若さゆえ

 今から五年前。まだ運命の歯車が噛み合っていた頃のお話。相波湊はどこにでもいるごく普通の青年だった。


 午前八時、二十一歳の湊は自身が勤めるウォーターサーバーのリース会社に出勤した。高校を卒業した彼がこの会社に入社してから、もう二年以上が経過する。


 特に勉強が好きなわけではないし、特に何かしたいことや学びたいことがあったわけでもない。高校卒業後の進路は就職一択だった。昨今は転職市場が活発で入社してから数ヶ月で退職することも珍しくない世の中。一昔前の人からすると、たった数年勤めただけで何が偉いのかと説教を受けることになりそうであるが、彼にとって二年間ひとつのことを続けられたという実績は自信に繋がっていた。


 高校の同級生の中には大学に進学した人も当然いるが、勉強は最低限で遊び回っているという噂をよく耳にする。高額な学費を支払って遊んでいるなど、なんと時間を無駄にしていることかと他人事ながらに思う。


 湊の仕事は営業課が獲得した契約に則って、新規の顧客宅にウォーターサーバーの機械を配送設置、故障対応やメンテナンスなどのアフターフォローを行うことだった。


 顧客折衷業務は嫌いではないが、巧みな話術で契約を狙う営業課の仕事をやってみたいとは思わない。営業は達成困難なノルマを科され、長時間残業が当たり前の世界だ。今どきの若者らしく適度に働いて適度に稼ぎ、ワークライフバランスが取れる仕事で満足している。


 スーツで出勤する営業課とは違い、湊は私服で出勤することが認められている。社内にあるロッカールームで制服に着替えるところから彼の一日は始まる。入社当時は引越業者のような繋ぎの服装がダサいと感じていたものの、二年以上着ていると鏡に映った自らの姿も見慣れてしまった。



 「おはようございます」



 湊が事務所に入って挨拶をすると、まだ眠そうな社員たちが口々に「おはよう」と返した。人間関係は良好、プライベートの付き合いはなくとも職場ではみんな交流を欠かさず環境は非常に恵まれていた。社会人として初めて選んだ会社としては満足だ。



 「あ、湊くん。おはよう」


 「おはようございます」



 その中でも特によく話す人が、声をかけてきた東香代。彼女は湊の先輩であり、オフィスで事務を担当する社員。面倒見がよく、度々終業後に食事を共にする仲でもある。恋愛感情というよりは、お互いを姉と弟のように慕っているという表現が適切だろうか。それに年齢も一回り離れている。


 香代とは毎朝必ず打ち合わせをする。というのも、その日の新規契約者への配送や既存顧客への訪問は香代が管理をし、現業の人間に指示を出すから。営業課から共有された顧客の住所をもとに、どういったルートでどのくらいの時間をかけて回るかを彼女が考え、全チームに指示を出すのだ。詳細に記されたスケジュールを毎日朝イチで配布する彼女は、この会社になくてはならない存在だ。



 「これが今日のスケジュール。ちょっとタイトだけど、なんとか乗り越えよう」


 「うわー、これきついなあ。午前だけでもこれだけ配送とアフターあんのか」


 「営業が契約をとってくるから私たちの給料は払われる。だけど、実際に商品を届けることだってお客様から感謝される素晴らしい仕事じゃない?」


 「まあそうなんですけどね。これ絶対残業でしょ。忙しすぎるのは勘弁」


 「大丈夫よ。やればできる。なんだかんだこの仕事好きでしょ?」


 「嫌いではない」



 子供のような言い方をする湊に香代は優しく微笑んだ。湊がこの仕事を続けられているのは、彼女の存在が非常に大きい。仕事だけでなく、プライベートのことでも相談に乗ってくれるし、彼の少しの変化にも気づいてすぐに声をかけてくれる。そんな先輩がいるからこそ、仕事を頑張れた。



 「ねえ、湊くん彼女できた?」


 「何、急に。いませんよ」


 「いやね、最近あまりご飯行けてないしさ。もしかしたら、私より一緒にいたいと思える人と出会ったんじゃないかと思って」


 「ただ忙しいだけです。そういう香代さんはどうなんですか? いい人おらんのですか?」



 香代は湊の問いかけに対して意味深な笑みを見せた。



 「え、ほんまにおるんですか?」


 「いないって。仕事人間だからね」


 「なんか怪しいな」


 「本当にいない。そうだ、近いうちにご飯どう? もし私に彼氏がいたら、湊くんをご飯に誘うと思う?」


 「別に彼氏おってもご飯くらい行くでしょ」


 「えー、彼女が男とふたりきりでご飯行くのって嫌じゃない?」


 「嫌、かな。彼女おらんからわからんけど」


 「じゃあ決まりね。日程は近いうちに」



 湊は「了解」と返事をして香代から渡されたスケジュールに目を通した。大変ではあるが、これまでも大変なことは幾度となくあった。それらもすべてが経験となり、今の湊を形作った。



 「よし、行ってくるか」


 「いってらっしゃい。気をつけてね」



 今日もまた一日が始まる。そして、こんな日々がこれからもずっと続く。


 五年前の湊は、これから先の人生がどうなっていくかを前向きに見つめていた。

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