄弁に語ることなく、冷静に自分の目的について説明した。
「それに、亜人みたい生物を、なぜ今、冷戦状態の海外諸国は研究をしようとしないのか。軍事目的に応用しようと思えば、いくらでも利用できるだろう。そして、人間と同じ形をした生物に非人道的な行いをしているこの国に、国連が人権侵害を理由になぜ攻めこんでこない。おかしいと思わないかい?なぜか今の日本は、この冷戦下、永世中立国として野放しにされている。そして、今や日本は実質的、鎖国状態だ。僕はその真相が知りたい。そして、今の膨れ上がった人間と亜人の憎悪を爆発させた時、この日本に何が起きるのか知りたくてしょうがないんだ」
俺の目の前にいる男は国家を転覆させようとしている純粋な悪人だった。自分の好奇心を満たすためなら、自分の能力や他人を、全て活用し、目的を遂行する。究極的な自己愛を持った亜人。今の俺が彼に親近感を覚えるのは明白だった。俺にとって家族が全てだった。彼女らに不利益を被るものは容赦なく全てを排除したい。何かを実現するために、手段を問わず、倫理を超えた行動を取れるという点において、彼は俺と似たもの同士だと思ったからだ。
車は俺が住んでいるマンションの前に着き、ニコライは車を降りようとする俺を呼び止めて、
「来週の日曜日、八頭龍会の建物の前に来れるかい」と言った。俺は彼が何をさせようとしているのかすぐに理解できた。
「おいおい、俺に今度は二重スパイになれと言うのか?勘弁してくれよ」
「断るのかい、僕と君の目的は一致していると思っていたんだけど」
俺は思い切り車の扉を閉めて、マンションのエントランスから、去っていく車を、しばらく眺めた。数日ぶりに家に帰ると、青ざめた顔で美和子が小走りで駆け寄ってきた。数日会っていないせいか、前よりお腹が大きくなっているような気がした。久々の我が家の匂いで、ようやく、日常の感覚を取り戻し始めた。
「どうしたの、警察庁の人も連絡が取れないって言ってたから、心配した。どうしたのこのケガ」と俺の手をとり聞いてきた。
「仕事でヘマしちゃって。美和子は?体調平気」
「私は大丈夫だけど。。。今の仕事まだ続けるの、私こんなこと続いたら」
「ごめん。大丈夫、この子が生まれたら、すぐに他の仕事探すから」
「何があったの?」
「言えないよ。機密事項だから。大丈夫、俺が二人とも必ず守ってみせるから」俺は大きくなった美和子の腹を撫でて言った。
「みんなを守るんだって言って、孤児院にいた頃から警察官になるって宣言してたけど。自分のこともちゃんとも守らなきゃダメだよ」
「わかってるよ。もう父親になるんだから」
俺は汚れちまったこの手で美和子とお腹の中にいる赤ん坊を抱き寄せた。彼女たちのこのかけがいのない温もりが俺の荒んだ心に安らぎを与えた。俺にとってこの家は世界で最も美しい空間だった。一つ一つの家庭は美しい。全てではないが、夫婦はお互いを尊重し、子供たちを愛情たっぷりに育てている。家族の絆は強く、何があっても支え合うことを誓い合っていた。そして俺は、この美しいものたちが権力によって簡単に摘み取られてしまう社会の実態を激しく憎み始めていた。
約束の日曜日、警察庁の食堂で食事をとっていると、同期の蒼井に声をかけられた。
「久しぶり、随分やつれているな。前いいか?」
「ああ蒼井か、お互い休日出勤とは、お互い苦労が絶えないみたいだな」と労った。この時期の亜人捜査課はいつも忙しい。蒼井は普段通りだが、すれ違う他の捜査課の職員はいつも死んだ顔をしている。
「そういえば、子供が生まれるみたいだな。おめでとう。生まれたら、連絡くれよ何か祝わせて欲しい」
「ありがとう」
俺は唾を飲み込んで、ニコライと草壁のことを話そうとした。俺がじっと、蒼井の方を見ているのに気がついて、蒼井は食事の手を止めて、
「どうした。指が痛むのか?」と訊いた。蒼井は俺の手元を指差している。
「ああ大丈夫だよ。なんでもない」
「お互い機密事項が多くて大変だな。その手のことも聞きたいけど、どうせ、答えられないだろう」
ああ、とだけ言って「蒼井の方はどうなんだ、仕事は順調か」と話題を変えた。
「仕事か?例年通りこの時期は忙しいけど、新しく管理区から来た亜人の子が優秀でとても助かっているよ」と言った。少し顔が綻んでいるように見えた。多分、気に入っているのだろう。蒼井の亜人への考え方は不思議だった。存在を尊重しているとしか思えないのに、彼は捜査課で管理区から逃げ出した亜人を追い続けている。彼があの部署に執着する理由は誰もが不明だった。しばらく沈黙が続き、蒼井が食事を終え、立ち上がった。
「もう行くのか。もう少しゆっくりしていけよ」と俺は言った。
「余裕が出来たって言ってもまだ仕事が山積みだからな。あんまりゆっくりしてられないんだ。また今度、みんなでご飯にでも行こう」と蒼井は言った。
食器を片づけに行こうとするところを、蒼井、と呼び止めて、俺はこの数日間のことを話そうとした。しかし、振り返る蒼井の顔を見て俺は「すまない。なんでもない」と言って話すのをやめた。
蒼井は一度俯き、深刻そうな顔をした後に、「疲れてるんじゃないのか。たまにはゆっくり休めよ」と笑顔で俺に声をかけて、食器を片付けて足早に食堂を出て行った。
ニコライは、約束した通り俺に何も仕掛けてこなかった。警察庁内にも、家の周りにも、不審な奴は俺が確認した限り、誰もいなかった。このまま何もしなければ、俺は普通に警察庁職員を何年かやって、その経歴を名刺がわりに、転職なり独立なりして、美和子と生まれてくる子供と幸せに過ごしていくのだろう。棚橋の殺害。恐ろしい拷問。平和な日常は毒々しかったあの数日を解毒してくれるのかもしれない。俺はあの異常な日常に折り合いをつけることに、嫌な焦燥を感じていた。俺はその答えを求めていて、その答えをあの美しい男が持っていると予感していた。当て所なく車を走らせていた俺はあの男が指定した時刻に、約束の場所に確信を持って車を駐車した。
建物の入り口で、ニコライと草壁と龍が俺の到着を待っていた。車を降りて俺は地面を踏み締め、確固たる決意を持って、三人の元に向かった。
「必ず君はやってくると思ったよ」
「俺がなんでここに来たのかわかっているのか?」
「君の行動原理は自己犠牲的な強い正義感と打算だ。君は自分が所属している、いや、日本の中枢が不正で成り立っていることに吐き気を催している。君はその組織を放っておくことが出来ない」
俺は話を遮り「違う」とニコライの主張をキッパリと否定した。俺のことにほとんど興味を示していなかった龍が初めて俺の方を向いた。ニコライは何か企んでいるような不敵な笑みをやめない。
「娘が生まれるんだ。俺は家族のためならなんでもやる。この国の不正を知った俺をこの国が放っておく保証はない。そして奴らは俺の家族に狙いを定めるかもしれない。俺は娘と嫁にふりかかる火の粉は全て排除したい」
俺は間髪入れずに続けて、
「この国の権力は国の存続のために、平気で普通に暮らしている平和な日常を摘み取ろうとする。日本の国民は今まで国の方針に対して文句を垂れながらも、何も行動を起こしてこなかった。政府はこの従順な国民性を利用して、やりたい放題やってきた。そして、亜人社会は政府を暴走させた。そいつらが家族に手を出す前に俺はあんたらの計画に加担して、この国を一度ぶち壊す。俺とあんたらは利害関係のみのつながりだ。もし、俺が想像している通りにあんたらが動かなければ、俺はあんたを平気で売る。何なら殺してもいい」と主張した。
「そうか、なら話は早い。今から今後の計画について、話し合うんだ。きっと君も気にいる。さあ」と言って、建物の中に入って行った。
目的の部屋まで歩く道中、チラチラと草壁の方を見ていると、草壁が「蒼井は元気にしているか?」と俺に訊いてきた。その声は共通の話題でとりあえず場を繋ぐための乾いたものではなく、蒼井の様子を心配し憂いているような声色だった。
「今日、食堂であったけど、元気そうだったぞ」
「そうか」
「あんた、蒼井の上司だった男だよな」
「上司と言っても、数日だけだったがな。新人のあいつには悪いことをしたと思っている」
「あんたはなんでこの組織にいるんだ」
「ここにいる理由はお前と変わらないよ。今の亜人の迫害、反亜人教育、不正と汚職を涼しい顔でやる政治家や官僚に憤りを感じたんだ。俺は警察庁に入って内情を知った時思ったんだ。この社会は間違っているって」
「随分と正義感と倫理観に豊んだ男なんだな」
「そんな立派なものじゃない。かつての俺は善と悪は対極にあるものだと思っていたんだ。しかし違った。善の中にも悪は存在し、悪の中にも善は存在する。分断されていると思っていたものが、実は内包し混淆しているものだと知った時、俺は思ったんだ。善も悪も関係ない、俺が対象を許せるか許せないかだと。俺はただ正義だの倫理なんて関係なく、そこにいることが心地悪くてしょうがなかったんだ。年甲斐もなく、許せなくなっちまたんだこの国を」
「今はどうなんだ」
「心地いい訳じゃないが。前よりマシだ。この人のやろうとしていることは、決して正攻法じゃない。ただ、狼と闘うには狼になるしかない。何も変わろうとしないこの国をただ眺めているだけなら、俺はこの人と一緒に何もなくなったこの国を見てみたいと思ったんだ」
ニコライが扉を開けると、俺を拷問した小男と、いつもニコライと一緒にいる美人の女に加えて、ニコライの仲間の数人の亜人らしき人物と八頭龍会の組員らしき男たちが座っていた。縦に長いテーブルで、向かい合うように皆が座っている中で、ニコライのみが、唯一、長方形の短辺に当たる席に座った。ニコライがテーブルのボタンを操作すると、部屋は暗転して、管理区の立体図が空中にホログラムとして投影された。ニコライは、ホログラムに照らされた仲間たちの真剣な横顔を眺め、「さあ、今後の計画について話そうか」と言った
俺の中で不安や焦燥が消えていた。俺は彼がこれから何をしでかすのか知りたくてしょうがなかった。俺は取り憑かれ始めていた、ニコライという男の底知れぬ悪意と魅力に。
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