嵐の前に

 今日は休日で宇海は仕事のことを忘れてリフレッシュしたい気分だった。しかし、訪れた場所はおしゃれなカフェでも景色が綺麗な展望台でもなかった。本当は息抜きをしたいところだった。でも、気持ちはそこまでのゆとりを残しておらず、結局夕方までの時間を何もしないことに費やしてしまった。いや、何もしていないといえば嘘になる。仕事のことを考えない代わり、宇海の思考は完全に別のことに支配されたのだった。


 午後五時三十分、宇海はまだ開店していない徳之間の前までやってきた。まだ暖簾はかかっておらず、軒先に客の列もない。もちろん、彼女も客として徳之間を訪ねたわけではなかった。引き戸の取手に手をかけ、ゆっくりと力を加えるとそれは鍵による抵抗もなく開いた。顔だけ覗かせた店内に人の姿はなく、勝手に侵入することも気が進まなかった宇海は、誰かいないかと声をかけてみた。



 「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」



 声が建物の奥に向かって駆け抜けてから数秒、細身の男がカウンターに現れた。彼はこの徳之間の店主で徳間隆治。細身であるがその目つきは鋭く顔つきは少しだけ怖いが、人情に溢れた善人であると上司の渚や他の課員たちからも評判だった。



 「悪いけどまだ開店前やから、もうちょっとだけ待ってくれるかい? できるだけはよ開けるからよ」


 「今日は客として来たんじゃないんです」


 「おお、この前来てくれた渚ちゃんとこの新人さんか。ま、中入りなよ」



 カウンターで来客が宇海だと気づいた隆治は彼女を店内に招き入れてカウンター席に座るように言った。彼は準備していたお茶を湯呑みに入れてカウンターに置く。それは透き通った翡翠ひすい色をしていて、湯気がほのかな香りを宇海に届けて嗅覚をくすぐった。



 「で? 客やないなら、なんか用があってここに来たんか?」


 「はい。相波さんと話したいことがありまして、もしいらっしゃったらと思って来たんですけど……」



 見渡す限り湊の姿はなく、隆治以外に人がいそうな気配もない。どうやら湊はこの場にいないらしい。開店時間に合わせて出勤するのであれば、ゆっくり話をする時間を確保することも難しそうだ。閉店まで待つとなれば、確か営業時間は日付が変わって午前二時までだったはずだ。さすがにその時間までずっと待っていることもできない。



 「あいつあとちょっとで来るやろ。急ぎの用やったら連絡しよか?」


 「全然そんな急ぎじゃないです。また今度でも大丈夫なので」


 「伝えたいことがあるんやったら、ちゃんと言うた方がええで。湊になんの用や?」



 隆治の問いにどう答えていいかわからなかった。湊にはこの前酔っ払いに絡まれたときに助けてくれたお礼を伝えたくて来た。しかし、それだけではない。そのさらに前に命を救ってくれた仮面の男、あれが彼であることを確認したい。それもしっかりお礼を伝えたいという理由からきたものだが、加えて刑事が訪問してきたこともあって、事実を知りたい好奇心が強かった。巻き込まれることで面倒になるかもしれないが、刑事が動いているほどのことならば情報提供をすることが市民の義務だ。それでも、彼に何か事情があってやっていることなら、場合によっては刑事に伝えることで彼が困るかもしれない。


 宇海にとっては警察の正義よりも、命を救ってくれた恩人の事情の方が大切だった。それを知らない限り、刑事に話すか黙っておくかの決定が下せない。絶対に湊が仮面の男だという確証もまだない。だから、真実を知りたい。

 


 「いや、ええわ。若いもん同士の話にこんなおっさんが首突っ込むもんやないわな。堪忍してや」


 「いえ、そんな。私の方こそ準備で忙しいときに押しかけて申し訳ないです」



 宇海が頭を下げて隆治に謝罪したと同時に、裏口の扉が開く音がした。



 「来たみたいやな」



 隆治がカウンターの奥を振り返ると、湊が姿を現した。疲れているのかその表情は暗く、彼は欠伸をしながらカウンターに座っている宇海を見た。



 「あれ、もう六時回ってた?」


 「いや、まだ開店してへん。お嬢ちゃんがお前に話があるんやと。湊が来るんを待ってたんや」


 「ん? 話? 俺に?」



 宇海は椅子から立ち上がって湊に向かって頭を下げた。



 「それ六時までに終わる? もうすぐ開店やからやることいろいろあるんやけどな」


 「まだすぐに満席にはならんやろから、別に構わん。話あるんやったらちょっと外出て話して来いや。たまには青春もええやろ」


 「まあ、それでええんやったら」



 湊は宇海に「場所移そか」と提案して玄関の扉を開けると、宇海は彼の後を追って徳之間の空間から外界へと踏み出した。


 黙ったまま歩みを進めることは非常に気まずい。宇海は当たり障りのない話題を探して、湊に訊ねてみた。



 「お仕事は大変ですか?」


 「楽やないけど、楽しいよ。宇海ちゃんはどうなん? こっちに転勤してきてちょっと経ったけど、もう慣れた?」


 「まだまだです。でも、やりがいはあります。職場の人たちもいい人たちやし」


 「そりゃあよかった。渚さんはいい上司やろな」


 「ですね」


 「で、俺に話って?」



 湊はこのまま歩きながら話すつもりのようだ。宇海は仕事の支障にならないよう早速本題に入ることにした。

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