ミライ

告げる予感

 香代がいなくなってから三年、約束通りに焼き鳥屋を始めた隆治は、その店に『徳之間』と名前をつけた。自分の名前を入れておくことでいつか彼女が戻ってきたときに見つけやすいと考えたからだ。


 カウンターの椅子に座った隆治は掃除をする湊を眺める。血の繋がりがなくとも姉のように慕った香代ともう一度会いたいという目的は隆治と共通していた。だから、彼もこの店で待っている。


 当時はまだ香代の過去を詳しく知らなかったが、失踪後に高津が彼女を調べた。


 香代はごく普通の家庭に育ったどこにでもいる少女だった。両親と三人で幸せに暮らしていた香代の人生が大きく変わったのは事故がきっかけだった。


 香代が中学生の頃、両親が不幸な事故で亡くなった。その後香代を引き取ったのは叔父夫婦だった。その家庭には香代と同い年の娘がおり、香代は酷い扱いを受けた。家政婦、という表現が緩いほどに利用され、虐待を受けた。


 実の娘は何不自由ない生活をし、お金に困ることもなく、対照的に香代は少ない小遣いを捻出するために渡される生活費の中から家族全員の食費を工面した。


 香代を知る同級生から聞いた話では、彼女は家に帰りたくないからか放課後によく公園で時間を潰していたそうだ。学校では常に体調が悪く見え、心配して声をかけてくれる生徒もいたらしいが、香代は周囲の人間と深く関わることを避けていた。


 酷い環境にいてもなんとか耐えてきた。そんな言葉で片付けられないほど、彼女は地獄の日々を送っていた。すぐ身近にいる実の娘は恵まれた毎日を生き、その環境を比較すると余計に苦しかったに違いない。


 そして、叔父夫婦も香代が失踪した少し前に行方不明になっていることがわかった。彼らは今でも行方がわからないままだ。


 それについて叔父夫婦の娘を見つけて話を聞くことができた。彼らはお金に困っていて、娘のもとへ金の無心に来たらしい。だが、彼女は両親を冷たくあしらって追い返した。


 「大切に育てて、あれだけ金をかけてやったのに」と捨て台詞を吐いたそうだが、当の娘は両親に感謝していなかった。過度の期待をかけられたために、本当の自分を見失ったという。環境が恵まれていた彼女も、それなりに苦労があったようだ。


 娘のもとを去るとき、両親は「香代のところへ行く」と話したそうだ。あれだけ酷い扱いをした人間に対して、困ったら助けてもらおうとする汚い心に反吐が出た。


 そして、香代はそんな辛い過去があったことを交際していた隆治にすら話さなかった。失踪して高津が調べたことで初めて事実を知った形になった。


 もっと話を聞いていれば。隆治はどれだけ時間が経過しても後悔し続けるだろう。



 「徳さん。おーい、聞いてる?」


 「ん? おお、どうした?」



 過去を振り返っていた隆治は湊に話しかけられていたことにようやく気づいた。



 「どうしたん? ぼーっとして」


 「いや、湊にもそろそろ串焼かせてみるかと思ってな」



 湊は眉間に皺を寄せて目を細めた。隆治による突然の提案に不信感を抱いたようだ。



 「急になんで? 今まで焼き台の掃除すらさせんかったのに。串は徳さんの命やろ」


 「そうや。その命をお前に授けたいんや。最近串が提供できん日の客の入り悪かったからな。俺がおらんでも串が出せるようにしといた方がええやろ」


 「まあ、それはそうやけど。徳さんみたいに日によって火加減と焼き時間変えるなんて俺にはわからんよ」


 「そんなに焦るな。俺もここまで三年かかったんや。湊なりの串を焼けばええ」



 湊は「味が変わったら客離れへんかなあ」と不安を露わにしたが、どんなものでもいつか終わりは来る。隆治の味に終わりが来ても、その心を受け継いだ湊が新しい味を提供すればいいのだ。


 隆治が湊に伝いたいことはこれだけだ。



 「俺に何かあったらアッシュディーラーのことは全部忘れろ」


 「そんなん無理やろ。これだけいろいろやってきたのに」



 半ば冗談混じりに笑い飛ばした湊に対して、隆治は真剣な眼差しを向ける。それは、かつて桐の不死鳥と呼ばれた男が蘇ったように思わせた。



 「ひとつだけ頼みがある。この徳之間だけは、続けてくれ。これは香代の願いでもある」


 「それはわかってるけど、徳さんもまだまだ若いやろ。引退なんて早すぎるわ」


 「人生いつ何があるかわからん。そうなったときのために、常に備えておかなあかん」


 「不死鳥からのアドバイスか?」


 「不死鳥はもう死んだ」


 「絶対に死なんから不死鳥なんやろ」


 「この世に絶対なんかないわ」



 隆治の突然の提案は、湊の心にいかりを下ろした。念のため、であれば備えておくことは悪いことではない。


 しかし、隆治の言葉には近々何かが起こるような、この日常を大きく変えることが起こるような危機感が含まれていた。


 それでも、それが現実になってほしくないという願いを込めて、湊は笑い飛ばしてこう言った。



 「徳さんの串なんかすぐに超えたる」



 隆治は湊の言葉を笑い飛ばしてこう言った。



 「百年かかるわ」



 こうして徳之間の一日は終わった。

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