ヤイバ

解放

 週が明けた月曜日、垣内純平は軽快な足取りで高校の廊下を進む。目的の場所は最後に思いを伝えたい相手がいる場所。これまで幾度となく虐めの現場を黙認し、助けてほしいと訴えた彼の言葉を無視し続けた男がいる場所。


 職員室と書かれたプレートが扉の上に配置されており、ガラス窓からは教員たちが各々の席に着き教頭の話を聞いている姿が見えた。その中にはもちろん純平が恨んでいる担任教師の菊間もいる。


 職員会議の内容は純平を虐めてきた五人が何者かに襲撃されて病院へと緊急搬送されたこと。発見したのは京都府警の刑事らしいが、あのビルの屋上に来たということは復讐をしたあの仮面の男が呼んだのだろうか。そんなことは結果でしかなく、純平にとってどうでもいいこと。例の五人組は入院中だ。


 虐めという事実を知りながら逃げ続けた菊間は許されないが、他の教師たちも虐めの現場を見た者はいたはずだ。あれだけ傷ついた純平のことは問題なしと判断され、虐めてきたあいつらが一度自業自得に伸されただけで大問題として議題に上がる。人数の問題なのか、虐めの件とは違いこの高校の生徒が一方的な被害者だから問題にしているのか。


 これからの出来事が純平の最後の復讐であり、あのオッドアイの男と約束した彼が支払うべき対価。


 純平は職員室の扉を開けると全教員の目がこちらを射止めた。今更そんなことで怯んでいるわけにもいかず、彼は真っ直ぐ職員室の上座に立っている教頭の元へと歩みを進めた。



 「垣内、会議中だ。出て行きなさい!」



 菊間は何かよからぬことが起こると保身のためにだけ働く勘を働かせたのか、純平を室外へと追い出そうと席を離れて近づいてくる。こんなことになってもまだ自らの罪から目を背けて周囲からの評価だけを気にしているこの男に無性に腹が立った。



 「先生、僕はこの学校を退学します」



 突然の退学宣言に教員たちはざわついた。純平の前に立つ教頭も何かを察したらしく焦りを見せる。



 「話は後で聞くから、な? 教室で待ってなさい」


 「話? 今頃どんな話をするんですか? 僕が虐められていることを知っててなんもしてくれへんかったのに。ずっと無視して、自分が面倒なことに巻き込まれんように逃げてましたよね?」



 教頭は慌てて純平に近寄って「その話は別室で聞くから」と純平をこの場所から遠ざけようとするが、突然彼が差し出したA4サイズの茶封筒に目を丸くした。純平はその中から書類とSDカードを取り出して手を出した教頭に無理矢理押し付けるようにして渡す。



 「これは僕がこれまでどんなことをされてきたかを記録した証拠です。これと同じものはすでに教育委員会に郵送しました。きっとこの高校であった虐めについて調査されるでしょうし、そうなったらいろんな人たちにこの学校がどれだけ素晴らしい場所かを知ってもらえるでしょう。菊間先生、あなたがすべてを知ってて僕から逃げていた場面も動画に残ってます」



 青ざめる菊間を前に教頭は鬼の形相で彼に問うた。



「菊間先生、垣内くんが言っていることは本当なんですか? 虐めを知っていて報告せず見て見ぬふりをしていたんですか?」


 「……いや、その」


 「正直に答えなさい!」



 普段から気弱な菊間は怒声を浴びて怯んだようだ。俯いて視線を足下に落とし、何やら小声でぶつぶつ話しながら両手を握っている。



 「まあいい。菊間先生からも話は聞きますが、まずは垣内くん。これは預かろう。これから話を聞けるかな?」


 「仕方ない……」



 菊間が小声で言ったその一言に教頭は「今なんと?」と聞き返す。それが引き金となった。菊間は突然大粒の涙を流しながら教頭の胸ぐらを掴んだ。周囲にいる教員たちはあまりの光景に固唾を飲んでただ見ていることしかできなかった。



 「仕方ないやろ! 虐めなんてどうやってもなくならん! 垣内なんかが俺のクラスにおるから悪いんや! なんで俺のクラスでそんなことが起こるんや! 虐められる側にも問題はあるし、虐めをする人間もクズや!」


 「菊間先生、落ち着きなさい!」



 菊間の手を引き剥がした教頭はスーツの襟を正した。取り乱す菊間は尚も大声を張り上げて泣き叫んでいる。その声はきっと廊下に響き渡って一部の教室にも届いているだろう。



 「菊間先生の言ってることは正しいです。なんで僕の担任がこんななんもできへんヘタレなんや。正体がわからんでも、僕を救うために協力してくれる正義のヒーローの方がよっぽど頼りになる」



 アッシュディーラーのことは口外しない。純平の目的が達成された今、その約束は必ず守る。そして、これが依頼成功の対価として彼が支払う犠牲。



 「お世話になりました」



 純平は封筒に入っていた退学届を惨めに床で泣き崩れる菊間の頭に叩きつけて職員室を出た。高校を中退したことで純平の人生は厳しいものになるだろう。就職するにしても高卒の資格は最低限必要な場合が多い。


 それでも、こんな環境で単なる就職へのチケットを手に入れるまで我慢して心を破壊されるくらいなら、すべてを壊して去る方が賢明だ。


 何もかもが崩壊したはずなのに、純平の視界は綺麗に澄み切っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る