本気の付き合い
夕方、開店を控えた徳之間では隆治が仕込みの最中で、その様子を湊はカウンター越しに眺めていた。普段なら開店直前の時間まで湊は出勤しないので、隆治が黙々と仕込みをする姿を見ることは珍しい。その背中はまさに職人と呼ぶにふさわしいもので、この店が口コミで広がった後も常連客から愛されるのは彼の努力があってこそだ。
なぜ湊がこんな時間に店にいるかというと、隆治に報告すべきことがあるから。彼とともにアッシュディーラーの一員として世の中の理不尽に襲われた人々の願いに応える仕事を始めてから三年になる。
これまでふたりがしてきたことを知るのは彼ら自身のみだった。他の人に知られてはならない。弱者を救うためとはいえ、彼らの行為は法を逸脱するものだから。公になれば警察に追われることになる。
そんな中、広幡宇海という人物に正体を知られてしまった。どれだけ惚けようとしても、彼女はすでに湊の正体に確信を持っていた。それに、刑事が湊を追っていると聞き、彼女の駆け引きに乗ってしまった。それが正解だったかはわからないが、この状況を打破するためには他に選択の余地はなかった。
「ごめん、正体知られたかも」
「そうか」
「刑事も動いてるって」
「おう」
「そんだけ?」
隆治の反応があまりにも想像とかけ離れていたため、湊は拍子抜けした。隆治が焦る様子はあまり見たことがないが、彼らにとって正体を知られることは破滅を意味する。警察が正式に動けば活動はしづらくなるし、アッシュディーラーは組織を守るために簡単に尻尾を切るだろう。
「済んだことは考えてもしゃあないやろ」
「そりゃそうやけど」
「どうせあの女の子やろ? この前ここへ来たときの様子やと、色恋の話でもなさそうやったからな」
隆治はすべて知っていた。彼の人間を観る力は非常に優れており、どれだけ表面を繕っても通用しない。だからこそ、隠さずに事実を伝えようとした湊だったが、それすらもお見通しだったわけだ。隆治はまったく手を止めることなく鶏肉を串に刺していく。
「刑事には喋らんって言うてたから、大丈夫やと思うけど」
「あの娘にとっては正義のヒーローってところか。湊がやったことは間違ってない。弱者を救うのが俺らの仕事や。それで正体を知られたんやったら、本望や」
隆治の言うことは理解できるが、それでもこれでアッシュディーラーとしての仕事ができなくなるなら本末転倒だ。
「もう宇海ちゃんと仲良くして、誰にも言わんように見とくしかないか。人助けしてるんやから、あの娘なら理解してくれるやろ」
湊の台詞を聞いた隆治は突然仕込みの手を止めて振り返った。その表情には、怒りが含まれているように見えた。彼の眼はすべてを見通し、極悪人ですら怯えてしまうほどの力を持つ。
「損得勘定で人付き合いすんな。あの娘と仲良くなるのはいいことや。友達でも、その先付き合うことがあっても俺はなんも言わん。ただ、自分の身を守るためにあの娘に近づくようなことは許さん」
隆治は誰よりも人情に熱い。過去にヤクザだった彼は警察からすると厄介者だったが、弱者を苦しめたり、無実の人間に手を出すことはしなかった。間違ったことは間違いだとはっきり発言し、理不尽に押しつぶされそうな人のことは救ってきた。湊が慕った香代も、そんなところに惚れたのだと言っていた。そして隆治は香代と真剣に交際するために裏社会から完全に離れた。
香代との出会いは良くも悪くも隆治の人生を大きく変えた。それは湊も然り。それでも彼は失踪した彼女を今でも生きていると信じて探している。その真っ直ぐな想いに賛同して湊は協力している。
いつかまた、香代と再会したら世話になったと礼を伝えたい。何よりふたりに幸せになってもらいたい。だから、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
「全部喋ったらええ。それであの娘が刑事に喋っても、それはお前の責任やないわ。罰は俺が受ける」
「それで捕まったら今までやってきたこと全部無駄になるんやで? 俺はそんなん嫌や。香代さんのことも諦められへん」
「無駄やない。これまで依頼こなしてきて、湊に救われた人はようさんおるはずや。香代もいつか見つける。それに警察に捕まったとしても、俺は諦めへん。ただ、俺になんかあったらこの店は頼むわ」
「なんやねんそれ。この店は俺だけの店やない。ふたりでやることに意味があるんやろ」
「生意気言うなよ若造が。お前なんぞに心配されるほど老いてへん」
口は悪いが湊の嘘偽りない言葉を聞いた隆治はどこか満足そうに目を細めると、再び背中を向けて仕込みの続きを再開した。
「本気で人と向き合うときは、自分も本心を見せなあかんのや。あの娘はお前に本気でぶつかってくれたんやろ。今度は湊の番や」
「わかった。宇海ちゃんには全部話す。本気でぶつかってくるわ。その代わり、それでなんかあっても自分だけが犠牲になって俺を守るのはなしやからな」
「はっ、生意気言うなよ若造が」
隆治は背中を見せたまま、そう言った。
そろそろ開店準備を始めないと。湊はカウンター席を離れて勤務を開始した。
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