刃物男の讃美歌(4-2)


 いつもよりも早く目が覚めた。カーテンから透き通ってくる夜明け前の薄ら日が部屋を藍色に染めている。雪穂は怒り疲れて、まだぐっすり隣で眠っている。悪いことをしたな、と思いながら、乱れた雪穂の前髪を直して寝室を出た。空が白み始めた。太陽が紅く燃やす地平線と紺碧の夜空のせめぎ合いを一本の白い筋が分断した日の出の風景は、窓枠に縁どられ、一枚の美しい浮世絵のように見える。今日は少し凝った朝食を用意しよう。スクランブルエッグとアボカドとレタスのサラダ。これが朝イチの自分にできた精一杯の誠意だった。

 スクランブルエッグを炒めると、油が弾ける音をフライパンが鳴らした。その音で目を覚ました雪穂が目を擦りながら、キッチンにトボトボとやってきた。

「おはよう」心なしか、いつもより目が腫れているように見える雪穂に、

「おはよ、朝ごはん食べる」と訊くと、

「うん、ありがと」とだけ言って、洗面所で軽く歯を磨いて食卓についた。

 雪穂は黙々と朝食を食べている。普段なら自然に出てくる一言目がなかなか決まらない。朝から気怠い時間が食卓に流れている。

「今日さ、私、外で作業するから」

「ああ、うん」

「どこかで昨日の続きをやってもらってもいい?細かい指示はチャットで送るから。フミノリも好きなところで作業しなよ」

 こちらに目を合わせず、淡々と話す雪穂に何を言えばいいかわからず、わかった、と返事をした。

「シャワーを浴びて、化粧したらすぐに出るから。今日は場所を転々としながら、作業を続けるつもり。帰ってくるのは夕方になる。夕飯は私が用意するから、何もしなくて大丈夫」

 何も言わず頷くと、ごちそうさま、と言って、食器を食洗機に丁寧に入れて、そのまま雪穂は浴室に向かった。ケンカした時の次の日は、気の利いた一言を切り出せたらなあ、と思いながらも、これ以上機嫌を損ねるのが怖くて、いつも様子を伺うだけで何もせずに、昨日の怒りが風化するまで何もせずに終わってしまう。世の中の男性はこんな時にどうするのだろうか?相談できる相手がいたらなあ、とよく思う。雪穂はさっさと準備を終わらせて、いってきます、と大きくこちらに呼びかけて外に出かけて行った。自分は雪穂を見送ろうと、急いでキッチンから玄関に向かうと、雪穂の姿はそこにはなく、一人でに閉まる玄関が、バタン、と音を立てて閉まった。部屋はしんと静まり返っていた。自分はトボトボと作業部屋に向かうことにした。

 



 今日は昨日にも増して蒸し暑い、まだ四月の末なのに、湿気を溜め込んだ風が肌に張り付くように纏わりつく。先週くらいまでは、風が涼しくて清潔な空気を着ているみたいに気持ちよかったのに。けんかした後の、鬱陶しい日照りのせいで気分が悪い。早くお気に入りのカフェに入ろう。

 午前九時なのに、日曜日の喫茶店は賑わっている。みんな朝から元気だなあ、と思いながら、店内を見渡すと、奥の方に空いている席を見つけたのでそこに座った。二階席にバルコニーがあって、白を基調とした清潔な店内を視界に納め、風を感じながら作業をしたいところだが、バルコニー席はゴメンだ。日光が画面に反射して、作業がしにくい。紫外線も問題で、もちろん肌のこともあるが、それ以上に、室内灯の下と太陽光の下では、色の見え方が違う。作業するときは、フミノリが作業している環境と同じにしないと、送られてくる画像と見え方が違ってしまい、作業に支障が出る。好きなところで作業しなよ、と素っ気なく言ったけれど、わざわざ外には出ないだろう。アイツはそういう性格だ。

 メイドロボにカプチーノを頼んで、作業を始めた。ここのカプチーノは私のお気に入りだ。口に含んだだけで珊瑚質の白い綺麗な砂浜みたいなサラサラと爽やかな風味が口の中いっぱいに広がる。注文してすぐに出てこないところがなお良い。機械が豆を挽いて、コーヒーを抽出しているとはいえ、すぐに配膳されたのでは、風情がない。私にとって、カフェは、作業をしながらコーヒーを飲むための場所ではなく、ゆったり、鷹揚に流れる時間を味わうための場所だ。最近では、注文して、その場でアンドロイドがコーヒーを淹れてくれるところもできたが、そんなものはナンセンスだ。

 挽きたての豆の香りのするカプチーノが私のテーブルに届けられる。匂いを嗅ぐと、素っ気ない態度をしちゃって落ち込んだ気分も少しだけ緩和された。作業に集中できそうだ。

 作業を始めて一時間くらい経つと、フミノリから途中経過のデザインが送られてくる。簡単にチェックをする。かなり良い感じ、とチャットを送ると、本当に!!、返答してきて、続けて、昨日はゴメンと土下座の絵文字入りのチャットが送られてきた。この返答には少し悩む。スルーするのは感じが悪いし、簡単に赦すのもなんか違う。とりあえず、大丈夫、また落ち着いたら話そうね、とだけチャットで送って、店内を見回した。ここも、しょっちゅう二人で来ていたなあ、と思いながら客層を眺める。意外と若いカップルが多く、若いのに朝から健康的だなあ、と感心してしまう。駆け出しの頃は時間に縛られないことをいいことに、今と違って、昔は朝から疲れるまで抱き合って、朝食がわりのランチをここに食べに来て、帰って、夜中まで二人でひたすら仕事をしていたことを思い出す。

 カプチーノを飲みきり、作業のキリが悪いのでもう一杯粘ろうかと、スマートウォッチを見ると、もう11時前なのに気が付く。ここのモーニングセットは、11時がラストオーダーで、11時半からはランチが始まる。今朝、食べすぎたせいで、昼食は控えめにしたい。ここでバランスを取っておかないと、後々後悔する。サンドウィッチとコーヒーのセットを頼もうか。昼になると、別々で頼まなくてはいけなくなるため、モーニングで頼むほうが、割安になる。少しせこい気もするが。私は右手の人差し指で、テーブルを叩きながら、頼むか頼まないか悩んだ末、卓上の呼び出しベルを押して、メイドロボにモーニングのサンドウィッチセットを頼んだ。私はお金がない時の大学生か、と自分にツッコミを入れる。自分の倫理観と常識を照らし合わせて、重荷にならない程度に罪悪感を覚える行為を機嫌が悪いときはしてみたくなる。多分、ケンカした次の日くらいは、自分を少し甘やかしたくなるのだろう。何ならこの案件を終わらせて旅行にでも行って思い切りあそびたい。東北、京都、まだ国内で行ったことのないところはたくさんある。忙しいので近場で済まそうか。どこに連れて行ったら、楽しいか、と考えて、昨日のことを赦そうとしている自分に少し苛ついた。




 朝の残りのアボカドとマグロをご飯の上にのっけ、醤油と温泉卵をかけた丼を掻き込みながら、全く集中できない作業をしていた。出来たものをどう雪穂が反応するかに気を取られてあまり集中ができない。一人でこの2LKにいると、いつも寂寥感に襲われる。多分、ここを出たら、この感覚が絶え間なく続くのだろう。どうやって生活していくかより、孤独と退屈にどうやって折り合いをつけていいのか忘れてしまい、漠然とした不安に支配され、今離れたら、この案件に支障が出る、青山が雪穂に手を出さないとも限らない、などの言い訳ばかりが思いつく。自分はどうなの?、と聞かれれば、正直になれば答えは一つしかないけれど、雪穂に普通の生活を送ってほしいと思うのも本心だ。合理と不合理、善と悪、相反するものの間で中途半端に揺れ動く。思考と行動が全て一致すればどれだけ楽だろうか、単調かもしれないが、自分が合理的な何かに制御され、その通りに動くロボットみたいだったら良いのに。この案件が終わったら、ここを出ていくんだ。青山も一発キツいのをお見舞いしてやれば、彼女には手を出さないだろう。

 雪穂は夕方の六時前に帰ってきて、

「すぐに夕飯用意するからちょっと待ってて」と言って、着替えを済ませて、夕食の準備に取り掛かった。

「あとこれ、前なんか食べたがってたやつ」と、ケーキを二つ買ってきた。よくそんなことまで覚えているなあ、と感心してしまう。

「よく覚えてたね」

「まあ私が食べたかっただけなんだけどねえ」と目だけそっぽを向く。

 雪穂の表情は、昨日のことを詫びているようにも見えるし、遠回しに謝罪を求めているようにも見える。どちらか見極めようと、逡巡していると、

「どっち、食べる?」と、箱を広げて雪穂が中身を見せた、片方はフルーツのタルトで、片方はチョコケーキ。雪穂は私はどっちでもいいけど、と言ってヘアゴムを口に咥えて、エプロンの紐を結んでいた。

「じゃあフルーツの方」と言うと、だと思った、と言われた。

 朝ほど気まずくない静かなリビングで「私の見立てだと今回の案件なんだけど、あと本気出せば一週間くらいで終わる目処なのね」と雪穂は仕事の話を始めた。

「そうなんだ」と、あと一週間か、と思いながら生返事をすると、そう、と雪穂が答えた。

 雪穂は「それで、そのペースで終えると二、三日暇ができるから」と言い、少し言い淀んだ後、

「うん、旅行に行こう。近場で、日帰りでも良いから」と、脈絡もなく慰安旅行を提案してきた。

「なんで?」

「なんで?って、良いじゃん。最近どこにも行ってないんだし。気分転換だよ」

「そうなんだ」

「何、嫌なの?」と、箸を止めて、眉を顰めている。 

 嫌なわけはない、むしろ小躍りしたいくらいだ。

「急に言われたから」

「また、変なこと考えてないでしょうね。明日から作業部屋で、来週まで缶詰だから。覚悟してね」と、今日一日考えていたことを見透かすようなことを言って、夕飯を一気に掻き込んで、ご馳走様、と言って雪穂は食卓を後にした。




 私にとって気まずい時に同じ仕事をしているとありがたいことが何個かある。仕事を進める上で、嫌でも話し合わなければならないからだ。会話をするたびに、お互いの狂った調子がもとに戻ってくる。それに忙しいときは、作業に必要のないことなんて話している余裕がない。それに仕事に関しては彼は基本的に私に従順なことも幸いする。家事をほっぽり出して、二、三日二人でがむしゃらに働き、休憩中はその辺で簡単に食事を済ませて、あとは疲れて寝るだけの生活を続けているとお互いの調子が戻ってきた。フミノリの方も、積極的に話しかけてくるようになり、徐々にたわいない話も増えてきた。

 今回の案件が予定通りにちょうど一週間で終わり、依頼主のバーチャルアイドルの芸能事務所のマネージャーと会議があるので、私は朝から出かけなければならなかった。最後はアイドル役をやるダンサーの女の子を実際に仮想空間用の衣装で仮装させて実際に当日のライブを想定した微調整を行わなければならない。一人で行っても良いのだが、フミノリがいる方が効率がいいので、現場に来るように誘ったら、家でやりたいことがある、と言って断られた。大分疲れている様子だったので、体よく断ったのだろう。正直、充分に睡眠が取れていない日が続いているので、私としてはオンラインで完結させて欲しかったが、向こうがどうしても直接会って、模擬練習をしたいというのだから仕方がない。これが終わったら、明日から日帰りで鎌倉旅行だ。予報では、天気も良好らしい。髪くらい綺麗にしてから行きたかったがしょうがない、こればっかりは思いつきで誘った私が悪い。私が玄関で靴を履いているとフミノリがキッチンからエプロン姿でやってきた。手を拭きながら、「朝は食べていかないの?」と呼び止めてきた。

「うん、ちょっと時間ないから」とスマートウォッチを見ながら、靴べらを使ってヒールに足を通して答えた。

「早く帰ってきてね」

「わかってるよ」

「絶対に寄り道しないでね」と昨日からしつこく私に忠告している。

「わかってるよ、しつこいな」

 私は振り向いて、いってきます、と言おうとするとフミノリと目があった。フミノリは目が合うと、微笑んで、私に抱きついてきた。

「ちょっと遅れちゃうよ。って、服濡れちゃうじゃん」

 フミノリの胸を押し返して、腕を解かせた。ああ、ごめん、と申し訳なさそうな顔をして、二、三歩後退りした。

「遅くても夕方の七時には帰ってくるから」

「ご飯作って待ってるね」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 フミノリは結局、私がエレベーターに乗るまで玄関から見送っていた。エレベーターに乗る寸前で玄関の方を見ると、頼りない顔をして手を振っている。私は元気よく大袈裟に手を振ってエレベーターに乗った。

 模擬ライブは池袋の芸能事務所の地下スタジオで行う。マネージャーが、当日出演するダンサーの女の子三人を連れて来た。三人とも二十歳前後で、三人とも私から見たら、そのままでも売っていけそうなくらい可愛い。こんなに可愛くて人形みたいな女の子でも、仮装しなくてはいけないのだから、何年経っても芸能界というのは厳しい世界なのだな、と思ってしまう。歌って、踊れて、可愛い。これが売れるための必要条件ですらないのだから。

 そのほかには、音響担当と、振付師が何人か来ている。現場監督に至っては、オンライン参加なのだから、私もオンラインが良かったのに、と思う。フリーランスをしていると誤解しそうになるが私もまだまだ使われる側なのだな、と痛感する。

 私はパソコンで当日の舞台をスタジオに投影する。無機質なスタジオは、煌びやかなライブ会場に様変わりし、三人のアイドルはバーチャルコスチュームを着て、ステージに上がる。アイドルアニメのキャラクターで、この案件を受けるにあたって、アニメの方もしっかりチェックしている。私的にはしっかり原作の雰囲気も踏襲したものになっていると思っている。マネージャーや、振付師は、スタジオにあるパイプ椅子に座って、ゴーグルをかぶりながら、ライブの様子を確認している。

 ライブの予行演習が始まった。私はパソコン画面を見ながら、舞台演出の確認作業を行う。舞台の各所に二人で創った、創作物が現れる。今回はかなりの自信作で、これでもっと名を上げてやれるくらいだ。マネージャーの反応を見るに、おおむね良好に見える。オンラインで参加している現場監督が何度か予行演習を止めて、微調整の指示を出す。

 最後の微調整は、結局、七時までかかり、スマートフォンを見ると、フミノリから、大丈夫?、と連絡が何件も来ていた。もう少しで終わりそう、夕ご飯一人で食べて、と連絡を入れて、一通り最終確認が終わると、「北村さん。今回かなり良い感じじゃないですか」とマネージャーが声をかけてきた。

「ありがとうございます」

「今日は同業者の方連れてこられてないんですね」

「なんか、ほかにやりたいことがあるらしくて」

「そうですか。あの、このあと食事でもどうですか」

「良いですね。あっでも、今日はすぐに帰らなくてはいけなくて」

「そうですか。明後日のライブは見られるのですか?」

「いえ、本当は生で見たいんですけど、予定が立て込んでいて、アーカイブ視聴します」

 最初の頃は生で見ていたけど、いつからか、後からゆっくり見るようになった。最初の頃は自分の完成した作品が、いろんな人に見られていることに感動していたが、いつからか、ゆっくり見ながら二人で次回のための反省会になっていた。

「忙しいんですね」

「お陰様で、失礼します」

 私は誘いを断って、芸能事務所を出た。





 準備は終わった。今日は雪穂がいないおかげで今後のための支度を終えられた。八時前に玄関の扉が開いて、雪穂が帰ってきた。

「遅くなって、ごめん。ご飯どうした?」

「適当に冷蔵庫にあるもので済ませちゃった。雪穂は?」

 弁当の入ったビニール袋を自慢げに胸の高さまで上げて、「私はこれー」と言った。

「言ってくれれば、多めに作ったのに」

「いいの、連絡している余裕がなくてごめんね」

 表情が明るい雪穂に、「機嫌いいね。上手くいったの?」と訊くと、

「かなり好評だったよ。また忙しくなっちゃいそう」

「それに、明日からお出かけだからね」

 寝室と廊下の境で佇んで、上機嫌な雪穂のこと見てぼんやりしていると。

「ねえ、着替えていい?」と訊いてきた。

「ああごめん」と言ってリビングに戻った。

 

 食事が終わりソファで休憩している雪穂の両肩を揉んで、

「ねえ、今いい?」

 くすぐったそうにしながら振り向いて「どうしたの?」と訊いてきた。

「ちょっとこっち来て」と洗面所に雪穂を連れて行って、「ここに座って」とクッションを敷いておいた椅子に座らせた。

 不審な顔をして「何?」と悪戯っぽく笑っている。

「ちょっと待っててね」と肩を両手で軽く抑えて、洗面所を後にした。

 ポリエステル製のレインコートくらいの大きさの布と、霧吹きを持って洗面所に登場すると、スマートフォンをいじるのをやめて、自分が持っているものに目を凝らした。そして、雪穂の頭だけ出るようにして雪穂の体を覆うよう布を被せた。雪穂が自分の腰につけている作業用のポーチにからはみ出している、鋏の柄を見て、「どうしたのそれ?」と質問した。

「お金貯めて買っちゃった。最近、髪伸びているから」

 この前のことで何かお詫びをしなくてはならないと考えていた自分は髪を切ることを思いついた。五区のカリスマ美容師なんて呼ばれていたくらいだ。腕には覚えがある。

「大丈夫なの?」雪穂は怪訝そうな顔をしている。

「管理区にいた頃は、カリスマ美容師って呼ばれてたんだよ」と自慢げに言うと、

「手先は器用だもんね」

「それしか取り得ないからね」と言うと、そんなことないよ、と雪穂は言った。

 自分は戯けた調子で「北村さん今日はどうなさいますか」と美容師みたいに接客してみると、鏡越しに目を合わせて「じゃあ、おまかせで」と笑いながら答えた。

「おまかせですかあ」

「一番似合う髪型にして下さい!」と揶揄うように雪穂は言った。

 自分は一つ大きな深呼吸をして、「かしこまりました!」と言って雪穂の髪の毛を濡らして、毛先から手際よく鋏で雪穂の髪の毛を切り始めた。

 指に絡みつく髪の質感から、雪穂の多忙さが伝わる。こんな時に煮え切らない感じで悪いことをしたなあ、と思いながら、黙々と髪を切る。軽快な切断音が心地よく沈黙を埋めてくれる。重力を得た金色の髪の毛が、光を吸収して床に降りていく。床に落ちるとたちまち重さを失い、自分がこまめに体勢を変えるたびに、足が起こす小さな気流の変化で髪の毛は位置を変えていく。

 鋏を変えるために、手を止めると、「ねえ、本当にどうしたの?」と先ほどまで、ふざけ合っていたのが嘘みたいに深刻な声で聞いてきた。

 こちらをみる雪穂と目があって、「何かお詫びがしたくて」と肩を落として言った。

「お詫び?」

「いや、この前の煮え切らない態度で怒らせたみたいだから」

「この前というより、ずっとそうだけどね」

「ごめん」

「別にこれで全てを赦してもらおうなんて思ってないよ」

「そうなの?」

「こうやって、髪を切っているといつもよりなんか色々話しやすくなる気がしたから」

「確かに、髪切られてる時って、初対面でもなーんか喋りやすくなる雰囲気になるもんね」

「そう、それで」と言って、また髪を切り始めると、

「色々考えたんだ、この前、言われたこと」

「ああ、あれね」

「雪穂に幸せになって欲しいっていうのは本当なんだ。それに、自分がいると邪魔なんじゃないかっていうこと」

「うん」

「言いたいことはわかるよね」

 うん、と雪穂は口角を落として言った。

「ずっと、そのことについて考えてみると、違ったんだよね」

「どういうこと?」

「自分は離れなくちゃいけない理由に君の幸せを利用してたんだって」

「つまり何が言いたいかっていうと、本当はずっと一緒にいたいんだ。喧嘩した次の日に旅行に誘ってくれて本当に嬉しかったんだ。これからもずっと一緒にいて、いろんなところに行って、綺麗な景色を見たいって思ったんだ」

「だけど、今はそれでもいいかもしれないけで、こうやってずっと俺と一緒にいて、将来、雪穂が不幸になったら嫌だなあって思ってたんだ。そう思い込んでいて本当は、将来不幸になった雪穂が、その原因を俺のせいにするんじゃないかと思って、ただ怖かったんだ」

「そんなことしないよ」

「そう言うとも思った」

「雪穂と過ごしたこの六年は本当に楽しかったんだ。管理区から逃げ出したのはいいものの、何のために生きていけばいいかわからなかったんだ。目的もなく、あの荒れた街で彷徨っていた時に、君に拾われて。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、雪穂の幸せを願ったとき、初めて生きる活力を得たんだ。そんな君に恨まれているいつかの自分の姿を想像した時、孤独だったんだ。物理的じゃなくて、精神的な孤独だよ。精神的な孤独には誰も耐えられない。いつかそうなるんじゃないかと思って、君の元から逃げ出そうとしていたんだ。本当に卑怯だよね」

 雪穂は何も反論することなく自分の独白を聞いていた。束になった髪の毛を切り落とし大きな切断音を合図に、ようやく雪穂が口を開いた。

「そんなこと考えてたんだ」

「実は私もね。怖かったんだ」

「何が?」

「あなたが自分のこと利用しているだけなんじゃないかって。世間から隠れるのに都合がいいからずっと私と一緒にいるんじゃないかって、いつも心のどこかで疑ってたの」

「そんなことしないよ」

「こうやってゆっくり話すことなんてなかったから。スッキリした」

「機嫌直してよかった。あっごめん、ちょっと正面向いて。サイドの長さを揃える微調整するから」

「ここまで切ったら、髪も染めるから」

「髪も染めるの?」

「おまかせするって言ったでしょ。大丈夫絶対似合うから。カラーリング剤も家で綺麗に染められる良いやつ買ったから安心して」

「家で簡単に綺麗に染められるからいい時代になったね」

 短くした雪穂の金色の髪一本一本を丁寧に黒い染料を塗っていく。雪穂は、目がうつらうつらしていて、眠そうだった。話が五分以上途切れると、瞼が徐々に落ちてきて首の力が抜けると、頭が落ちそうになるのを戻して、その度に覚醒していた。

「髪に馴染むまで三十分くらいかかるから、このままの体勢でちょっと待ってって。ちょっと休憩してくる。ここでゆっくりしてて」

 自分はリビングのソファで休憩した。流石の雪穂も安心したからなのか急激に眠気が襲ってきているように見えたので、洗面所であえて一人にさせておいた。四十分後、洗面所に戻ると、案の定椅子に座りながら頭を斜め前に傾けて気持ち良さそうに眠っていた。これ以上は髪が痛むので、そのままにしてあげたかったが、肩を揺すって起こした。

「どのくらい寝てた?なんか、安心したら眠くなっちゃった。この後はどうするの」

「風呂場のシャワーでカラーリング剤落としてそのままシャンプーする」

「このままで平気?」

「うんまあ多分大丈夫だと思う」

 雪穂を浴室に連れて行って、顔を天井に向けた状態で浴槽のへりに首を乗せた。顔に水がかからないように、顔にハンドタオルを被せた。風呂場の椅子を使って、うまく寝かせてはいるものの流石に無理な体勢らしく、少し苦しそうにしている。自分は用意周到という言葉とは対極にいるのだなと思った。シャワーで、カラーリング剤を落として、頭を入念に洗った。途中、雪穂が親父みたいな声を出して、生き返るわー、と言っていて吹き出しそうになった。

 体を覆っているシャワーの跳ね返り水で濡れた布を取り外して、髪をバスタオルで拭いてそのまま髪に巻き付けて、洗面所に連れて行った。洗面所で髪の毛をドライヤーで乾かして、最後に少し毛先を整えて、鏡を使って後頭部を見せた。

「どう」

「いい感じ。ここまで短くしたの久々かも」

「ずっとこの髪型が似合うんじゃないかって思ってたんだ」

 雪穂は顎の長さまで切られた黒い髪を左右に振った。短くした前髪を直して、新しい髪型を確認していた。額の形が綺麗だから、短い前髪がよく似合う。ずっと顎のラインが綺麗に見える髪型にしてみたかった。この髪型は、どうやら昔の映画のヒロインの名前を取ってマチルダヘアーと言うらしい。管理区時代にお世話になった美容師の先輩に教えてもらったことを今更思い出した。

「見慣れないから、なんか変に見える」

「うーん、自信なくなるなあ。俺は可愛くできたと思うけど。似合ってるよ」

「このまま、お風呂入っちゃおうかな、どうする一緒に入る?」

「できればそうしたいんだけど、ほら、床がこの状況だから」

 床は金色の髪の毛で埋め尽くされていて、足を動かすだけで次から次へと新しい髪の毛が自分の足の裏に張り付いてくる。ススキ畑みたいだが、秋はまだ先だ。雪穂も床の惨状を見て、苦笑いをしていた。

 自分は掃除ロボが髪の毛を吸引していく様子を無心に眺めていた。意味のない光景をただただ眺めている心理というのは何なんだろうか。頭の中は何かを思い悩んで、重たく頬杖をついた手のひらの上に頭がのしかかっているようにも思えるし、空っぽなような気もする。些細な変化を求めているとき、人は髪型を大きく変える気がする。自分の髪型ではなく、彼女の髪型を変えようとした発端を探ってみると、決定的な動機が見つからない。曇りガラスの先に見える雪穂の体みたいに、輪郭がぼやけている。ここ数週間のやりとりを思い返してみても、何がきっかけで、今日の行為に至ったのかわからない。過去ではなく未来からの啓示。過去の出来事の投影ではなく、何か大きな出来事を予期して、自分が最後にやり残したものを完遂させたのかもしれない。虫の知らせ。何かが胸につかえている。もう決意を固めたのに、何か見落としている気がする。

 吸引音と暖かい水が床を弾く音が混じった雑音が鼓膜を無意味に振動させていた。シャワーの音が止み、髪を濡らした全裸の雪穂が扉を開けて浴室から現れた。

「何してるの?」

「なんか考え事しちゃって。出てくるの早いね、湯船浸からないの?」

「さっき、汚したばっかりでしょ。大丈夫?働かせすぎちゃった?」雪穂は頭を拭きながら、怪訝な顔でこちらを見つめている。すると、急に得意げな顔をして、「もしかして、私がこうやって出てくるの待ってたんでしょ」と冗談を言うと、「そんなんじゃないよ」と真面目に返した。

 雪穂はキョトンとした顔をして、変なの、と呟いてパンツを履いて、上からTシャツを着た。

「髪乾かしていい?」

 自分は掌で膝を叩いて勢いよく椅子から立ち上がり、床が綺麗になったのを確認して、掃除ロボに充電場所に戻るように指示を出して、雪穂に一度だけ微笑んで、眉間に皺を寄せながら洗面所を後にした。

 風呂に入り、浴槽を最後に掃除をして、寝支度を済ませて寝室に戻ると、雪穂が片膝を立てて几帳面にムラなく足の爪に深紅のマニキュアを塗っている。

「綺麗な色だね」

「この前買ったサンダル履いていくの、もう少し出番は先になるかなあと思ったけど、どうせなら明日履いちゃおうかなって」

 雪穂が言っているのは、この前買ったベージュのサンダルのことだ、爪先が出ているタイプで、今年の夏はこれを履いて絶対に海に行く、と意気込んでいた。あんなに眠そうにしていたのに、集中している。ベッドに倒れ込むとマットレスが、自分の背中を勢いよく跳ね返し、心地よく自分の体を揺らした。サイドテーブルのランプの下に置いてあるタブレット端末を取って、雪穂がAIに算出させた明日の予定を確認した。明日は、十時に鎌倉につき、夜の八時に家に帰ってくる予定みたいだ。旅行先での移動手段も全てAIが手配してくれている。目的地から次の目的地までの移動はすべて、移動用のカートサイズの自動運転のタクシーで移動する。観光地ではよく見かけるやつだ。周辺を移動するだけなら、免許証も電車もいらない。

 タブレット端末を置いて、手触りのいいタオルケットを肩まで被せて、左腕を下にして横になった。テーブルランプを消して、タブレット端末をサイドテーブルに置いて目を瞑った。目を瞑ってもまだ明るい視界が突然暗くなり、背中から、ベッドに潜り込んでくる人の体温が感じられた。

 雪穂は自分の首に腕をまわし、「もう寝ちゃうの?」と問いかけてきた。目の前の雪穂の手を握って、「明日、朝早いけど起きれるの?」と聞き返すと、体を擦り寄せてきて、「だいじょうぶだよ」と一呼吸置いて答えた。

 振り返ると、雪穂の白く怪しい肌が自分のことを誘っている。暗い部屋の中で際立つ綺麗な顎のラインに沿うように左手を添えると潤んだ瞳と視線が絡みついた。血色の良い唇に見惚れて、彼女の顔をゆっくり持ってくるように雪穂の顔を引き寄せると、雪穂は自分の上唇を吸うようにキスをしながら、肩を右手で押して、体を押し倒して上に覆いかぶさってきた。そのまま、右手の指に雪穂が指を絡ませて、雪穂が自分の心臓の鼓動を聞くように自分の胸に頭をのせて、「何なら子供でも作っちゃう?」と言い始めた。

 自分は空いた左手で、頸をさすりながら、「ダメでしょ」と言った。

「冗談だよ」と雪穂が言うので、

「冗談でもそんなこと言うもんじゃないよ」

 顔を胸から離して、こちらを見つめながら、そうだね、と言った。

「それに、雪穂も知っていると思うけど、亜人の子供は高確率で亜人になるんだよ」

「知ってる」

 雪穂は折り畳んだ腕を枕がわりにして、こちらに顔を向けながらもう片方の手で大胸筋の上部を撫でてている。

「自分の子供に亜人の人生なんて歩ませたくないよ」と言うと、手を動かすのをやめて、「そっか」と呟いた。

 せっかくいい感じになったのに、また雰囲気悪くするようなことを言ってしまったなあ、と思い、雪穂の方へ目をやると、後ろめたさからか表情が曇っている。自分は起き上がり、雪穂の首に手を添えて、上体を起こして、そのまま着ていたTシャツを脱がして、顕になった胸を下から包み込むように、小指から親指にかけて順番に力を加えていく。手のひらに伝わる弾力を感じながら、優しく胸を揉むと手の動きに合わせて雪穂が吐息を吐く。徐々に冷静さを欠いてきた自分は、雪穂の肩から喉元にのびている鎖骨の丸みにむしゃぶりつくようにキスをして、くすがぐったそうにする雪穂をそのまま押し倒して、雪歩の上半身から下半身へと焦る気持ちを抑えながら、味わうように徐々に雪穂のなめらかな肌の感触を楽しんでいった。


 真っ暗になった暁闇の部屋の中、自分は恐ろしい夢を見て目を覚ました。頭を抑えて、内容を思い出そうとするも、ちっとも思い出せず、あまりにも非現実的な凄惨な印象だけが感情を昂らせている。部屋の中を一通り見回し、隣で安心して眠っている雪穂の寝顔を見て、ようやく気持ちが落ち着いた。勢いよく起き上がったせいで、タオルケットが乱れて、雪穂の足と、上半身が顕になっていた。行為後そのままお互い眠りに落ちてしまったのか、と思いながら、少し寒そうに見える雪穂の細い肩にタオルケットを掛け直した。雪穂の存在が自分の中で大きく膨れ上がるたびに、根拠のない不安と焦燥に襲われる。ここまで大きくなったのは初めてかもしれない。自分の不安を打ち払うように、雪穂が自分の手を強く握ってきた。ハッとして彼女の横顔を見ると目を閉じて寝息を立てている。眠っているみたいだ。昔、雪穂に自分と一緒にいて、不安になることないのか聞いた時、きっとうまくいくよ、と言っていたのを思い出した。根拠もなしに自信が持てて羨ましい、と言うと、「本で読んだんだけど、自信に根拠があるってなんかズルイって言葉が好きなの。うまく行くって思っていれば何とかなるんだよ」と勝ち気で言っていたが、自分の手を握って離そうとしない確かな感触のおかげで、何となくその言葉が理解できた気がした。




 管理区のせいで横浜を通過することができなくなった都合上、都内から鎌倉に電車で行くには管理区を迂遠して行かなければならない。私の勝手な都合で、海路を選んだ。東京湾から鎌倉まで海上線路を渡って行く。フミノリより私の方が早く起きたのは久々だった。朝、目を覚ますと私の手を握って穏やかな顔でぐっすり眠っていた。こんな寝顔だったっけ?、と思いながらフミノリを起こさないように、そっと、ベッドを出てシャワーを浴びに行った。

 化粧まで終わらせて、フミノリを起こすと、思い切り上体を起こし、今何時?、と聞いてきた。化粧を完璧に終わらせた私の顔を見て、おそらく寝坊したと錯覚しているのかもしれない。まだ、七時だよ、と言うと、何も答えずに、頭を掻いて、そのまま目を瞑って、ベッドに倒れ込んだ。

「ちょっと眠らないでよ、出発遅れちゃうってば」

 私が彼の体を揺すって強引に起こそうとすると、フミノリはタオルケットを体に巻き付けて、「もう少し、もう少しでいいから、いい夢の途中なんだ、最後まで見ないと」と言って、抵抗した。本当にそのまま寝ようとするので、思い切りタオルケットを引き剥がして、「ちょっといい加減にしなさいよ」と言って、脱ぎ捨ててあったパンツを頭にかぶせて、Tシャツを足から着せたやった。

「わかった、わかった自分でやるから、起きる、起きる」

 フミノリは頭のパンツをとって、あおむけの状態で両手を天井に突き出した。私は唇を尖らせて、フミノリの両手を取って、思い切り力を込めて、私の方に引っ張り上げた。

 勢いよくベッドから出ると、勢いを殺さず私に抱きついて、体ごと持ち上げて、

「おはよう」と言って、私を床に下ろした。

 朝からこんなに甘えてくることはないので、不審に思い、「どうしたの?」と訊くと、「ううん何でもない。着替えてくるね」と言って、フミノリのクローゼットがある作業部屋に服を着ないで悠然と歩いていった。お尻から、肩まで無駄な肉のついていない逆三角形の体を見て、鍛えてすらいないのに、何もしなくても体型を維持できるのが羨ましい、と嫉妬した。

 玄関でサンダルを履いて、自分の爪の色とサンダルの色の組み合わせを確かめていると、デニムジャケットを羽織りながら朝の支度を済ませたフミノリがやってきた。白いTシャツにカーキ色のズボンといったシンプルな服装だ。髪はいつも通り後ろで縛っている。

「これにして正解だった」と見せびらかすように私はサンダルを見せて、

「忘れ物ない?」と訊いた。

 フミノリは、あちこちについているポケットを触って、何も言わずに頷いた。

 鎌倉方面の海上電車は空いていて、隣同士に座れた。フミノリは私の手を強く握っている。外を眺めると、海の向こう側に千葉県が見える。背後には、海の向こう側に管理区の大きな壁が聳え立っているのだろう。私が生まれた時からあるとはいえ、海の上を電車が走っていると言うのは不思議な感覚だ。有名なアニメ映画で、顔のない化け物と十歳くらいの女の子が、何も話さず電車に揺られているシーンがあったが、昔の人がわたしたちを見たら、その映画のワンシーンを連想するかもしれない。車輪が巻き上げる水飛沫が、麗かな太陽の光を反射して、生き生きと輝いている。燦然と光る海の水面の眩しさに、目を顰めながら、フミノリに寄りかかるといい匂いと温かい体温が私の肌に染み込んでくる感じがした。今日は隣にいるだけで、いつもより心が落ち着く気がする。一週間でいろいろなことがあったが、穏やかな日光を全身の細胞で感じると、今日の旅行を最大限楽しむための出来事だったような気さえした。バネだって、強く反発するには強く縮ませなくてはならない、多分、そういうことだ。

 



 雪穂がAIに組ませた旅行の予定表を、昨晩、確認すると、午前中は、鎌倉の街並みを楽しみ、昼に有名なカレー店で食事をする。三時ごろに茶屋で休憩をして、夕方に海が一望できる、おしゃれなお店で、軽くお酒を飲みながら食事をして帰る予定になっていた気がする。鎌倉に着くと骨伝導イヤホンが内蔵されている、スマートレンズをレンタルした。レンズには予定している順序や、鎌倉の建造物の情報が表示され、骨を通じて、アナウンスが入る。つけている感覚がほとんどなく、スマートフォンや、スマートウォッチから投影されるホログラム映像を見ずに、町の景観を眺めながら、調べ物とガイドをしてくれる便利なアイテムで、観光地では人気のサービスだ。このスマートレンズが優れているのは、元々透明な上に、周辺の色彩情報を読み取って、光学迷彩のごとく、周りの景色に完全に溶け込むので、よく見ないと、他人がつけているのがわからないところだ。写真や動画を撮るときに、これをかけていないように見えるところも人気の秘訣だ。

 鎌倉の街は至る所で時間が静止している。近代的な建造物と数百年以上前の建物が混淆し屹立している。街並みは鎌倉時代から現代まで推移していると言うより、不連続関数がある点を境に曲線が途切れて、また別の離れたところに現れ新たな曲線を描くように、鎌倉時代から現代へ時間が吹っ飛んだみたいだ。

 参道の桜は生い茂った葉っぱが燦々と光を浴びている。スマートレンズは、ここが春には桜の名所だと案内している。スマートレンズが春の桜並木の映像を流すと、雪穂が思い出したように、「ここ、昔来たことある」と言った。雪穂は子供の頃に家族に連れられてここに来たことがあるらしい。スマートレンズは雪穂に昔の記憶を思い出させるのに、一役買ったみたいだ。自分もこの映像には見覚えがあった。実は、管理区に移される前に見た最後の綺麗な景色だった。

「実は俺もここに来たことがあるんだ。二十年前くらいかな。満開になると桃色のトンネルの中にいるみたいにすごい綺麗なんだ」

「そうそう、それで風が吹くと桜の花びらが散って」と言うと、自分も昔の記憶が鮮明に蘇った。ここは、桜の絨毯の上を歩いているみたいな幻想的な風景になるんだ、としみじみ感傷に浸り、散った桜の上を駆け回る自分の子供の頃の姿が見えた。どんな顔をしているのか思い出せない両親に連れられて、三人ではしゃいでいる光景だ。立ち止まって、自分の幻影を見ていると、先に歩いていた雪穂がこちらを振り向いた。

 参道は桜並木に変わった。スマートレンズを外したが、風景は変わらない。風景は昔の記憶で補完され、雪穂は永遠に続く桜色のカーペットの真ん中を歩いて、こちらに歩み寄って、自分の手をとった。桜舞い散る中で、口に出たのは将来の話だった。

「また来年ここに来よう」

「もう一回言って」

「来年は桜の時期にここに来よう」

 自分は雪穂を抱き寄せて、何度も同じことを言った。



 

 もう日が暮れる。日帰り旅行も終わりにさしかかっている。私は片手でサンダルを持ち、もう片方の手でフミノリの手を握り潮の満ち引きを足に感じながら、二人で海岸線に沿って歩いた。足元の砂浜を撫でる漣の冷たさを感じるたびに、手を強く握った。肌寒くなってきた潮風を浴びながら必要以上にゆっくり歩いた。

「綺麗な夕日」

 夕日に光が吸い寄せられるように、鎌倉の海沿いは徐々に光を失っていっている。

「昔の人もこんな風に日暮れどきは、綺麗な日の入りを見ていたのかな?」フミノリは言った。

「さあ?多分、夕日はいつの時代でも綺麗だと思うからそうなんじゃない?」

「フミノリにはどんな風に見える?」

「どんな風にって言われても。うーん、普通に綺麗だなあと思うけど。どうして?」

 フミノリは質問の意図が読めないみたいだ。

「私も普通に綺麗だなあと思うよ。昔も今もこうやって綺麗なものを見て同じように感動できるのに、どうして人は身分とか、いろんなことを分類しないと気が済まないのかなあ?って。みんな同じでいいのに」

 フミノリはすぐには返答せず、少しだけ思案して、

「なんでだろうね。俺には難しすぎて、わからないや」

「ねえ、雪穂。帰ったら言いたいことがあるんだ」

「どうしたの?改まって、急に。なんか怖い」

「出ていくなんて言わないよ。もう、普通の幸せを掴んでとも言わない。ずっと言いたかったことを伝えようと思うんだ」

 夕日が完全に沈んで、あたり一面は、闇に包まれた。夜の静寂の中に、潮が砂浜を撫でる音だけが鳴り響いている。二人だけになった世界で月のスポットライトを浴びているみたいだ。フミノリに助けられた日も、上半身に刃物を生やして、頭がリボルバーでできた男の背後に綺麗な月が見えたのを覚えている。刃物まみれの体で月明かりを銀色に反射していた人は私の隣で穏やかな顔をしながら夜空を見上げている。何を考えているのか、聞き出そうと思ったが同じことを考えている気がしたのでやめた。



 雪穂を家まで送って、自分たちが初めてこの町で住み始めたアパートの前に向かった。ここは自分達の生活が始まった場所だ。別にいい景色でもないけれど、ここでプロポーズをするんだ、と決めていた。多分、緊張して自分の口からは直接言えないので、手紙を書いた。データに残したくないから、手書きで書いた。手先の器用さには自信があるのに、字を綺麗に書くのは苦手だ。あまり文章を書くのも得意ではない。ただ、口にするよりは自分の思いが伝わると思ったからだ。手紙は自分のクローゼットに隠してある。雪穂を迎えに行って、手紙をここで渡している姿を頭の中で何度も反芻して、家に帰った。

 家に着くと雪穂はいなかった。窓が開けっぱなしにされ、ぬるい夜風が体にまとわりついて、わきからじわりと汗が滲み出た。恐る恐る、見慣れたはずの部屋に入ると、もぬけの殻だった。誰もいない一室は荒らされ、物が散乱しているのに、伽藍としていた。電気もつけず、焦って部屋中を探すとリビングのテーブルの上に、良家の几帳面な女が書いたような綺麗な字の書き置きが残されていた。

『女は預かった、お前の返答があまりにも遅いから、俺は気が変わっちまった。俺が誰だか言わなくてもわかるよな』

 青山は雪穂をさらった。俺は、作業部屋に行き、机の引き出しから青山からもらった名刺を取り出し、位置情報を取得した。嫌な予感はしていた。迂闊というより、問題を直視しないようにしていた。雪穂を守ると伝えると決めた日に、危ない目に合わせた自分に苛立ち、雪穂を傷つけようとする全ての暴力への憎悪が全身を駆け巡り、身体中に籠った力が解き放たれ、全身の血液が躍動するみたいに、心臓が強く脈打ち始めた。今ここで変身して、全てをぶち壊そうと思った。スマートウォッチに位置情報を移し、名刺を握りつぶして、家を出た。青山が勤めているクラブは渋谷にあった。雪穂に何かあったら、渋谷ごと青山の全てを破壊してやる。

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