刃物男の讃美歌(4-1)

あの亜人が男なのか女なのか今の段階では正確にはわからなかった。あの亜人は上半身がカミソリの刃で覆われている。そして、右腕からマシンガン、左手から刃渡り一メートル以上の日本刀が生えていて、頭はコルトパイソンで出来ている。大きな体にカーキ色のパンツから男の亜人にも見えなくない。彼が何者で、何の為にもう一人の亜人とクラブを破壊するほどの戦闘を行なった経緯は判明していないが、彼が何かに対して憤怒している、と張り詰めた空気を通してカナエにはわかった。捜査課をはじめとする、武装した警察官やアンドロイドが上半身が武器で出来た亜人を取り囲んでいたが、現場の誰もあの亜人を止められそうになかった。誰にも捕らえられるイメージが浮かんでいないに違いない。周りの警官隊の顔は唖然としているか、諦めて苦笑いをしているかだった。アンドロイドがマシンガンで何発もあの亜人に銃弾を撃ち込んでも、覆われた剃刀を貫通することはない。彼は銃弾を何発打ち込まれても怯みすらしなかった。なぜか、あの亜人は頭のコルトパイソンや右腕のマシンガンを使って、こちらを攻撃してくる気配はなく、頭の銃口を何度も左右に振って、何かを探しているように見えた。

 お目当ての物が見つかったのか、何かを凝視しているように頭を動かさない。車がある。車に向かって、マシンガンを連射する。車には一発も当たらない。連射が収まると、隙を見て車からカップルが降りてその場から腰を抜かしている彼女を置いて男が先に逃げ出し、彼女が男を追いかけるように四つん這いになりながら車から遠ざかった。亜人は車のそばまで近寄り、ドアを日本刀で切断し、車に乗り込み、フロントガラスが邪魔なのか頭のコルトパイソンを使い、フロントガラスを割った。人間の頭と同じ大きさのコルトパイソンから放たれた銃弾が、フロントガラスを貫通し、10メートル先にあった無人のバイクに当たるとその場で爆発し、大きな轟音を上げた。悲鳴と発砲音が耳をつんざく現場は、ガソリンが引火した匂いと都会の排気ガスの匂いが瀰漫している。

「あんなのどうやって止めるんだよ」明石は目を丸くしながらつぶやいた。誰もあの亜人を止める術を思いつかなかった。亜人が車を発進させると、カナエたちも近くの自動車に乗り込み、蒼井は運転席で車のエンジンをかけて、乗り合わせた真田と課長とカナエのシートベルトをする暇も与えず、アクセルペダルを力強く踏み込み、亜人が運転している車を追跡した。カナエは後ろを振り向くと、他の捜査課のメンバーや警察官が乗ったパトカーとアンドロイド達が自分達が乗っている車の後ろに連なった。追跡者の集団は亜人が奪った車を先頭に扇形を形成していた。




 彼はこの前アウトレットで一緒に買ったカーキ色のパンツを穿いて出かける支度をしている。私が選んだものだ。少しダボついているシルエットがお気に入りらしく、近所でちょっと買い物をする時でも穿いている。痩せてはいるけど、骨格がいいからあまり見窄らしくは見えない。スラッとした体型で羨ましいな、と思いながらなんとなく彼の身支度を眺めていた。

「何しに行くの?」

 私はフミノリに声をかけた。フミノリはトレーナーから顔を出して、いつもの落ち着いた口調で

「スーパーに、買い物」とだけ答えた。多分、夕飯の支度をするために買い物に行くのだろう、仕事が立て込んでいるのだから、少しでも楽をすればいいのに。私の仕事を手伝っているとはいえ、居候の身なのを気にかけているのか私より家計に厳しく、出来るだけ出費を掛けまいとする。

「外で済ませればいいじゃない」

「外食は高いから。少しは俺も家計の役に立たないと」

「私の仕事手伝ってるんだから、仕事はしているのと一緒じゃん。外食が高いなら、配達とかにしようよ」

 フミノリは体をストレッチしながら、

「ちょっと、買い物ついでに運動もしたいから」と私の提案をやんわり断った。

「私も行こうかな。作業してたら肩凝っちゃった」

 私のデスクに置いてある家の電子鍵を取って、私の肩を揉みながら「化粧、してないでしょ。雪穂は家にいなよ」と断り、首に腕を巻いて私の肩に自分の体重がかかりすぎないように乗りかかりホッペに軽くキスをした。耳元からフミノリの息遣いを感じる。パソコンの画面が暗転して二人の顔が映った。メガネをかけているせいで少しだけ小さく見える私の目は、なんだか眠そうだ。午前中から、四時間、作業を続けているせいで、少し疲れてきているみたいだ。体に血が巡っていないのもわかる。筋肉が使い古したゴムみたいに、弛緩している感じだ。

「マスクをすれば平気だよ」

「長時間歩くつもりだから。まだ4月だけど、紫外線、結構強そうだよ」二人で、窓から外を眺めてみると、雲ひとつない青空が広がっている。自由に青空を飛んでいる二匹の鳥は、夏の訪れを楽しむように同じところをくるくる旋回している。私もあんなふうに、紫外線なんか気にせず外を出歩けたらなあ、とちょっと鳥に嫉妬した。

「日焼け止めくらい塗るし、帽子もかぶるから」

「昼間から深く帽子をかぶって金髪でマスクして歩いていたら、怪しいんじゃない」

「大丈夫じゃない?。フミノリが一人で歩いている方がよっぽど怪しいと思うけど、二人の方が平気だって」

「そうかな」

「それに最近、亜人の目撃報告があった、って噂になって、結構私服警官がうろついているみたいよ。私と二人ならこの辺に長く住んでいるだけのただの人間のカップルに見えるんじゃない」

 フミノリは私から離れて、ゴムバンドをとって、自分の長い髪を束ね、首を傾げて「そういうもん?」と言った。納得はしていないみたいだ。

「ちょっと、支度してくるから。ごめん、じゃあ、ここの色彩弄っていい感じにして欲しいんだけど、お願い」

「わかった」

 彼は色彩の感覚が鋭く、私の仕事を手伝ってもらっている。私は仮想空間のデザイナーを仕事にしている。主な仕事は、バーチャルアイドルのライブイベントのイベント会場をデザインをしたり、VR空間で活動しているインフルエンサーの配信空間を設計したり、VRを使った映画の舞台設計だ。映画も仮想現実内で見られる時代になった。映画が好きな私は二次元と三次元、二種類の映画に需要のある時代に生まれてきてよかったと思っている。彼は管理区で生活していた頃は美容師をしていたみたいだ。手先の器用さと、優れた色彩センスを備えている彼は仕事面でもかなり重宝している。六年前、私が芸術大学に通っていた頃、亜人の集団に襲われそうになったところを助けられたのが出会いだった。手のひら以外の全身から刃物を生やし、頭と右腕が銃で出来ていた。私を襲っていた亜人を蹴散らした後、暴力の象徴のような亜人と二人にきりになった時、自分の命を諦めたが変身を解いてその場で腰を抜かしている私の元に駆け寄り、ここであったことをすべて忘れて生活するようにと、私を抱きあげ忠告してきた。恐怖で混乱していた私を心配そうに眺める彼の目と、澄んだ夜空に燦然と輝く満月が綺麗だったことを昨日のことのように覚えている。目元といえば、最近、フミノリは笑った時の目尻の皺が深くなったような気がする。私も同じくらい自分が思っている以上に老けたのだろうか。三年もすれば私も三十か、と思いながら、軽めに抑えるつもりだった化粧と日焼け止めに気合が入り少し身支度に時間がかかった。

 出かける支度が終わって、作業部屋に戻るとフミノリはまだ私がデザインした舞台装置の色合いの調光について検討している。私が戻ってきたことも気が付かず、少し身をのりだし猫背になっているところを見ると、凄まじい集中力だなと感心してしまう。綺麗な横顔だ。顎のラインはシャープだし、顔の骨格がエキゾチックなのに、眉や目や口などのパーツは日本人っぽく主張が控えめなところが好き。髪は長いけど、サイドの髪の毛を刈ってツーブロックにして清潔感を保っている。この髪型は彼のこだわりみたいだ。私が勧めた服やアクセサリーは何も言わずに受け入れるのに、髪型だけは絶対に変えない、髪型に関しては彼なりのこだわりがあるみたいだ。




 青色が足りないかな?彩度も上げてみようかな、ちょっと派手すぎる気がする。ああこのくらいだ。他の舞台装置の色合いと上手く調和している。時計を見るともう三十分以上経っている。待たせちゃったな。パソコン画面から目を離し、立ちあがろうと思うと自分の作業をじっと観察している雪穂と目があった。

「ごめん待たせちゃった」

 作業を始めると、集中して周りが見えなくなることがある。こういう時、自分が作業を終えるまで彼女は大体待ってくれることが多い。機嫌が悪い時以外だが。

「ううん、私も今、終わったところ」

「化粧もしたんだね」

「軽くね」軽くねという割には、気合が入っているような気がした。

「その辺に行くだけなのにちょっと濃くない」

「別にいいじゃん」

「そういえば、こんなんでどうかな」と画面を指差し、彼女に確認を求めた。短い時間で終えた割にはかなりの自信作だ。「いい感じじゃん」と喜んでいる。画面を覗き込むために、自分と画面の間に入り込むと、目の前にある金色に染められた髪からいい匂いが漂ってくる。変な気を起こしたくなる。軽く体を屈めながら、マウスを動かして、調べ物を始めた。出かける前にメールのチェックをしているみたいだ。『北村雪歩様いつもお世話になっております』とお堅い文書から始まっている文書を読み始めると、うーん、と言って、少し肩を落としてパソコンの画面をスリープ状態にして、「出かけよっか」と作り笑いをして自分の右手を掴んで引っ張った。

 スーパーはこの家から歩いて十分くらいだ。もちろん、行って帰ってくるだけでなく、近くの河川敷をまどろみながら散歩でもしようか、と考えていた。荷物を持ちながら散歩をすると腕が疲れるので、先に河川敷の方に行ってからにしようと考えていたが買い物を先に済ませよう、雪穂の反応から仕事で何か重要な報告があったのだろう。管理区では、ほとんど学校に通わず、手先の器用さだけを頼りに仕事を転々としながら生きていたので、あまり字を読むのが得意ではない。メールの内容がわからない。早めに帰ってあげた方がいいだろう。いや、せっかく化粧をしたのに早く帰ったら、逆に機嫌を損ねるかもしれない。頭の中で、あれこれ考えていると、

「ねえ、なに考えているの?」と訊いてきた。

 いつの間にか眉間に力が篭っていたみたいだ。

「うーん、やっぱり、買い物だけして帰ろうかなって。河川敷を散歩してから、帰ろうと思ってたけど、今度でいいかなって」正直に今考えていることを答えた。

「せっかくだから、散歩してから帰ろうよ」

「何か仕事の連絡きてたみたいだけど大丈夫なの?」

「それは平気なの。むしろ気分転換したいくらい」

 逡巡していたが、雪穂が上手く片づけてくれた。いつも判断が早いから自分にとってはとても助かる。手を繋いで腕をくっつけながら彼女の歩速に合わせて、ゆっくり歩く。心地の良い時間がゆっくり流れているみたいで気持ちがいい。高く上がった太陽の日差しがいつもよりも暖かい気がする。本当に日差しが強いみたいだ。雪穂は帽子をかぶってきて正解だと思う。

「今日は、本当に暑いね。もう少し薄着してくれば良かった」と言って、黒いキャップを団扇がわりにして顔を仰ぎ始めた。多分、汗ばんで頭が蒸れているのだろう。生え際の黒い髪の面積がどんどん大きくなってきていた。最近は特に忙しそうで、細かいところまで気にしている余裕がなさそうだった。雪穂を助けたことがきっかけで、地方から東京に出てきた雪穂が学生時代に暮らしていたアパートに転がり込む形で一緒に暮らすことになった。付き合って欲しい、と言ったのは雪穂の方からだった。助けてもらった恩も返したい、と言っていた。そんなことをしなくてもいいのに、と説得しようとしたが、自分と一緒に暮らすために芸術大学を中退して、今のデザイナーの仕事を始めてしまった。雪穂は行動がいつも早い。誰かに指示されないと、何事も決められない自分とは正反対だ。そこまでしなくても、と言うと、元から学生時代から企業の人間とよく仕事をしていて、遅かれ早かれ辞めるつもりだった、と言い俺のためではないと主張する。加えて、芸術大学中退でしっかり稼げてるなんて天才みたいでかっこいいでしょ、と言うのが彼女のいつもの言い分だ。半分は気を遣っているのだろう。気が強いくせに彼女はかなり気を遣うタイプだ。今の仕事を自分に手伝わせているのは、家に居づらくさせないようにするための彼女なりの気遣いも含まれているのだろう。任せてもらっている仕事は自分の性に合うので彼女の気遣いに乗っかる形でそれなりに楽しんでいる。彼女の仕事を手伝っていなかったら、多分、出ていっていたかもしれない。同時に、彼女から離れるのを先延ばしにし続けているのも事実だ。仕事は順調に軌道にのっているみたいだし、雪穂も、もう将来のことを真剣に考え始める年頃だ。亜人の保護は重罪だ。彼女に迷惑がかかる前に出て行かないと。

「もう夏って感じだね」群青したシロツメクサの花にとまった蝶は、風が河川敷の草原を撫で、花が揺れると、びっくりしたように宙を舞い出す。生命の息吹に雪穂は初夏の訪れを感じているようだ。日陰に入って涼しくなったからなのか、扇ぐのをやめてキャップを被り直した。日向で外して、日陰で被るなんて使用用途が真逆だ。

「フミノリはあの壁の向こう側から来たんだよね」多摩川の向こう側に見える、巨大なコンクリートを指差して言った。

「しっ」と注意した。周りを見回すと、誰もいない。

「ああ。ごめん」と俯いた。

 自分が亜人だと知られてはいけないが、あまりに長く一緒にいる時間が長いせいで、お互いたまに自分達の関係が異常だと忘れてしまう時がある。そして、自分は思い出したように、

「そういえば、メールの内容なんだったの」と訊いてみた。

「ああ、あれね」

 彼女はなんだが気まずそうだ。そんなに言いにくいことなら、こんなに心地良い時に訊かない方が良かったかも知れない。

「デザイナー仲間を集めて、起業しようかなって。今の仕事」

「それってすごいことなんじゃないの」

「うーん、起業自体は難しくないんだけど。それなりの規模と資金が欲しくてね。VR関係の有名な人とか色々集めてたんだけど上手く行かなそうで」

「雪穂は、お金持ちになりたいの?」話題を広げるためとは言え、我ながらアホな質問だ。あまり気にはしないだろうが。

 正直、人間社会の仕組みはよくわからない。あまり他人と仕事したくないから、芸術の道を選んだと言っていたのに。頭の黒いキャップと同じで、本末転倒だ。

「まあ、簡単に言うとそうなんだけど。それなりに大きな規模の団体だとね。亜人を雇用することができてね。人間の社会にも特定の地域に連れ出すことができるの。四国の方では、数千人くらいの亜人を囲って、農業運営している人もいたりするんだけど。規模と影響力が大きくなれば、治外法権みたいな感じになって日本政府もあまり口を出してこないから」

「亜人の人権回復活動の一環?」

「と言うよりはさ。いい加減、堂々と私たち一緒に暮らしたいんだよね」彼女は自分の手を強く握って「結婚したいの」と上目遣いで言った。可愛かった。よろめきそうになった。これを言うために、気合の入った化粧をしたのだろうかと勘違いしてしまいそうにすらなった。

「えっ」

「ああごめん。急に。それにフミノリももっといろんな人と関わった方が良いって。楽しいよ、きっと」

「俺は」正直そんなに人間とは関わりたくはない。管理区でいろんな人間を見ていたが、大多数の人間は嫌いだ。あまり良いイメージがない。ただ、彼女の提案は純粋に嬉しかった。お茶を濁すのはよくないだろう。

「雪穂だけいれば。それで良いよ」と本心だったが嘘をついた。上手く行かない可能性の方が大きいのが想像できた自分でも理解できた。これは一番卑怯な答えだ。雪穂には感謝しているし、幸せになって欲しいと思っている。その気持ちが強くなればなるほど早く離れる決断をしなければならないと焦燥感だけが日々募っていた。いつ自分が捕まるかわからない。

「それに、亜人を雇うのって管理区にいる亜人だけでしょ。俺は逃げてきちゃったから」と頭を撫でて、結局お茶を濁した。雪穂もそのことはあまり考えていなかったのか、痛いところをつかれたようだった。

「まあそれは、なんとかなるでしょ」

「どちらにせよ。うまく行かなそうなんだけどね。ごめんね」

「雪穂が謝ることじゃないよ。嬉しいよ。ありがとう」




 起業のことを言ってスッキリした。勢いで色々言ってしまった。ちゃんと化粧してきて良かった。フミノリはあまり良い感触でない。私の決断に関して、はっきりと否定することはない。お茶を濁した後に、ありがとう、と言うときは決まって、私の考えに否定的な時の対応だ。特に私との将来に関わる内容については、否定的な反応がほとんどだ。彼の背景はわかっているし、優しさゆえに否定するのはわかる。ただ、たまには将来のことを考えてほしいと思ってしまう。離れたくはないが、そこだけはいつも不満だ。

 スーパーに着くまで、なんだか気まずくて話しかけられなかった。彼も何も話しかけてこない。子連れでその辺を歩いている夫婦や、仲睦まじく腕を組んでいる老夫婦が羨ましい。彼と出会えたのはこの歪な社会のおかげだが、道ゆく人々が羨ましく見えるのがあの壁のせいだと考え、この社会を感謝と憎しみの天秤で測ろうとすると、少しだけ憎い方に傾いてしまう。

「今日は何を作る予定なの?」

「俺の気まぐれパスタ」

「またあ」

「なんで、あれ美味しいじゃん。あとお米とパンも買わないと」

 手先が器用だから何でもそれなりに美味しく作るが、レパートリーが増えないのが玉に瑕だ。

「調理用のアンドロイドでも雇おうかしら」

「あれ結構高いって噂だよ。外食自炊半々くらいが結局ちょうど良いってネットに書いてあった」

 そして、料理を機械に任せるのはあまり好きじゃないみたいだ。多分、家計のためと言いつつも調理も目的のうちなのだろう。彼の手先は止まると死ぬ魚みたいに、何か作業していないと死んでしまうのではないかと疑いたくなるほど、作業をしているのが好きだ。

「これだけAIが発展したのに、結局みんな自炊するんだね」と私が呆れて言うと、何かの動画で勉強したのか、

「アンドロイドに任せる方が楽だし安定して美味しい料理を作ってくれるのにね。人の手の雑さからは人間は逃れられないのかもしれない。まあ、あと、この国は栄えているけど、豊かなのは一部の人だけで、貧困層は贅沢品に手が出せないからね。これだけECサービスが発展したのにスーパーがなんだかんだ生き残っているのは、まだまだ需要があるからなんだね」と言った。

「不便に見えても、昔から残っているものはなかなか消えないから。こうやって外に出て何かを買うって行為は人類が滅びない限り消えないかもね」達観している風なことをあえて言ってみる。

「頭いい」とヒロフミは感心する。純粋で可愛い。私が知的に見えることを言うと、決まってこんな反応をする。返し文句のバリエーションがなかなか増えないところは嫌いじゃない。

 カートに荷物を入れたまま、店をでると、AIが自動で私たちが購入したものを判別し、勝手に私の個人番号が登録されているスマートウォッチを通じて残高から自動的に精算してくれる。便利なものだ。店外にある包装用のアンドロイドに買った品物が入ったカゴを渡すと、自動で袋に商品を詰めてくれる。棚から買い物カゴに入れる以外はほとんど全自動でやってくれる。200年前は全部人の手でやっていたなんて信じられない。便利だが、私たちの購買データは全てスーパーに集められている。仕入の最適化に役立てているらしい。この程度のデータでプライバシー侵害が叫ばれていた時代があるなんて想像ができない。ヒロフミは両手に買い物袋を軽々とぶら下げて涼しい顔をしている。両方とも五キロ以上はありそうで、シャツの袖を捲り上げ、顕になっている前腕に力を蓄えて、小麦色の肌に血管が浮き出ている。ヒロフミの腕と手は男らしさと、美しさの調和が素晴らしい。爪の形が綺麗で羨ましい。私の爪は何もつけていないと不細工になりがちだ。そういえば最近あまり爪もいじっていない。

 スーパーに向かっている時と違って、帰り道はいつも通り他愛のない話が続いていた。会話を止めたのはヒロフミの方だった。目の前にいる、右耳にピアスをした、茶色く染めた髪をオールバックにまとめている不健康そうに頬がこけた青白い男と目が合うと、急に歩みを止めた。この二人の異様な雰囲気は私が大事にしていたものが崩れていく何かを予感させた。形見にしていたガラスの花瓶を落として、粉々にしてしまったような、そんな喪失感を確かに感じていた。





 こんなところで会うとは思わなかった。七年もあっていなかったんだ、目さえ合わせなければ、お互い何も気づかず、すれ違って自分達の生活に戻るだけだったかもしれない。あいつとは管理区時代に一緒に管理区から脱出した仲だった。人間社会で彼がどんな生活を送ってきたかわからないが、やつれ方を見るにまともな生活を送っていなさそうだ。

「江ノ口。江ノ口じゃないか、久しぶり」マッチ棒みたいな腕を振りながら、こっちに笑顔で近づいてきた。

「ああ、青山。久しぶり」

「七年ぶりじゃないか。彼女は」青山は雪穂の顔を覗き込んだ。俺の雪穂に汚い顔を近づけるな、と蹴飛ばしてやりたかった。手をポケットに突っ込んで、体をくねらせて、瞬きせずに彼女の顔を凝視している。青山の態度を恐れているのか雪穂は眉を顰めて、少し後退りした。

「今、一緒に暮らしているんだ」

「そうか。いいなあ。可愛い彼女がいて。年下じゃないのか?。羨ましいなあ」

「今買い物帰りなんだ」とスーパーで買った荷物を見せびらかして、「早く帰らないと」と帰る意思表示をした。

 青山は、雪穂から目を離さず、ゆっくりと横並びで立っている自分と雪穂の周りを一周した。獲物を狙っているハイエナみたいだ。

「まあ、そんな釣れないこと言うなよ。久しぶりに会ったんだ。お話でもしようよ、江ノ口くん。音楽好きだったろ、俺。クラシックの話でもしようよ。ベートヴェンと、モーツアルトならどっちが好きだったけ、江ノ口くんは。ねえ彼女さん、知ってる」

「でも荷物を彼女に持たせるわけにはいかないから」と話を切り上げようとすると、

「じゃあ、家までついていくよ、近くで待っている。それからでいいだろ。彼女を先に帰すなら、ドローンに運ばせよう、そこに飛んでいるやつ。会員なんだ俺は、ほら」と言ってスマートフォンをドローンに向けると、ドローンがプロペラの音を立てて青山の元にやってきた。

 家までついてくる?冗談じゃない。ドローンに荷物を預けて、チャットで「いいかい、先に家に帰るんだ。俺は彼と話がある。できるだけ遠回りをして帰るんだ。誰かにつけられているような気配を感じたら、適当な店に入って時間を潰して。もし、雪穂が入った直後に店に入ってきた客でこちらの様子を伺ってくるやつがいたらその場を動かないで、店の情報だけ送って、迎えにいくから。わかった?」と送った。スマホを確認するように合図を出して、雪穂に確認させると雪穂は事情を飲み込んだのか、何も言わずに頷いた。

「それじゃあ、ゆっくり何事もなかったかのように、この場から離れて」と小声で言うと、雪穂は唾を飲み込み、何も言わずに早足でその場を去った。

「なんだ彼女さんは帰ったのか?」ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。節足動物みたいな腕を俺の肩に回して叩いてくるのが非常に不快だった。

「ああ、まあ昔ばなしに彼女は不要だろ。で、どこで話すんだ。早めに切り上げたいんだが、俺にだって生活がある」

「わかってるよ。お互い忙しい身だもんな。わざわざスーパーで買い物するくらいだからそんな良い生活はしてなさそうだな。駅の近くに、個室で飲めるところがあるんだ、そこに行こう」

「昼間から飲むのか。こっちは仕事の休憩中に買い物に出かけただけなんだ」

「細かいことは気にするなよ」ふざけた態度をやめ、急に真顔になって、

「何も言わずについてこいよ。その方が彼女のためだぞ」と脅すような口調になった。

「わかったよ」

 さっきまであんなに晴れていたのに、急に曇り始めた。強風に吹き晒されている青山の後ろ姿は、とても弱々しかった。しかし、精神的には彼の方が優位な立場にいる。証拠にベートーヴェンの歓喜の歌を鼻歌で奏で、指揮者のように腕を動かして先を歩いている。一目で彼女が自分の弱みだと見抜かれていた。今日ほど、彼女から離れようとしなかった自分を疎ましく思ったことはない気がする。青山に連れられた飲み屋はおしゃれな居酒屋とバーの中間くらいの和風テイストの飲み屋で、相手がこいつじゃなければよかったのに、と思うくらいには、いい店だった。

 アンドロイドが部屋に案内し、二人きりになった。卓上に投影されたメニュー表を操作しながら、青山は適当に食べ物と酒を注文した。

「江ノ口も何か頼めよ。今日は俺の奢りだ。再会を祝おうじゃないか」

「いつまでふざけているんだよ。こんなところに連れ込むくらいなんだから、人には聞かれたくない話をするつもりなんだろ」

「まあそう急くなよ。ほらビールが届いたぞ。これはお前の分だ」

 青山はジョッキを自分の目の前に、ドンと置いた。勢いよく置いたせいで、ビールの泡が少しジョッキの淵からこぼれた。壁面をゆっくり落ちていく雫を眺めていると、目の前の青山は中ジョッキに並々注がれていたビールを一気飲みした。飲んでいる最中、こちらを凝視しているのは何かの嫌がらせなのだろう。

「飲まないのか」

「俺は下戸だ」

「そうか残念だ。俺は人間が作ったものの中で二つだけ認めているものがある。何かわかるか?」

 饒舌な青山は自分が喋るのを待っているようだ。音楽がかかっていない室内は物音一つない。目に入る物全てが俺が話すのを待ち望んでいるみたいに沈黙している。

「知らないよ」

 青山は一度溜め込んで「ビールと音楽だ」と言った。

「そんなこと言うために連れてきたのか?」

「そんな怖い顔をするな、久々に会うと色々話したくなるんだよ。それにこれは前置きだ。それじゃあ本題、続きを話しても良いかな?」わざとらしく手を振りをしながら、俺の様子を伺った。俺は、どうぞ続けて、と手の動きだけで伝えた。

「そう、音楽とビール。この二つは素晴らしい。これに出会えただけ、管理区から逃げ出した甲斐があったってもんさ」

「ただそれ以外はクソだな」

 青山は急に真面目な顔をして、

「自分らの生活が亜人社会のインフラの上に成り立っているくせに、奴らつけ上がりやがって。反亜人教育。クソだ。人間どもは。こっちに出てきてよくわかった。毎日、毎日、街頭で亜人に自由をとか。管理区に無駄な税金をばら撒くなとか。くだらねえ。この国は、俺らを巡って、百年以上くだらないことをやっていやがる。俺らは奴らが進化した姿だぞ。奴らにできるか。お前みたいに全身刃物まみれの武器人間になったり。俺みたいに体をダイヤモンドに変えて硬質化させたり。本来は俺らが上なんだ。自分らが劣っているのを認めたくないんだ。俺らが怖くてしょうがないんだよ奴らは。多数派にいるだけで胡座をかいていやがる。わからせる時が来たんだ。この前の自爆テロは知っているだろ」

「ああ知っている」

 亜人のテロ集団が動画配信をしながら、ショッピングモールを占拠した話のことだろう。結局、テロリストは何人かのSAT隊員を道連れにして自決した。モールの爆破映像は多くの人間の目に焼き付き、人間たちに亜人への恐怖や憎しみを蜂起させた。

 目を瞑り指揮でもするように左手を振って、勿体ぶった後に、

「素晴らしかったよな。失敗に終わったがテロ本来の役目は果たせている。人間に恐怖のインスピレーションを与え、俺らに勇気をくれた、ワーグナーを聴いている時の気分だ。俺らもあれに続くんだよ。今、亜人仲間を集めて計画しているんだ、テロ計画を。総理を殺すんだ」と言った。

 俺は苦笑いしながら「上手くいかないだろ」と言った。

「そう上手くいかない。心のどこかではそう思っていた。だが、俺の前にお前が現れた。俺は初めて神に感謝したよ。お前が加われば、俺の計画は絶対に成功する」

「過大評価だよ、勘弁してくれ。確かに人間は殺してやりたいくらい憎いが、気にせず平穏に暮らせるなら今のままでいい」

 青山は俺の話を聞いて、何も言わずに何度も頷いている。

「そうだ、あの女はお前のなんなんだ」と雪穂について聞いてきた。

 ただの隠れ蓑にしているだけで、そろそろ離れるつもりだ、と適当に誤魔化して伝えた。

「そうか、大事な人ってわけじゃないんだな」

 青山はテーブルの上に四つん這いになりながら俺の元まで近寄り、鼻を俺の首元に近づけて匂いを嗅ぎ始めた。青山の不気味な行動に、首から冷や汗が垂れた。

「本当か?」

「ああそうだ」と俺が言うと、自分の席に戻って、歯に何かが詰まった様な顔をして、

「そうか、さっき俺が電話していた相手なんだが、俺の仲間なんだ。そいつの体液はタンパク質と金属を溶かすことができるんだ。プラスチックなんかは平気なんだがな」と深刻そうな声色で話し始めた。

「何が言いたい」

「今、彼女と同じ店内にいる」

 俺は平静を装って、それで、と訊いた。

「チャットで連絡を取り合っているんだが、彼女、どうやら店内で絶えず周りを気にしながら一人でいるらしい。随分と用心深いんだな。俺がチャットを送るだけで、彼女のコップの中にそいつの体液を一滴だけ混入させるように行動してくれる。飲み込んだら、食道が爛れて、運が悪ければ死んじまうかもな。もちろん、監視カメラなんかには見抜けやしない。便利な能力だよな。お前にとって彼女がなんでもないなら、急にあの子が死んでも問題ないよな」青山は俺にチャット画面を見せながらゆっくりと送信ボタンに親指を近づけようとしている。確実に俺の弱みを握りたいみたいだ。あと数ミリで送信ボタンに近づくところで、心臓の鼓動が早まり、やめろ、と叫びそうになる手前で、

「嘘だよ。身を隠す場所がなくなったらお前も困るもんなあ。俺は仲間は大事にする方なんだ。お前も知っているだろう」と言った。

「ああ、知っているよ」

「今日の話はここまでだ。会計は俺が済ましておくよ。ここで働いている」と名刺を渡してきた。都内の若者向けのクラブで働いているらしい。QRコードを読み込めば、もっと詳しい情報が得られるだろう。

「まあお前の気が変わったら、ここに来てくれ、バーテンにこれを見せれば裏に連れて行ってもらえる」と言って、個室を出た。

 緊張を解いて深く息をつこうとすると、もう一度個室の扉が開いて、

「訂正する。俺とお前の気が変わらなかったら」と言って、足音が遠ざかって行った。

 俺はテーブルに両肘をついて、項垂れた。




 もうこの町に住んでから、五年は経ったけ。最初は今住んでいるところよりもっと狭くて小さな部屋で二人で暮らし始めたけど。両親の反対を押し切って大学を辞めて、こっそりフミノリと暮らし始めた日がとても寒くて、不安だったことを今でも覚えている。五年も住んで、慣れ親しんだ町なはずなのに、風景は私によそよそしくて知らない町に迷い込んできてしまったみたいだ。私をつけていたように見える男が去って、三十分くらいした頃に、血相を変えたフミノリが店に入ってきた。

「何もなかった」

「怖かった」

 フミノリの胸に抱かれ、彼の体温を感じてやっと落ち着いた。店内の人が、自分達のことを見ているが緊張から解かれたばかりであまり気にならなかった。

「ごめん。俺のせいで」

「ううん、帰ろう」

 家に着くまでの足取りが異様に重く感じた。靴に鉛でも入っているみたいだ。フミノリはスーパーの袋を両手に携えて、俯きながらトボトボ歩いている。何を考えているかなんとなくわかる。春の木枯らしが私たちを襲ってきた。帽子が飛んでいきそうなほど強い風は、砂埃を舞い上げて皮膚をチクチクと攻撃してきた。

「寒いね。ここに引っ越してきた時も寒かったよね」

「まだ、冬だったからね」

「変な立地のアパートに二人で住んでね。あの頃は大変だったね。まだ全然お金も仕事も安定しなくて」

「そうだったね」

「はじめて大型の案件獲得して、成功した時はすごい大はしゃぎしたりして、気がついたらこんな立派なマンションに二人で住めるようになってね」

 玄関を開けて、フミノリを先に入れる。電気が消えているせいで少し部屋が薄暗い。気がついたらもう夕方の六時だった。

「夕飯の支度するから、先にお風呂に入っていなよ」

「ありがとう。そうする」

 毎日のように湯船に浸かっているのに、今日は久々に浸かったような感じがする。短い時間でいくつもの感情の波に飲み込まれてぐったり疲れてしまった。お湯を両手で掬ってみると、指の隙間から水がこぼれていく。キッチンから、フライパンで何かを炒めている音がする。パスタソースを作っているのだろう。浴槽のへりに身を凭れかけて、小さな水溜まりにシャワーから滴る水滴が生み出す波紋を眺めて、耳をすました。調理音が止んだ。私は考えすぎかも知れないが何だか嫌な予感がして、浴槽から急いで出て髪を結っていたゴムを外し、髪を絞って浴室を出た。




 風呂場から髪を濡らした雪穂がタオルを肩にかけて、自分が調理をしている様子を覗いていた。視線を感じて、目を合わすと洗面所に戻って、髪を乾かし始めた。ドライヤーで髪を乾かす音がする。そろそろパスタを茹で始めよう。多分、ここからメールやSNSのチェックに入るからしばらくは出てこない。パスタが茹で上がった後、さらに盛り付ける頃には雪穂の支度も全て終わっているだろう。ポケットに入れていた名刺の店を調べてみる。渋谷あたりのクラブか。青山は俺がテロに参加しないつもりなら、雪穂を人質に取る気なのだろう。念の為、ファミレスから家までかなり迂回した。自分らをつけてくる青山の仲間らしき亜人は確認出来なかった。雪穂だけは巻き込みたくない、ただ、すぐに離れても青山が彼女を狙わないとも限らない、こういう時、いいアイデアが浮かんでこない自分が嫌だった。彼女の前から、上手く消えられたらよかったのに。随分とこの町に居着いてしまった。また、出ていかない言い訳ばかり考えている。早く出ていかないと。

「そろそろできそうだね」

「ごめん、まだできてなくて」

「テーブルで待ってるね」

 雪穂はほっぺたにキスだけして、リビングに行った。自分の読みよりだいぶ早く出てきたな。長い髪から香ってくるシャンプーの匂いが、自分の決心を揺るがせる。自分の決意は、気泡のように現れては消えていく。心の底では思っているのに、すぐに空気に触れて消えて、周りに流され吸収されてしまう。タイマーが鳴っている。パスタが茹で上がった。茹で汁を少しだけとって、鍋から取り出したパスタと準備していたトマトソースに絡める。綺麗な色合いだ。こっちの世界に来て、雪穂に教えてもらって初めて覚えた料理だが、自分の方が上手く作れる自信がある。いつもより丁寧にお皿に盛り付けてリビングに持っていくと、雪穂はテーブルの上の一点を見つめながらのんびりワインを飲んでいた。

「それ貰い物の良いやつじゃないの?」

「今日は一日休む予定だったから。午前中だけでも働いた私へのご褒美。それになんか色々あって疲れちゃった。フミノリもどう」

 ワインの底の方を持って、自分に勧めてくる。自分は酔って能力を無意識に発動しないように、できるだけお酒は飲まないようにしている。

「俺はいいよ」

「そうだったね。でも、美味しいよ」雪穂はどうしても飲ませたいみたいだ。疲れている時は、誰でもなにかを共有したくなるものだ。自分の好きなものならなおさら。

「じゃあ、一杯だけ。グラスの半分くらいで」と言うと、自分の席に置いてあるワイングラスに器用に赤ワインを注いだ。赤ワインは苦手なんだよなあ、と思いながら、思いと反比例する様に注がれていくワインを尻目にパスタを配膳した。

 雪穂はパスタを食べるときは、音を立てない。雪穂の両親は厳しい人で三姉妹の末っ子で自由に育てられたものの、礼儀はかなり叩き込まれている。一番上の姉とは会ったことがある。物分かりのいい厳格な妹思いの長女で、大学中退のことで両親を説得したのは主に彼女だった。雪穂の血縁者で自分のことを知っているのは長女だけだ。雪穂はまだ湿っている髪を邪魔そうに自分の背中にかけて、おいしい、と可愛く鼻で笑ってパスタを巻いている。パスタを器用に口に入れる唇の動きが艶かしい。ただ、椅子に足を乗っけて膝をテーブルの上に出して、猫背で食べているのは行儀が悪いな、と思った。

 いつもより物静かな食卓で、二人で食事を終えて、食器を片付けて二人でリビングのソファでゆっくりしていると、雪穂は本題を切り出した。

「あの人は誰?。まともな人には見えなかったけど」

「あいつは、五区で生活していた時に知り合ったやつで、七年前の事件の時にあいつとあいつの仲間と一緒に管理区から逃げ出したんだ」

 雪穂は心配そうにこっちを見つめて、その次の言葉を探している。多分、聞きたいことは彼のことではなく、彼と話して帰ってきた自分の様子が異様に暗かったことと、誰かにつけられたことについて聞きたいのだろう。

「管理区にいた頃はもう少しまともだったけど、こっちに出てきて、いろいろあったんだろう」

「ねえ、なんの話をしたの」

 自分は青山にテロ計画を持ち出されたことについて、それを断ったことについて説明した。雪穂が人質に取られていることは説明しなかったが、雪穂に危害が及ぶ前に自分がここから離れることを考えていることを察しているのか、雪穂は「出ていかないよね」と訊いてきた。

 自分は苦笑いをしながら「もちろん。青山が雪穂に何をするのかわからないうちは出ていかないよ」と言った。

「嘘」雪穂の口調はいつもより冷たかった。

「本当だよ」

「ねえ、なんで?大丈夫だよ。六年間何もなかったじゃない。あと少しで全部上手くいきそうなのに。何がダメなの?」

「何もダメじゃないんだよ」

 涙目になっている真剣な雪穂の瞳を見つめて、

「ただ、俺は雪穂には、なんだろうな普通の幸せみたいなのを掴んでほしいというか。俺が思うに、俺がいたんじゃ絶対にそうはなれないから。上手く言えないんだけど」

「俺がいたんじゃ雪穂にまた危険が及ぶかもしれない。今日なんてまだいい方かもしれない」

 雪穂は溜まっていた思いを全て吐き出した。

「なんで私が幸せになるところにあなたがいちゃダメなの?そうなるために今まで頑張ってきたのに」

「あなたはどうなの。自分の幸せについて考えないの?。私はフミノリがいない幸せなんて想像できないのに、そうじゃないの?」

「そんなことないよ。そんなことないけど」

「これじゃあ、私、フミノリの足枷みたいじゃん」

「そうじゃないよ好きだから」

「好きだからなんなの」

 自分が言い澱んでいると、「ねえ、なんで何も言わないの」と泣き始めた。彼女を傷つけない言葉を一生懸命探していると、雪穂は「もういい」と一言叫んで、寝室に向かった。雪穂を追いかけようと思って立ち上がったものの、追いかけるのをやめて、スタスタと廊下を歩いていく後ろ姿を眺めていた。寝室に入る前、一度だけ雪穂はこっちを向いて、自分のことを睨みつけてドアを思い切り閉めた。自分はため息をついて、テーブルの椅子にぐったりと座り込んだ。フローリングの木目がぼやけて見えた。なんだか今日は、やっぱり、いつも以上に疲れた。

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