カタナ

ミネ

防衛本能

 なんで毎日僕ばかり。頭はよくない。運動も得意やない。それでも自分なりに一生懸命生きてるのに、なんでこんな目に遭わんとあかんのや。


 高校の体育館裏で二年生の垣内かきうち純平じゅんぺいは足跡がついた制服を眺めて横たわっていた。毎日のことに慣れているとはいえ、やはり殴られると痛い。身体的な痛みも積もれば芯に響く。心はすでに修復ができないほどにボロボロだ。黒い制服についたこの足跡は誰のものだろうか。五人のうちの誰かのものであることは間違いない。


 痛覚が麻痺を始めると痛みは和らいでいくが、それは回復とは別の自己防衛本能が働くからだ。心がこれ以上の身体的苦痛に耐えられないと判断した脳が、身体をあえて壊して純平を守ろうとする。


 純平は小柄で大人しい性格だからターゲットになりやすい。虐められるのも初めての経験ではない。それでもここ最近はこれまで受けたどんな仕打ちよりも酷いものだった。お金を取られるだけならまだしも、どうして身体を傷つける必要があろうか。そんなに人が殴りたいなら格闘家にでも喧嘩を売ればいい。きっと一発で返り討ちにあって「殴られた」などと被害者面をすることになる。


 もし、誰かが代わりにあいつらを殴ってくれれば。そんな正義のヒーローのような存在はこの現実世界にいない。いるなら今頃あいつらは成敗されているはず。


 頼れる人なんてこの世にはいない。


 純平はくだらない考えをやめて立ち上がった。口内は鉄分で満たされ、顔にはあざがある。誰がどう見ても虐められていることは明白なのに、誰もそれについて触れようとしない。


 校舎の方に向かうと、偶然か必然か、そこに担任教師の菊間きくまがいた。細身の彼は四十過ぎらしいが、トラブルには一切口を出したくないタイプ。今日もまた、明らかに殴られた後の純平と目を合わせようとせずそそくさと職員室に逃げ込んだ。こんなことは日常茶飯事だったのに、なぜかそのときだけは無性に腹が立った。


 てめえのクラスで起こっている問題から逃げるなら、教師なんて辞めてしまえ。いや、なんなら人生すらも辞めてしまえ。


 思い立った純平は駆け足で校門を出て、ホームセンターに向かった。学校からそう離れていない場所にそれがあって本当によかった。ホームセンターなんて文化祭の準備で行くくらいしかないと思っていたが、今この状況なら心の底から感謝すべき施設だ。


 向かったのは台所用品が並ぶエリア。フライパンや鍋、ボウルなどに興味はない。これから調理をするのにもっとも必要なものは、どの家庭にでもあって、外で持っていてはいけないもの。レジで精算を済ませた純平は、ホームセンターの駐車場を敷地の外へと早歩きしながら透明なプラスチックのパッケージを剥ぎ取ってそれを道路に捨てた。ゴミを道端に捨てるようなやつは碌な人間ではないと思っていた自分はもういない。


 純平は包丁を手に持って行きは駆け足で向かったホームセンターから早歩きで戻ってきた。道路から校門が見えて再び校舎に戻ろうとしたとき、見慣れない人物が立っていた。その男はスーツ姿でハットを被り、左右で色が違う瞳を持っていた。彼の微笑みには恐ろしいくらいの正体不明な優しさがある。



 「そんな物騒なものを持って何をする気ですか?」



 見ず知らずのやつに何がわかる。純平は一度止めた歩みを再開した。しかし、その男はまだ言い足りないことがあるようだ。



 「世の中の理不尽に抗うために自己犠牲は必要ですが、その方法はひとつとは限りません」


 「どういう意味ですか?」


 「そのままの意味ですよ。その刃物が刺さるのはひとりだけ。我々ならあなたの望む全員に刺すことができます。ただし、自己犠牲は必要ですがね」



 純平は迷った。一刻の怒りに任せてこの刃物を突き刺すことはできるかもしれない。しかし、本当に刺したいのはやつではない。相手が五人もいれば返り討ちに合う可能性が高い。ならば、この男に任せる方がいいのではないか。



 「僕は何をしたら?」



 純平の身体が男の方向を向いたことで、男の両目はしっかりと純平を捉えた。その視線は弱った心に優しく届くようでいて、すべてを見抜いたような鋭いもの。



 「それはあなた自身が考えればいい。大切なものを失っても、望みを果たす覚悟があるのか、それが知りたいのです」



 僕にとって大切なもの。そんなものはもうないと思っていた。この命でさえ捨てることは厭わないと。



 「お願いします。あいつらに復讐できるんやったら、僕は死んでもいい」


 「我々はあなたの命がほしいわけではありません。が、あなたの覚悟はしかと受け取りました。あなたがすべきことは我々のことを口外しないことと、復讐に見合った対価を差し出すこと。あとはアッシュディーラーがあなたの願いを叶えましょう」



 純平は男が差し出した手に持っていた包丁を授けた。きっとこの包丁が実際にあいつらに刺さることはない。だが、この人ならそれ相応の報いを与えてくれる。


 純平は何もなかったかのように歩みを進め、自らの教室に向かった。いつもと同じ、強い心を携えて。

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