縦と横

 「でね、私は前からトラブルの多い顧客やったから、湊くんよりもベテランの人に行かせた方がいいって言ったんよ? そしたら課長もさあ、湊くんに経験積ませる意味でも対応させた方がええやろって。それで結局湊くんがいろいろ言われて嫌な思いしたわけやん? ほんまありえへんわ、あのアホ」


 「もう飲み過ぎやって。ほら、お冷」



 湊は約束通り香代に連れられて食事にやってきた。食事、とはいうものの、目的は酒を飲んで普段の鬱憤を発散することだ。この店に来てから三十分足らずで香代は酔っ払い、決して職場では見せない醜態を晒している。


 湊はすでにこの姿を何度か見たことがあったので、特に今更何も言うことはない。できる人材ほど責任を押し付けられて苦労をする。結局秀でた能力がなく事勿れで仕事をしてほどほどに給料をもらう人間が一番得をする社会なのだ。



 「香代さんがいろいろ助けてくれたからここまでやってこれた。感謝してます」


 「何よ急に、照れるやんか」


 「香代さんおらんかったら、もう仕事辞めてたやろうな」


 「湊くんを勝手に弟みたいな存在やと思ってるからね。なんかあっても私が守ったるわ」



 酒のせいか、はたまた照れているのか。香代は顔を赤く染めながら酒を飲み、湊は心強いと笑ってグラスを手に取った。


 香代に辛い過去があることは知っている。彼女からその詳細を聞いたことはないし、これから先湊から追及することもない。



 「これからどうなっていくんやろうか。不安しかないですわ」


 「そんなん誰でも同じよ。私もまだまだ先のことはわからんし、不安だらけ。でも、こうやって酒を飲んで、楽しくお喋りできてるうちはなんとかなるんよ。ほら、もっと飲み。私が奢るから」


 「いや、もうこれ以上は。明日二日酔いで動けんようになったら困る」



 一緒に飲むと香代の底なし沼に驚かされる。彼女と酒の席を共にしたことは幾度となくあるが、どれだけ鍛えられても彼女に勝つ日はきっとやってこない。それほどに異次元の胃袋を持つ人だった。



 「おらあ! ふざけんなてめえよ!」



 怒号に反応して湊と香代は同じ方向に視線を向ける。その先では酒に酔った中年の男がスーツ姿の若い男に因縁をつけて喧嘩を吹っかけていた。原因はわからないが、冷静に相手を見下すような視線を送る若い男の様子が、さらに中年の男の神経を逆撫でする。


 若い男は眼鏡を掛けており、天井の照明が反射してレンズが光る。少し角度が変わるとレンズの奥にある目が現れ、その奥にはただならぬ何かが秘められているようだった。酔っ払って怒り狂った人間では、すでにその僅かな異常を判断できない。



 「別にそんなつもりで言ったわけやないです。不快にさせたなら謝ります」


 「お前のその態度が気に食わん! ちょっといいスーツ着て見下しやがって!」


 「このスーツはそんなに高いもんでもないですよ。それに、見下すやなんて。どっちが上も下もないでしょう」


 「うるせえ! お前大概にせえよ!」



 止めに入るべき店員は女性ばかりで、大の男が何をするかわからない状況では手の出しようがなかった。手にスマホを持っているので、警察を呼ぶべきかと相談しているようだ。


 今にも若い男が殴られそうなとき、入り口の扉が開いて男が入ってきた。青年と同じく高そうなスーツを着て、しかしその容姿は明らかに堅気ではない。彼の鋭い目つきは虎ですら平伏しそうだ。



 「殴りたいんやったら殴ったらええ」


 「ほんなら望み通り殴ったるわ!」



 とうとう中年の男は青年の胸ぐらを掴んで拳を振った。眼鏡が床を転がってレンズが割れても、青年は涼しい顔をして顔を紅潮させる男を見上げる。その態度にさらに温度が上がった男は青年の髪を掴んで彼を投げ飛ばした。



 「香代さん、危ない!」



 投げ飛ばされた青年は真っ直ぐ香代に向かい、彼女の身体ごと床に崩れ落ちた。香代はその拍子に頭をテーブルにぶつけた。


 湊は慌てて席を離れて香代の額の傷を確認した。角に当たったせいで皮膚が切れ、少量ではあるが出血していた。


 ヒートアップした中年の男は椅子を持ってさらに青年を殴ろうとそれを高く振り上げた。だが、それが振り下ろされることはなかった。男は「ひい!」と小さな悲鳴を上げる。


 先ほど店に入ってきたスーツ姿の強面の男が、手首を掴んで椅子を奪い取り、夢に出そうなほど悍ましい表情で睨む。ただそれだけで、あれだけ怒り狂っていた男の顔が真っ青になり、すっかり意気消沈した。



 「それくらいにしときや。まだ暴れ足りんのやったら、表出ろや。俺が相手したるわ」


 「い、いえ、結構です!」



 怯えた男は自分のテーブルに一万円札を置いて逃げるように店を飛び出した。静かになった店内で、強面の男は呆然と床に座る青年に問い正す。



 「おい、睦己むつき。これはどういうことや?」


 「酔っ払いとトラブルになって、この女性を巻き込みました。すんません」


 「俺に謝ってもしゃあないやろ」



 睦己は両膝を床について、香代に向かって土下座した。それを見た香代は、怪我も大したことがないと言って頭を上げるように促す。



 「うちの若いもんがご迷惑を。頭の怪我が心配なんで、病院へ行きましょう。治療費はこっちで持ちますんで」



 謝罪をする姿ですら威圧感を覚えるこの男こそ桐の不死鳥こと、徳間隆治。そして、これが湊と香代が、隆治と出会うきっかけとなった出来事だった。

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