男の約束

 一日が終わり、湊は会社に戻った。ウォーターサーバーを運ぶ商用バンが汚れていたので、洗車をする余裕まであった。大きなトラブルはなく香代のスケジュール通りに進んだため、今日は定時で退勤できそうだ。


 実際に自分が動くことはないのに、正確に毎日全グループのスケジュールを作る。楽な仕事でいいなどと陰口を言うやつもいるが、彼女の仕事は他の人では務まらない。


 事務所に入ると香代がこちらを見て笑顔を見せる。それだけで疲れが綺麗に吹き飛ぶようだ。



 「おかえり」


 「戻りました」


 「この時間に戻れたということは、私のスケジュールは完璧やったみたいね」


 「バッチリっすよ。トラブルもなく、定時コースですね」



 最近香代は毎日が楽しそうで、仕事もプライベートも充実しているように見える。何かいいことがあったのだろうが、香代からその何かについて話してくることがなかったので湊は知らない。


 こちらから詮索するのも野暮というものだ。


 湊がデスクで新規顧客の配達と既存顧客のアフターサポートについて報告書を書き始めたとき、香代に声をかけられた。



 「今日この後時間ある?」


 「特に用はないですけど」


 「じゃあ、飲みに行かへん?」



 香代との食事は先輩と後輩というより友人同士のような関係でいられるため、断る理由はない。



 「会わせたい人がいて」


 「え、そんな感じ?」


 「そんな感じ」



 なるほど。とうとう香代にも恋人ができた。ここ最近の彼女の様子を見ているとその理由に納得できた。彼女が選んだ男がどんな人であれ、応援したい。


 湊に会わせたいと思ってくれることも嬉しかった。ただ、九割の喜びと残り一割に寂しい気持ちもあった。気持ち悪いと思われるかもしれないが、姉のように慕った香代が誰かのものになることに一抹の不安があった。


 予定通り定時で仕事を終えた湊は香代に連れられてバーに入った。いつもは居酒屋で食事と酒を楽しむのだが、今回は本格的に飲みの席ということだろう。


 店内は薄暗い照明で大人の世界を創り出している、のだろう。年齢は成人していても、湊にこの世界の良さはまだまだ理解できない。



 「お待たせ」



 カウンター席に座る長身のシルエットに香代は話しかけた。


 彼女が選んだ人は、きっと爽やかで性格のいい人格者だと思う。だから、何も心配などない。


 そう考えていた湊の前にいたのは、見覚えのある人だった。



 「なんで……」



 足を組んでカウンターにグラスを置いた男は、一度だけ会ったことのある人物だった。


 徳間隆治。以前居酒屋にいた湊と香代が巻き込まれた乱闘で救ってくれた人物。いや、乱闘の発端となったのは彼が面倒を見ていた桐島睦己であり、隆治はその後始末をしただけだ。彼が救ってくれたというのは訳が違う。


 隆治が堅気の人間でないことはあのときからわかっていた。その表情に不信感を滲ませる湊に対して、香代は椅子に座るように促した。


 香代が選んだ人なら誰だって応援する。湊のその覚悟はすでに揺らいでいた。この人と一緒にいる香代が幸せになる未来が到底想像できなかったから。



 「君の話は香代から聞いてる。それに、君が俺のことをよく思わないことも覚悟はしてた」



 席についた湊に隆治は真っ直ぐ視線を向けてそう言った。その目はどんな人間でも簡単に平伏すほどの狂気を秘めているが、それに負けていては香代を守ることなどできない。



 「あなたはヤクザなんですよね?」


 「元、ヤクザ。香代と生きるために組は抜けた」


 「それでも、性格は簡単に変わらん。香代さんに手を出すようなことがあったら俺は許さん」



 湊の隆治に対する攻撃的な言葉に、香代は「落ち着いて」と彼の腕を触ってなだめた。


 理解できない。どうしてこんな人間を選んだのか。湊と香代は恋仲になるような関係ではなかったけれど、こんなやつを選ぶくらいなら湊の方が香代を大切にできる。


 それなのに、香代は隆治を庇うような言葉を続けた。



 「この人は悪い人やない。私がこのバーで飲んでたとき、変な男の人に絡まれたところを助けてくれた。それからこのバーで会うようになって、私が隆治さんを好きになったんよ」


 「俺は桐島組を抜けた。あのとき一緒におった睦己とは喧嘩別れしたし、俺が抜けた組は抗争で壊滅した。これまでの俺の生き方は褒められるもんやなかったし、俺を恨む人間もおる。それでも、俺は香代と一緒におりたいから全部にけじめつけたんや」


 「私はこの人と一緒に生きていきたい。やけど、湊くんが認めてくれんのやったら、私は先に進まれへん。だって、私にとっては湊くんも大切な存在やから」



 隆治が一方的に説得してきたていたら、湊は早々にきっぱりと断っていた。だが、香代本人がそれを望むのであれば、湊がそれを壊してしまうことはできなかった。



 「どうしても君に挨拶がしたかった。香代が大切に思う君に言わんままやと香代も後悔すると思ったんや」



 そうか。


 もうふたりは湊が立ち入る隙がないほどの遠くに行ってしまったらしい。



 「香代さんのことを泣かしたら絶対に許しません。約束してください」



 隆治は再び湊を真っ直ぐ見て頷いた。


 隣にいる香代は涙を流しそうになっていたが、湊と隆治が約束を交わしたばかりだからかそれを拭った。

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