ヒカリ
犯罪と粛清
光輝と志穂は刑事課の自分のデスクにいた。パソコンを開いて仕事をしている風を装ってはいるものの、開いた報告書のページには先ほどから一文字も入力されていない。様々なことが立て続けに起こり、ふたりの脳内はすでにパンクに近い状態まで追い込まれていた。光輝のデスクには栄養ドリンク、志穂は缶コーヒーを手に持って今にも糸が切れてすべてを諦めてしまいそうな甘い誘惑をなんとか断ち切ろうと目を見開いた。
「さっきから手動いてへんけど、ふたりとも起きてるか?」
突然語りかけてきたその声は、あまり聞きたくない人からのプレゼント。中身はすでにわかっているから開けるときの高揚もなく、むしろわかっているからこそ開けたいとも思わない。
課長の高津がふたりのデスクの間で肩越しにパソコンの画面を見ていた。明らかに疲弊した表情の光輝が振り返って高津の顔を見上げる。元気が取り柄だったかつての後輩は随分老けたように見える。それは単純に時間の経過のせいではなく、精神面での疲労が大きく祟っている。
「こんなときに寝れませんよ」
「そうやろな」
喉の奥から振り絞られた光輝の声はその場で漂ってすぐに消えたが、高津の耳に届くだけの力はあった。
隠れ家で発見された田中は病院で検査を受けたが、脳や臓器に異常はなかった。入院の必要もないとのことで彼は警察署に連行され、二課によって詐欺の容疑で取り調べを受けることになった。現場に散らばっていた書類が示す証拠は田中がすべての罪を認めるには十分すぎる内容だった。
彼は突然訪れた仮面の男が証拠を持ってきたと語り、金庫の中にあった現金はその男によって持ち去られたと言う。金額にして三千万円、詐欺で手に入れた大金は一瞬にして仮面を被った謎の男によって奪われた。銀行の隠し口座に億を超える金額が入っており、すでにその口座も銀行によって利用を停止された。
宇海が正義の使者と語った人物は強盗事件を起こしたことになる。田中が詐欺師であり、どれだけの被害者を生み出していようともそれで強盗事件が正当化されることなどあってはならない。宇海のような被害者にとって彼は正義のヒーローなのかもしれないが、やっていることは犯罪者と変わらない。
高津が光輝と志穂に話しかけたのは、何も雑談をするためではない。高津はふたりの状態を気遣いつつも要件を伝えた。
「限界が近いところ悪いが、一軒家の玄関先で刺殺体が発見された。現場行ってくれるか」
高津がふたりのもとに来たのは新たな事件の発生を知らせるためだった。仕事は常に次から次へと湧いて出てくる。この調子では身体がいくつあっても足りない。それでも、刑事である限り事件が起これば全力で向き合う他ない。それが、被害者のためであり、正義のためだから。
志穂は缶コーヒーを飲み干して立ち上がって両手で頬を二回叩いた。痛みは時に眠った神経を起こす最良の手段になる。
「檜山さん、行きましょう」
「ちょっと待ってくれ。エネルギー補給だけしていく」
光輝もデスクに置いていた栄養ドリンクの残りをすべて胃に流し込んで、勢いよく立ち上がった。本当に辛いときに頼れるものはアドレナリンのみ。すでに頭はその活動をほとんど停止したが、身体が動くなら問題ない。
高津は現場判明している情報を光輝と志穂に渡しておくことにした。
「被害者は大島孝之。駆けつけた警官が訪問したことがあって顔を覚えてたらしい。二課によると、被害者の大島は田中の詐欺の共犯やったらしい」
「今回の殺しは口封じってことですか?」
「さあな。大島の殺害は偶然やないやろうけど、口封じをするにしても田中は拘束されてるし、書類に他の共犯者の情報はなかった。なかなか厄介なことになってきたな」
田中が強盗被害に遭って、それがきっかけで彼は二課に逮捕された。そして、そのタイミングで共犯だった大島が殺害された。まるですべてが最初から描かれいたシナリオのように繋がっていく。裏でこれらを画策したのが仮面の男だというのか。
光輝と志穂は重い足取りを周囲には軽く見せる努力をして刑事課を出た。高津の目が届かない場所まで進むと、明らかにふたりの歩行速度は落ちた。
「仮面の男が全部やったんですかね?」
「普通に考えたらそれが自然やけど、確証は何もない。この段階で先入観を持つのは危険すぎる」
「それはそうなんですけど、あまりにもうまく繋がってるというか」
「それは俺も同じ意見や。ただ、二本の鎖が重なってるだけで繋がってるように見えることもあるやろ」
「そんなことあります?」
「わからん。とにかく現場を見て、考えるのはそれからや」
視点を変えれば見方が変わる。
警察官としての視点から見れば、仮面の男がしたことは犯罪であり悪。一方で、宇海や詐欺の被害者から見れば自らを苦しめた悪人を裁いてくれた仮面の男がしたことは制裁であり正義。
何が悪で何が正義なのか。それを判断するのが人である限り、人によって考えが変わる。
しかし、人々が各自の判断で正義を語ると争いが生まれる。
「俺は認めへんぞ」
光輝の独り言は志穂の耳には届かなかった。
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