孤独なふたり
「ふわぁ」
早朝の徳之間にやってきた隆治は大きな欠伸をひとつ、裏口の扉を開けた。夕方からのみ営業するこの店で早朝から仕込みをすることはない。
昨日深夜まで営業して店の片付けをしていると、突然連絡があった。アッシュディーラーの仲介人、名前の知らないオッドアイの男からだった。話したいことがあるから指定した時間にパソコンをつけろと言われたことで、ろくに睡眠もとらずにまたこの場所に来た。このまま店で待っていようかとも悩んだものの、疲労した身体で酒を嗜むとまず寝落ちしてしまう。だから、まだ暗い深夜の街をふらふら歩くことで脳をなんとか起こしたまま維持することができた。
店舗の奥にある扉、ここは隆治以外誰も立ち入りを許可していない場所。唯一徳之間で働く湊ですらこの場所に入ることはない。中にあるのはパソコンが一台のみ。狭い空間にひとつだけあるそれは、裏の仕事のためだけに使われる。光が一切届かない空間で目が見えているように電源のボタンを押し、隆治は椅子に腰掛ける。早く話を終えないと気絶しそうだ。
画面に暗号が流れては消え、流れては消え、外部からハッキングができないように最新のセキュリティが施されたソフトが起動した。三十秒ほどで室内は画面の光でわずかに明るくなった。繋がった向こうにはすでに例の男が隆治の接続を待っていたようだ。
「突然で申し訳ありません。お疲れでしょう」
「それを知ってんならもうちょっと時間考えてくれや、ふわぁ」
口を開けるとすぐに欠伸が外に出たがる。いろんなことに耐えてきた人生だったが、こんな日常にありふれた小さなものには敵わない。
「で、話ってなんや? 今日も仕込みあるからはよ寝たいんやけどな」
「まずは任務を無事遂行していただきありがとうございました。回収した全額の入金を確認しましたので、報酬をお支払いします」
「ちょっと弾んでくれや。優秀な執行人に還元しといたら、成功率もっと上がるかもしれんぞ」
「もちろんです。報酬として九百万円をお支払いします」
「回収したのは三千で、九百か。中抜きしすぎやろ」
「こちらも経営が大変でしてね。どうかご容赦ください。次回おいしい仕事があれば最優先で紹介しますので」
回収額が大きい分文句は言ったが、九百万円が手に入るなら万歳だ。今回は湊にそれなりの額を渡せるだろう。アッシュディーラーは報復の対価として依頼人から大切なものを受け取るが、それは必ずしも金というわけではない。とれるときにとらないと厳しいというのは理解できる。
「で、次の仕事の話か?」
「いえ、今回は別件です」
男は先ほど「次回おいしい仕事があれば」と言った。つまり、まだないということだ。であれば、こんなに急いで話したいこととは一体。隆治が再び欠伸をしたところで、男は話を始めた。
「最近警察の動きが気になっていまして。どうもこちらの動きを探っているような気がするのです」
「アッシュディーラーの存在に警察が気付いてるってことか?」
「いえ、そこまではまだないかと。ただ、徳間さんには特別にターゲットを警察に引き渡すことも許可しています。あなたの過去や実績を考慮した上でのあくまで特別な措置です。他の執行人はいつ尻尾を掴まれるかわからないのですべての後始末は我々がしています。ですので、警察がこちらの動きを探るならば、そのきっかけは徳間さんである可能性が高いというただの確率論で話しています」
「俺が何かヘマしたってか?」
隆治は画面の向こうで偽の微笑みを見せるオッドアイの男を睨んだ。その迫力は、かつて裏の世界で名を轟かせた彼の姿を彷彿とさせるものだった。
「違います。そんなことは思っていません。あなたはどんなときも慎重で狡猾。簡単にその背中を見せるようなことはしない。意図的にしない限りは」
「俺が、裏切ったと、そう言いたいんか?」
物理的に距離があるふたりの間の壁がさらに遠く感じられるほどに重い沈黙が流れる。心の奥底を見せない微笑む男と、その感情を包み隠さず見せる眼光の男。対照的なふたりはお互いに駆け引きが無意味であることを理解している。
「ちょっとした冗談です。眠気が吹き飛べばいいと思ったほんのささやかな悪戯でしたが、不快にさせたのであれば謝罪します」
「それしきで動揺するタマやないわ。用が済んだらはよ終わらせてくれや」
隆治はあえて欠伸をして、退屈アピールをして見せた。さすがにこれだけ眠いと脳が迂闊なことを惜しみなく発散してしまいそうだ。ここは早く切り上げることが得策。
「徳間さん、本当に気を付けてください。このアッシュディーラーで私は世を変えたいと思っています。できればあなたにもずっと手伝ってもらいたいと願っていますので」
「俺もどうしても知りたいことがあるからよ。それまでは全力で働く」
「その言葉が聞けて安心しました。話は以上です。ゆっくり休んでください」
オッドアイの男が去った空間は再び暗闇に戻った。隆治はパソコンの電源を落とし、両手を高く突き上げて背伸びをした。部屋を出るとき、彼は自然に欠伸をしてその空間を封印した。
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