世界にひとつだけの

 隆治は暖簾を持って徳之間の扉を開けた。



 「お、また来てくれたのかい。待たせたね。いらっしゃい」


 「また来ちゃいました」



 誰もいないと思っていた軒先にはすでに客が一名開店を待っていた。よほど気に入ってくれたのか、夏夜が「また焼き鳥が食べたくなって」と貸切状態の店内に入る。


 夏夜は前回と同じようにカウンター席に座ると、早速串のおすすめを焼いてほしいと注文した。


 冷蔵庫から下準備した串を数本取り出すと、隆治が勝手に選んだスペシャルコースを焼き台に並べた。今日の気温や湿度から最適な火加減と焼き時間を直感で導き出し、どのタイミングで串を裏返すかを判断して職人技を披露する。


 夏夜は隆治の仕事を見つめながら訊ねた。



 「若い店員さんは今日もホームパーティですか?」


 「急に用事ができたとかで出勤が遅れるらしいや。あいつもまだまだ若いからな、恋愛のひとつやふたつくらい経験しといた方がええわ」


 「へえ、彼女さんがいるんですかね?」


 「いや、まだ彼女とかではないようやけど、友達以上恋人未満の今が一番楽しいんかもしれんわ。そういう夏夜さんは? お相手はおるんか?」



 出過ぎたことを訊いてしまった。コンプライアンスがうるさい現代でこの質問は彼女を不快にさせただろうか。


 そう心配した隆治は「今のは忘れてくれ」と、すぐに話題を打ち切ろうとした。



 「私には恋人おったんかな?」


 「ん? どういうことや?」



 隆治が提供した話題は打ち切られることはなかった。しかし、夏夜の表現には妙な違和感があった。まるで他人のことのようだ。



 「私、記憶がないんです。三年前、記憶喪失になったみたいで、それより前のことを何も覚えてないんです」


 「三年前?」



 隆治は焼き台から目を逸らして振り返った。カウンターに座る夏夜は「どうかしました?」と不思議そうにこちらを見るが、慌てて頭を振って邪念を取り払った。香代が失踪したのは三年前だが、これは単なる偶然だ。


 背丈や声はよく似ているが、顔がまったくの別人。夏夜が香代であるはずがない。


 隆治は再び焼き台に向かい、彼女に背中を向けた。



 「記憶をなくしたんなら、名前は自分で決めたんかい?」



 記憶喪失になった背景には何かあるはずで、それは非常に繊細な話題であることは理解している。だが、なぜか隆治はこの話を膨らませたいと願った。その先に何かがあるのではないかと。



 「指輪が教えてくれました」


 「指輪?」


 「記憶がなくて、自分が誰かもわからないくて。私の素性を知る人も見つからなかったんですけど、持っていた指輪の内側に名前が彫られてたんですよ。それが私の名前かはわかりませんけど、アルファベットの筆記体でKAYOって。他に何も手がかりはなかったので、それを名前にしようと思ったんです」



 ──ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい。大事にする、死ぬまで。



 隆治は香代の屈託のない笑顔を思い出した。


 彼らが幸福の最高潮にいた頃、隆治は佳代に指輪を渡した。それは婚約指輪で、彼女のものだとわかるように内側に名前を掘った世界にひとつだけの指輪だった。


 『かよ』という名前の女性はひとりではない。他にも探せばすぐに数百人は見つかるだろう。だが、隆治が幸福への感謝と未来への願いを込めて渡したその指輪はこの世界にひとつしかない。


 だから、その指輪を見てみたい。


 隆治は焼き台の存在を忘れて、カウンターから身を乗り出して夏夜に訴える。



 「その指輪、見せてくれんか?」


 「今は持ってないんですよ。大切なものだろうから、家に保管してます。今度持ってきますね」


 「今度、そうやな。急にすまん」



 恥ずかしながら取り乱してしまった。


 あれから三年間、何も進展がなかった香代の行方に一筋の光が差したような気がした。目の前にいる彼女は香代ではない。そう何度も言い聞かせているのに、隆治の本心がそれを肯定することを拒否する。



 「あれ、なんか焦げ臭くないですか」


 「あ!」



 我に帰った隆治が振り返ると、焼き台の上で炭になる途中の串たちが黒い煙をあげていた。


 これでは湊に百年早いなどと師匠面することはできない。



 「悪い、新しいのに替えるわ。もうちょっと時間もらうことになるけどええかな?」


 「弘法も筆の誤りですかね。時間はあるので、気にしないでください」



 隆治は再び冷蔵庫から先ほど選んだものと同じ種類の串を焼き台に並べ直した。次は失敗しないように一度動揺した心を押さえ込んで串に全集中力を注ぐ。


 頭の中を埋め尽くす邪推であり希望である考えを取り除くために一切の思考を停止することにした。



 夏夜は、香代なのか?



 その疑いが隆治を職人としての立場から遠ざけようとする。


 指輪が本当に隆治が贈ったものだとして、三年前彼女に何があったのか。かつて香代の過去を知らなかった隆治が後悔したように、また彼女にあった出来事を何も知らずに時間を過ごしてきたことになる。


 彼女が香代だとしても、記憶をなくした今となっては隆治に対する気持ちも消えている。


 いずれにせよ隆治を待つのは辛い現実だ。

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