刃物男の讃美歌(4-3)

「もう無理、なんで私がこんな事務作業やらなくちゃいけないのよ〜」マリアは両手で頭をかきむしり、捜査課の皆にあえて聞こえるように叫んだ。久利生と柳は自分の班に臨時的に配属された新人に手を焼いている。四月から五月中旬にかけての捜査課は忙しい。通常の亜人の捜査業務に加えて、亜人管理課の仕事が山のように回される。亜人管理課は、管理区の運営を主に行なっている政府機関で、亜人捜査課の前身にあたる。昔は警察庁の管轄だったが、捜査課ができたことを機に総務省の管轄になった。年度はじめの四月の管理区は、管理区に居住している亜人を雇用する企業相手に、さまざまな業務調整を行わなければならないこともあり、かなり忙しくなる。この時期は特に人手不足になる管理課は、かつて管理課だった捜査課に仕事を押し付ける形で委託してくる。最近、捜査課の人間が残業続きなのはこのためで、新人ベテラン関係なく膨大な量の業務を処理しなければならない。マリアの化学に特化した能力が今のこの課で役に立つはずもなく、配属されてから夜の八時を越えるといつもこの調子だ。カナエも終わりの見えない業務に正直辟易していた。蒼井はこんな時でも、シャンと背筋を伸ばして、すました顔で業務をこなしている。一方、明石は空になったエナジードリンクの缶が何本もデスクの上に放置されている。最初のうちは爽やかな色でデザインされた物をよく飲んでいたが、日に日に、デザインが派手になり、最近ではデスクに並べられている空き缶は危険色だらけになっている。

 ここで残業続きで頭がおかしくなった三名の職員を紹介しよう。下村と柳と対馬だ。下村は家族が写った待ち受け画面に、対馬は自分の好きな女性アイドルに、柳はまだできぬ彼氏に、たまに取り憑かれるように深夜帯になると仕切りに話かけている時がある。

 そんな地獄の光景がそろそろ始まる夜の10時ごろ、渋谷署の交番の刑事から、捜査課に緊急の連絡があった。上半身刃物男と、鮫男が出現し交戦中だと。




 青山の働いているクラブは香水とアルコールの匂いが立ち込めている。不愉快な音楽、何も考えずにはしゃぐ若者、五感で感じられる全てのものが俺には不愉快だった。薄暗い室内で、不規則に動く人をかき分け、カウンターの黒人のバーテンダーにクシャクシャにした名刺を広げて見せた。こいつに会わせろ、と青山の名前が印字されている面を見せると、バーテンは作業を止めて、何も言わずに俺の顔をじっと見つめ、手に持っていたグラスをカウンターの下において、親指で従業員用の扉を指差した。扉の前で合流した俺はバーテンに裏に案内された。雪穂が無事だと良いのだが。

 消えかけの蛍光灯に照らされた、湿度の高いコンクリートの廊下を道なりに進む。一番奥の扉を開けると、十畳ほどの一室でパイプ椅子に座って手を組んで顎を引き、三白眼の青山と目があった。部屋の中には、キッチンと冷蔵庫とベッドしかない。ベッドの上では派手な化粧をしたやせぎすの女がぐったりとしながら全裸で気を失っている。ベッドの下には注射器と吸い終わったタバコが落ちている。俺は女のことなど気にも留めず、青山の胸ぐらを掴み、「雪穂はどこにやった」と脅した。

「離せよ。今教えてやるから」と不的な笑みを浮かべ、俺のことを睨みつけている。俺はパイプ椅子に青山を放った。青山は、サイズの合わないベージュのジャケットの襟をただし、ゆっくりとスマートフォンの画面を俺に向けた。画面には、機関銃を持った覆面の男二人と、椅子に縛り付けられている雪穂の姿があった。

 画面に向かって、雪穂、と叫ぶと、涙目で体を揺らして助けを求めていた。「ここはどこだ、雪穂に何もしてないだろうな」と言うと、青山「まだ何もしてねえよ」と言い、スマホに向かって、「お前ら雪穂ちゃんをよく見せてやれよ」と話しかけた。

 覆面の男の一人が、雪穂の顔をアップにして、俺を強請るために切ったばかりの髪を掴み、頭に銃口を向けた。雪穂は怯えて声が出せず、機関銃を見て震えている。青山はスマホの通話を切ってポケットにしまった。

「お前が俺の誘いにのらないからこうなるんだ。その上、人間なんかに愛情を持ちやがって」と静かに、吐き捨てるように言った。

 俺は激怒を抑えることができなかった。怒りで我を忘れた俺の上半身の皮膚は、カミソリで覆われ、右手から機関銃を、左手には日本刀を、指の第二関節からも小さな長い刃何本も生やした。長く伸ばした髪の毛はリボルバーのバレルとハンマーに、鼻はシリンダーに、引き金はないが、俺の意志で何発もの銃弾を打ち込むことができる。

「そう、その姿だよ。アメリカの特殊部隊だって一人で片付けてしまえそうなその見た目。暴力の化身。俺が求めていた姿だ」

「もう一度聞く、雪穂はどこだ、何もしてないだろうな」

 俺の声は、汚い一室に鳴り響いた。気を失っている女は俺の声で目を覚まし、俺の姿を見て悲鳴を上げて、全裸で部屋を出ていった。

「お前が俺らの仲間になるなら、女には何もしない。今まで通り幸せに過ごせるかもなあ」

「それに」と青山がそのまま続けようとしたが、俺は耐えきれず、痛みすら感じる暇も与えずに青山の右手を切り落とした。鈍い音を出し、手を広げて落ちた右手を見て、青山は呻き声を上げて、右腕を押さえてその場に横這いになった。右手の切断面から、止めどなく血が流れ、俺の靴を不愉快に汚した。俺は青山の右手を拾い上げて、爆弾に変えて、切断された右手に装着して止血した。武器に変えられるのは俺の体だけではない、生き物は全て俺の武器だ。血は止まっても、痛みがなくなるわけではなく、涙目で、痛え、痛えよ、と歯を食いしばりながら呻く青山の肩を蹴って仰向けにして、機関銃の銃口を口に差し込んだ。

 俺は声に抑揚を告げず、

「お前の右手を爆弾に変えた。それは俺の意志でどこからでも自由に爆発させることができる。俺の言うことを聞けば元通りにする。雪穂の場所を教えろ。雪穂に何かあったら、お前ら全員を殺す」事実を述べた。

 機関銃を口から取り出すと、青山は焦って仲間に連絡をして、俺が着くまで女には手を出すな、と言った。仲間の男が、冗談を言ったのか、青山は急に声色を変えて仲間に、女に何かしたら、お前ら全員ぶち殺すぞ、と怒号をあげ、電話を切った。

「このスマホに位置情報が登録されている、これを頼りにそこにいけ」と左手で戦慄きながら俺にスマホを差し出した。ここから車で三十分くらいの廃墟の工場らしい。

「さっ、俺の手を元通りにしてくれよ。約束は守っただろ」と要求してきた。

「手を戻すのは雪穂の無事を確認してからだ」と冷たい声で吐き捨てて、振り返った。振り返ると、部屋の扉が開き、先ほどのバーテンダーが立っていた。血まみれになった床を見て、顔を青くして、言葉を失っている。

「その男を殺れ」と後ろから、青山がバーテンに叫ぶと、我に帰ったバーテンダーは俺を睨みつけ、全長二メートル半の手足を生やした、巨大な鮫人間に姿を変えて、俺に咆哮した。青山は笑いながら、別の扉から、部屋を出ていった。

 鮫男は自分が傷つくことを恐れず、刃物まみれの俺の体に突進してきた。ぶつかった衝撃で俺は壁に体を打ちつけられた。一瞬、めまいで気が遠のきそうになった視界には、再度突進してくる鮫男の姿があった。右手の機関銃を乱射し、鮫男に応戦する。鮫男の皮膚は、硬い鱗で覆われているため、銃弾が貫通しない。怯まずコチラに向かってくる。突進を躱すと、鮫男は壁の向こう側の水道管ごと壁を破壊した。室内には放水音と、水の滴る音が部屋を満たしている。今度はコチラから、鮫男に襲い掛かり、日本刀を腹に突き刺して、そのまま持ち上げて、頭のリボルバーから砲弾を放った。そのまま鮫男ごと天井を突き破って、クラブ会場に鮫男をぶっ飛ばすと、クラブ音楽と悲鳴の入り混じった音が俺のいる地下まで聞こえてきた。

 一階に上がり、俺の姿を見た客はパニックになりながら、クラブの入り口を目指した。クラブの入り口は逃げ惑う人間がごった返し、入り口が詰まっている俺は逃げる客を尻目に、仰向けで伸びている鮫男に向かって歩いて行った。

 鮫男が気を失っているのか確認すると、鋸状の歯を、ニヤリ、と見せつけ、起き上がり、思い切りボウリングみたいな大きな硬い拳で俺の腹を殴った。かなりの衝撃で、俺は腹を抱えて後退りをすると、隙を見逃さず、血まみれになった拳で、思い切り俺にフックをかまし、そして、よろけた俺の体を両手で抑え、口が傷つくことなど躊躇せず肩に思い切りかぶりついた。あまりにも強い顎の力で振り解けず、男を抱えたまま、外に出た。

 全身血まみれの二人の怪物の姿を見て、渋谷のジャンキーどもが蜘蛛の子を散らすように逃げていき、通りがかろうとする、トラックに思い切り、鮫男ごと突っ込むと、衝撃で二人とも吹き飛ばされて、ようやく鮫男が俺の体から離れた。肩から流れる血が、俺の体を熱く濡らしている。誰かの通報により、徐々にパトカーと、警視庁のアンドロイドが集まってきている。警察は俺に向かって銃を構え、凶行犯を取り押さえるための武装アンドロイドも一定の距離を置いて、コチラを警戒している。パトカーのサイレンが轟く中、何体かのアンドロイドは一般市民を非難誘導していた。鮫男は周りのことなど気にせず俺に襲いかかってくる。

 俺は先ほど日本刀を刺した腹の傷に機関銃を差し込んで、中を抉るように銃口を動かして、鮫男の体内で乱射した。青山以外殺す気はなかったが、構っている余裕はなかった。目と口から血を流し、鮫男は本物の魚みたいにそのまま冷たくなり、死んだ魚の目をしていた。無惨に鮫男を始末した俺を、警官は怯えた目で見ている。俺はアンドロイドだけ破壊するために、機関銃を警官隊の方に向けると、殺されると思ったのか、俺に向かって、汚い金切り声をあげながら、銃弾の限り発砲してきた。俺の体は硬鉄よりも硬い。普通の銃弾程度じゃ傷つかない。銃弾が俺の刃と接触し、金属が擦れ、火花が散っている様子を見て、何人かの警官は戦意を喪失していた。俺は器用に、機関銃でアンドロイドのみ破壊し、この体でも運転できそうな車を探した。あの車でいい。車の周辺に威嚇射撃をすると、カップルが急いで車から逃げ出した。俺は左手の日本刀で、ドアを切り、運転席に座りエンジンをかけた。

「このご時世にマニュアルかよ」と呟き、ギアとクラッチを入れてアクセルを思い切り踏み込んで、車を発進させた。ドップラー効果で不規則なリズムを奏でるサイレンが追いかけてくる。青山の手に取り付けた爆弾を起爆するとクラブの建物が火を吹いているのが、ミラー越しに確認できた。



「アオもう少しスピード出せないのか」助手席に座っている真田は、少しずつ刃物男が乗っている車に、追跡車の集団が離されて行っているのを見て、運転席の蒼井をせっつかした。

「そうは言っても、前が支えているんだよ。仕方がないだろう。前は何をやっているんだ」と吐き捨てた。逃走者には追いつけていないものの、窓から見える建物の風景が一瞬で通り過ぎていく。ここからまだ加速させる気なのか、とカナエは前列の二人の神経を疑った。隣に座っている課長は、腕と足を組んで、澄ました顔で二人の運転に身を任せている。車内に自分以外に常識的な感覚を持った人は誰もいないみたいだ。

 真田はシートベルトを外して、運転席と助手席の間にある、変速ギアを跨いで、蒼井の体を窓に押し付け、

「もういい、俺にハンドルをよこせ」

 思い切りアクセルを踏んで、片手で運転して前にいるパトカーを追い抜いていった。カナエはアシストグリップを思いきり握って、なんとか投げ出されないよう体に力を込めた。右に左に、何度も体が揺れて、車酔いして吐きそうだ。

「おい」と蒼井がツッコむ頃には、カナエたちが乗車している車は、最前列の車と並走していた。

 徐々に徐々に、逃走車と距離を詰めていくと、逃走車は交差点で車を180度回転させた。耳をつんざくドリフト音を発し、道路にタイヤのゴムの焼けた跡をつけた。対面状態になりながら、運転すると、右手の機関銃をコチラに向けた。「ふせろ」と真田が叫ぶと、刃物男は容赦無く右手の機関銃を乱射した。咄嗟に課長がカナエをフロントガラスより、低い位置までカナエの頭を伏せさせ、頭上を銃弾が通り、後ろの窓ガラスが割れ、車内はシートの綿とガラスの破片が舞った。

 銃弾の嵐が止み、背後を見ると、後ろの方で追突事故を起こし、走っている車はこの車を含めて3台だけになった。先ほどの銃撃で負傷し、頭から血を流し、腕を抑えた警官が足を引き摺りながらパトカーから脱出しているのが見える。課長の咄嗟の判断で自分は助けられたのだ、とカナエは胸を手で押さえながら、呼吸を整えた。

 追跡してくる車を間引いた刃物男はこれ以上発砲してくることはなく、次の交差点で車を90度右に回転させ、前進した。カナエたちは刃物男の目的がわからぬまま追跡を続けている。

 少しずつ距離を詰めていくと、刃物男は再び大きな行動に出た。三者線の反対車線に車線を移した。カナエはスピードが出しにくく、衝突の可能性が上がる選択をとった刃物男を不可解に思った。同じことを考えていた真田が「敵さんあえて、スピードの出にくい道を選ぶなんて。このままスピードを上げて、あの車に並走しろ」と蒼井に指示を出した。しかし、蒼井には刃物男の意図が読めていた。

「おそらく刃物男は、500メートル先にある高架を渡るつもりだ。この車線はつながっていない、間違いなく巻かれる」と言った。確かに、向こう側には、大きな二本の高架が見える。警察から逃れるためとは言え、刃物男の絶対に捕まらないという意志は、もはや執念にすら思えた。

「どうする」

「どうするって、こうするしかないだろう」

 蒼井はハンドルをきって、車線を変え逆走を始めた。この一ヶ月で死を覚悟したのは、もう三度目か。この人たちといると、命がいくつあっても足りない。

 


 焦燥で視界が狭まりそうにも関わらず、すれ違う車に乗車している人の顔がよく見える。皆一様に目と口を思い切り開けて、あたふたしている。逆走する俺の車と追跡してくる車の自殺行為に巻き込まれないか、命の危機を感じているのだろう。時間が濃縮されているみたいに、自分の周りはゆっくりと動いている。神経が昂り興奮状態で、血液が沸騰するみたいに体が熱いのに、頭の中がスッキリして妙に落ち着いている。聴覚がいつもより過敏になっているのか、ガイドから流れる交通違反の警報と忠告が鬱陶しい。俺は雪穂を助けに行きたいだけなのに、ここまで事が大きくなるなんて。雪穂のことを考え、ハンドルを強く握る。押し返してくるゴムの感触と手汗の湿気が重なり合う。

 ここまでやって、まだ追いかけてくる奴らがいるなんて、日本の警察も優秀だな、と皮肉りながらサイドミラーで追跡してくる車の様子を伺っていた。あれだけの追撃をしてもなお、距離を詰めてくる。先頭を走っている車の助手席の窓から彫りの深い長身の男が半身を出して拳銃を発砲してきた。流石にこの車線で先程の手は使えない。逃げ切るためにはもう一手必要だ。ここまで執拗に追いかけてくるなんて、狂気的な執念を感じる。高架まであと、400、300、200、100、俺は高架の傾斜の終わりのガードレールに向かって砲撃し、傾斜を離陸台がわりにして、破壊したガードレールの隙間から隣の高架に向かって車ごと飛んだ。



 刃物男の車は高架から身を投げ出した。数メートル先の高架に目掛けて車が飛んだ。しかし、あの推進力では向こうの高架まで確実に到達することはできず、確実に途中で下の道路に落下し叩きつけられる。

 刃物男は車から、筒状の黒い物を自分の車の背後に投げた。リアガラスを突き破った黒い筒は、車の数メートル背後で大きな爆発を起こし、車の推進力を引き上げた。爆発の推進力を得た車は綺麗な軌道を描き隣の高架にタイヤから着地し、ボロボロになった後部座席の扉を引き摺りながら、向こう側に走っていった。蒼井たちは、壊れたガードレールに車をとめて、降車して、壊れかけの車が視界から消えていくまで眺めていた。刃物男の執念はカナエたちの追跡を見事に躱したのだった。



 目的地の工場の廃墟は、砂埃で煤けている白いひび割れたコンクリートの壁でできている。有刺鉄線のついた塀に囲まれ、時代に取り残されそのまま誰にも見向きもされず放置されている工場は侘しさすら感じるほどの大きな寂寥感を湛えていた。周りは、住宅街だが、どこも寂れていて、さながら都内の貧民街のようだった。毛がボサボサの老犬が、大きなネズミを咥えて目を光らせながら車から降りる俺の姿を凝視している。

 塀の壁を音を立てずカッターで紙を切るみたいに斬り、敷地内に侵入すると、廃墟の入り口には、見張りが二人、銃を抱えて談笑している。気付かれないように、そっと、入り口付近まで近寄り、物陰から二人の隙を見て、一気に距離を詰め、声を上げる余裕も与えず、二人の首を刀で切断した。俺の背後で、頭が地面に落ちる音が二回して、首のない見張りが、硬直したまま、うつ伏せに倒れた。生首は、笑った顔のまま俺が廃墟に入っていくのを監視していた。

 息を潜めながら、廃墟を順番に探索すると、二階の大広間に椅子に縛り付けられ憔悴している雪穂の周りを三人の男が彷徨いていた。他に、青山の仲間の気配はしない。雪穂の顔は詳細には見えないが、乱暴された形跡はないことに、胸を撫で下ろして、大広間に入り姿を見せた。

 雪穂が俺の姿を見て、俺の名前を叫ぶと、青山の仲間がコチラを向いて、手元の銃を構えた。雪穂の名を叫びながら、俺は右手の機関銃で三人を射殺し、変身を解いて雪穂の元に駆け寄り、体を縛っている紐を外した。

 雪穂は俺に抱きついて「怖かった」と震えた声で言った。雪穂の顔を見ると、涙目で目を真っ赤にさせていた。見つめ合うと、自分は安心して、思い切り雪穂にキスをした。

「イテテ」と強く雪穂を抱擁すると、横隔膜あたりが強烈に痛みはじめ、手で抑えてゆっくり膝をつくと、

「大丈夫」と雪穂は心配そうな顔をさせて、背中を優しくさすった。

「途中で、亜人と戦って、肋骨が折れちゃった。じきに警察が来るかもしれない。とりあえずここから離れよう」

 雪穂の元からもう絶対に離れない。ここで警察に捕まるわけにはいかない。胸が痛むのを我慢して、廃墟の大広間から立ち去ろうとすると、扉が閉まる音がした。咥えタバコをし、左手に機関銃を携え、顎をあげ憎しみと殺意を宿らせた目で男がこちらを見つめている。

「青山、なんで?」爆弾に変えた右手は確かに起爆していた。

「なんでって、顔をしているな?見ろよ」と右手を上げると、右手を切断し自身の能力で血液を止めている。彼は体をダイヤモンドで硬化させることができる。血まみれの袖からは、廃墟には釣り合わない宝石が覗かせている。

「お前のせいでこの様だよ。仲間も殺しやがって。たった一人の人間のために、ふざけるなよ」と床を思い切り足で何度も踏み付けて、左手の機関銃で癇癪持ちのように連射し始めた。雪穂を抱えて、柱の影に隠れ、射線を切った。機関銃の銃弾がコンクリートの柱を抉り、背後は砂塵を巻き上げている。雪穂は機関銃の轟音が鳴るたびに、耳を抑えて悲鳴を上げていた。

「だがお前は俺の見込み通りだったよ。警察の追跡を逃れ、俺の仲間を抵抗する隙すら与えぬ速さで殺す。お前さえ加われば。俺の計画は完璧になったんだ」

 怒りをぶちまけるように、部屋全体に乱雑に銃を乱射し、声にならない怒号をあげ、「俺の手で殺してやる」と言った。月明かりで伸びている青山の影は、人の形から、角張った人型の何かに形を変えていった。

 雪穂の肩を掴んで「この柱の影から何があっても出ちゃダメだよ」と言い、柱の影から飛び出して、全身をダイヤモンドで覆い硬化させた青山と向かいあい、俺は全身を刃物で覆った。

「お前の自慢の武器の数々でもこの皮膚をどうすることもできないよな。なぶり殺しにしてやる」

「なぶり殺し?お前のその鈍そうな図体で俺に指一本でも触れられるのか?なぶり殺してやるのは俺のセリフだ」

 俺は頭の銃を青山にぶっ放した。青山はかわすそぶりも見せず、体で銃弾を受けた。銃弾は青山に当たると、その場で爆発し黒煙が青山の体を包んだ。そのまま、機関銃を爆煙の方向に向けて乱射し、距離を詰めていくと、爆煙の中から銃弾を浴びながら青山が現れた。一歩ずつ距離をつめ、青山は俺に殴りかかってきた。銃弾が効かないのはお互い様だが、コチラは青山に傷一つ付ける術が見当たらない、不利なのは俺の方なのは明らかだった。

「どうした反撃してこいよ」と俺に向かって何度も拳を振り上げるが、俺は紙一重で交わし続ける。

「挑発するなら、俺に一発あててからにしろ」青山は体がダイヤモンドで覆われている分、関節の動きが悪く、攻撃が単調で交わしやすい、正直、徒手空拳なら、衰弱した病人と、プロのボクサーくらい実力の差があると言っても過言ではない。

 ただ、俺は青山が殴り合いで勝負していると勘違いしていた。

 青山は、スーツのポケットから小瓶を取り出し、俺の体に中の液体をかけて、距離をとり、地面に捨ててあった機関銃を拾って乱射した。液体は俺の金属でできた刃を溶かし、皮膚を顕にした。銃弾は俺の体を打ち抜き、俺はその場で膝をついた。

「忘れたのか?お前とは管理区からの仲なんだ。お前と戦うのに、俺がなんの対策もしないと思ってたのか」と言って、狂ったように笑い声を上げた。

「次はあの女だ」と言って、青山は雪穂の方に向きを変えた。怯えてこちらを見つめている雪穂と目が合うと、俺は最後の力を振り絞って、思い切り青山に突進し、そのまま壁に激突し、壁を破り、一階に青山を突き落とした。

 廃墟の構造を完全に把握していない俺が壁の先に、水深10メートルの貯水槽に青山を突き落としたのは偶然だった。全身がダイヤモンドで覆われた青山は、水の中では浮き上がることも、泳ぐこともできず、姿を変えたままでは、そのまま溺れ死ぬしかない。多分神の加護というものがあるのならこういうことなのだろう、と俺は思った。

 俺は青山が落ちた貯水槽の水面に手榴弾を投げた。

 人の姿に戻り、浮き上がった青山は、落ちてくる手榴弾を見て、クソ、と呟いた。ダイヤモンドで体を覆うのが間に合わず、爆発に巻き込まれ、あたりに肉片を散らした。俺は多分この時のために生まれたのだろう。俺は無事な雪穂を見て、安心して仰向けでその場に倒れた。意識が朦朧としている。このまま死ぬのだろう。

 雪穂は駆け寄ってきて、

「今すぐ元の姿に戻って。なんとか担いで病院まで運ぶから」

 自分は首を振って、

「ダメだよ。この騒ぎですぐに警察がやってくる。その時に元の姿で発見されたら、雪穂が俺のこと匿っていたのがバレちゃうよ。それにわかるんだもう間に合わないって」この姿では、俺が微笑んでいるのも伝わらないが、俺は笑顔で答えた。

「そんなことないよ。お願い」

「さっきわかったんだ。俺は今日、君を助けるために生まれてきたんだって」

「もう離れないって言ったじゃん」

 俺はまた約束を破った。

「いいかい、今から俺の言う事をよく聞いてその通りにするんだ。雪穂は亜人のテログループに攫われた。テロリストは揉めて、殺し合いに発展しなんとか逃げ出したってことにするんだ」

「いやだ」

「それじゃあ、俺が命をかけた意味がなくなっちゃうよ」

「でも」

「いいんだ。自分の人生を呪うしかなかった俺を雪穂が救ってくれたんだ」

「自分の子供に、俺と同じ目に合わせたくないなんて言ったけど、俺は幸せだった。最後くらい俺に微笑んでよ。こんな体じゃ、君に触れることもできないんだから」

「何も言わないで、本当に死んじゃうよ」雪穂の涙は俺の体を濡らしている。

 俺は最後の力を振り絞って、最後に渡したいものがあったことを思い出し「渡したいものがあるんだ」と言って、体に力が入らなくなった。良い仕事を終えた時みたいにとても安らかな気持ちだった。



 通報があり爆発のあった現場にたどり着いた。現場は血の匂いと、廃墟の埃の匂いが満ちている。入り口に首の飛んだ死体が二つ、一階の貯水槽には爆発の跡、二階の大広間には射殺された三人の死体と、動かない刃物男の隣でショートボブの女が目を腫らして肩を落として地べたに座り込んでいる。警察は彼女に駆け寄り、保護しようとすると、首を横に振って、なかなかその場から立ちあがろうとしなかった。

「望月、あの女をサイコメトリーできるか」蒼井は冷淡に言って、カナエの腕輪をとった。

「はい」と言われるがまま、女の元に駆け寄り、さりげなく手を触れると、大量の情報が流れ込んできた。カナエは、手紙、と呟いて、我にかえり蒼井の元に駆け寄った。


 

「何か分かったか?」と蒼井が訊くと、カナエは言いづらそうにしながら「あの女性の取り調べ、私に任せてもらえませんか」と言った。

 蒼井は不審な顔を浮かべ、こちらを真剣な眼差しで見つめるカナエの意思を尊重し、「分かった」と言い、「早く彼女を保護しろ」と言って、カナエに腕輪をして、車に戻っていった。

 事件の顛末は、ショッピングモールのテロ事件に感化された亜人のテログループが一般人女性を人質に取って犯行を起そうとし、彼女の取り扱いで揉め、殺し合いにまで発展したことになった。カナエはもちろん、彼女が刃物男の関係者だと知っている。テロリストのほとんどから、薬物が検出され、異常な状況下に置かれていたことが幸いして、彼女の証言は嘘から真実に変わった。この事件に関わった亜人全員が死んでしまい、これ以上の情報が得られないと判断され、捜査は早期に打ち切りになった。この決断には人間側に死者が出なかったことが最後の決定打になった。

 カナエは一つの使命感を持って蒼井に話しかけた。

「蒼井さん、外出許可が欲しいのですが」

 捜査が終わっても、カナエにはやるべきことが残っていた。刃物男、江ノ口フミノリの言葉を彼女に届けなければならない。北村雪穂の家の中には渡さなくてはいけない刃物男の手紙がある。事件の真相を知っているからといって、あの二人に関わる必要はカナエにはない。それでも自分が北村雪穂に江ノ口フミノリの最後の言葉を届けなくてはならないと思っているのは、単に善意だけではなく、彼女たちの関係はカナエにとって希望だったからだ。彼の最後の言葉を届けることは、能力を持って生まれたものの使命であり、自分が人間社会で奮闘する勇気になると確信していた。

「外出許可?なんのために?」蒼井は顔をしかめ、想定通りの質問をしてきた。外出には、最低限、一人の捜査課の人間の監視が必要になる。こんな忙しい時期に、カナエのお願いを反故にしようとするのは当然だった。

「なんのためにと言われますと、先日の女性で気になったことがあって」カナエが俯いて自信なさげに話した。

 蒼井はカナエの不自然な態度を見て、三十秒ほど考え込んで、「いいだろう。明石も同行するがいいか?」と答えた。カナエはパッと表情を明るくして「ありがとうございます」と言って、深くお辞儀をした。

 蒼井も明石も、カナエに外出の理由について聞いてこなかった。目的のマンションに車でたどり着くと、蒼井は意外な言葉を口にした。

「行ってこいよ」

 予想外の対応にカナエの思考が停止した。「えっ?」目を丸くして、呆然としていると、

「いいから」と言って、カナエの座席の扉をボタンで開けた。

「はい」

 北村雪穂が住んでいる部屋のインターホンを押して、前髪とスーツを簡単に直していると、ガチャリと音をたてて玄関の扉が開いた。誘拐事件に遭い、目の前で恋人を無くした北村雪穂の顔は、事件現場で会った時と違って、血色が悪くやつれているように見えた。カナエの顔を見て北村は消え入りそうな声で、

「あの時の刑事さん」と言った。

「すみません、お忙しいところ、今日は刃物男の話を聞きに」

「そうですか。散らかっていますけど、どうぞ」と部屋に案内された。

 部屋は散らかっていると言うより、荒らされていると言った方が正しいように思えた。サイコメトリーで彼女に触れた時に見た部屋と同じだった。この光景を見た時に、刃物男の凄まじい焦燥と怒りを感じたことを覚えている。事件の日からほとんど部屋の片付けをしていないみたいだ。カナエと北村はリビングのテーブルで向かい合って座った。思い出したように「今、飲み物を出しますから」と北村雪穂が立ち上がりキッチンへ向かう途中、カナエは「私、亜人なんです」と切り出して、北村を呼び止めた。

「そうですか」と振り向いて、一言だけ恬淡に言うと、キッチンからグラスと冷えた麦茶を持ってきた。

「私は人や物に触れると、サイコメトリーと言って、その人や物に宿っている記憶のようなものが視れるんです。それであなたのことと彼を見てしまい」

「それじゃあ」

 北村はテーブルにグラスを置いて、俯き、目の光が完全に消えた。

「あの今日は別に捕まえにきたわけじゃないんですよ。もう事件は終わっていますし。事件当日あなたの手に触れて、あなたのことを見ました。大体、人に触れるとその人が印象に残っている出来事を見る場合が多いのですが、あなたから見えたのはほとんど、江ノ口フミノリから見たあなたの姿でした」

 カナエは本題を切り出した。

「作業場を見せてもらっても良いですか?」

「どうぞ」

 カナエは北村雪穂の体を通じて視た手紙の隠し場所の周辺を探した。北村は自信のなさそうな顔でカナエの様子を見守っている。クローゼットの引き出しの裏側を弄っていると、指先にざらざらした紙の質感を感じ、テープで簡易的に貼り付けられていた封筒を外して、北村に手渡した。

「これが、彼があなたに渡したかった物です」

 カナエは封筒を北村に渡した。北村は丁寧に糊を剥がし、中身を読み始めた。一通り読み終わると、口を抑えて、涙を流した。嗚咽しながら「彼、亜人なんです」と江ノ口について口にした。

「全て知っています。あなたが昔、彼に助けらたことも含めて」

「少し下手くそな文書で」

「なんて書いてあったんですか?」

「結婚しよう、って。必ず、私とこの日常を守ってみせるからって」

 江ノ口の帰ってこない静かな部屋で、彼女の嗚咽だけが響いていた。北村雪穂は、カナエの肩におでこを当て、皺がつくことなど気にせず力強くカナエのスーツを握りしめながら思い切り泣いた。



 蒼井と明石はマンションの前で、停めた車に寄りかかり、コーヒーを啜りながらカナエが出てくるのを待っていた。

「カナエちゃん一人で行かせてよかったんですか」

「死んだ刃物男の横で泣いていた北村の関係はわかってるだろ。望月は北村に触れて何か視たんだろう」

「恋人だったんでしょうね。戻ってきたらどうするんですか?」

「望月次第だよ。何より今は忙しいからな」

「そうですね。あっ嫌なこと思い出しちゃいましたよ」

「進捗は?」

「聞かないでください」

 マンションの玄関口から、北村を連れてカナエが出てきた。カナエと北村は何か話しているが、二人には聞き取れない。北雪穂村は目を腫らしていたが、晴れた顔で、深々とお辞儀をして部屋に戻って行った。

「何か分かったか?」

 蒼井は訊いた。

 カナエは気まずそうに「結局何も。すみません、忙しいのに連れ出してしまって」と言った。

「そうか、別に構わないよ。なあ、明石」

「ちょうどいい気分転換になったよ。ねえ、何か美味しいものでも食べて帰りましょうよ」

 砂を巻き上げるほどの風が吹いていた。風が止むと「そうしようか。たまには」と蒼井が言った。

 

 蒼井は自動運転に任せず自分で車を運転している。遠回りをしているのかもしれない。右手には夕日で赤く染められた巨大な管理区の壁が荘厳に屹立している。壁は分厚く何も寄せ付けない。抽象的な何かを分け隔てる厳かさがカナエには疎ましかった。あの壁が取り除かれてからといって、全てが解決するわけではない。亜人と人間の間にはあの壁より分厚い遺恨がある。壁を見るたびに、自分の目的の果てしなさに押しつぶされそうになる。静かな車内で、「本当に何も聞かないんですね」と言った。

「今以上の情報が引き出せないのに、あの事件をこれ以上掘り起こしてどうする?そんなことに人員を割いている余裕はないんだよ、うちの課は」

「そうだよカナエちゃん。俺なんて仕事が溜まりすぎてこの様だ」と言って、ひたすらタブレット端末をいじっている。

「ただ、余裕が出来て、望月の中でこの一件が片付いたら、きちんと報告してもらうからな」

 徐々に沈んでいく西日を見ながらカナエは離れ離れになった二人を思い、心が締め付けられ、涙がこぼれそうになっていたが、山積みの仕事のせいで少しずつ考えがシフトし、警察庁に帰ってからのことを考え始めていた。カナエは亜人と人間の遺恨に押しつぶされかけていたが、蒼井と明石の不器用な優しさは、カナエを苦しめていた心の負担を少しだけ軽くした。

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