とある組織
髪をジェルで固めてオールバックにした男は、高級なスーツに腕時計、革靴と身だしなみに気をつけていた。別にお洒落がしたいわけではないが、下の者たちに夢を見させることもまた、この男の務めであった。
徳間隆治は三十五歳でこの世界に入ってからすでに十年以上が経つ。組長からの信頼が厚く、時期若頭と警察にも認知されているほどの大物。
裏社会で隆治の名が広まるまでに時間はかからなかった。抗争があれば銃弾を撃ち込まれようが突撃するその姿に敵勢力は慄き、味方は士気を上げた。そんな彼の命知らずな無鉄砲な姿を人々は『桐の不死鳥』と呼んだ。
街を歩いていると歩行者は自然と隆治に道を空ける。目つきの悪さと明らかに裏社会の人間だと誇張するような身なりが彼らの本能に関わらないように訴えかける。隆治自身に周囲を威圧しようというような意図は一切ない。
ただし、周囲の人間が隆治を警戒するのと同じように、彼自身もまた常に気を張っておく必要があった。この世界にいる人間は敵が多い。いつどこから命を狙われるかわからない。突然襲撃されても対応できるように、眠っているときでさえ僅かな物音に目が覚めるほどだ。
隆治は舎弟を持たずにひとりで行動することが多い。その理由は、彼の素性を知られるわけにはいかないからだ。
最近面倒なことに組長の息子が隆治について回るようになった。それは組長直々の指示であり、いずれ桐島組を背負って立つ存在の息子を右腕として支えてほしいとのことだった。組長の指示とあれば断ることはできないが、その息子はなんとも極道の世界で生きていくには随分と気弱で腕っぷしにまったく自信がない男だ。
とはいえ、隆治がその命尽きるまで桐島組にいることはない。
周囲を警戒して見張りがいないことを確認すると、隆治は素早く裏路地に滑り込んだ。細い階段を静かに下りると、その先に扉があった。錆びついた鉄製のそれは非常に重く、女子供では動かすことすら難しいもので、大人の男であってもかなりの力がないと開閉することは容易くない。
そのため、ほとんどの人間は偶然この扉を発見したとしても、施錠されているか壊れていると判断して引き返す。それがこの扉の使命であり、秘密の空間を守る守護神としての存在意義だ。
なんとか扉を開けると隆治は「重てえなあ」と文句を言って、体重を預けてそれを閉めた。中に入るとまるでホラーゲームの世界にいるような空間が待つ。
海外の映画でアンデッドと呼ばれるゾンビたちが出現しそうな不気味な部屋に、男が立っていた。彼は隆治と正反対の世界で生きる人間だが、訳あって彼らの交流は長期間に渡って続いた。
高津陽大。京都府警に所属する刑事課の捜査員であり、後に刑事課長に昇進する有能な男だ。その容姿と大人の魅力で婦警からの人気が高く、真剣な交際を申し込まれたことは何度もある。だが、彼自身にその気はないらしく、すべてを断ってきた。
なんとも勿体ないものだが、高津の任務を考慮すると普通の幸せを手に入れることは非常に難しい。そしてそれは、隆治にとっても同じ状況だった。
「遅かったな」
待ちくたびれたと疲労困憊の表情をわざと見せる高津に隆治は顔色を変えずに応えた。
「刑事は待ってなんぼやろ。そんなんで務まるんか」
「冗談や。ちょっとくらい笑え。本職のヤクザみたいにいかついぞ」
「俺は本職や。お前みたいなエリートとは違う」
「逆やったらどうなってやろな」
「陽大にヤクザは合わんわ。それに、俺も刑事なんてやってられん」
「確かに想像できへんな」
昔からそうだった。ふたりでいればくだらない話ばかりして気がつけば時間が経過している。そんな関係がずっと続いているというのも、考えてみれば幸せなことなのかもしれない。この歳まで学生時代の交友関係が続くことは稀だろう。
だが、いつまでも中身の乏しい無駄話で盛り上がっている場合ではない。裏の世界にいる隆治とその世界と敵対する警察官の高津。外部から遮断された空間であれ、このふたりが同じ場所にいることが知られれば問題になる。
高津が隆治を呼び出したのは、中身の詰まった話があるからだ。
しばらくの沈黙の後、高津が口を開いた。
「復讐を代行する組織が力をつけているらしい。聞いたことあるか?」
「いや、知らんな。まだ桐島にも届いてない情報や」
「誰が元締めでどれだけの規模なのかもわからんが、上は隆治を動かそうとしてる」
「そりゃ刑事が表立って動くわけにもいかんわな」
警察ですらまだ掴んでいない情報だとすれば、高津が独断で捜査をすれば怪しまれる。彼らの素性は決して知られてはならない。
こういう場合にハズレを引かされるのは常に隆治だ。
「まあ、ちょっと探り入れてみるわ」
「悪いな、いつも損な役ばっかりで」
「俺の方が腕っ節が強かった。それだけや」
隆治は再び重い扉を開けて、ホラーの世界から抜け出した。
希望の光は闇に生きる者には眩しすぎる。この目が表の世界に慣れることは二度とないかもしれない。
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