悪運の直感
今日も一日無事に終えることができた。京都に移住してからうまくやっていけるか不安だった。何より初めての一人暮らしということがもっとも不安な要素だったが、それにも慣れた。それもすべては職場の上司や先輩方が素晴らしくいい人たちだったからだ。
仕事でもできることが日に日に増え、少しだけ残業をすることも増えてきた。最近の若者なら嫌がるだろうが、経験を積みたい宇海にとってそれはむしろ喜ばしいことだった。本日も仕事に熱中していると残業になり、外を歩く宇海の周囲はすでに街頭で照らされていた。仕事が終わったのはもっと早い時間帯だったのだが、雫から食事に誘われて快く引き受けた。実は宇海が仕事で行き詰まっていて、困っていたことを彼女は見抜いていたのだ。本当に先輩としてすごい人だと思う。
以前夜道で事件に巻き込まれてから人通りが少ない道は避けるようにした。ティーチと呼ばれるいかにも怖い男に刃物を向けられた。今でも夢に出ることがあるし、少しでも運命が違っていたらもうこの世にいなかったかもしれないと考えるだけで鳥肌が立つ。あのとき助けてくれた正義の使者は、どこの誰なのだろうか。また会うことがあればお礼を伝えたいと思うが、向こうはきっと正体を知られたくないと思っているはず。探しても迷惑をかけるかもしれない。いや、そもそも探す手段など何もない。
宇海が歩道を歩いていると、向かいから酒を飲んで陽気になった中年の男が歩いてきた。かなり酒が回っているのか足元がおぼつかず、顔も真っ赤に染まっている。スーツ姿ではあるがネクタイは緩み、ワイシャツがはだけている。誰にも迷惑をかけずに陽気になる分には勝手にしたらいい。宇海はぶつからないように端に寄って男をやり過ごそうとした。だが、その男はおそらくわざと宇海の寄った方向に進んできた。
「お姉ちゃん、ちょっと付き合ってや」
酒の匂いを漂わせた中年の男が宇海の前に立ってその進路を塞いだ。もうあんな思いをするのは御免だと、宇海はその場から離れようと男をかわそうとした。しかし、彼も諦めることなく宇海の手首を掴んで引っ張ろうとする。
「放してください!」
「ちょっとくらいええやろ! 金なら出したるて。ちょっと酒付き合ってくれたらええんや」
宇海が腕を振って男の手を振り払おうとしたが、酔っ払っていても男の力は強かった。周囲には通行人がいるが、誰も宇海を助けようとする者はいなかった。下手に巻き込まれたら面倒になるだけ。触らぬ神に祟りなしだ。
その男は大柄で顔つきも怖かった。一刻も早くこの場を離れなければ何をされるかわからない。せめて誰か警察を呼んでほしい。
「助けて!」
半ばパニックで声をあげた宇海の隣に人影が現れた。
「探したわ。こんなとこで何してるん?」
聞き覚えのある声、その声の主は徳之間で出会った店員だった。確か名前は相波くん。
「この人知り合い?」
湊は宇海と親しい関係を装って話しかけてきた。彼の考えはわかった。助けてくれるならありがたく甘えることにしよう。
「全然知らない人。急に手掴まれて」
「おじさん、その手放してもらえる? この娘俺の彼女やねん」
「ああ? 関係ないやつは引っ込んどけや!」
彼氏の登場に腹を立てたのか、中年の男が宇海の手首を掴む手に力を込めて引っ張った。
「痛っ!」
宇海が痛みで表情を歪めたと同時に、湊が男の手を掴んで宇海から引き剥がした。湊は宇海の前に歩み出て自分より背の高い大男を見上げる。
「もうやめときや。こんなことで警察沙汰にしたないやろ。酒で人生台無しにしたらアホらしいわ」
「黙れ! 若造がかっこつけんなや!」
湊に手を伸ばした男は次の瞬間、体勢を崩して地面に転がった。何が起こったか、宇海の目にその動きは映らなかった。それでも湊が何かをしたということだけはわかった。湊は宇海に背中を見せているが、彼を見上げる男の表情は明らかに怯えていた。どれだけ怖い存在であれば、酒を飲んで正気を失った大男を怯えさせられるだろうか。
今までの威勢が嘘のように立ち上がった男は地面を蹴ってその場から立ち去った。もう安心だと振り返った湊はとても優しくて穏やかな顔を見せる。
あの日助けてくれた正義の使者。それは湊だったんだ。声や体格が似ているだけではない。言葉では表すことが難しいのだが、溢れ出すオーラや雰囲気があのときの仮面の人と同じ。なぜ確信が持てるのかは宇海自身も不明だった。
「大丈夫? 怪我してない?」
「あ、はい。二度も助けてくれてありがとうございます」
「ん?」
「あ、いえ。なんでもないです。また徳之間にお邪魔しますね」
「いつでも待ってるで」
湊は平然と爽やかな笑顔を向けて颯爽と去って行った。
宇海はそのとき刑事に心当たりがあったら連絡がほしいと言われていたことを思い出した。証拠はないが、湊が怪しいと刑事に伝えるべきか。いや、彼が何か理由があってあんなことをしているのであれば、それを壊すようなことを迂闊にはできない。
だって、彼は私を二度も救ってくれた正義の使者だから。関わるべきではないと思いながらも、好奇心が抑えられない宇海だった。
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