行き着く先
朝、京都のあるマンションは賑わいを見せた。賑わい、といってもそれはイベントに人が集まったり公園に子供が集まったりするものではなく、赤い不吉なランプが壁を照らし、マンションの階段を青い制服が上り下りする非日常。
黄色いテープに印刷された『KEEP OUT』の文字が野次馬たちを鉄壁の外に押し出すが、文明の力であるスマホが簡単に防御を崩して記録を残す。警察は事件に関わる人物の尊厳を守る義務があり、それがたとえこの世を去った者であっても例外ではない。
ビニールシートで覆われた中で頭部から大量に出血した女の姿があり、その身体は力なく地面に横たわっている。すでに彼女がこの世にいないことはその姿を見るだけで明白だ。そのそばで神妙な表情で彼女の亡骸を見つめるのは光輝と志穂だった。
「
「はい。免許証で身分は割れました。まさかこんなことに」
昨日光輝と志穂は目の前で亡くなっている井口を訪ねたが、彼女は不在だった。その後夜まで彼女の帰りを待ったが戻ってくる気配がなかったため署に戻り、仮眠をとって翌朝再び訪問する予定にしていた。
しかし早朝、彼らの睡魔を一撃で倒してしまうような想定外の出来事が起こる。井口が住むマンションで女が倒れていると一本の通報が入ったのだ。それはマンションの管理人によるもので、直ちに救急を要請したがその場で女の死亡が確認された。
光輝と志穂はタイミングからして嫌な予感がして現場に急行したが、彼らの予感は見事に的中した。死亡したのは詐欺によって人生を狂わされた井口綾乃。マンションの階段から転落死したと見られ、現場の状況から自殺である可能性が極めて高いという。
さらに彼女の部屋からは遺書が見つかっており、大島に金を騙し取られた復讐として、彼を包丁で刺して殺害したと自供する内容が
室内のゴミ箱からはビニール袋に包まれた包丁が発見され、ルミノール反応が出た。つまり、その包丁に付いている赤くすでに乾燥した液体は血液であることが証明された。鑑識が血液の鑑定を急いでいるが、大島のものであることは調べずとも推測できた。すべての事象が推測を事実へと突き動かす。
「高津さんの推測は当たってたってことになるか」
「ですね」
志穂は先ほどから井口の身体に虚ろな視線を落としていた。それは、彼女を救えなかった自らへの戒めか、それとも復讐した挙句に命を捨てるという愚かな決断を下した井口への哀れみか。その本心は志穂のみにしかわからない。
「あんまり気にすんなよ」
「救えたかもしれない命です」
「どんな理由があっても人を殺した時点でもう戻ることはできへん。全部を覚悟した上で行動したんや。井口はもう無実の被害者やない」
「それでも、大島に騙されなかったらこんなことになってなかった」
「まあ、それはそうやけどな」
志穂は普段よく冗談を言って光輝を困らせることがあるが、彼女がそうするのはあえてのことだと彼は知っている。志穂は刑事の割に感情で動く側面が強すぎる。理性から合理的に行動することが求められる刑事という職業において、それはマイナスに作用することが圧倒的に多い。だが、光輝は志穂のそういう一面もまた魅力だと捉えていた。
感情が人を突き動かす魔力であることもまた事実だ。志穂が普段見せるおちゃらけたキャラクターはシリアスの対極に存在するもので、彼女はそのふたつを併せ持つことでバランスを保っているのだ。正直煩わしいと感じることが多いものの、それがないと志穂は刑事でいられなくなる。
光輝と志穂は事件性がないことを確認すると、捜査車両に乗り込んだ。署に戻って高津に報告しなければならない。志穂に気にしないよう忠告した光輝だったが、彼自身も何かできたことがあったのではないかと考えていた。もし、昨日張り込みを続けていたら。そんな仮定の話をしても現実が変わることはない。
沈黙の車内でハンドルを握る志穂が口を開いた。
「田中の詐欺がふたりを殺したのに、詐欺罪で起訴されるだけなんですよね」
「直接を手を下したわけやないからな」
運転のため前方を注視する志穂の隣で、光輝はスマホのメール画面を開いた。何者かが彼に送信したメール。詐欺師の田中の情報が書かれた密告は殺人事件へと発展し、被疑者死亡の形で幕を閉じる。
「仮面の男が全部やってるんか?」
「何か言いました?」
「いや、なんでもない」
信号が青に変わり、加速する車内はエンジン音に包まれた。光輝の呟きが志穂の耳に届くことはなかった。
光輝は窓の外を眺めてこの京都のどこかにいる仮面の男に思いを馳せた。これが恋ならどれだけよかったことか。必ず見つけ出してその素顔を拝んでやる。復讐することで気持ちが晴れる被害者がいることは理解できるが、その手段を間違えると世の秩序が崩壊していく。刑事として、それは決して許さない。
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