シーン
カゲ
闇夜の蛍
もう駄目だ。何もかも終わりだ。
男は車で深夜の峠道を走った。街灯もほとんどない、車が前方を照らすヘッドライトだけがその行き先を示す。カーブの連続、白いガードレールを突き破れば深い谷へと落ちていくことになる。結末は同じでも、そんな死に方はしたくない。どんな死に方が楽だろうかと何度も考え抜いて、最後に出した結論は後部座席にある火鉢と炭だった。
楽に死ぬ方法なんてない。高いところから落ちるのは怖いし、電車に飛び込んでもきっと悲惨な死に様になる。だったら密閉された空間で眠るように死んでいく方がマシではないかと思った。呼吸ができない数十秒は苦しむことになるが、今から死ぬぞと考えると他の方法では足がすくんで先には進めなさそうだ。
峠を走り、丁度よい広場の空き地を見つけた。この道は夜に通る車はないだろうが、日中は抜け道として地元の人間が使っていることは知っている。見慣れない車が止まっていれば誰かが不審に思って確認するだろう。そのときにはもうこの世にいない自分の肉体が眠っている。誰にも迷惑をかけずに死ぬなんてできないことは承知している。でも、誰にも見つからずに骨になることはまた怖かった。唯一の救いは結婚しておらず、恋人もいないことだ。
男は車を空き地に停めると、財布を取り出して運転免許証があることを確認した。身分を証明するものがないと警察も困る。大島
三十代のうちに独立して起業する。そんな目標の第一歩を歩むはずだった。必死に働いて貯めた一千万円を元手にこれまで培った知識で事業を起こすはずだった。どうしてあんなやつに金を預けたのだろう。悔やんでもすでに遅い。金を返せと迫ると、代わりに仕事を手伝えと提案された。そして、その言葉に乗って無関係の人間を騙すことになった。もう、残された道はひとつだけ。
大島は人生最後に飲もうと道中のコンビニで選んだ缶ビールのプルタブを人差し指で起こした。炭酸の泡が弾ける音がしたが、いつも唆るはずのそれも今は心を躍らせることもない。喉に流し込んだ液体は
そろそろお別れのときだ。車を降りて後部座席のドアを開け、火鉢の中に炭をぶち撒ける。よくドラマなんかでガムテープで内張をする様子を見るが、今の車は機密性が高い。きっとそんなことをしなくても一酸化炭素は確実に車内を蝕んでいく。あえて後部座席に座るのは生きたいと願う本能がドアを開けることを防ぐためだ。後部座席ならチャイルドロックをかけておけば内側から扉は開けられない。
大島はライターで用意していた着火剤に火をつけて、それを火鉢の中に投げ入れた。あとは目を瞑ってそのときが来るまで眠っていればいい。次に目を覚ましたときには極楽浄土にいることだろう。いや、人を騙してしまった人間は地獄に落ちるのだろうか。もうこの際どちらでも構わない。
大島が目を瞑っていると、窓ガラスをコンコンと叩く音がした。こんな時間に人がいるわけがない。そう考えると無性に怖くなった。もしかしたら、この世のものでない何かがお迎えに来たのか。目を開けることが恐ろしかった。だが、その音はもう一度鳴った。
薄ら目を開けると、見間違えでもなくそこに人がいた。あまりの恐怖で大島は大声で叫び声を上げた。その人影はさらに窓ガラスをノックする。何か話しかけてきているようだが、閉められた窓ガラスに遮られてその声はこちらに届かない。
次の瞬間、その人物は運転席の窓を殴り始めた。
「やめろ!」
大島は慌てて叫んでその蛮行を止めようとしたが、すぐに運転席の窓ガラスは割れて破片が座席に飛び散った。
「失礼、声が届かなかったようなので割らせてもらいました」
窓ガラスを割った男はその行動とは矛盾して落ち着きのある声で話す。白い左目で大島を捉えて微笑むその様子は、まさにあちらの世界から遣わされた死神のようだった。
「お金、取り戻したくありませんか?」
「そんなこと、できるわけないやろ」
「やってみないとわかりませんよ。どのみち窓ガラスが割れていては、煉炭自殺もできません。どうせ死ぬなら、その前にもうひとつだけやり遂げませんか? そのお手伝いなら、我々が」
この男が何者か、何もわからないが、なぜか大島は彼に頼ってみようかと考えてしまった。もうここで自殺することはできない。
大島はドアを開けようとするが、チャイルドロックのせいで開かなかった。代わりに外にいる男が満足そうに外からそれを開けた。
「さあ、降りてください。そして、乗り換えましょう」
白い左目を持つ男が手で差した先にはワゴン車が停まっていた。
「なんで俺が金を取られたこと知ってる?」
「そうやって復讐するが私の仕事だからです」
「なんで助けてくれるんや?」
「あなたを助けるためではなく、これはビジネスなのですよ」
もし、本当にそれが可能なら……。
大島はこの男の言葉にすべてを託すことにして、ワゴン車に乗り込んだ。
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