怨恨の連鎖

 大島孝之は帰宅した。


 独身だが一軒家を借りて生活する理由は、個人事業主として仕事をするために拠点がほしかったから。集合住宅の部屋では狭すぎる。一度は捨てようと決意したこの命も、まだ心臓の拍動が絶えることはない。あのとき出会った男は本当に望みを叶えてくれるのか。確証はないが、死ぬ決意を捨ててしまった今となっては、再び命を捨てる勇気は持ち合わせていなかった。


 一千万円がなんだ。それくらい俺の力ならまた取り戻せる。大金とはいっても、命の代償としては実にちっぽけな金額だ。


 大島は庭を通っていつも通りに玄関先に辿り着くと、足元に見慣れない茶封筒が落ちていることに気づいた。正確には誰かがそこに置いたもののようだ。それを拾うと中身が何であるかはすぐに理解できた。叫びたい衝動を抑えて大島は玄関の鍵を開けて自宅に飛び込んで、うちから扉と鍵を閉めた。


 封筒の中身は約束の一千万円。つまり、あのオッドアイの男が依頼を達成したということだ。確か依頼には対価が必要だとか言っていたが、それはまたおいおい話を聞いて差し出せばいい。今の彼から何が取れるかは向こうが判断することだ。あとはこの出来事を他言せずにずっと黙っていればいいだけ。


 とにかくこれで起業計画をやり直すことができる。大島は損失を取り戻そうと田中に言われるがままに詐欺を手伝ったが、それもうまく利用されただけで自らには一銭も手元にお金が入らなかった。大島を含め多数の人間を不幸にした田中は逮捕されたと報道で知った。



 「いい気味や」



 大島は夢が詰まった封筒をテーブルに置いて、キッチンの冷蔵庫から冷えた缶ビールを手に取った。プルタブを引いて炭酸が弾ける余韻にしばらく浸った後、腰に手を当てて豪快に魅惑の液体を喉から胃へと流し込む。こんなにおいしいビールは久しぶりだ。自殺をする直前に車内で飲んだビールの数万倍身体に染み渡る気がした。


 大島は再びテーブルに置いた茶封筒を持って、中身を確認する。先ほど見たそれが幻ではないことを確信したかった。無論、それはどこに逃げることもせず封筒の中に佇んでいる。明日からようやく目標への大きな一歩を踏み出すことができる。起業コンサルタントなどと怪しい人間にはもう関わらない。田中がもし共犯として大島の名前を警察に告げたとしても、脅されて無理矢理やらされたと言えば罪には問われないはずだ。このお金で優秀な弁護士を雇ってこの身さえ守れば、いくらだってまたお金を稼ぐことができる。


 もう奪われないようにと茶封筒を引き出しの奥に仕舞って、大島は缶ビールを飲み干した。そして、もう一本を冷蔵庫から出して、酒によく合うつまみの袋をキッチンの棚からひとつ手に取った。テーブルにそれらを置いて椅子に腰掛けようとしたタイミングでインターホンが鳴った。



 「なんや、いいときに」



 至福の時間を邪魔されたことに苛立ちを覚えはしたが、幸福の絶頂にいる大島にとって、それはまだ許せる範囲の出来事だった。彼は廊下を進んで玄関の扉の前に立つと、「はーい」と返事をしながら扉を開けた。


 そこには誰もいなかった。インターホンは玄関扉の横にあるので、少なくとも庭を通ってこの場所まで歩いて来ないと押すことはできない。そんなリスクを冒してでもピンポンダッシュをする悪ガキがまだいることに安堵した。人間は誰しも一度は悪いことをして成長するもの。自分の身を守るためならそれが悪だと理解していても、理性がストッパーの役割を諦めることがある。虐められっ子が命令されて悪戯をして救われるというのなら、それくらいの被害は受けてやっても構わない。


 大島はため息をついて扉を閉めようとした。この廊下の先にはビールとつまみが待っている。至福の時間の続きを楽しもう。


 そう考えたとき、強い力で扉が開かれた。ドアボブを掴んでいた大島はその力に体勢を崩して庭に飛び出した。振り返ると見知らぬ女が立っていて、その女は大島に身体をぶつけた。足から力が抜けて尻餅をつく大島を見下す初対面の女。



 「何すんねん!」


 「全部あんたのせいよ」


 「はあ? なんの話や」



 女は憎しみを込めた瞳で大島を射抜いて、すぐに庭を駆け抜けて走り去った。子供の悪戯かと思っていたら、まさかあんな大人が悪戯をするとは。せっかく見知らぬ幼稚な犯人を許してやる気持ちを持っていた大島も、この事実には怒りの感情を持った。



 「ふざけんなや。せっかくいい気分やったのに台無しやろ」



 気持ちを整えて立ちあがろうとした大島だったが、脚に力が入らない。突然のことに驚いていたせいか、腹部の激痛に気づくまでに十数秒かかった。その痛みの正体を探るために右手を当てた大島は、急速に増大する激痛に顔を歪めた。


 顔の前に持ってきた右手にはこれまで見たことがないほどに大量の血が付着しており、あの女に刺されたことをここでようやく脳が理解した。



 「誰か、助けて……」



 自覚を持ってしまったためにあまりの痛みと遠のく意識のせいで大島は声が出せず、そのまま力なく庭に顔を埋めた。

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