不安な誘い
宇海は頭を悩ませながらも夢への実現に一歩ずつ近づいていることを幸福に思った。パソコンの前で画面を見つめて作成するのは新商品の企画書。これが新商品として販売されることになれば、彼女がこの部署に異動になった最大の目的が果たされる。
最初から順風満帆に進むことはないとわかっていながらも、成功を想像して幸せな気持ちになる。ポジティブなところは宇海の長所であり、ときに短所ともなる。
新商品を企画することは簡単なことではなく、この世に溢れる様々な商品のひとつひとつが誰かの苦労から生まれたことを実感する。残業続きの毎日を過ごすこともまた、目的のための投資だ。その分疲労の蓄積は避けられないが、これこそが彼女の本当にやりたかった仕事。
宇海が眉間に皺を寄せていると、背後から頼れる先輩が話しかけた。雫はこの部署で宇海の次に若い先輩であり、今ではプライベートでも友人に近い関係にある。ときに先輩、ときに友人、ときに姉のような、宇海の人生に欠かせない人。
「どう? 順調?」
「私の中では完成です。けど、このまま提出していいかどうか」
「よかったら見るよ?」
「お願いします」
雫は宇海が譲った椅子に座り、パワーポイントで作成した企画書の資料を確認する。マウスを動かしてスライドを次々に動かし、素早く内容を読み進めた。
最後のページまで目を通した雫は椅子ごと身体を宇海の方向に向けて立っている彼女の顔を見上げた。
「初めてにしてはよくできてる」
「本当ですか? よかった」
その様子を見ていた隣の恵介や、向かいにいる寡黙な哲也までがパソコンに群がった。ふたりは「おー、面白いな」と話しながら、彼女渾身の新商品を楽しんだ。商品企画部はチームで仕事をする部署だ。新商品を考えて各々が企画書を作成するが、お互いに意見を交換してよりよいものを作ろうと協力する。
そんな意見がもらえるかもしれないと期待した宇海だったが、彼らは何も改善点を指摘することはなかった。改善すべき点がないということなのだろうか。いや、新人が作った初めての企画が完璧であるはずがない。
「企画書できたの?」
「渚さん、おかえりなさい」
そこにオフィスを離れていたリーダーの渚が戻ってきた。彼女はコンビニで買ってきたコーヒーを片手に今日もスタイリッシュな装いで自慢のスタイルを惜しむことなく披露する。憧れの存在だが、スタイルや容姿は到底及ばない。湊なら他人と比べることなんてない、と笑ってくれそうだ。
いつの間にか、ことあるごとに彼が現れるようになった。意識していなかったが、これが恋というものだろうか。
「企画書プリントアウトして。一度確認するわね」
「わかりました」
宇海はプリンタから出力された資料をホチキスで留め、渚に手渡した。彼女は「修正点があれば追って伝えるから」とそれをデスクに置いた。
どれだけ赤ペンを入れられることだろうか。想像すると恐ろしいけれど、それも今後のためのフィードバックだ。有り難く受け取ろう。
一息ついた宇海がスマホを手に持つと、不在着信が入っていた。企画書に集中していたために気がつかなかった。その相手は湊だった。彼から連絡があるだけで心臓が音を立てる。
宇海はスマホを持って早歩きでオフィスを出ると、廊下で彼に電話をかけた。三回コールしたとき、彼は電話をとった。
「ごめん、仕事で出れなくて」
「いや、忙しいときにごめんな。ちょっと話せる?」
「うん、大丈夫。どうかしたん?」
「今日、仕事終わったら時間ある? ちょっと会いたくてさ」
会いたい? 私に?
あかん、焦るな、私。
「わかった。なんか大事な話とか?」
「まあ、大事なことではあるかな。詳しくはそのときに。仕事終わったらまた連絡くれる?」
「うん、わかった」
大事な話。彼が私に。なんだろう。
宇海は自然と溢れた笑みを表情の奥に引っ込めて深呼吸してからオフィスに戻った。今は仕事の時間だ。集中しなければ。
「彼氏から?」
雫がニヤニヤしながら宇海に訊ねると、恵介と哲也がこちらを見た。恵介は感情を表に出すタイプなのでわかるが、ポーカーフェイスの哲也ですら少しだけ楽しそうに笑う。
「彼氏はいません」
「へー、そっかあ」
奥のデスクで渚は早速宇海が提出した企画書を広げているが、視線はこちらを見て口元が緩んでいた。そのことに気づいていないふりをして自らのデスクに戻った。渚が赤ペンを持っていることについては、まったく気にならない。
湊から突然会いたいと言われて舞い上がった宇海だったが、一度冷静になると不安でもあった。彼が何をしているか知っているからこそ、彼に何かあったのではないかと疑ってしまう。
そもそも宇海が湊と関わるようになったきっかけは、彼の裏の仕事だ。相談があるというのなら、そちらに関することである可能性の方が高い。
早く彼と会って話を聞きたい。
すでに高揚感は消え、不安が心を支配し始めた。この後の仕事は手につきそうになさそうだ。
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