交渉人と二人の巫女(2-2)
一時間前。
松野と巫女と信者一人に縄で拘束された状態で明石は黴臭い地下の独房室から、鮮やかな照明で彩られた宿泊用の階に連れて行かれた。信者の中には上級国民に分類されるであろう人間もいることから、宿泊用の地下階層の内装は高級宿泊施設と同じくらい煌びやかにできている。原始的な生活に帰るなんて教えが建前だということがこの内装を見れば一眼でわかる。公にできない会合を行うにはかなり最適な場所だと明石は連れられながら考えていた。すれ違う信者たちは、教祖代行の松野に挨拶をして、拘束されている人間がいることを不審に思うそぶりがまるでないのが不気味だった。よくある光景なのだろうか?。ここの信者はこの施設で完全に人格を矯正されていることだけは確かに見えた。
「俺は君みたいに物分かりのいい人間は好きだよ。石田もかなり良かったが、君は彼より賢そうだ」
「仕事のために命なんか、かけてられませんよ。あの人たちは馬鹿なんですよ。自分の正義のために命かけているような奴らですよ。正直、足並み揃えて働くのに限界だったんですよ。この仕事で石田のおっさんがアナザーゲートと関わっているってわかった時にすぐにピンときましたよ。ウチの課の情報は金になるって。あんな亜人なんかより、あなたたちの役に立って見せますよ。もちろんいただくものはいただきますけどね」
「そんな状態で、もう報酬の交渉か?」松野は足を止めて言った。明石は松野の機嫌を損ねたかと思い、取り繕おうとしたが、明石の想像とは逆に、「気に入ったよ。頭が良くて欲に忠実な人間は好きなんだ。利害が一致すればしっかり働いてくれる。報酬は君の働き次第だが、君が思っている以上の金額と地位は与えてあげられそうだ」松野は明石の考え方をかなり気に入ったようだった。
「ただ、すぐに君を信じてあげるわけにはいかないんだ。俺好みってことは君はかなり打算的な人間なわけだ。仲間の命と今の状況を抜け出すことを天秤にかけて、ハッタリをかましているのかもしれない。そこで、ある程度は君が本心でどう思っているかを確かめなくちゃならない。できるね、マリア」亜人の一人はマリアという名前らしい。マリアは、人形のように目が大きく、ツンとすました口元の綺麗な小型の亜人だった。俺好みだなあ、と見つめていると、汚い者でも見るような目で一瞥された。
「手段を選ばなければ」と、反抗的な態度で松野に返答した。
「彼はこれから仲間になるんだ。廃人にされちゃ困る。丁重に扱えよ」
「彼の真意を知りたいんでしょ。それなりのことはしないと」とマリアが挑発すると、松野は態度を一変させて「口答えをするな。俺が丁重に扱えと言ったら、そうするんだよ。管理区から逃げ出したお前らをここまで導いてやったのは誰だ。右も左もわからないお前らに、人間社会での生き抜き方を教えたのは誰だ。調子に乗るなよ」頬を叩いて、怒号を浴びせた。
想像はしていたがあまり良好な関係ではないのは明石の目から見て明らかだった。明石はこの関係につけいるスキがあるだろうと考えて行動に及んだワケだが、亜人の女と二人きりになれるのは想定外だった。ツキが回ってきている感覚があった。
「すみませんね。もうお分かりだと思いますが、この娘は亜人なんですよ。下等な種族の分際で、あまり尊大になるものですから。俺は他にやることがありますから。これで」すぎさろうとする松野を明石は呼び止めて。
「一つ聞いていいか?」訊いた。
「なんでしょう」松野は歩みを止めて振り返り。
「他の奴らはどうなる」
「他の方々は、情報だけ絞りとって山の中に埋めますよ」
「そんな簡単にうまくいくのか。潜入捜査した職員が急に消えたら、不審に思うんじゃないか?警察庁を敵にまわすことになるかもよ」
「その辺は抜かりありません。信者の中には政界、警察官僚の大物もいる。大量にいる公安職員から君たち亜人捜査課の人間を三人消すことくらい、簡単なことですよ」
「それを聞けて良かったよ」
「どういうことです」
「俺が裏切ったことがバレずに済む」
「なるほど」と納得し、その場を離れようとした松野は何かを思い出したらしく、その場を離れる前にマリアに耳打ちをしてから去った。耳打ちをされた後の、マリアの手が震えているのが明石にはっきりと見えていた。
明石は尋問室に連れて行かれた。尋問室は、六畳ほどの広さで、内装は客室と同じで絨毯や照明は煌びやかだ。元の使用用途と、今の部屋の使用用途に乖離があるのだろうと明石は予測した。ただ一つ他の部屋と違う点は、棚に大量に並べられた遮光瓶の数々である。ここは他の部屋と比べてやけに涼しく湿気も少ないことから、薬品を保管しておく場所としても機能しているのだろうと推測した。地下の風通しの悪い、湿気た匂いではなく、化学薬品が鼻腔を刺激するようなきつい香りがたちこめていた。マリアと呼ばれていた巫女は、棚からいくつか薬瓶をとって、テーブルで調合を始めた。瓶の中には、液体やカプセルが詰められているものだけでなく、虫や蛇が何かの液体につけられているものなど様々だった。
「これから何をする気なんだよ。なあ、つーかこれを外してくれよ。もう仲間みたいなもんだろ」明石は手に縛られた縄を見せながら、マリアに話しかけた。回転椅子に座ったマリアは、椅子をグルリと回転させ、明石の方を振り向いて注射器の先を爪で弾き、キムワイプで針先についた液体を拭き取って、「あなたの縄を解くか、そうじゃないかは、この薬を打ってから決めるわ」と答えた。
「それは?」
「これは私が調合した自白剤。大丈夫、そんなにきついものじゃないの。お酒飲んでる時に、本音で話しやすくなる人いるでしょ。一時的に自制心を管理する脳の機能を弱らせるだけだから。本当はもっと強いものを使って、早くこんなこと終わらせたいんだけど」
「早く終わらせたい?。人に自白を強要させるのに心が痛むとか?」
「そんなんじゃないわ。あなたたち人間に対して、私たちが罪悪感でも感じるとでも?」
「人間のこと恨んでいる割には、あの松野ってやつには随分と従順じゃないか」
マリアは手の甲で明石を叩いて、「いい、今の立場は私が上、あなたが下なの」と言い聞かせるように言った。明石は痺れる右頬の痛みに若干の快感を覚え始めていた。逸る気持ちを抑えて、マリアを見据えた。
隙あらば松野に対して反抗的な態度を取ろうとするマリアが、理性より感情で動くタイプの性格だと明石は見抜いていた。これから彼女を味方につける。そのためには交渉材料がいるワケだが、彼女から本音を聞き出して何を望んでいるか見極めなければならない。直情型なタイプには、まず相手のペースや感情を乱してやるのが先だ。大丈夫、いつも通りやればいい。明石は精神的に優位に立っている。
「俺は君みたいな綺麗な子と二人でいるから内心嬉しくてしょうがないけど、君はどうなの?」
「あんた気持ち悪いわね。気分の方はそんなに悪くないけど」
「悪くない?。早く終わらせたいんじゃなかったのかな?」
「立場が上の割には、焦っている?いや、何かに怯えているんじゃないか?。今の君からは虚勢しか感じない」
「うるさい。もういいわ」と言って、ガスバーナーで針先を熱して、消毒を始めた。これから、薬を投与する合図だと、言いたいのだろう。
「何に怯えているの?もしかして君は、あの松野とかいう男が言ったことを信用してないんじゃないか?本当は逃げられない。今回、俺らの目をかいくぐてたとしても、第二、第三の俺らにいずれ見つかると」
図星なのか、マリアは操作を一旦止めた。
「なんであんな男に従っているんだ、逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せただろう」
「こんなところでも、管理区よりマシよ」と吐き捨てて、注射器を持って明石の方に近寄ってきた。明石のそばに置いてある、台に注射器を置いた。台には、腕を縛るためのゴムチューブや、消毒用アルコールを浸したガーゼなど、注射を行うための道具一式が揃っている。
「いい、今から縄を解くけど、あんまり、変な気を起こすんじゃないよ。あんたが逃げ出せば、私はこの警報器で知らせるわ。そうなれば、あなたは、松野の反逆者として、今度は、牢屋にいる彼らと同じ目に遭うの」
「なあ、薬を打つ前に教えてくれよ。俺らは仲間になるんだろ、管理区で何があったんだ?それを恐れているんじゃないか?」と詰問した。
明石は急に何かを悟り諦めたふりをして、
「いやいいや。ただこの質問に答えてくれ。なんで松野みたいな人間を信用しているんだ?。本当に、この生活がいつまでも続くと思っているのか?」と軽めの要求をした。
「信用しているわけないでしょ」
「そうだよなあ。あまりにも杜撰すぎるよなあ。確かにうまくいっているんだ、今は。あいつはこの宗教団体の実質トップ。自分の考えでここまで大きな組織になった。ただ自分の想像通りにうまくいっている時ってのは一番危険なんだ。間違っていても、自分の間違いに気がつかない。絶望的だよ。知っているか?絶望状態ってのは、他者から見て絶望的なのに、本人がそのことに気がついていないときのことも言うんだぜ。あの松野って男は絶望的だよ。そして、あいつが失敗する根拠を俺は知っている。それは奴が馬鹿だという訳じゃなくて。潜入してきたのが俺らだからだ」
「どう言うこと?」
「知りたいか?言っておくが、松野の思い通りことが進まなくなれば、君はまず収容所に送られる。その後は、管理区だ。人間に対して敵意がないと見做されれば、中位区での生活になるだろうが、君は詐欺に加担した。犯罪者は大抵、収容所で実験体にされるか、下位区に送られる。おそらく君は綺麗だから九区だろう。そこで何があるか知っているか?」
「知っているわ」
「知っているなら、話は早い。その薬を打つ前に、君が管理区で何があったか話す。それが交換条件だ」
「私ともう一人の巫女は、九区が出身なの」
「色街出身ってわけ」
「色街?そんな華やかな者じゃないわよ」
管理区の九区は、江戸時代の吉原に似ている。器量の良い亜人の男と女を集めた風俗街。企業の接待、モテない男女の最後の桃源郷。仮想現実が進歩したこの時代でも、人肌が恋しくなるという感情は消えることはなかった。亜人は人間の言うことをすべて聞く理想の恋人を演じさせられる。法律で縛られることがないので、客の理想を満たせなければどうなるかは、分かりきっている。九区の亜人の命の重さは、人間が自分と似ている生物に対してどこまで倫理観を敷衍するかと、その亜人の商品価値、すなわち、資本的な価値で決まる。素晴らしい見た目と知性を持った亜人は高額商品として扱われる。一晩、相手してもらうだけで、数百、数千万円支払われる亜人もいる。九区で亜人を管理している人間は、自分の商品が簡単に消耗されないように注意を払う。彼ら彼女らは何度でも市場に出品できる高価な宝石と同じようなものだ。傷をつけようとした人間が密かに社会から消されたりすることもある。だが、そのような高額で取引される亜人は稀で、ほとんどの亜人は数千、数万円で取引される。客の無茶な要求まで全て聞かなければならない。背けば、その場で殺されても誰も文句も言われないし、罪にも問われない。数時間で、数百数千万、数億稼ぐ亜人と違い一日でやっと数万円しか稼げない亜人のことなど商人はそこまで気にかけることはない。革命に失敗し、堕ちてくる亜人や、人間の世界で捕まって戻ってきた亜人で補充できることも加わって、九区は最も平均寿命が短い区と噂されている。
マリアは話した、自分の目の前で殺される亜人。九区の高級亜人になることだけを夢見て、努力をし続けても、たまたま、相手した人間の癇癪で殺される亜人たちの人生。人間側の無茶な要求に答えて、精神や肉体を壊すもの。性病に罹り最適な医療を受けられずに、独り苦しみ腐り死ぬ亜人たち。
「あなたにわかるの?十歳で亜人に認定され、ニコライの事件が起きて管理区から脱走するまでの七年間。いつ死ぬのか、どんな酷い目に遭うのか怯えながら生活する辛さが」
「わからねえな。このまま松野に従っていればいずれそこに戻るってわかっているのに、それでもついていこうとするんだから」
「そんなこと私にわかる訳ないでしょ。こっちの世界に出てきて、私はあの人の元でしか生きたことないの。あなたたちみたいに、自分でなんでも選べるわけじゃないの。強要された人生に対して、私が責任を持てって言うの?」マリアはヒステリックになっていた。こうなるように会話で誘導している訳だが、明石の心が傷んでいないわけではなかった。これだから交渉は嫌いなんだと明石は常々思う。ナンパは気楽だ。自分は可愛い子と遊びたい、相手も自分に何かしらの興味を持ってくれている。利害関係の一致だけでいい。しかし、交渉は常に、自分の利益を得るために、相手に動機を植え付けなければならない。動機を植え付けるためには、相手をかき乱し、突飛な行動を取らない程度に平常心を失わせなければならない。相手のことを深く知れば知るほど、自分の利己的な行動に嫌気がさしてくる。その上相手は、犯罪者である場合が多い。知性を失った人間だけが犯罪を行うわけではない。むしろ知性を持った人間が犯罪に頼るから余計に虚しくなる。交渉ごとにおいて彼らの背景を知れば知るほど、心に靄がかかるのを明石はよく知っている。
マリアは乱れた呼吸を戻して「あなたが話す番よ」と明石に言った。
「うちの課の課長、すごく美人なんだよ」
脈絡もなく、突飛なことを平然とたわいない話でもするみたいに明石は口を開いた。
「それで」とマリアは聞いた。
「うちの課の課長の父親は警察庁長官。ウチの課長は松野が頼ろうとしている人間たちの上司の可愛い一人娘なんだ。今回の潜入で、1日でも連絡が途絶えた時。すぐにでもアナザーゲートに強行捜査が入ることが決まっているんだ。課長と警察庁長官の間でそう言った取り決めが行われている」
「それって?」
「あんたが俺らを殺して、もみ消そうとすれば、自動であんたらは捕まるって寸法だよ。この宗教団体がお偉いさんたちの隠れ家だってことはわかっていた。何かあれば、上の指示を待たずして、行動が移せるように課長が取り計らっているわけさ」
「それじゃあ何?松野があんたらを迎えいれた時点で詰んでいたってわけなの?」
「まあ正確には、石田のおっさんがヘマしたからってわけだが。おおむねそうだ」続けて、「そこで本題に入ろうか、俺含めて四人、ここから脱出できれば、あんたらを救ってやるって言ったらどうする」
「そんなことできるの?ハッタリでしょ」
「俺だって、こんな仕事に命は賭けたくない、それは事実だ。もちろん仲間の命もだ。それにマリアちゃんみたいに可愛い子を見殺しにもしたくない」
「気安く名前で呼ばないでもらえる」
「ハッタリじゃない。その薬で確かめてもいい。ウチの課、亜人捜査課って言うんだけど、今、甚大な人手不足なんだ。なんせ、一人が亜人で、自殺しちまったから」
「それは知っているわ」
「そこであんたら二人を、ウチの課に迎え入れてもらうように俺が取り計らってやる。俺の上司、蒼井って言うんだけど、あのいつも難しそうな顔しているやつ」
「あの色白の小綺麗な方?」
「そう。あの人はウチの課長となぜか仲がいいんだよ。俺が蒼井さんに交渉して、あんたをうちの課、もしくは上位区で暮らせるようにしてやる」
「そんなの信じられるわけないじゃない。私の話は聞いていたでしょ。わかってる、あんたはきっと人間の中でもいい人なのはわかっているわ。私の話を聞いているとき、飄々としているような雰囲気から、悲しそうな雰囲気に変わったから。人間だって個人個人で見ればいい人が多いのは頭で理解している.それでも、私は人間をそんなに簡単に信じられない」
「タダで信用しろなんて言わないよ。俺はあんたに命を賭けろって言っているようなもんだ。だから、俺は自分にとって命より大事になものを賭ける」
「命より大事なもの?」
「俺は、心の底から女が好きなんだ。女の子と遊べなくなるのは、死ぬよりも辛い」明石は自信満々に語り出した。
「できれば死ぬまで、女の子と遊んでいたい。だから、あんたを薬のスペシャリストとして、お願いする。君、いや、マリアちゃん。俺が君を助けられなければ、一生アソコが勃たない体にしてくれ」
マリアはドン引きしていた。顔を引き攣らせながら明石をみると、何かを訴えるような眼差しでこちらを見ていた。
「はあ?あんた何言ってるの?」
「俺は本気だ。君にはわからないかも知れないが、女遊び、女遊びっていう言葉は嫌いなんだが、女の子は神さまでもあるから、とにかくそれができなくなるのは、死ぬよりも辛い。死んだ方がマシだ」明石は熱弁している。マリアから見ればみっともない内容だが、国を変えようとする独裁者の演説のように明石は気高い。
「この状況でよくそんなことが言えるわね。あんた恥ずかしくないの」
「恥ずかしいに決まっているだろ。俺は君みたいな見た目の女の子が特に好きなんだ。そんな好みの子の前で恥ずかしくないわけないだろ」マリアには明石が開き直っているように見えた。マリアは何だか全てがどうでもよくなったのか。
「もう何だか馬鹿らしくなってきた」マリアは棚から、錠剤の入った小瓶を一つとり、台においた。
「いい、こっちの瓶に入っている錠剤を一つ飲むとみるみると性欲が減退していくわ。昔、夜遊びの激しい政治家を強請る目的で使ったら、みるみると意気消沈していって、二週間したら廃人になったの。普通の人に使うと、ただの精神安定剤程度にしかならないんだけど」
「それじゃあ」
「あなたに要求するのは、二つ。私ともう一人の巫女、ヒナコって言うんだけど、ヒナコと私のそれなりの暮らし。それと松野にあまりひどい刑を与えないで、あれでも恩人には変わりないの」
「薬の説明に戻るわよ。解毒剤は私にしかわからない。二週間以内に飲まないと、廃人になる。廃人になってからじゃ、私にはあなたを元に戻せない。いい?」
「わかった。さあ、それをまず飲ませて」
「なんで私たちなんか助けるの、あんたたちなら、逃げ出そうと思えば逃げ出せるんじゃないの本当は?」
「一眼見て好きになった女の子が目の前で困っている。それを助けなかったら、俺の中で何かが死ぬんだよ」
「よくあんな恥ずかしいこと言った後で、そんなキザな言葉が言えるわね。本当に信じられない」
「人間のことを信じられないって言ったのは、君だろ?。仮にこの世の全てが信用できなかったとしても、捨て鉢になる必要はないんじゃないかな?」
明石は蒼井に事情を説明した。
「頼みますよ。蒼井さんだけが頼りなんですから」カナエは結果的に脱出の糸口をつくり出した明石が蒼井に必死に懇願する姿に、どういった感情で見ればいいか困惑していた。今の明石は、いつもどおり、ヘラヘラして飄々と仕事をこなすチャラい方の明石と同じだった。
「わかった、わかった。俺が課長に言ってやるから。安心しろ」蒼井の腕を掴み泣きつく明石を振り解くのに蒼井は必死だった。
「ちょっと、あんたたちこんな状況で遊んでるんじゃないわよ。大量の信者からどうやって逃げ出すのよ」マリアはこんな奴らに頼ったことを、正直後悔し始めていた。
「それならもう案がある。鮎川説明してやってくれ」
「あのお香は、あの変な水を飲んでからどのくらいまで、効果がありますか?」
「一週間くらいよ」
「なら、あのお香の薫りを空調を使って地下に充満させて、信者を無力化すれば良い。あとは、武闘派二人にお任せします」
「問題は、この亜人のお嬢さんが教祖代行にバレずに行動できるか?によりますね」と鮎川が言った。
「あのお香は、尋問室に保管してあるわ」
「なら、俺がまだ彼女に連れ回されているのを装えば良いわけだ」明石が提案する。
「いやここからは、時間との勝負だ。変に策を練るより。強行突破した方がいい。望月は安全な場所へ。鮎川と俺を含めた四人で目的のものを取りに行く。その後は、俺と鮎川、明石とマリア二人セットで行動して鮎川の指示通りに動く」
カナエはマリアの指示で信者の出入りのない部屋に連れて行かれ、蒼井にそこで待機するように言われた。蒼井は、すぐに駆けつけるから、と言って、四人で尋問室に向かっていった。すれ違う信者が不審そうに四人を見るが、マリアがそばにいるためか、追いかけてきたりはしない。尋問室に着くと、マリアは棚から、抱えるくらい大きな袋をとり、これよ、と床に置いた。
「これを、四つの袋に分けてください。牢屋に連行されるときの非常階段に、空調室があったのでそこで焚きます」
鮎川が指示した通りに準備をし、尋問室の扉を慎重に開けて、外の様子を伺うと、尋問室に向かってくる松野が見えた。
「教祖代行がこちらに向かってくる」薄く開けた扉の隙間から外の様子を窺っていた蒼井が他の三人に状況を説明した。
「流石にここでバレたら間に合わない」
「尋問が終わったことにして俺らがまず先に出ますよ。その隙にここから出ていってください」
「自白剤を使った後は大体どうなってる。今の明石の状態でバレないか?」と蒼井がマリアに訊く。
「終わった後は、ちょっとぐったりしているわ」と答えた。
「そうか」蒼井は血色の良い明石の顔をまじまじと見て、すまんな、と呟き、明石の腹を一発思いっきり殴った。鈍器で頭を殴られた時みたいな鈍い音がして、その場で明石はお腹を抱えて、ぐったりしながら倒れ込んだ。
明石には蒼井の行動が読めていたのか「なんとなく予想はしてましたけど、なんでこんな目ばっかり」と涙目で腹を押さえている。マリアは蒼井の一連の無茶苦茶な行動に目を丸くして、呆気に取られていた。なんて強引なやつなの、と思っている。蒼井は退屈な事務作業をこなすみたいに明石の腕を縄で縛り「これでいいか?」とマリアに聞いた。マリアは急に我に返ったように「ああ、うん、大丈夫。じゃあ、とりあえず、尋問が終わったことを装って出ていくから。後はよろしく」と言った。
マリアはぐったりとした明石を連れながら松野の方へ向かって行った。松野と二人が一緒にその場から離れたのを確認して、二人は鮎川が指定した場所へ、お香を持って行き焚いた。
「松野様」信者の一人が松野の元へ駆けつけ、「牢屋から捕らえていた奴ら逃げ出しています」と報告した。
「何、今すぐ信者を使って、奴らを探し出せ」と信者に指示を出して、瞳孔を開きマリアたちの方を見て「あまり変なことを考えるなと言ったよな」
怒りに声を震わせながら言った。建物内に、アラート音が鳴り侵入者を捕えるように放送が流れた。部屋から一斉に信者が廊下に出てきて、信者の群れが廊下を塞ぎ、明石とマリアは逃げ場を失った。
「なんで裏切った」
「もう公安に目をつけられているって」
「俺の計画は完璧なんだ。黙って従ってれば良いものをお前らは。お前らは俺の教団組織でも重要な役割だったから、それなりに丁重に扱ってやったが、次は徹底的に教え込んでやる。今後裏切るなんて思い付かなるくらいな」
涙目で首を振り体を振わせながら、ぐったりしている明石に寄りかかり、松野と信者が少しずつ近づいてくるのに怯えていると、信者がバタりばたりと一人づつ倒れ、いい香りが鼻を掠めた。
「この匂い」松野はマリアが調合した薬入りの水を飲んでいないので、なんともないが、信者たちは気を失ってその場で倒れていく様子と、嗅ぎ覚えのある匂いから状況を察した。追い込んでいると思っていた自分が、実は追い込まれていると悟った松野は懐から銃を抜き激情に駆られ、その場で二人を撃ち殺そうとした。明石は手を後ろで縛られた状態で松野が、懐に手を突っ込んだのを見て、銃を抜き銃口を向けた瞬間に松野の手を蹴り、その後、足をかけてその場で松野を転ばして、上に跨り「もう狐と狐の化かしあいは終わりだよ」と言った。
しばらくするとカナエを連れて、蒼井が駆けつけ松野を縛り拘束した。蒼井は、松野からスマートフォンの場所を聞き出して、警察庁に連絡して応援を呼んだ。
地元の警察が一時間くらいすると到着し、その二時間後くらいに課長を含めた捜査課の面々も到着し松野は手錠をかけられパトカーに乗せられた。松野は地元の警察に引き渡された後、警察庁に引き渡され本格的な取り調べを受ける手筈になった、と課長から伝えられた。パトカーに入っていく松野を見る二人の巫女の表情は、松野から解放されたことに安堵しているというより、身を案じているような面持ちだった。カナエは自分も同じ立場になったら、彼を主人だと思うのだろうか、と考えていた。彼女たちの人間の世界での歩みを知らない分、余計に想像は敷衍した。
「そういえば、蒼井さん俺のこと課長に頼みますよ」
「お前じゃなくて、彼女らのことだろ」
「まあ、そんな違いはないでしょう。頼みますよ。俺のアレが賭かってるんですから」
「まあ、ちゃんと課長には話しておくよ」
職務から解放された鮎川は、自分の研究対象である亜人が三人いるのに興奮し、特に未来視のできるヒナコの能力には興味津々らしく、他の人の目など気にせず鼻息を荒くさせながら、ひっきりなしに質問を投げかけている。蒼井と明石は、いつもの光景だ、と思いながら、鮎川のことを静観し、お気の毒にと思いながら、一歩ずつ鮎川の方から離れて行った。すると、ヒナコが、突然、口から泡を吹いてその場で気絶した。蒼井は、はあ、とため息をついて「何があった」と明石の一件だけでなく、また、面倒そうな仕事が増えたと思いながら、目撃者のカナエに聞いた。鮎川とヒナコのやりとりを律儀に見ていたカナエが「擦り寄っていく鮎川さんの手を彼女が思いきりはたいたら、なぜか、その場で気絶して」と一部始終を説明すると。「鮎川、お前もし、この亜人が実験体だったらどうするつもりだった」
「そうですね、まずは」と言いかけたので止めて、「いや、いい。やっぱり聞かないでおく」と口をつぐませた。
マリアはヒナコが変態マッドサイエンティストにしか見えない鮎川に触れた未来が泡を吹いて気絶するほどのものだったと想像し、彼女がもしかしたら実験台にされてとんでもないことをされるのではないか、と今後を危惧した。明石をこづいて「ちょっとあんたに任せて本当に大丈夫なの?」と疑うと、明石は「大丈夫ですよね。蒼井さん」と蒼井を問い詰めた。ああもう、知らん、知らん、と蒼井は吐き捨てて足早にパトカーに向かって歩き始めた。逃げる蒼井を追いかける明石。その明石を詰問しながら追いかけるマリアを眺めてカナエは苦笑いをしていた。
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