スイッチオフ

 宇海が会社のデスクでパソコンと睨めっこを始めてから一時間が経過した。念願の商品企画を任され、なんとかいいアイデアはないものかとインターネットで商品の口コミや日常でこんなものがあればいいというような不特定多数の意見を調べてみた。商品として世に出すことを考えると、あまり凝りすぎたものは生産コストがかさんで値段が高くなってしまう。それではどれだけいい商品でも敬遠されるかもしれない。安価に生産できてかつ便利なものを企画しなければならないが、そのバランスが非常に難しい。


 宇海が頭を悩ませていると、突然肩を叩かれて振り返った。ひとりの世界に閉じこもっていた彼女にリーダーの渚が優しく微笑む。



 「宇海ちゃん、お昼だよ」


 「あ、もうそんな時間ですか」



 時間を忘れてしまうくらいに集中していたらしい。宇海は優れた集中力を持っているが、そのためかひとつのことに囚われることがある。あのとき助けてくれた仮面の男が気になってしばらく仕事でも上の空だったが、やっと大きな仕事を任されてそのがシフトした。



 「張り切るのはいいけど、あまり焦ってもいいアイデアは出ないからね。雫ちゃんと三人でランチ行こうよ」


 「はい、ぜひ」



 宇海のよき先輩であり友人でもある雫が財布を持って立ち上がった。言葉を発さなくても「早く行こうよ」と語っていることがわかった。宇海はバッグから財布を手に取ってデスクを離れた。


 渚の言う通り、初めての商品企画で張り切りすぎて空回りしていたかもしれない。それだけ待ちに待った機会なのだが、力が入りすぎでも物事はうまく進まない。


 三人は会社の入るオフィスビルを出ると、徒歩三分ほどの場所にある定食屋に到着した。この辺りはオフィスビルが多く、昼時になると周辺は会社員で賑わう。件の定食屋もすでに会社員で店前に行列ができていた。渚によるとこの店は回転が早くすぐに順番は回ってくるとのことだったので、三人は最後尾について順番を待つことにした。


 彼女の言葉の通り、食事を終えた客が次々出てきてすぐに順番待ちの列が進んだ。ものの五分ほどで宇海たちの順番がきた。店内に入り空いているテーブルにつくと、渚と雫はすでにメニューを決めていたらしくすぐに注文してしまった。宇海は急いでメニューを開くが、初めての店ではどれがおいしいのか試してみないとわからない。今の気分で食べたかった豚の生姜焼き定食を注文した。


 賑やかな店内では少し大きい声で話しても誰も文句は言わない。雫と渚が話す内容を聞きながら、宇海も束の間を休息をもらうことにした。仕事のことはまた昼休憩が終わってから考えよう。



 「この前宇海ちゃんとショッピングして、徳之間に行ってきたんですよ」


 「そうなの? 羨ましいなあ。今度は誘ってよ」



 会社の上司と部下がこんな関係でいられる職場はとても働きやすい。渚はリーダーとして必要な指導はするが、オンオフがはっきりしている。仕事中はクールで、休憩時間は優しいお姉さん。雫とはタイプが違うものの、ふたりとも頼れる先輩だ。



 「宇海ちゃんは相波くんを狙ってるんですよ」



 落ち着いて聞いていた会話が不穏な方向に流れ始めた。



 「違いますって。私まだあの人のことよく知りませんし」


 「相波くんはとてもいい子よ。私が保証する」


 「それはそうかもしれませんけど……」



 湊と付き合いが長い渚は彼のことをよく知っている。徳之間で話すふたりはまるで友人同士のようだった。渚からすると歳下の湊は弟に近い存在なのかもしれない。



 「別に恋愛だけがすべてじゃない。京都に来たばかりの宇海ちゃんに友達が増えるのはいいことじゃない?」



 渚は姉のように優しく微笑んで常に宇海を見守ってくれる。隣にいる雫も然り。宇海は友人がいない京都の地に移って最初は不安だったが、今では毎日が楽しく幸せでいっぱいだった。



 「そうだ、今度うちでホームパーティーしようか」


 「いいですね! 渚さんの部屋綺麗で広いんだよ」



 渚は独身でキャリア重視の女性。稼いだお金は生活の質を向上させるために活用される。彼女は京都市内にあるマンションの高層階に住み、おひとり様とレッテルを貼られても恥じないステータスの持ち主だった。



 「相波くんも誘おうか」


 「そうですね。そのまま宇海ちゃんと……」


 「変な妄想やめてください」



 ふたりは宇海と湊の距離を縮めるためにホームパーティーを開こうとしている。気にかけてくれることは有り難いものの、宇海が望んでいない方向に周囲の期待が膨らむのも複雑な思いだった。


 雫が今にも下劣な笑い声をあげそうな妄想を膨らませる中、注文した定食が三つテーブルに運ばれてきた。それを見ると雫の思考は食欲に支配されたようで、すぐに割り箸を手に取った。



 「いただきます」



 渚と雫がひと口目を食べたことを確認してから、宇海は割り箸を割って豚の生姜焼きを味わった。


 おいしい。


 徳之間に続いて二番目の行きつけになりそうだ。エネルギーを補給して、またスイッチを入れて仕事が頑張れそうだ。

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