ウラオモテ

 「暖簾下ろすわ」



 午前二時、徳之間は本日の営業を終了し、湊は軒先の暖簾を下ろした。客足はまずまずで、普段通りに忙しい日だった。隆治とこの店を始めてからの時間はあっという間だった。慌ただしい日々は足早に去っていき、湊はもう二十代後半に差し掛かった。決して順風満帆な生活ではなかったが、現在の自分の居場所はここだ。そのことに関していえば、過去の辛かった出来事も無駄だとは思わない。



 「なあ、あの娘、お前のことよう見てたな」



 隆治が焼き台の掃除をしながら横目で湊を見て言った。閉店したからとすぐに退勤することはない。片付けや翌日の準備などすべきことは残っている。この時間は落ち着いて情報交換ができるよい機会になる。たったふたりでも、じっくり話すことはあまりないものだ。



 「ん? どの娘?」


 「なんや気づいてなかったんか。渚ちゃんとこの新人や。名前はなんていうたかな……」


 「あー、確か宇海ちゃんやったっけ。広幡宇海ちゃん」


 「そう、その娘や」



 隆治は営業中の人間観察を欠かさない。調理に集中しているようで来店する客のことはしっかりと見ている。これは、湊には真似のできないことだった。客商売というものは人の感情で成り立つ。彼は常にその言葉を胸に店主を続けてきた。かつて裏社会にいた人間だが、随分と丸くなったものだ。



 「お前もモテるやないか」


 「そんなんちゃうやろ。まあ、ちょっと嫌な予感はするな」


 「嫌な予感? なんかあったんか」



 隆治は掃除する手を止めて身体を湊のいるカウンターの方向に向けた。これは報告すべきだろうか、と一瞬躊躇ったものの、雇い主への情報提供は雇われる側の義務だろう。湊はティーチを拘束したときの詳細を伝えることにした。依頼は目的が達成されれば完了だ。いつも事細かにすべてを伝えることはない。仕事に慣れれば慣れるほど単純な作業と化して共有すべきことを抱え込んでしまうものだ。



 「あの娘、ティーチに人質にとられてて、仕事のとき俺が助けた」


 「まさか正体バレてないやろな?」



 隆治の声は落ち着いていたが、表情には動揺が見える。アッシュディーラーの仕事は決して知られてはならない裏の世界の商い。世間から目をつけられることは避けなければならない。警察に逮捕させた犯罪者たちもその身に起こったことは証言しているだろうが、執行人は数多に存在しそれぞれが異なる容姿、異なるスタイルで任務を遂行すると聞かされている。同一犯の仕業だとは思われないから追われることもない。



 「大丈夫やろ。顔は見せてないし、言葉遣いも変えといた。けど、ちょっと近づきすぎたかも。怪我の手当てしたし」


 「用心しとけよ。何がきっかけで身を滅ぼすかわからんからな」


 「わかってる」



 仮面で顔を隠していたとしても体型や声を変えることはできない。人には特有の雰囲気があり、勘のいい人間はどういうわけか人物を特定する能力に長ける。宇海がそのタイプであるとしたら、確信とまではいかなくとも仮面の男が湊であると疑っている可能性は考えられる。


 隆治は再び焼き台の掃除を開始した。毎日こまめに行っておかないと焦げがついてしまう。カウンターがあるとはいえ客から見える場所は綺麗にしておかないと食欲を失わせることに繋がる。店主としてのこだわりのひとつだという。



 「で、ティーチはどうなった?」


 「さあな。任務が終わったらその後のことは何もわからん。警察に渡さんかったところを見ると、表の方々には言われへんような罰を受けるんちゃうか。俺らが気にすることやない」


 「怖いなー。俺も恨みは買わんようにせんと」



 アッシュディーラーは謎だらけ。組織の規模やトップに誰がいるのか、そのほとんどが執行人にすら明かされていない。わかっていることは、人の恨みを商売の道具にしていることだけ。決して表の世界に知られてはいけない仕事だが、心が救われる人がいるならそれでいい。


 カウンターの清掃をしていた湊は隅にコインを見つけた。客の忘れ物だろうが、どこかの国の硬貨なのか、それともゲームセンターのコインなのか、その正体は分からなかった。



 「これ忘れもんみたいやけど、どうする?」



 湊の問いかけに視線を向けた隆治は、「とりあえず保管しとくか」と言った。湊は何気なくコインを指で弾くと、それは頭の上まで打ち上げられて次第に止まり、自由落下を開始した。それを右手で握って手を開くと、コインは一面を上に向けていた。



 「これは表裏どっちなんやろ?」



 コインの表か裏、どちらが出るか決まるのはたった一瞬の出来事。一歩踏み出すかどうかで結果は簡単に変わる。そして、表だと判断して安心していた結果が実は裏だったということもありうる。表と裏は常に背中合わせに存在しすぐ近くにいるが、表を得たものはそのことを意識しない。



 「もうはよ終わらせて帰ろうや。ええ加減疲れたわ」



 隆治は腰に手を当ててさすった。どうにも歳には勝てないらしい。湊はポケットにコインを入れると、引き続きカウンターの清掃を行った。たまにはゆっくり休もう。

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