鋒の影

 田中は起業セミナーを終えて隠れ家に戻った。自らを田中と名乗り始めてから随分経った。名前などなんでもいい。それらしい名刺やプレゼン資料を作って、インターネットに適当なホームページを作り、ブログを書き、それだけ揃えておけば、この男は本当に田中という名前なのかと疑う者などいない。実に愚かなことだ。


 田中はソファに掛けると帰り道に買ってきた缶ビールとつまみのクラッカーを袋から取り出して、テーブルに置いた。今日もまた社会を知らない阿呆どもが撒き餌に食いついた。田中は講習会の出席者リストをテーブルに広げてその名前を指で上から下へと追っていく。大声で笑いたいところだったが、その前に喉がビールの炭酸を欲している。田中は缶ビールを右手で持って勢いよく半分を飲んだ。テーブルに置いた缶は軽くなってしまった。こんなことならもう一本買っておけばよかった。そう、お金はいくらでも生み出せるのだから。


 ここでようやく田中は笑い声をあげた。海外から輸入した百万円のソファのよさはわからないが、百万円するから上質に違いない。物の価値はすべて値段で決まるのだ。ただのペンでもうまく売れば数倍の金額になる。この世の中の商売はどれだけ安く仕入れて、どれだけ高く売るか。そんなシンプルなことをどうして誰もが利用しないのか。理由は簡単、頭が悪いから。



 「俺ならいくらでも金を作れる。アホどもがいる限りな」



 田中の独り言は隠れ家に広がってすぐに消えた。テーブルのリストにあるやつらもこれから金を生み出す最高の顧客だ。大切にしてやるよ。利用価値がなくなるまでは……。


 田中が酒のつまみに手を伸ばしたとき、隠れ家の扉がノックされた。ここに訪ねる人間は基本的に誰もいないが、たまに営業や宗教の勧誘がやってくる。こんな遅い時間に来ることはほとんどない。訪問者が鬱陶しいのでインターホンは設置していない。それでもノックをする人間は何か目的があって訪ねた人物。


 田中は警戒しながら扉を少しだけ開けて訪問者に訊ねた。念のためドアチェーンは掛けたままで。



 「どなたです?」


 「夜分遅くにすみません。セミナーのとき話しかけられなくて、もう少しお話を伺いたいのですが」



 なんだ、セミナーの参加者か。わざわざ俺を追ってここまで来るとは、よほどお金に執着心があると見える。扉の向こうに立っているため顔は見えないが、声と雰囲気から若い男だろう。



 「ご興味を持っていただいてありがたいのですが、今日はもう夜も遅いので後日改めてお話できたらと思います」


 「せっかくここまで来たのに……。悪いけど、入れてもらうわ」



 頭がおかしい人間か。チェーンがあるのにどうやって入るというのか。田中がそう思っていたら、カチッと音が鳴って扉が勢いよく開いた。突然のことに身体が硬直し、現れた男の顔を見てさらに恐怖が身体を縛りつける。白と黒の仮面を被った男が、その表情は隠れているはずなのに仮面の奥で笑っているように感じた。


 仮面の男は小さいニッパーのようなものを持っていて、「便利やな、これ」と何度も握ってその切れ味に感心する。細いチェーンは簡単に破壊されてしまった。


 仮面の男は隠れ家に入り、扉を閉めて鍵を掛けた。そして振り返って固まった田中に向かってゆっくり歩みを進める。



 「金庫を開けろ」



 田中の眼前にニッパーを向けて、男は首を振って顔で金庫の方向を指した。


 助けを求めようにもここに警察を呼ぶわけにはいかない。だが、これまで集めてきた金をこの男に渡すわけにもいかない。もちろん全額をここに置いていないが、それでもこの中にある金額は超高級車が買えるほどのものだ。


 田中は本能から首を横に振って拒否した。


 仮面の男に躊躇いはなかった。腹を蹴られ、床に膝を落とした田中の髪を掴んで目の前にニッパーのきっさきが向けられる。



 「じゃあ、ここに警察を呼ぶか? こんなもんが偶然落ちてたら、あんたはどうなるんやろな?」



 床に落とされた茶封筒から書類が滑り出た。ニッパーの鋒を向けたまま、仮面の男は足で書類を蹴ってそれらを広げた。そこにあったのは、これまで自分が騙してきた人間やその手口の詳細だった。ただの脅しではなく、間違いなく事実がその紙の上で鋒の影を田中に向けて笑う。



 「銀行にもいっぱい入ってるんやろ? 金庫開けてくれたら、そっちは手を出さずに置いとくわ。さあ、どうする? 選ぶのはあんたやで」


 「わかった! 金庫開けるから助けてくれ!」



 銀行の貯蓄に比べたら、金庫の中の現金は少ない。盗られても平気、とまでは言えないが、ここですべて終わらせるわけにはいかない。


 仮面の男は髪から手を放してソファに座った。脚を組んで田中が金庫を開ける姿を背中越しに見る。記憶にある番号に合わせると、金庫はその防御を解いた。



 「こんな大金置いといたら物騒やで。やけど、おかげで俺の報酬が上がるわ」



 金庫鍵を開けて立ち上がった田中は、首に強い衝撃を受けて床に倒れた。意識を失う直前、ぼやける視界で警棒を持った仮面の男が自分を見下ろしていた。田中は脳内に再生されたある言葉を聞いた。それは、いつも自分が言っていた言葉。


 騙される方が悪い。

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