神のご加護
午後七時になった。
夏夜はお酒と料理に満足したらしく、そろそろ店を去ろうと隆治に勘定を依頼した。
夏夜は記憶を失い、三年間自らが何者かわからないまま生きてきた。彼女に唯一残されたのは婚約指輪で、それが誰からもらったものかも不明。しかし、それのおかげで自分の下の名前は判明した。
「ごちそうさまでした。今度来るときに指輪持ってきますね」
「変なこと言うて悪いなあ。また来てくれるの楽しみに待っとるよ」
「はい、近いうちに必ず」
扉を開けて姿を消した夏夜の背中を見送った隆治は、できることなら今すぐにでも彼女を追いかけて例の指輪を見に行きたいと願った。しかし、この場に湊はいないし、他に隆治の料理を求めてやってきた客がいる。
客商売をしている身として、彼らの期待を裏切ることは何があってもできない。それをしてしまったら、隆治が三年間で築き上げたものがすべて崩れ去ってしまい、湊との関係をも壊すことになるかもしれない。
「お待たせ」
夏夜のことを一旦忘れて振り返った隆治の前に、湊が現れた。
これは示しか。神が存在しているのだとしたら、隆治に絶好の機会を与えてくれたのではないか。熱烈に信仰する宗教はないが、このときだけは信じたいという願望が優った。都合のいい解釈であることは百も承知だ。
「思ってたより話が長くなった。ごめん」
「湊、ちょっとだけ店任せてええか?」
「え? どこ行くん? ちょっと、徳さん!」
すまん。どうしてもこの気持ちを抑えることはできへんのや。
カウンターを飛び出した隆治に食事を楽しむ客たちも一斉に彼の姿を見た。隆治は湊の視線を背中に浴びながらも、それを振り切ろうと勢いよく扉を開ける。
「うわっ! びっくりした……」
扉の前にはちょうど取手に触れようと手を伸ばす志穂と、その後ろに立つ光輝がいた。突然開いた扉と焦る様子の隆治に驚いたことだろう。
「すまん!」
「徳間さん? なんかあったんですか?」
「湊おるから、ゆっくりして行ってや!」
茫然と隆治を見るふたりをその場に放置して、彼はどちらに向かったかわからない夏夜の姿を探した。当然視界に入るほど夏夜がゆっくり歩くわけもなく、確証がないまま隆治は左に走り出した。その先に彼女がいるかはわからない。なぜかこの先に目的に人物がいると感じた。
反対に向かっているのなら、所詮それだけの運命だったということだ。これが奇跡の始まりであれば、隆治は夏夜に追いつくはず。
三年間待ち続けた奇跡が、隆治を祝福する。そこに夏夜の背中があった。
「夏夜!」
名前を呼ばれた彼女は立ち止まって振り返った。
「あれ? どうしたんですか? 私なんか忘れました?」
「あ、いや、そうやないんや。急に大声で呼んで悪かった」
隆治は荒くなった呼吸を落ち着けようと何度か深呼吸を繰り返した。その姿を見る夏夜は目を丸くしてこの状況を整理しようとする。馴れ馴れしく呼び捨てにされたことも驚きだっただろう。
「あの……なんやその……」
一心不乱に走ってきた隆治は、実際に追いついたときに何を話すべきかを考えていなかった。隆治は視線を天に向けてから、なんとかこの状況をいい方向に進ませるにはどう話すべきかを必死に探った。それが空中に浮かんでいることはないのだが、なぜか夜空の星にそれを期待してしまう。
「私のこと、知ってるん?」
「あ、知ってる……かは、わからん、けど、知ってるかもしれん」
「指輪見せたいから一緒に来てください。なんか知ってるんやったら教えてほしい。私が誰で、あなたとどういう関係なのか」
隆治は頷いて、彼女が歩く方向について行った。この人が本当に香代ならば、今すぐにでもすべてを思い出してほしい。できることなら、彼女を探し求めた三年分の想いを伝えたい。
しかし、すべてを思い出すということは、彼女の経験してきた過去を知ることに繋がる。両親を事故で失ったこと、その後引き取られた親戚の家で酷い扱いを受けていたこと。彼女の幸せはそれらを乗り越えた先にあったものだが、辛い経験を乗り越えた先に掴んだ幸せと、自分が何者かを知ることで突きつけられる過去の苦しみでは、捉え方がまったく異なる。
それが彼女を苦しめることになるのであれば、すべてを知ることが彼女にとって最良であるとは限らない。
だから、隆治は歩きながら訊ねた。
「もし、事実が自分にとって知りたくなかったことでも、知りたいと思うか?」
「それは知ってみないとわからんから、知りたい」
「後悔はせえへんか?」
「後悔できるのは知った後。そのときになってみんとわかりません」
物事には順序があって、隆治が訊ねたことは結果論でしかない。その過程を経験する勇気を持った者だけが辿り着く場所。
ならば確かめたい。
隆治が三年間やってきたことが、果たして正しかったのかどうか。
もし、事実を知った夏夜が苦しむことになったとしても、隆治は彼女の傍にいると心に決めた。いや、決めるまでもなくそのつもりだった。
湊、俺らの果てのない旅は、ゴールに近づいてたんかもしれん。
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