シロクロ
クロ
過去のけじめ
香代、どこ行った?
ずっと探してきたんや。生きてるなら、もう一度俺にその姿を見せてくれ。
徳之間を飛び出した隆治は店を去った夏夜の背中を求めて通行人の視線を無視して走った。すでに陽は沈んで辺りは街灯が照らすだけの夜の世界に変わっていた。人を探すのも昼に比べると簡単ではない。
夏夜が語ったことは隆治の希望を膨らませるものばかりだった。三年前に記憶を失ってから、自分が何者かもわからないままに生きてきたこと。唯一の手がかりはローマ字の筆記体で名前を彫られた指輪。何より初めて彼女を見たときのなんとも説明し難い懐かしい感覚を覚えたこと。
それらすべてが、隆治と湊が追い続けた香代の存在を匂わせた。
夏夜は次回の来店時に指輪を持ってくると話したが、その今度がいつの話になるかもわからない上に、その今度が二度と来ないことすらありうる。であれば、この機会を逃してしまえば再び後悔を背負って生きることになるかもしれない。
そう考え始めたら、迷うまでもなく身体が勝手に動いた。湊がそのタイミングで出勤したことも運命が働いているようだった。
今日は客の入りもそんなに多くないし、湊ひとりに店を任せても後で文句を言われるくらいで済むはずだ。ただ、碌な特訓もしないままにこだわりの串を任せたことは申し訳なく思う。
通りを走りながら夏夜に似ている後ろ姿の人を見かけては、追い抜きざまに顔を確認する。かつて逃げる人物を追いかけたことは数えきれないほど経験したこともあってか、人を見つけることは得意だった。あの当時、人を追いかける理由は今とまったく異なったものだが、やることは何も変わらない。
歳をとったせいか足が少し痛み始めた頃、目的の人はいた。
隆治は大声で名前を叫ぶことを避けたいと考えたが、どう呼び止めていいか判断に迷い、突然彼女の前に飛び出した。
「ひゃっ!」
薄暗い通りで突然目の前に人が現れたら驚くのも無理はない。隆治は肩を上下させて「驚かせてすまん」と頭を下げた。
「あれ、私何か忘れ物しましたか?」
夏夜は不安に思ったのか鞄の中を探った。
「いや、そうやないんや。ちょっと、話したくてな」
「話?」
「いや、えっと……」
「とりあえず、移動しましょうか。ここは人通りが多いですし」
夏夜の提案を受けて、ふたりは並んで通りを歩いた。周囲の通行人と同じ方向、同じ速度で歩いていれば人の意識に残ることはない。一流のスパイはそうやって周囲ににうまく溶け込むことで自らの存在を消す。
必死に夏夜を追って走ってきて、やっと目的の人物が見つかったというのにいざとなると何を話していいかわからなくなってしまった。
伝えたいことはたくさんあるし、ここまで三年間の思いを知ってほしいと思うが、その前に本当にこの女が香代なのかを確認する必要がある。
思考だけがぐるぐる脳内を回る中で、口を開いたのは夏夜の方だった。
「私が何者か、知ってるんですよね」
想像していなかった言葉に、隆治は「かもしれない」とだけ返した。確証は何もないのだ。人違いだったら、ただの迷惑でしかない。
「教えてください。私が誰で、あなたとどんな関係だったのか」
彼女の強い意思は伝わった。できることならすべてを伝えたい。
しかし、ひとつだけ問題があった。彼女の過去を話してしまえば、かつての辛い出来事を知ることになる。その事実が彼女を押し潰すならば、知らない方が幸せだという考えもできる。
超えるべきハードルがいくつもあって、実際に香代本人と出会えたとしても、そう簡単にすべてが解決するわけではないのだ。
「まずは、指輪を見たい。本当に君が俺の知ってる人なんかどうか、それを知らんことには何も話せん」
「そうですよね。わかりました。私の家近いので、一緒に来てもらえますか?」
「わかった」
隆治が夏夜が足を踏み出した方向に身体を向けると、その先に違和感を覚えた。隆治の前で背中を見せる彼女のさらに先、人影があった。通行人とは何かが違う、まるで罠にかかるのを待つ猛獣のような攻撃性を感じさせる存在。
次の瞬間、隆治は身体が反射的に動いて夏夜の前に身体を投げ出した。
響く轟音と共に隆治は重力に誘われて地面に伏した。
夏夜は目の前で起こった出来事が理解できず、数秒間倒れた隆治を見て固まった。すぐに異常事態を知った彼女は隆治のそばに駆け寄って声をかける。
「しっかりしてください! すぐに救急車呼びます!」
「逃げろ」
「嫌です!」
「いいから、ここは危険や」
夏夜はスマホを取り出して電話をかける。
薄れる意識の中で、隆治の視線は暗闇に立つ人物の姿を捕らえた。
まずい、あいつの狙いが夏夜であれば、守ることができない。しかし、気が動転した彼女は隆治の声を聞こうとしない。
隆治のその心配は視界に飛び込んだ衝撃によってかき消された。
「なんでお前がここに……」
その人物は拳銃をこちらに向けたまま、ただその場に立っていた。その表情が笑っているのか泣いているのか、無表情なのかはわからなかった。
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